平成9年

年次世界経済報告

金融制度改革が促進する世界経済の活性化

平成9年11月28日

経済企画庁


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第2章 金融制度の改革

第3節 制度間競争によって進展する各国金融市場の改革

本節では,各国の金融市場改革を「金融市場の制度間競争」という視点から考察する。各国の金融市場(特に証券市場)は,資本移動の自由化や技術革新による金融サービスの取引コスト低下によって,お互いの競合関係が明らかになってきた。自由な資本は,非効率で高コストの市場を嫌い,利便性が高く低コストの市場を求めて移動する。ある市場の制度改革は,周辺市場へ波及する傾向を持ち,1980年代から本格化した先進各国の金融市場改革は,そうした制度間の競争という力によって推し進められてきたと見ることができる。

以下では,制度間競争によって進展した金融市場の例として,イギリス,ドイツ,フランスというヨーロッパ諸国の改革を考察し,次に,アジア諸国の中でも進んだ金融システムを持ち,先進諸国と伍する実力を身につけた香港,シンガポール市場の動向を見ていくことにしよう。

1 イギリスのビッグ・バン

イギリスの「ビッグ・バン」は,86年10月に行われた。ビッグ・バンとは,イギリス証券市場の制度改革,具体的にはロンドン証券取引所の制度改革である。ビッグ・バン以前のロンドン証券取引所では,単一資格制度や固定手数料制度などの旧態依然とした制度によって取引業者が保護されており,当時台頭してきた機関投資家の新しいニーズに応えられなくなっていた。一方,ロンドン証券取引所の周辺では,①75年に既にメーデー(株式売買手数料の自由化)を経験し,取引手数料が低下していたアメリカの証券市場や,②規制が少なく,自由な取引が可能であったイギリス国内のロンドン証券取引所以外での取引(取引所外取引)が盛んになってきていた。ロンドン証券取引所は,国外と国内からの競争にさらされ,自己改革を迫られていたのである。

以下では,(1)ビッグ・バンが行われた要因について概観した後,ビッグ・バンの影響を,(2)直接的なイギリス証券市場への影響と,(3)イギリス金融産業の動向に分けてみていく。

(1)ビッグ・バンの背景

(機関の投資家の台頭)

ロンドン証券取引所に改革を迫った主役は,当時急速に台頭してきた機関投資家だった。競争制限的慣行に守られた業者や制度では,当時台頭してきた機関投資家の,「大口取引」を「低コスト」で「機動的」に実行できるという厳しい要求にロンドン証券取引所は応えられなくなってきたのである。

イギリスでは,既に60年代後半頃から高齢化が進展しており,80年代にはドイツとともに先進国中最も高齢者率(65歳以上人口÷全人口)の高い国の一つとなっていた。高齢化を背景に,イギリス政府は,年金基金に対する税制上の優遇措置を講じたため,年金基金は生命保険とともに,イギリス金融市場のメイン・プレーヤーとなっていった。ロンドン証券市場における株主の分布を見てみると,個人投資家比率が低下する一方,60年代頃から年金基金,保険を中心とした機関投資家の比率が高まり始めている。機関投資家の保有する株式総額の投資家全体に占める割合は,70年代前半には個人投資家を上回り,80年前後には全体の半分を占めるまでになっている (第2-3-1図)。

(証券業務内での業務分野規制)

ビッグ・バン以前のロンドン証券取引所では,売買業務において「単一資格制」を採用していた。単一資格制とは取引所会員を,①「ジョバー」(自己の勘定で売買し証券の価格付けを行う)と,②「ブローカー」(投資家とジョバーとの取次ぎを行う)の2つに分離し,それらの兼業を認めない業務慣行である。すなわち,日本やアメリカでは一つの証券会社が行う業務に垣根が設けられていたのである。

ロンドン証券取引所が正式に設立された1802年当初から,ジョバーとブローカーは分離されていたものの,約1世紀の間,その境界線はあいまいだった。

ところが19世紀後半,お互いの業務の浸食が目立ち始めたため,1908年分離ルールが明確化した。また,外部資本の参加を認めない制度(出資比率は82年以前まで最大でも10.O%に規制)が存在していたため,外国の金融機関や株式の引受業務を主業務とするマーチャント・バンクなどの参入が実質的に制限されていた。すなわち,①取引所会員内での厳しい業務分野規制と,②会員外からの新規参入を認めない規制という,2つの競争制限的慣行によって,当時の取引所会員の資本力は小さく,大口取引に伴って発生するリスクに応じられない,という問題を抱えることになった。

また,こうした排他的な慣行に対して,79年公正取引庁は証券取引所の主要な取引について,「競争制限的」であるとして告訴する意向を表明したことも,証券取引所に自己改革を迫る要因の一つとなった。

(海外市場での取引増大)

また,イギリス証券市場の自己改革を促した要因として,米国のADR市場において,イギリス主要企業の株式の売買が拡大したことが挙げられる。

ADR(American Depositary Receipt:米国預託証券)とは,アメリカで外国株式を代替する証券として取引される預託証券である。ADR市場の発達によって,イギリス企業の株式は実質的にアメリカで売買可能となった。その結果,高コストで流動性の乏しいロンドン証券取引所での取引を嫌った機関投資家は,イギリス企業株式の売買を積極的にADR市場で行うようになったのである。ADRの多くが取引されていたアメリカのNASDAQ市場は,手数料率がロンドン証券取引所よりも低かった上,気配値自動伝達システムによる情報伝達が効率的で流動性が高く,イギリス機関投資家のニーズを満たす市場となっていたのである。例えば,両市場で重複して上場していたイギリス株式の全売買高に占めるADR市場での売買シェア(84年7~12月)を見てみると,ロイターが50%,インペリアル・ケミカル・インダストリーズに至っては62%を占めるなど,ロンドン証券市場よりもむしろ海外市場での取引が多いイギリス企業も見られ,その取引の多くがイギリス人機関投資家によるものであったといわれている。

(イギリス国内における取引所外取引の形成)

国内でもロンドン証券取引所からの資金の流出が進んでいた。マーチャント・バンクが中心となって「ARIEL」(Automated Real-Time Investment Exchange Limited)と呼ばれるコンピュータを利用した機関投資家間の相対売買システム会社が設立されたり,ロバート・フレミング社(マーチャント・バンクの一つ)によるロンドン証券取引所を経由しないコンピュータ売買システムが設立された。後者においては,電力株の全取引高の5分の1を扱うまでに成長していた。


コラム2-3 外資規制の撤廃と資本移動

イギリスでは,79年に外資規制が撤廃されたが,79年以降の資本収支(証券投資など)の動きをもって「イギリス国内から資金流出が生じ,イギリス金融市場が空洞化の危機に瀕した」と言われることが多い。確かに,当時の資本収支の動きをみると,イギリスからの対外証券投資は「買い越し」となっているし,証券投資収支(対外+対内証券投資)をみてもイギリスから証券投資に関わる資金は「流出超」となっている。しかし,外資規制撤廃後の資金流出が,①国内金融市場の非効率性やコスト高によってもたらされたものか,②国内外の景気動向,国外との金利差,通貨の変動状況(予想為替変動率)などの金融環境上の要因によるものかを資本収支の動きのみから判断することは困難であり,資金流出の事実をもって「金融市場が空洞化した」とは言えない。

例えば,当時のイギリスの金利(長期国債利回り)は,先進各国と比べて相対的に高水準にあったが,77年頃からのアメリカ金利の上昇によって米英金利差は縮小傾向となった。また,ポンドも金利差の縮小に伴って減価傾向にあり,金融環境の面からアメリカに対して証券投資が行いやすい環境にあったのである。

一方,遅れて外資規制の撤廃を行ったフランスの状況をみると,対照的な状況が浮かび上がってくる。フランスでは85年以降外資規制が段階的に緩和され,90年に完全撤廃となった。しかし,フランスの90年以降の証券投資収支を見ると,93年頃まで「資金流入」基調が続いている。この背景には,①90年代当初の仏米金利差が拡大傾向にあったこと,②フラン相場(対ドル)も緩やかな増価傾向にあったことなどが考えられる(図参照)。こうした例からも分かるとおり,一義的に「外資規制の撤廃→資金の流出→金融市場の空洞化→国内経済の停滞」と考えることは誤った場合もあり,資金流出が経済にどの様な影響をもたらすかは,その「量」だけでなく「質」からの考察が不可欠となる。つまり,資本収支や資本収支には現れて来ない資金の流出の動きを,①国内金融市場の効率性の悪さからもたらされたものか(空洞化),②その他の金融経済環境によって進展した国際分散投資の結果(国際化)か,を明確に区別して考える必要があろう。

