第3章 第5節 ケーススタディ2:石見銀山

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石見銀山は16世紀から本格的な銀の採掘が開始され、良質な銀の生産地として、当時から世界的な知名度を有していた。日本は、17世紀前半には世界全体の3分の1の銀を産出していたと言われるが、そのほとんどは石見銀山で産出されていたと考えられている。その後、鉱山全体の産出量が減少する中、明治維新を経ても、鉱山自体は維持されていたが、1943年の台風を機に閉山に至った。鉱山の保存状態が良いために、近代日本の鉱山遺跡を代表する存在として、地元では世界遺産への登録を目指していた。01年3月の世界遺産候補の日本国内の暫定リストに掲載され、06年1月に世界遺産登録への申請書をユネスコに提出、07年5月の審査において「登録延期」を通告されたものの、一転して07年6月に「石見銀山とその文化的景観」が世界遺産に登録された(第3-5-7表)。

第3-5-7表 石見銀山歴史略年表

西暦年  
1526 博多の商人・神屋寿禎が石見銀山発見
1602 年間15トンの銀を算出
1624 銀産出量が減少し始める
1941 銅の再算出を試みる
1943 水害により閉山
1967 県指定史跡となる
1987 大森、銀山の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定
2001 世界遺産暫定リストに搭載(4月)
2005 関係省庁連絡会議で、政府が世界遺産登録に推薦決定(9月)
2006 国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が国の推薦書を正式受理(1月)
2006 ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(ICOMOS)」が現地調査(10月)
2007 ICOMOSが「登録延期」と勧告(5月)
2007 ニュージーランドでの世界遺産委員会で登録決定(6月)
(備考) 島根県公表資料、新聞により作成。

世界遺産への登録を受けて、石見銀山遺跡への関心はかつてないほど高まっており、龍源寺間歩(現在一般公開されている坑道)への入場者数は06年1年間で95,260人に対して、07年には1月から7月までにすでに104,032人を集客している。

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