平成8年
年次世界経済報告
構造改革がもたらす活力ある経済
平成8年12月13日
経済企画庁
第3章 アメリカ労働市場のダイナミズム
賃金格差が人的資本の差を表すシグナルであるならば,このシグナルに沿って人的資本の蓄積が行われるはずである。現在のシグナルは高技術者へのプレミアムが大いに高まっていることを示しており,国民の潜在的な技術習得への需要は高いものと考えられる。ここでは,近年,高等教育に対する需要が高まっているのかとともに,需要に対して教育が流動的であり,その機会の均等性が確保されているのかを教育水準の世代変動をみることにより検討する。また,企業による職業訓練が果たしている役割について考えていくことにする。
これまでみてきたように,労働需要の高学歴者シフトに伴い学歴プレミアムは80年代以降大幅に上昇している。したがって,教育は労働者にとってますます重要なファクターとなっているが,一方,教育は子供時代に遡る蓄積であるため,周りの環境に大きく影響される。ここでは,80年代以降の学歴プレミアムの上昇により,若年者の高学歴化が進んでいるのかを検証する。また,教育の世代間変動をみることにより,教育の機会均等が確保されているのかをみていくことにする。
80年代以降の学歴プレミアムの上昇が高学歴化を促進させたのかを1年以内に高校を卒業した16~24歳の大学進学率でみると(第3-5-1表①),60年代,女性を中心に大学進学率は上昇したが,70年代に入ると,男性の進学率は低下し,女性も伸びが鈍化している。しかし,80年代には,男性,女性とも大学進学率は大きく上昇,90年代も上昇基調が続いている。したがって,70年代の学歴プレミアムの低下は大学進学率の低下を招き,80年代の学歴プレミアムの上昇は大学進学率の上昇を引き起こしたということができる。
また,大学教育に対する需要の高まりは,学生だけでなく,すでに仕事をもっている労働者においても同様であると考えられる。そこで,25~35歳に占める大学生の割合を84年と93年で比較してみると (付表3-5-1),この10年間で若干ではあるものの上昇していることが分かる。その内訳をみると,女性の大学生の割合が大きく上昇しているとともに,専業(フルタイム)の大学生が増えている。
さらに,高校中退率の推移をみると(第3-5-1表②),70年代後半やや上昇した後,80年代には大きく低下している。これも,高校中退以下(教育年数11年以下)の者の賃金が相対的に大きく低下していることが影響している。
このように,賃金というシグナルを受けて,若年者の学歴は変動するが,一方,子供の教育は周りの環境,特に家庭環境に大きな影響を受ける。そこで,父親の学歴が子供の学歴にどの程度影響を与えるのかをみると (第3-5-2表),父親の学歴が高い程子供の学歴も高いが,その割合はそれ程大きなものではない。例えば,大学卒以上(教育年数16年以上)の父親の子供の半分が父親よりも低い学歴にとどまり,さらに2割以上が高校卒(教育年数12年)以下である。また,高校中退以下の父親の子供の25%以上が大学に進学している。
男性と女性では,あまり動きに差がないものの,高校卒以下の父親をもつ男性の高校中退以下の比率が高いことが示されている。また,性別・人種別でみると,黒人男性は,白人男性に比べ,高校中退以下の父親をもつ子供の高校中退以下の比率は低いものの,その他の,特に大学卒以上の父親をもつ子供の高校中退以下となる比率が高い。また,高校中退以下の父親をもつ子供の短大卒(大学中退を含む教育年数13~15年)以上の比率が高いが,短大卒に対する大学卒以上の比率が低い。次に黒人女性を白人女性と比べると,どの学歴の父親の子供でも,高校中退以下の比率が低く,短大卒以上の比率が高い。一方,男性同様,短大卒に対する大学卒以上の比率が低い。
これらの結果より,特徴的な点を挙げると,①全ての層において,高校中退以下の父親の子供の2割以上が大学に進学する。その中でも,黒人女性の大学進学率は約4割と非常に高い。②黒人男性以外の層において,大学卒以上の父親をもつ子供の約5割が父親の学歴よりも低い学歴にとどまり,さらに約2割が高校卒以下である。黒人男性はそれぞれ約7割,約4割と非常に高い。
以上より,学歴の差は,世代を重ねることにより縮小していくものと考えられる。では,父親と子供の学歴比率が同じであると仮定した場合,孫の世代ではどの程度学歴の差は縮小するのであろうか。これを推計してみると(第3-5-3表),孫の代では,祖父の代の学歴の違いがあまり気にならない程度まで,そのギャップが縮小されていることが分かる。例えば,短大卒以上の比率をみてみると,高校中退以下の者の孫では41%,高校卒の者の孫では48%,短大卒の者の孫では54%,大学卒の者の孫では63%となっている。したがって,アメリカにおける教育の流動性は,教育水準の世代変動をみる限り成立している。
《コラム3-2》 アメリカの教育におけるアファーマテイブ・アクション
アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)は,歴史的に差別されてきた少数グループに教育などの機会均等を実質的に保障するための積極的措置である。同措置は,適用される分野や対象などにより様々な手法が用いられており,黒人や女性のための優先枠の採用もその一例である。