経済環境によって異なる資金流出


(2)ビッグ・バンの内容とその影響

上述のような要因から,ロンドン証券取引所は自己改革を余儀なくされた。ビッグ・バンという名の下に非効率性を生み出していた単一資格制,固定手数料,出資比率規制がすべて廃止された。この他,ロンドン証券取引所には当時としては最新コンピュータ技術を利用した「SEAQ」という証券価格の自動伝達システムが導入され,フランスやドイツなどの大陸欧州企業の株式がロンドン証券取引所で取引されるという現象を引き起こした。また,こうした技術革新や競争原理の導入を基礎とした規制改革の動きが進展する一方で,「金融サービス法」(86年)が制定され,信用秩序維持規制や監督権限の見直しが同時に行われた (詳細は第1節参照)。

以下では,1)取引所がどう変わり,2)取引コストがどう変わり,3)証券市場・金融業界がどう変化したのか,について整理する。

1)ロンドン証券取引所の取引制度の改革

(単一資格制度の撤廃-マーケット・メーカー制の導入-)

ビッグ・バン後のロンドン証券取引所での売買制度は,「マーケット・メーカー制」と呼ばれている。単一資格制の廃止により,ブローカーとジョバーの垣根がなくなったことで,旧来のジョバーの役割であった,継続的に株式に値をつける役割を担うことになったのが「マーケット・メーカー」である。マーケット・メーカーは,継続的に売買の価格(気配値)を提示し,一定数量の売買に応じる義務を負った。すなわち,マーケット・メーカー制とは,制度導入以前には曖昧になっていた「値付け業務」を行う業者を明確に規定し,マーケット・メーカーに値付けに沿った売買義務を課すことで,当時不足していた取引の流動性を高め,機関投資家を中心とする大口注文に対応できることを狙った制度である。

(SEAQシステムの導入)

マーケット・メーカー制の導入とともにビッグ・バン後のロンドン証券取引所の売買制度の中核となったのが,SEAQ(Stock Exchange Automated Quotation:証券自動伝達)だった。SEAQとは,マーケット・メーカーの提示する証券価格を集め,ブローカーや投資家に伝達する相場情報伝達システムであり,当時としては最新の情報通信技術を利用したものである。SEAQの導入によって,全ての市場参加者は証券の売買価格を情報端末のスクリーン上で分単位で知ることが可能となった上,直前に成立した取引の情報(価格,金額など)を知ることができるようになった。証券価格の決定過程が不透明であった従来の立会場取引から,情報伝達の効率性・透明性の高い電子的ネットワークを利用した取引へと移行し,より適正かつ効率的な証券の価格形成が可能となったのである。

(外国株式取引の増大 -SEAQインターナショナルの導入-)

また,ロンドン証券取引所は,外国株式取引のインフラとしてSEAQインターナショナルを導入した(85年6月)。SEAQイ.ンターナショナル導入以前は外国株式の取引は主に取引所の外でマーチャント・バンクや外国銀行・証券を中心に行われていたが,ロンドン証券取引所がSEAQインターナショナルを導入したことで,取引所における外国株式の売買高は急拡大した。

当時,ドイツやフランスの主要金融市場にはSEAQインターナショナルの様な効率的な電子ネットワークシステムが存在しなかったため,欧州大陸主要企業の株式の多くがロンドンで取引されるようになり,ロンドン証券取引所は欧州株式を中心とした外国株式の一大流通市場を形成することとなった(国際証券取引所連合会の資料によると,ロンドン証券取引所の売買高に占める外国株式の売買高の割合は96年で58%)。

2)取引コストの軽減 -証券売買手数料の自由化-

証券業務に対する新規参入規制の撤廃と証券売買手数料が自由化されたことによって,証券取引に関するコストは低下した。

ビッグ・バン以前のロンドン証券取引所の委託手数料は,最低手数料を業者間で固定していたことに加え,高率の印紙税が取引毎に課されていたため,取引コスト上での国際競争力を失いつつあり,先述したようなイギリス企業株式のADR市場での取引増加といった現象を引き起こした。こうした事態に対処するために,86年に株式・債券の最低手数料制度は廃止され,完全に自由化された。

売買手数料の自由化は,平均売買手数料を低下させた。イングランド銀行の調査(87年2月公表)によると,アルファ銘柄(売買の多い優良株式)を大口(50万ポンド)で取引した場合,ビッグ・バン前には売買代金の0.4%だった売買手数料が,0~0.2%にまで低下した。さらに,ビッグ・バンと同時に,有価証券等の売買が行われる毎に課せられていた印紙税率の引下げが実施された(1%から0.5%へ引下げ)。その結果,平均手数料に印紙税コストを含めた総コストでは,同1.8%から0.9~1.1%まで低下しており,総取引コストは約半分程度に低下したことを示している。しかし,大口の取引手数料はビッグ・バン直後に劇的に低下した後はほぼ横ばいで推移しており,小口の取引が多い個人投資家の平均手数料率を見ても,ビッグ・バン直後にやや上昇し,その後は1%前後で横ばいで推移している。手数料が下げ止まっている要因としては,手数料率の中に,①資産管理料や,②ソフト・コミッション(コンピュータ端末の設置,情報・調査レポートの提供)などが含まれている場合が多く,正確に取引コストを反映しなくなってきているためであると考えられる (第2-3-2図)。

また,イギリスの株式売買手数料の平均をアメリカ,日本と比較してみると,イギリスでは売買額の0.25%(94年)であるが,アメリカでは0.37%(96年),日本では0.46%(96年)であり,低くなっている (第2-3-3表)。

3)金融業界の再編

86年3月の出資比率規制の完全撤廃で,外部からロンドン証券取引所会員業者への資本参加が可能となり,その結果,伝統的に棲み分けがなされていた銀行と証券の垣根は完全に崩れ去った。

出資規制の完全撤廃によって,これまで取引所の会員としては締め出されていた国内外の金融機関が従来の会員への資本参加という形式で証券業務に参加-投資主体別株式売買手数料率の推移-することとなった。86年当時200社以上存在していたジョバーとブローカーに,ビッグ・バン直後に65社が新規に資本参加することとなった。中でも,イギリス系銀行が14社,その他のイギリス系金融機関が16社,欧州の銀行が12社となり,目立った動きを見せている(第2-3-4表)。また,新規の資本参加と証券業務の再編成によって,従来の業者の業務特化の傾向が高まった。会員はそれぞれの得意分野を活かして,英国株式や英国債のマーケット・メーカー,ブローカー,外国株式ディーラー,先物・オプション業社などへと業務を細分化させた結果,87年1月までにロンドン証券取引所の会員は約360社にまで増加した。

以下ではもう少し詳しく,ビッグ・バン後の業界再編の動きを追ってみることにしよう。

(イギリス金融機関 -商業銀行とマーチャント・バンク-)

バークレイズ銀行などの商業銀行にとって,ビッグ・バンは証券業務参入への絶好のチャンスとなった。商業銀行は70年代から既に企業金融や海外金融業務の強化の必要からマーチャント・バンク子会社を設立し,証券引受と銀行窓口でのブローキング代行業務を行っていた。商業銀行は,ビッグ・バンによって可能となった証券取引所会員の買取を行い,ブローキングやディーリング業務に新規参入し,あらゆる金融サービスを提供できるユニバーサル・バンクを目指した。

また,モルガン・グレンフェル(89年にドイツ銀行に買収される)などのマーチャント・バンクは,ビッグ・バン以前から証券引受,企業金融,投資顧問業務を行うなど,証券業務に深く携わっていたが,商業銀行と同様,ビッグ・バンを契機にブローカー,ディーラー業務へ参入し,従来の投資銀行業務との範囲の経済を狙った総合証券会社を目指した。

(外国金融機関)

海外金融機関も,ロンドン証券取引所会員の買収に動いた。アメリカ系商業銀行は,伝統的な銀行業務収益(利ざや収入)の減少の中で,新たな収益機会を証券関連業務に求め,ロンドン市場に参入した。一方,アメリカの投資銀行は既に国内でも証券業務を収益の中核に据えていたことから,ロンドン証券取引所会員会社に多額の資金を投入し,買収するよりも,人材引き抜きなどの人材の確保を重視した。

また,ヨーロッパ大陸の銀行の一部(スイス系,フランス系など)が買収に加わり,香港系の銀行である香港上海銀行も当時最大規模のブローカーであったジェームズ・ケーペル社を買収した。

(買収戦略の見直し -最近の動向-)

ビッグ・バンの直後,内外の金融機関がイギリスのジョバーやブローカーの買収に動いたが,その後の証券業界を取り巻く環境の変化とともに,買収金融機関の中には,当初の目的だったユニバーサル・バンク化,総合証券会社化という戦略の見直しを迫られているものもある。

ビッグ・バン後のイギリスの証券市場は競争激化の時代に突入した。株式手数料収入が低下に加えて,87年秋の株価急落による株式売買高の低下によって証券業務の収益は低下した。また,買収に関わる初期投資や,SEAQシステムの導入などのシステム投資の負担も収益を圧迫し,新規に証券業務に参入した機関の中には早々に撤退を迫られる者も出てきた。また,90年代に入ってからは,証券業務や国際分散投資のノウハウを持つイギリスのマーチャント・バンクを買収する動きが盛んになった。ビッグ・バン直後に大手じヨバー,ブローカーを買収したマーチャント・バンクの多くがアメリカ,ドイツ,スイスなどの金融機関に買収された。例えば,クラインオート・ベンソン社がドイツのドレスナー銀行に買収されるなど,外資系主導でシティの再編成が進展し,現在では多くのイギリス系マーチャント・バンクに外国資本が参加している状態となっている (第2-3-5図)。

(3)ビッグ・バン後のイギリス金融産業

最後にビッグ・バン後のイギリスの金融産業がイギリス経済に与えた重要な変化について見てみる。

(国内総生産に見る金融産業の位置づけ)

第1節で見た通り,イギリスの金融関連産業の国内総生産に占める割合は順調に拡大してきている。ここでは,金融関連産業の生み出す付加価値について更に詳細に見ていくことにする。

金融セクター(銀行・保険業)の付加価値の伸びが,全産業の伸びを大きく上回っている。ビッグ・バンが行われた86年から96年の二時点間で比較してみると,全産業が24%拡大したのに対して,金融セクターはその2倍以上の49%も拡大している。

British Invisibles研究所“UK Financial Trends&World Invisible Trade1996”によると,金融セクターの中でも個人年金市場の拡大を背景として,保険や年金,投資顧問業は80年代に年平均10%以上で拡大し,銀行業の伸びを大きく上回った。また,シティを中心としたロンドンの国際金融センター化に伴って,金融周辺産業の集積が進展している。金融セクターの生産(GDPベース)に金融周辺産業(会計,法務,コンサルティング)の3つのビジネス・サービスを加えると,そのGDPに占めるシェアは95年に10%を超えている。

(金融産業の雇用動向)

イギリスにおける金融セクターの雇用者数は,全産業の雇用者数の増大テンポよりも順調に増大している。ビッグ・バンの前後で金融部門の雇用者数の増減を見ると,84年9月金融・ビジネスサービス部門の雇用者数は177万人だったが,3年後の87年9月には32万人増加して209万人となった。この中で雇用者数の最も大きな拡大が生じたのは,金融関連のその他のビジネス部門(会計,コンピュータ・サービス,法務など)である。なお,この間のイギリスの全雇用者数は43万人しか増加していないので,全雇用増のうちの約75%を金融・ビジネスサービスがもたらしたことになる。また,こうした金融関連ビジネスでの雇用の増加は,国際金融センター街・シティを擁するロンドンで顕著である(第2-3-6表)。

ビッグ・バンを始めとする規制改革を大胆に実施し,市場の自由度,効率性が向上したことによって,ロンドンを中心にしたイギリス金融産業の人材インフラの裾野が更に厚みを増した。高度な国際金融ノウハウは,金融の技術開発を促す源泉であり,国際金融センターとしての存立条件である。国際金融のノウハウとは,単純に金融新商品の開発者や運用担当者に依存するのではなく,商品開発を支えるコンピュータ・サービスの専門家や,開発された商品を市場に流通,浸透させてゆくための金融関連の会計,法務,税務などの専門家の存在が必要不可欠となる。金融関連ビジネス・サービス就業者の増大は,イギリス金融産業の裾野を拡大し,国際金融センターとしての地位確立に貢献していると考えられる。

(金融部門の所得動向)

金融部門の平均所得は,ビッグ・バン以前から他の産業よりも高かったが,ビッグ・バン以降,その差は開く傾向にある。金融業の名目週間平均所得をビッグ・バンの前後(85年,96年)の2時点間で比較してみると,85年260ポンドから96年584ポンドまで上昇している。全産業でも,85年192ポンドから96年392ポンドへと上昇しているが,金融業との格差は85年68ポンドから192ポンドへと拡大している(前掲第2-1-9図)。

(金融サービス収支黒字が貿易収支赤字を上回る)

ビッグ・バン後,イギリス金融資本市場は,80年代前半の空洞化懸念から脱し,ロンドンを中心に伝統的に強みのあった国際分散投資業務を中心とした国際金融センターとしての地位を確立した。これらの国際取引は,イギリス金融市場に手数料収入の増加をもたらし,現在では国際取引上の重要な収入源となっている。

イギリスの国際収支表に注目してみると,金融サービス収支黒字が大きいことが特徴である。金融サービス収支には,金融仲介及びその付随的サービスが計上される。つまり,居住者(イギリス在住者)に非居住者(非イギリス在住者)から支払われる,①外国為替取引に伴う仲介手数料,②証券取引手数料,③資産管理・顧問サービス等に伴う手数料が含まれている(証券投資に伴う債券利子や配当金は所得収支に含まれ,サービス収支には含まれない)。

イギリスの国際収支の動向を見てみると,80年代前半から貿易収支が赤字に転じている。一方,金融サービス収支に,コンサルティング,広告,コンピュータ・サービスなどの取引を計上する「その他サービス収支」を加えた収支(以下,金融・その他サービス収支)は,70年代ほぼ一貫して増加し続けている。これには,①アメリカや大陸欧州の年金基金などの機関投資家が,国際分散投資経験の豊富なイギリス系投資顧問に資金運用を委託するケースが増加したこと,②SEAQインターナショナルの創設による外国株式取引の増大,③ロンドン市場におけるユーロ債の引受手数料の増大,などの要因が考えられる。96年では,貿易収支の赤字が196.7億ドルを計上する一方で,金融・その他サービス収支の黒字は,228.7億ドルに達している。すなわち,財貨取引の赤字である貿易収支赤字を補って余りある黒字を金融・その他サービス収支で計上しているごとになり,イギリスの海外からの重要な収入源となっていることがわかる(第2-3-7図)。

次に,イギリスの金融・保険サービス収支の大きさを,先進各国と比較してみる。イギリスの金融・保険サービス収支は,96年99.9億ドル(GDP比0.9%)となっている。一方,ニューヨーク,東京という国際金融センターを擁する,アメリカ,日本の金融・保険サービス収支は,アメリカが96年23.2億ドル(GDP比0.03%)の黒字,日本は同15.7億ドル(同▲0.03%)の赤字となっている。また,99年の欧州通貨統合後はロンドン市場との競合関係が激化すると考えられる,フランクフルト,パリという金融センターを抱えるドイツ,フランスの金融・保険サービス収支は,ドイツ96年17.0億ドル(同0.07%),フランス同2.2億ドル(同0.01%)の黒字となっており,イギリスの金融・保険サービス収支黒字の大きさが際立っている(第2-3-8図)。

2 通貨統合をめぐる欧州金融改革の動き~競争と協調~

ドイツ・フランスなど大陸ヨーロッパ諸国は,イギリスの「ビッグ・バン」の成功により,地理的に近いロンドン金融市場の利便性が高まった結果,自国の金融市場の相対的な地位が低下することに懸念を抱き,国際的な制度間競争を強く認識するようになった(第2-3-9図)。さらに経済通貨統合に伴い,国境を越えた金融市場の統合が進行するとの認識が高まったことから,大陸ヨーロッパ諸国でも制度間競争が始まることとなった。