アファーマティブ・アクションによる特定グループの優先扱いは,社会的弱者に対する機会均等を実質的に保障する手段として積極的に評価する意見がある一方で,他の者に対する逆差別であり憲法の平等条項に反するという批判もあって,これまでに多くの裁判が行われている。さらに,①名門大学に入学した黒人や女性が,能力不足であるにもかかわらず同措置によって入学できたとの疑念を抱いたり,他人からそのような目でみられることで自尊心が傷つけられ,逆効果ではないか,また,②4年制大学の場合,特に黒人の70%が早期に退学しているという現実を踏まえ,同措置によってただ単に黒人を入学させれば良いのではなく,いかにして彼らを卒業まで踏みとどまらせるかということが重要ではないか,などのような問題も指摘されている。
クリントン大統領は,95年7月19日,アファーマティブ・アクションに対して修正要としながらも基本的には肯定的であるとの演説と同時に,政府部内で5か月間に亘って行われた検討結果レポートを発表した。他方,従来からアファーマティブ・アクションの制限,廃止を主張していた共和党は,同月27日,ドール前上院議員などを中心にアファーマティブ・アクションの全面的廃止を目的とした法案を上下両院に提出した。
そのような情勢下,96年7月1日,アメリカ最高裁判所はアファーマティブ・アクションに基づいて黒人や女性の優先入学を認めた公立学校の規定について,これを違法とした連邦高等裁判所の判決を事実上支持する判決を示した。この裁判は,テキサス州立ロー・スクールの入学試験に落ちた白人青年が,黒人の受験生より高い点を取っても,アファーマティブ・アクションによって不合格になるのは違法として訴えていたものであった。今回の最高裁判所の判決を受けて,保守化傾向にあるアメリカでは,今後アファーマティブ・アクションの制限,廃止の動きが活発化するとみられている。
社会人となってからの人的資本蓄積の大きな柱は,①大学,専門学校への(再)入学,②企業による訓練,といえよう。近年,技術の標準化が進んだことから,技術習得は企業内から大学,専門学校へと移ってきている。しかし,依然,より実践的な技術習得においては,企業による訓練が重要な役割を果たしている。ここでは,大学以外の訓練について,どのような訓練がどのような人々に受講されているのか,また,それらの訓練が賃金上昇に影響を与えているのかをみた後,企業による訓練と賃金格差との関係について考えることにする。
79年時点において14~22歳の若年者が,79~93年の間でどのような訓練を受けたのかを延べ人数で集計したものをみると( 第3-5-4表 ),延べ86%の若年者が何らかの訓練を受けている。
その内訳をみると,経営者による正式な企業内訓練が最も多く,次いで職業・技術訓練所,経営者主催ではない訓練プログラムとなっている。これを性別にみると,訓練受講率はほぼ同じであるが,男性の特徴としては,正式な企業内訓練,徒弟制度的プログラムの比率が高いことが挙げられる。一方,女性は,専門学校,経営者主催ではない訓練プログラムの比率が高くなっている。
また人種別でも受講率はほぼ同じであり,白人・その他では経営者主催ではない訓練プログラムや仕事外での訓練プログラムの比率が,黒人では専門学校,職業訓練所の比率が,それぞれ高くなっている。
一方,学歴別にみると,受講率は高校中退以下では50%以下であるのに対し,短大卒以上では,延べ人数で100%以上になっている。これは,正式な企業内訓練,経営者主催ではない訓練プログラム,仕事外での訓練プログラムといった分野の受講率が低学歴者層と高学歴者層の間で大きく異なるからである。ここで,経営者主催ではない訓練プログラム,仕事外での訓練プログラムの受講者の出資元をみると (付表3-5-2),その80~90%が経営者出資であることから,これらも含めて企業による訓練プログラムとした場合,高校中退以下が約20%,高校卒が約40%しか受講していないのに対し,大学卒は約80%受講している。
各訓練がどのような属性(性別,人種,学歴,経験)の人々によって受講されているのかをみると (第3-5-5表),専門学校や徒弟制度的プログラム,職業・技術訓練所は,学歴,経験年数とも低い者に多く受講されている。一方,正式な企業内訓練,経営者主催ではない訓練プログラム,仕事外での訓練プログラムは,賃金が高く,白人で学歴の高い者に多く受講されている。
このように,訓練によってその受講者の傾向は異なる。では,訓練の種類によって,賃金上昇に与える影響は異なるのであろうか。賃金の上昇と各訓練との関係についてみると (付表3-5-5),仕事外での訓練プログラムが最も賃金を上昇させる効果が高く,次に経営者主催ではない訓練プログラム,正式な企業内訓練が続いている。この3つの企業による訓練プログラムの効果は有意でかつ大きなものであるが,その他の訓練については,有意な結果が得られない,もしくはマイナスの効果となっている。