フランスでは,イギリスのビッグ・バンから1年3カ月後の1988年1月より「フランス版ビッグ・バン(プチ・バン)」と呼ばれる証券市場改革が行われ,ドイツでは,さらに2年後の90年1月に「第1次資本市場改革」が行われた(第2-3-10図)。フランスの証券市場改革は内容的にもイギリスのビッグ・バンに似たものであるが,ドイツの資本市場改革は段階的に進められている。また,ドイツ,フランスでの改革は同時に,EU域内で行われていたヒト,モノ,カネの移動の自由化という観点から出された数々のEC金融指令の具体化という性格も有している。

証券市場改革に先駆け,情報システムでは既に各国の競争が始まっていた。

85年にイギリスSEAQインターナショナルが創設され,その利便性からドイツ,フランス株式のロンドン市場への注文流出が顕著になったことから,ドイツ,フランスでもシステムの整備が急がれることとなった。86年6月には,フランスでCACシステム(継続取引システム:Cotation Assistee on Continue)が導入され,89年にはドイツでIBISシステム(銀行間株価気配情報システム:Interbank Information System)が導入されている。

以下では,イギリスのビッグ・バンを追いかける形で行われた,ドイツ及びフランスにおける金融制度改革について概観する。

(1) ドイツ

ドイツの金融制度については,本章第2節でも述べたとおり,銀行分野における価格競争規制が早期から撤廃されていた一方,資本市場に対しては依然数多くの規制が存在していたことから,投資家は非効率な資産運用を強いられることとなっていた。

(ドイツの第1次・第2次資本市場改革)

このような状況を変えたのは,80年代のドイツ資本の流出と,イギリス,フランスの証券市場改革である (第2-3-11図)。ドイツにおいても,90年,94年の2度にわたり資本市場振興法が制定され,資本市場の改革が行われてきた。まず,90年の第1次資本市場振興法では,有価証券取引税等の諸税の廃止,情報システム・インフラの整備が行われた。94年の第2次資本市場振興法では,インサイダー取引規制を定めた「証券の売買取引に関する法律」が制定された他,取引所監督を強化するなど,証券取引や取引所制度に係る主要なEC指令を国内法に反映させるための法改正が行われた (第2-3-12表)。

(2度の資本市場改革の効果)

しかし,この2度にわたる改革は,証券市場の拡大,活性化という成果を十分にはもたらさなかった。株式による企業の資金調達額は,94年には約290億マルクと過去最高となったものの,95年,96年と再び減少し,96年は約140億マルク(ドイツテレコムの民営化による株式放出分を除く)となった (第2-3-13図)。この状況をみて,ドイツ連銀は97年1月の月次報告で,「株式が投資手段としても,資金調達手段としても,有効に利用されていない」と指摘した。

この要因は,株式を公開しない会社が依然として多いことによるが,公開しない理由は,ドイツ会社法においては,公開に際し,従業員が500人以下の会社については公開しない会社に比べ,労働者の意思をより経営に反映させるよう厳格に規定されていたことによる。

こうした点から,94年,会社法が改正され,従業員500人以下の公開有限責任会社について規制緩和が行われた。すなわち,労働者との共同意思決定において非公開有限責任会社と同等の状況に置かれることとなった。

これにより,会社の公開が相次ぎ,95年における新規公開数の伸びの大きさは前年の2倍近くとなった。しかし,取引所では多くの手続きが義務付けられていたり,また,依然として税制の面で,公開有限会社は非公開・非上場の会社に比べ不利な点が多いなど,上場の判断を躊躇させるという側面もあり,96年の新規公開数の伸び(ドイツ連銀見通し)は,93,94年と同レベルであり,会社法改正以前の水準に戻ってしまっている。

第2-3-14図 ドイツ間接金融中心は変わらず-非金融会社の負債・資本構成-

(第3次資本市場改革)

97年7月,更なる証券市場の効率化を目指し,第3次資本市場振興法が閣議決定され,成立後98年からの施行を予定している。この柱は,外国企業に対する証券発行手続きの簡素化などの規制緩和を行う一方で,投資家保護のための証券取引監督局の強化を行うこと,投資信託の運用規制を緩和し,また投資信託の新商品を市場に導入することなどである。

(2)フランス

フランスの金融制度改革について述べる前に,改革以前の状況を概説する。

フランスでは,第2次世界大戦後から80年代初頭にかけて,66年の長短分離制度廃止を除き,金融市場・金融機関に対する政府の規制や介入が頻繁に行われていた。

政府の規制・介入の主な動きを概観すると,まず第2次大戦後45年の銀行法で,銀行は商業銀行業務を行う預金銀行,投資銀行業務を行う事業銀行,中長期の産業金融業務を行う中長期信用銀行の3つに区分され,業務分野および長短金融の分離が行われた。

また,45年から46年にかけて,フランス銀行(中央銀行)とクレディ・リヨネ,ソシエテ・ジェネラル,国民商工銀行,国民割引銀行の4大銀行が国有化されている(その後66年に,国民商工銀行と国民割引銀行は合併し,パリ国立銀行となった)。

さらに,社会党政権成立後の81年から82年にかけては,主要銀行36行が国有化され,為替管理の強化も行われた。

このような状況下,80年代央までの民間企業の資金調達は,公的金融機関から優遇貸出しを受けることができたことなどから,間接金融が中心であった(第2-3-15図)。

(金融制度改革)

ところが84年以降,大量の国債発行とその累増,先進諸国における金融の自由化,EC市場統合に向けての対策等を背景として,政府は金融及び資本市場の整備促進へと方針を変更した。フランス経済・財政・予算省によると,一連の金融制度改革は,①金融及び資本市場の統合推進,②競争の促進による効率化,③パリ金融センターの近代化,④市場の多様化に伴う金融調節方式の変更,⑤オープン市場の育成,を目的とするものであった。

84年に施行された「新銀行法」では,それまでの預金銀行,事業銀行及び中長期信用銀行の区分を撤廃,銀行として一本化したと同時に,監督機関の再編が行われた。また,従来から銀行は証券の引受業務等を手がけてきたが,「新銀行法」で,銀行業務の関連業務として有価証券の売出,引受,売買,管理,企業への資本参加等も行えることと定義され,法律上もユニバーサル・バンク制度を取っていることが明確化された。ただ,この時点では,取引所取引については公認仲買人制度が取られていたことにより,取引所取引にかかるブローカー・ディーラー業務を行うことはできなかった。

金融機関数の推移をみると,銀行協会加盟銀行の数は増加し,対照的に貯蓄金庫,相互銀行,協同組合銀行の数は減少した。規制緩和や金融市場整備により外資系銀行の参入が活発に行われた一方,競争激化により金融機関の再編・淘汰が進み,90年末に2,027社あった金融機関は95年末には1,445社に減少した (第2-3-16表)。

(フランス版ビッグ・バン,その後の証券市場)

88年1月に,フランスでは「証券市場改革に関する法律」が施行,①証券取引所会員(以下会員会社と略記)が法人化され,②会員会社に対する資本参加の自由化(外資の資本参加は当初30%に制限されたが,90年1月以降は100%可能となった),③監督体制の整備・再編が行われた。

ここで会員会社が法人化されたのは,従来,個人会員の公認仲買人(Agents de Change)がブローカー業務の独占特権を有していたが,資本が小さく機関投資家の大口取引注文に応じることができないといった弊害が生じたこと,欧州域内での競争力に政府が懸念を持ったことなどから,資本力強化が必要とされたことによるもので,イギリスの場合と類似している。

続いて89年7月には,会員会社にブローカー業務に加えてディーリング業務と短期金融市場関連業務の兼業が認められ,併せて,証券売買手数料が自由化(ただし,小口注文の手数料については経済・財政・予算省が指導)された。

91年1月には,流動性の向上・コンピュータ化の推進を目指して,6つの地方証券取引所(ボルドー,リール,リヨン,マルセイユ,ナンシー,ナント)のパリ証券取引所への統合が行われた。

一連の改革は「フランス版ビッグ・バン(プチ・バン)」と呼ばれ,改革後,株式による資金調達額は大幅に拡大した(前掲第2-3-13図)。

また,「フランス版ビッグ・バン(プチ・バン)」により,国内外の銀行・証券・生損保の証券取引所会員会社への資本参加が可能となったことから,会員会社の子会社化が進み,97年7月現在,パリ証券取引所会員会社(67社)の約30%は外資系,約25%はフランス国内大手銀行系となっている。すなわち,銀行は子会社を通じて取引所取引についてもブローカー・ディーラー業務を行うことが可能となり,実態的にもユニバーサル・バンクとして業務を展開することとなった。さらに,96年には,金融業務近代化法等の成立により,銀行が直接取引所取引を行う道が開かれた。

(3)EUにおける市場・通貨統合に向けた金融市場間の競争と協調

90年代の大陸ヨーロッパ諸国では,前述のような競争原理に基づく一連の資本市場振興策と同時に,通貨統合によってINS諸国(通貨統合参加国)が単一の経済単位としての行動を要求されることとなったことから,国を越えた証券取引所どうしの連携を図る動きが出てきた。特にIns諸国内のベンチャー企業や中小企業の活性化と自国の金融市場の取引高の増大を目指す動きとして,新興市場の設立が相次ぎ,またこれらの市場の連携を図る動きが生じている。

96年2月,フランスにベンチャー向けの新興市場(ヌーボー・マルシェ)が創設されたのを始めとして,97年には,1月にベルギー(ユーロNMベルギー:EURO.NM Belgium),2月にオランダ(ニューイ・マルクト:NieuweMarkt),3月にはドイツ(ノイアー・マルクト:Neuer Markt)と,新興市場が相次いで創設された。これらの4市場は,市場の利便性に関する基準を均質化しネットワークを結び,「ユーロNM(EURONM)」を設立することを通じて,各市場が提携して中小企業の市場における利便性を向上させることを計画している (第2-3-17図)。

また97年9月には,ドイツ,フランス,スイスの証券取引所が,株式デリバティブ,債券デリバティブの取引・決済制度を共通化,各取引所間での相互取引を可能とさせることで合意した。さらにこれらの取引所は,将来的に単一通貨ユーロ建て金融商品を共同開発するなどの連携を図ることとしている。


コラム2-4 北欧4か国の証券取引所統合計画

北欧の証券取引所では,欧州通貨統合後の証券市場間の統合を睨んで,統合を計画している。合併を計画しているのは,スウェーデンのストックホルム証券取引所,デンマークのコペンハーゲン証券取引所,ノルウエーのオスロ証券取引所,フィンランドのヘルシンキ証券取引所である。ストックホルム証券取引所とコペンハーゲン証券取引所の合併は98年4月を目指し,続いて,ヘルシンキ,オスロの両証券取引所は2000年を目処に,これに加わる予定である。

欧州通貨統合が実現すると,通貨統合参加国内での為替リスクがなくなる。その結果,流動性や利便性が高いドイツ,フランスの証券取引所に欧州大陸の投資が集中することが予想されている。現時点での北欧の証券取引所の規模(96年年間売買高)は,北欧最大のストックホルム証券取引所でもパリ証券取引所の7分の1以下に過ぎないが,北欧4市場の統合が実現すれば,その規模はパリの4分の1程度となり,欧州大陸では第6位の市場となる。統合が実現すれば,流動性の増大から北欧以外からの投資の増加も期待できるうえ,一取引所では負担が困難な大規模なシステム投資も可能となるなど,メリットも大きい。各取引所は,証券取引に関する規制を統一化し,コンピューター・システムも統合化することで,投資家がどの国にいても自由に他の国の市場で売買ができるように計画している(参照)。


3 香港,シンガポールの金融市場間の競争

香港,シンガポールは,アジアにおける主要な国際金融市場として発展しており,ニューヨーク,ロンドンの取引時間外に位置し,これら2つの市場をつなぐアジア地域における金融センターとしても重要な役割を担っている。

香港では市場の発展を自由な競争にゆだねる政策によって,シンガポールでは自国の市場を国際金融センターとして積極的に育成する政策によって,互いに国際金融センターとしての地位の確立にむけて激しい競争を展開している。

香港,シンガポールはアジアの中では早くから金融規制を緩和しており,これまでそれぞれの特徴をうまく活かしながら共存してきた。例えば香港は有力なマーケットである中国への資金供給の窓口として,シンガポールはASEAN諸国に対しての地域金融センターとして棲み分けがなされてきた。領土の狭い香港,シンガポールにおいては,製造業中心の経済構造には限界があり,比較的金融部門のGDPに占める割合が高い両国においては,金融市場が今後も発展をし続けていくことが,自国経済の発展にもつながる (第2-3-18, 第2-3-19図)。

そのため,香港,シンガポールは,将来をかけて金融市場の整備に努力し,アジアにおける国際金融センターをめざし,これまでの市場の役割分担,共存の枠を超え,日本など他のアジアの金融市場も含めた金融市場間競争を展開していくものと考えられる。以下,香港,シンガポールの市場間競争を(1)両国の制度,(2)市場ごとの動向,(3)信用制度維持規制,(4)戦略の違い,に分けて見ていく。

(1)香港,シンガポールの金融制度

香港の金融市場にはほとんど規制がなく,シンガポールも比較的に規制が緩やかである。金利規制,資本規制,為替管理規制などは1960~70年代にかけて緩和・撤廃されている。また,証券,銀行の業務分野規制についても,香港ではユニバーサル・バンク制をとっており,外国金融機関の市場参入も国内金融機関と同じ条件である。一方,シンガポールでは金融機関の他業務参入については,子会社方式による参入が可能となっている。また外資系金融機関の参入については当初は規制してきたが,90年代に入り開放的な政策に転じている (第2-3-20表)。

(香港金融制度の概要)

香港の金融市場を概観すると,もともと香港は中継貿易港として発展しており,貿易金融が発展し,ほぼ自然発生的に内外一体型の国際金融市場が形成された。金融自由化は先進国以上に進んでいる。香港当局の方針は,近年修正の動きがあるものの,基本的にはレッセフェール(自由放任)であり,その役割は基本的にはマクロ環境の維持やインフラの提供などに限られ,当局による規制は極めて少ない。

(シンガポール金融制度の概要)

シンガポールの金融市場を概観すると,65年にマレイシア連邦から独立したシンガポールは,政府が積極的に育成・開放政策を主導し,自由な金融システムを整備してきた。アジアダラー市場と呼ばれるシンガポール・オフショア市場は香港オフショア市場とは異なり,東京オフショアマーケット同様の内国勘定とオフショア勘定を分離した内外分離型となっている。アセアン諸国に対する地域金融センターとしての性格が強い。

(2)香港,シンガポールの金融,資本市場の動向

香港,シンガポールは,イギリスやフランスなどのように,「ビッグ・バン」と銘打って,金融制度改革を行ってきた歴史はない。欧米の金融制度改革が80年代以降に活発になり,日本,韓国などがこれから着手しようとしているのに対し,香港,シンガポールの金融制度は60年後半以降のオフショア取引の拡大などに伴い,随時各種規制を緩和・撤廃し,市場の利便性を高めてきた。両国とも全般に規制が少なく,オフショア市場や外国為替市場の規模は大きく発展している。債券市場では比較的シンガポールが大きいが,歴史的な要因もあり規模や用途は限られていて先進国には及ばない。一方,香港では近年,株式市場が拡大しており,シンガポールでは日経225株価指数先物なども取引されるSIMEX金融先物市場(Singapore lnternational Monetary Exchange)の発達が顕著である。


コラム2-5 証券手数料:時価総額比較

香港,シンガポールの両国の株式市場の規模,手数料等について,日本の証券市場も交えた上で比較してみる。

時価総額で見ると,日本の株式市場は3兆1,000億ドルとアジアの中では飛び抜けており,アジアで2番目の規模の香港市場の約6倍,4番目の規模のシンガポールの約13倍(97年6月末現在)となっている。3市場の中では,取引機能の高度化,中国との相互依存などにより,90年に入っての香港市場の伸びが著しい。