訓練の種類によって賃金の上昇に与える効果が異なるのは,各訓練の内容が大きく異なっているためと考えられる。専門学校や徒弟制度的プログラム,職業・技術訓練所は,若年者の基礎的な技術能力を高めることを目的にしているため,その効果は訓練直後ではなく,より長い期間を通じて現れてくるものと考えられる。一方,企業による訓練は,経営者が企業の生産性を短期のうちに上げることを目的としているため,学歴などのシグナルから,既に人的資本が高く,技術習得能力が優れていると思われる者に即戦力となる訓練を与える傾向にある。したがって,その効果も訓練直後から現れてくるものと考えられる。
しかし,企業による訓練プログラムの受講者が,既に賃金,学歴ともに高い者が多いことを考えると,企業による訓練は,受講者の人的資本を更に蓄積することにより,賃金格差を更に拡大させる効果をもつものと考えられる。
アメリカにおける企業の正式な訓練の実施状況をみると (付表3-5-6),企業内訓練を行っている企業の割合は,規模が大きい企業ほど高くなっている。訓練を必要とする理由としては,第1が企業特有の技術を習得するため,第2が技術や製造の変化に対応するためとなっている。このように,大規模な企業においては,正式な企業内訓練が多く行われているが,アメリカの正式な企業内訓練を受ける者の割合を他国と比較してみると (第3-5-6表),特に勤続年数が少ない者に対する割合が低いことが分かる。これは,アメリカでは若年及び職歴の少ない労働者の転職が多いため,企業の訓練インセンティブが低いことによるものと考えられる。
ドイツと比べた場合,ドイツでは職業技術の習得において産業と労働組合との連合による企業内訓練が非常に大きな役割を果たす一方,大学の職業技術習得における役割が非常に弱くなっている。これに対し,アメリカでは各分野における大学の競争力が高く,その技術習得に果たす役割が大きい。このように,アメリカにおいて,企業による訓練は,技術習得の場としてそれ程重要な位置を占めるものではない。
訓練システムは相互に代替性をもつものである。アメリカにおいては,技術の標準化に伴い学校を中心とした訓練システムに変化してきたのである。
アメリカの労働市場は,今回の景気拡大局面で1000万人の雇用を創出してきた。物価上昇が加速することなく雇用の拡大を実現し得たのは,人口の年齢構成の変化や新興経済地域からの低廉な輸入品の増加という追い風はあるものの,労働市場の構造変化があったことを示しており,労働市場が効率的に機能していることを示している。
また,ミクロ的に問題とされる賃金格差も基本的には経済構造の変化や急速な技術進歩による労働需要のシフトによるものであり,労働市場で人的資本の質に見合った価格付けが行われた結果といえる。労働供給側もこうした価格差により人的投資を増加させるなど積極的な対応をとっている。しかし,問題は人的資本投資は懐妊期間が長く,成果が現れるまでに時間を必要とすることである。時間視野を無限にとることができるなら,賃金格差は個々人の努力により市場を通じて解決可能な問題となる。しかし,データが示すとおり一つの世代の内には賃金格差は解消されず,次の世代を待たねばならないことも少なくない。
ダイナミックな経済構造の転換や技術革新が活発な経済社会においては,必要とされる人的資本の質の変化は著しく,労働者の保有する既存技術水準は容易に陳腐化する。アメリカの企業は,ヨーロッパ大陸諸国や日本の企業のように企業内の訓練機能が充実しておらず,大学などの外部機関に訓練機能を依存し,そこで訓練された高い付加価値を有する人的資本を必要に応じて雇用している。これにより企業は,人材の効率的な採用を可能とし,企業内の人的資本への過剰投資などのリスクを軽減する一方,教育訓練投資に伴うリスクは個々の労働者が負うことになる。このような環境の下で,人的資本投資は時間を必要とし機会費用も小さなものではないが,投資収益性は高いため労働者は自助努力によって新しい技術水準に見合った能力を得ることで,より高い賃金機会を目指す。
ここでの分析は,労働市場,賃金労働者に限られており,社会全体の分配の不平等を増す原因となっているとされる経営者層の所得を含むものではない。
しかし,企業経営者の膨大な報酬も市場メカニズムによる効率性を重視し,その調整という観点からは希少な人的資源に対する正当な対価といえる。ここでは社会的な公正などの問題には立ち入らず,アメリカの労働市場の特質に主眼を置いている。賃金格差は,労働需要側の必要な人的資本の質に基づく価格付けと労働供給側の積極的な人的資本投資による技能獲得までの時間的なずれにより生じる現象ということができる。言い換えるならば,アメリカ労働市場のダイナミズムの結果が,雇用の大幅な増加であり,その副産物が賃金格差の拡大であった。
ヨーロッパ大陸諸国にみられるように社会保障制度などを通じた所得の再分配機能などに過度に依存し人為的に賃金格差や所得格差の是正を図ることは,労働市場の効率性を損ね雇用拡大を阻害しかねない。労働市場の効率性を市場メカニズムの活用に求めることにより,労働需要者には労働生産性に見合った実質賃金の下での労働需要を可能とし,労働供給者に自己のリスクの下で労働の質の向上による所得上昇機会が与えられている。