証券取引委託手数料については,香港は基本的に自由化されており,約定代金による区分はなく,下限付の交渉制である。日本と,シンガポールは,大口取引については自由化されているが,~それ以外は約定代金による段階制であり,固定制といえる。またシンガポールでは公認銀行など一部に手数料の割引が認められている(付表1参照)。

具体的に各市場で株式を売買した時の手数料を例にとり考えてみると,香港では約定代金100,000香港ドル(96年末レートで1,434,000円)に対し,購入時に委託手数料率0.25%で250香港ドル,取引所納付金0.013%,従価税0.15%で163香港ドルとなり,売却時も同様である。

1売買当たりの手数料は合計826香港ドルで約定代金に対して0.83%となる。

シンガポールでは約定代金10,000Sドル(96年末レートで784,400円)に対し,購入時に委託手数料率1%で100Sドル,清算代金0.05%(最高100Sドル),印紙税0.05%で10Sドルとなり,売却時も同様である。

売買当たりの手数料は合計220Sドルで約定代金に対し2.2%となる。

日本では約定代金100万円に対し,購入時に委託手数料率1.15%で11,500円となり,売却時にはこれに有価証券取引税(0.21%で2,100円)が課される。1取引当たりの手数料は合計25,100円で約定代金に対し2.51%となる。

またキャピタルゲイン課税,配当課税については,香港はどちらも非課税であり,シンガポールは配当課税のみであるが,日本はどちらも課税されている。最近の動きでは,日本では約定代金5,000万円超につき98年4月より自由化され,99年4月より完全自由化の予定である。また香港では,97年1月に,「手数料自由化に関するコンサルテーションペーパー」が発行され,最低手数料の部分的撤廃について検討されている。

(注) 各国手数料の算出には消費税等は含めていない。香港の委託手数料率は,最低料率を適用し,シンガポールは手数料の割引はないと仮定している。

NIES1 ASEANで最大の香港株式市場


(香港,シンガポールのオフショア市場の動向)

シンガポールで68年にオフショア市場が創設されて以来,香港でも70年代初め頃からオフショア市場が自然発生的に形成され,両市場ともに順調に発展してきた。また80年以降は香港・シンガポールとも福祉などの財政負担が低い国家であるメリットを活かし,金融取引に関する課税を撤廃したことなどにより,さらに内外からの資金を引きつけ,市場は拡大した。

市場規模で見ると,80年前半まではシンガポール・オフショア市場が大きかったものの,85年頃以降,香港オフショア市場の拡大ペースが速まり,現在では香港オフショア市場が7,450億ドル(97年8月末現在),シンガポール・オフショア市場は5,594億ドル(97年7月末現在)となっており,香港がシンガポールを大きく上回っている (第2-3-21図)。

香港の市場規模がシンガポールを上回って拡大した要因としては,高度の金融ノウハウ,人材,インフラが揃っていることに加え,80年後半より対日取引が急増してきたことが挙げられる。また取引量は多くはないが,中国での膨大な資金需要の増加も市場拡大に寄与してきたと考えられる。金融制度面からみると,当初香港オフショア市場は,シンガポール・オフショア市場の設立や,香港政庁が海外投資家に源泉課税を課したことにより低迷した。しかし,香港における70年代末のCD市場やCP市場の開設や,外貨建て預金に対する15%の源泉課税撤廃(82年),香港ドル建て預金撤廃(83年)などをきっかけに,市場規模を拡大させていったと考えられる。

シンガポール政府は,オフショア市場競争において遅れを取った香港市場に追いつくため,80年代に入ってから様々な優遇税制を打ち出しているが,その資産規模は香港の7割程度である。また,近年では,運用面において非金融機関向けの貸出のシェアが高まるなど,周辺諸国に対する金融仲介機能が拡大しており,「調達はシンガポール,運用は香港」といった,かつてのオフショア市場分業体制は弱まりつつある。

90年にはマレーシアがラブアン島に,93年にはタイがバンコクにオフショア市場を設立しており,両国関連の取引は新設されたオフショア市場に流れつつある。金融インフラなどの面から見ても,まだ香港,シンガポールが優位であるが,将来的にはアセアン諸国との競合も考えられる。一方,日本のオフショア市場は内外分離型市場として86年に設立され,香港市場との競合が懸念されたが現在のところ共存しており,ほぼ両市場をしのいでいる。その規模は97年8月末現在で7,440億ドル(IMF.international financlal statistics8月末レート1$=119,35円で換算)となっている。


コラム2-6 オフショア市場とは? -内外分離型と内外-体型

オフショア市場とは,一般には,非居住者から調達した資金を非居 住者に対して運用する(外―外取引)ための市場を意味している。オ フショア市場では,源泉所得税の非課税措置等や,預金準備率の適用 除外などの様々な優遇策が行われているのが通常である。オフショア 市場の形態は,構造的には内外分離型,内外一体型等に分類される。 例えば,シンガポールのオフショア市場は,非居住者の外貨―外貨 (外―外)取引を誘致する目的で人為的に創設されたオフショア市場 であり,内外分離型の典型といえるであろう。シンガポールでは, ACU勘定(AsianCurrencyUnit)を設けてオフショア取引と国内取引 を厳密に区別しており,オフショア取引に対して,様々な優遇策を設 けている。このような内外分離型のオフショア市場としては,そのほ かに東京やニューヨークなどが挙げられる。 しかし,一方で,外―外取引だけでなく,居住者と非居住者の取引 をも認めている内外一体型と言われるオフショア市場が存在する。例 えば,香港やロンドンの国際金融市場がその典型として挙げられる。 自然発生的にオフショア市場が成立した香港では,金融・資本取引 は,居住者,非居住者を問わず,また,国内通貨,外国通貨を問わず 自由度が高く,各勘定の区分がなされていない。このため,香港をオ フショア市場と呼ぶことは語義的には矛盾があるようにも思われる。 例えば,香港のオフショア市場の規模を測るのには,通常,金融機関 の外貨建て負債総額が用いられている。しかし,バランスシートは, 地場の金融機関と外国金融機関の勘定が一緒になって公表されている ため,香港のオフショア市場-の規模を正確な意味で把握するのは難し い。しかし,銀行の調達資金の71%(95年末),運用資金の42%(95年 末)を外国銀行が占めていることなどから,オフショア取引の特徴で ある外―外取引が依然として大きな割合を占めていることを推測する ことはできよう。


(香港,シンガポールの外国為替市場の動向)

シンガポール市場,香港市場とも外国為替管理を68年,73年に撤廃しており,市場規模も大きく,取引高も急激に拡大している。主要各国中央銀行が3年に1回行う同時調査によると,95年4月の1営業日当たりの平均取引高は,ロンドン(4,774億ドル),ニューヨーク(2,655億ドル),東京(1,671億ドル)に次いで,シンガポールが第4位(1,066億ドル),香港が第5位(908億ドル)となっているが,その取扱高の伸び率ではシンガポール44%,香港49%(共に92年4月比)と両市場とも東京市場を大きく上回っている (第2-3-22図)。

シンガポール市場の特徴としてはドル,円,マルク,の3通貨が取扱通貨の中心であり,高度なインフラの整備等により通貨の先物,スワップ,オプション等の取引の面でも他のアジア諸国より進んでいることが挙げられる。しかし自国通貨の取引については実需の裏付けのない取引を制限している。香港市場においてもドルとの取引が中心であるが,近年ではドルとアジア通貨間の取引シェアが高まりつつある点が注目され,今後さらに高まっていくものと思われる。

(香港,シンガポールの債券市場の動向)

香港,シンガポールの債券市場は90年頃まで,事実上存在しない状態が続いていた。その要因は,香港では,①政庁が均衡財政主義をとり,長期政府債発行による財政赤字補填の必要かなかったこと,②華僑の経済活動の慣習として,長期借入による設備投資や資産の長期運用を嫌う傾向があったこと,③税制上,キャピタルゲインや利益配当は非課税であったが,預金や債券等の利子収入は源泉課税の対象となっていたことなどが考えられる。しがし近年,香港,シンガポールとも今後の増大するアジアの資金需要に対応し,債券市場の育成に力を入れており,両市場の成長には目ざましいものがある(第2-3-23図)。

香港では,通貨管理の手段として,為替基金手形・中期債プログラムを創設し,為替基金証券が90年3月に発行された。償還期限も当初91日であったが現在は10年の為替基金債が発行されるに至っている。民間部門の債券発行も,優遇税制の採用などにより92年以降急速に拡大している。市場規模では株式市場に比して依然小さいものの,90年に10億ドル(GDP比1%)であった市場規模は94年には115億ドル(GDP比9%)となり,債券市場の厚みは増している。また,94年には決済システムであるCMU(CentraIMoneymarket Unii)で全ての香港ドル建て債券が集中決済されるようになるなど,決済制度の整備も進んでいる。今後中国関連のインフラ整備資金の調達市場としても,債券市場は更に拡大するものとみられる。

シンガポールの債券市場規模は,株式市場を上回っている。94年で449億ドル(GDP比72%)であり,東アジアの中で最大である。香港との違いは,その大部分が政府発行債券である点である。これらの政府債券発行は,中央厚生年金基金(CPF:Central Provident Fund)と郵便貯金の資金を吸収するのが主な目的で,集められた資金は政府投資会社(GSIC:Government of Sin-gapore Investment Corporation)により外貨で運用されている。このため,市場規模に比してその流動性は低くなっている。また,社債市場は極めて小さいが,政府の奨励策により,近年外国企業の起債を中心に拡大する兆しをみせている。

(香港,シンガポールの株式市場の動向)

香港,シンガポールの株式市場は,上場企業数,時価総額,投資家層などで拡大を続けてきた。近年では香港市場の発達が著しい。シンガポール市場も香港市場には及ばないが,①個人投資家の育成,②コンピューター化の推進,③新金融商品の導入等の政府の株式市場育成政策などに基ブき着実に拡大している。時価総額で比べると,香港はシンガポールの約3倍(96年末現在)となっている (第2-3-24図)。

香港の株式市場は93年から94年にかけて急騰し,その後下落したが再び上昇し現在ハンセン指数で14135.25ポイント,時価総額で5,558億ドルとなっている(97年8月現在)。近年の急拡大の要因としては,高成長を維持してきた中国との経済関係が香港の経済を拡大させたことが挙げられる。また,CCASS(Central Clearing and Settlement System)や,AMS(Automatic Order Matchingand Execution System)などの集中決済・取引システム導入による処理の効率化なども挙げられる。今後,中国の情勢により市場に悪影響が及ぶことも考えられるが,香港返還後も株式市場は拡大を続けている。

シンガポールの株式市場は,現在,Mainboard,SESDAQ(店頭市場),CLOB-NTERNATIONAL(外国株店頭市場)の3つの市場からなる。ストレート・タイムズ指数は1967.14ポイントで時価総額は2,463億ドル(MAIN BOARDのみ,97年7-月現在)となっている。

政府は市場育成策として,株式の保管と決済機関である中央証券委託機構,自動取引システム(CLOB:Central Limit Order Book)などを80年代後半に導入するなどしてコンピューター化を推進し,政府企業の民営化により個人株主を育成してきた。また,外国企業上場の奨励などを行うことにより,株式市場は順調に拡大している。

しかし,層の限られた国内投資家のみで株式市場を支えるのは難しく,今後の成長のためには今以上に海外投資家からの投資が必要となる。そのために上場株式の多様化,新しい金融商品の開発などがさらに求められる。

(3)香港,シンガポールの信用秩序維持規制

香港,シンガポールとも,極めて自由な金融システムを採用しており,預金保険制度もない(ただし,香港では,小口預金者に対する優先的な取り扱いがされることとなっている)。しかし,両国ともに規制が全くないわけではなく,過去の金融事件などに基づき,金融システム全体の安定性を図るため,市場参加者である各金融機関に対する信用秩序維持規制(監督・規制)が行われてきている。

(香港の信用秩序維持規制)

香港では,82年から86年頃にかけて,取り付け騒ぎや銀行の倒産が相次ぎ,預金者に多大な損害を与えた。また,87年の株価暴落時には証券取引所の閉鎖に追い込まれるなどの苦い経験を持っている。これらを踏まえ,86年には規制の枠組みを改革し新たな銀行法(Banking Ordinance,1986)を制定し,資本に関する必要条件や貸出規制,銀行部門への監督・検査体制などを定めた。また,89年には証券先物取引委員会(SFC:Securities and Futures Commis-sion)が設立され証券業務に対する監督体制を確立した。さらに,93年には香港金融管理局(HKMA:HongKong Monetary Authority)を設立し,中央銀行機能の担い手とした。

香港金融管理局による主な監督・規制としては,①最低資本金を義務づけた参入規制,②自己資本比率規制,③年次報告書の作成・発行を義務づけた情報開示,④ノンバンクなど特定業種への投資制限などが挙げられる。また,その他の特徴的なこととしては,①銀行に対するHKMAの実地検査(On-Site-Examination)の拡大,②証券業務全般にわたり監督権限を有する証券先物取引委員会とHKMAとの協力強化,③デリバティブに対する監督強化,などが挙げられる。

(シンガポールの信用秩序維持規制)

シンガポールでは,85年に起きた会社倒産(パンエレクトリック事件)をきっかけに株価が暴落し,取引所を閉鎖した事件に基づき,シンガポール通貨庁(MAS:Monetary Authority of Singapore)の証券業務に対する規制・監督が強化され,86年には証券業法・規則が改定された。現在,MASは商業銀行,マーチャントバンク,保険会社,証券会社,ブローカーなど同国のすべての金融機関の監督機関となっている。発券業務を除く金融行政全般に対する権限も有しており事実上の中央銀行業務を行っている。金融機関に対する主な監督・規制としては,①自己資本比率規制,②資産内容規制,③立入り検査,④流動性規制などが挙げられる。

(4)国際金融センターをめざした香港,シンガポールの戦略の違い

香港,シンガポールではそれぞれの市場を国際金融センターとして確立していくため,インフラ,税制など様々な面で政策を打ち出している。香港金融管理局は,94年5月に発表の「国際金融センターとしての香港の戦略」の中で,「一番の競争相手はシンガポールである」と明言しており,お互いに国際金融センターを目指す上で競合を意識している面もある。しかし,国際金融センターを目指す上での両国の金融制度への関わりにおいては,その姿勢には互いに違いがみられる。香港は,アジア通貨建て債券の国際決済機関であるアジアクリアの設立の提唱などアジアにおける決済ハブを目指している。近年金融・資本市場の監督・規制の確立にも力を入れてくるなど伝統的レッセフェールに修正の動きもみられる。しかし,これら監督の強まりは国際金融センターとしての環境整備の一環と考えられ,これまでの香港の市場特性は失われていないと考えられる。香港の金融市場に対する姿勢はあくまでも基本的(こはレッセフェールであり,インフラ整備,市場の安定性や透明性を図ることが政庁の主な役割であると認識している。その上で香港は現在の自由な金融市場環境を活かし,自国の金融市場を更に発展させようとしている。また香港返還後も中国当局は,「基本法」の精神に基づき,香港政府は高度に独立した金融制度政策を採るものであることを表明している。

一方シンガポールでは,政府は「2000年に向けたインターナショナル・ビジネス・ハブ計画」を打ち出し税制優遇を行うなどしており,アジアの地域金融センターを目指している。多国籍企業もシンガポールを拠点としてアジア地域の為替リスク管理を行うなどのケースが増えている。しかし,シンガポールでは,これらに伴った金融・資本市場のインフラ整備,及び監督,規制緩和などはあくまでも政府の主導で行われている面が強い。また,今後も同国全ての金融機関に対する監督機関であるシンガポール通貨庁(MAS)の金融行政全般への主導のもとで,金融市場の発展・育成を行っていくと考えられ,政府の関与を最小限で国際金融センターを目指す香港とは対照的な姿勢となっている。


コラム2-7 韓国の金融ビッグ・バンと台湾における金融自由化

韓国の金大統領は,日本版ビッグ・バン構想が発表された2か月後の97年1月の会見で,「世界的なすう勢に合わせて金融部門を改革することが急務」と強調し,韓国版ビッグ・バンの発表を行った。大統領直属の「金融改革委員会」を設置し,その答申を基に政府案が確定し,9月の臨時国会に提出された。

韓国が金融改革に乗り出した背景には,①金融市場開放を前に「官治金融」を清算し,韓国金融機関の体質強化をすることが早急に必要②韓国企業の競争力を高め活力を回復するためには金融コストの軽減が不可欠,という危機意識がある。また改革の狙いとしては金融改革委員会が「3つのC」で表現したように,金融機関の①競争力(Competitive)②利便性(Customer Oriented)③信頼性(Credibility)の向上が挙げられる。

金融制度改革委員会の答申では①政府管理による金融機関の経営体制を抜本的に改め,株主を出資比率に応じて経営障に加える,②銀行,証券,保険の相互乗り入れを拡大する,③金融規制,監督体制を緩和するーなど改革の狙いに沿い,短期的,中長期的にも多数の内容を盛り込んでいるが,韓国政府はこれを受け中央銀行制度の改革として,金融監督委員会及び金融監督院を新設し,韓国銀行銀行監督院,財政経済院,証券監督院,保険監督院等に分散されている金融監督機能を統合,一元化すると発表した。

韓国は日本以上に手厚い政府の保護と規制からくる金融機関の経営の非効率性もあって二ケタ台の高金利という弱点を抱えている。

OECD(経済協力開発機構)加盟に伴い市場開放が求められ,韓国への外国金融機関の参入は加速する。政府,財閥,銀行の三角関係により高成長を遂げて来た韓国の金融機関は,今のままでは先進国の金融機関には太刀打ちできない。証券手数料の自由化,普通銀行の金融債発行の解禁など,既にビッグ・バンは始まっているが,「高コスト・低効率」という構造的な弱点を克服し,金融機関経営の近代化・効率化を推し進める,韓国版ビッグ・バンを成功させられるかどうかは,韓国が今後名実ともに先進国入りし,長期的に高成長を保てるかどうかに大きく影響しでくると考えられる。

台湾では,95年1月,「アジア太平洋オペレーション計画」が発表された。同計画は6分野からなっており,その中の1つとして,台湾を金融センターとして発展させる構想が打ち出された。「オフショア市場の完全自由化,域内金融市場の段階的開放」を原則に,21世紀に向け,金融の自由化を進めていく方針である。具体的な目標として,①金融センターとしての環境整備,②外為市場,オフショア金融市場,外貨コール市場の発展,③債券市場,株式市場の国際化などが盛り込まれている。

台湾では,従来,公営銀行が多く,公営銀行を中核として,間接金融の重視,政府による規制と介入が行われてきていた。しかし,70年代~80年代にかけて,経済が急速に成長したのに伴い,域内金融システムにも変化がもたらされた。80年代には,労働コストの上昇・台湾元高などから,対外投資の活発化,対外資本取引の自由化が進み,台湾資本のグローバル化が進展した。それと同時に,域内金融システムの改革,外国投資家,金融機関への開放が促された。こうして,金融の自由化が進められる中,89年には銀行法が改正され,以下のような措置が採られた。①金利規制が撤廃,預貸金とも金利が完全に自由化された,②預金受入れは銀行業しかできないと明確に規定(台湾では,金融機関に対する規制が強かったため,地下金融が発達していた)する一方で,民営銀行の設立が認められた,③外銀業務の制限が自由化された,などである。また,同年,為替管理も自由化されている。

そして,現在もこの計画の達成に向けて,規制の緩和が徐々に進められている状況である。しかし,台湾では,従来規制が非常に強かったこともあり,十分に開かれた金融市場となるにはまだ時間がかかると思われる。

韓国・台湾の金融機関の主な規制,業務緩和予定



コラム2-8 オーストラリアとニュージーランドの金融制度改革

オーストラリアでは,政府による金融制度の大幅な見直しが行われている。96年に金融制度審議会が設置され,97年9月に政府は金融部門の競争・効率化を促進するための金融制度改革への着手を正式に発表した。

具体的には,まず新たに2つの機関が設置される予定である。このうち「金融監督庁」は金融機関全体の監督と,経営破綻処理にあたる。「企業・金融サービス委員会」は企業のディスクロージャや証券部門の監督,金融部門での消費者保護などを受け持つ。これまでは銀行,ノンバンク,生保・年金などの金融機関の種類によって異なる監督機関が存在し,非効率が指摘されていた。これらを統一し,すべての金融機関が同一の制度のもとに公正に競争するよう条件が整えられる。例えば銀行にのみ課せられていた中央銀行への準備預金が廃止されるとともに,ノンバンク等にも預金業務や決済業務が可能になる。

この他,金融機関の株式保有規制の緩和や金融分野に関する外資政策の見直しなども挙げられている。

中央銀行である準備銀行はこれまでは銀行の監督権限を保持していたが,今,後は金融政策,金融システムの安定,全金融機関の決済制度についてのみ責任を負うことになる。こうした制度改正のねらいの一つは,間接金融中心のオーストラリアで伝統的に金融部門の中心に位置してきた商業銀行への競争圧力を強めることにある。中でも大手4銀行は事実上の寡占状態を続けており,最近ではそのシェアは減少してきているものの,現在でも銀行総資産の60%を占め,金融部門全体でみても30%以上を占めている。

オーストラリアは,80年代に経済自由化政策の一環として,すでに一度大幅な金融制度改革を経験している。保護主義的な経済・金融政策の行き詰まりにより,急激な金融自由化を余儀なくされた。80年代半ばまでに,預金・貸出金利規制や量的規制,期間規制などの撤廃,豪ドルの変動相場制,への移行,為替管理緩和,外銀16行への参入許可など,主要な改革が行われた。この一連の改革について,97年の金融制度調査委員会報告では全体として金融システムの効率化に貢献したと評価を下している。

一方,隣のニュージーランドでは,やはり80年代に大規模な金融制度改革を行った。多規制・保護主義的な経済から一転して,経済改革により目覚ましい自由化を遂げたことで注目されるニュージーランドだが,84年労働党政権が発足して,初の改革が金融部門の自由化だった。89年までに為替管理撤廃,金利規制撤廃,銀行参入の自由化,NZドルの変動相場制移行など,急激に改革が行われ,為替市場を始め金融市場の拡大をもたらした。参入の自由化により,銀行の数はかつての4行から20行余に急増し,しかもそのほとんどが外国資本である。

また,金融政策の面での特色として,中央銀行である準備銀行は,89年より政策目標を唯一物価の安定に限定されている(ただし96年末に経済・雇用情勢等も勘案するよう変更)。準備銀行は政府との間で消費者物価上昇率の許容範囲についての合意を行い,その範囲内にインフレ率を抑える責任を負う。インフレ率がその範囲を超える状態が続いた場合には,準備銀行の総裁は責任を問われ辞任しなければならないという厳しいものである。ただし,政策運営に関しては,中央銀行の完全な独立性が保たれている。



コラム2-9 資産規模拡大を求める時代の終焉

金融システムの変革とともに,,金融機関の経営も変わらざるを得ない。最近でこそ,金融機関の競争力を図る指標としてROE(自己資本利益率)などの指標が用いられるようになったが,90年代初頭までは資産規模が重要視されていた。

なぜ資産規模でなく,収益性の指標が重視されるようになったのだろうか? 90年と96年の商業銀行大手20行(総資産額世界上位20行)の資産規模と利益(税引き後)の関係をみると,90年には,資産規模が大きいほど,利益が大きいという関係がある(①)。したがって,当時,金融機関の競争力を測る指標として,総資産額を用いたのは適切であり,総資産規模を拡大し利益の増加を目指すのは,経営戦略として有効であったと考えられる。

ところが96年(②)をみると,総資産規模と利益額の相関関係は薄れ,ほとんど関係がない。この傾向は,日本の大手銀行を除いて(不良債権の償却により,利益が低く計上されているため)みても明らかである。

手数料収入獲得に商業銀行も力を入れ始めたこと,デリバティブ等の金融技術の発展により,資産を使わないでも収益を上げることが可能となったことから,商業銀行の利益と総資産の関係が薄れたと推測される。金融機関には,規模の拡大よりも,金融技術の開発,収益性の高い貸出先の選別,不採算取引の圧縮などによる収益性の向上が求められる時代となったといえよう。

① 総資産が大きい程,利益増大 ―商業銀行の総資産と利益―

② 総資産と利益の関係薄れる ―商業銀行の総資産と利益―