平成7年

年次世界経済報告

国際金融の新展開が求める健全な経済運営

平成7年12月15日

経済企画庁


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第1章 世界経済の現況

第3節 緩やかな景気拡大続けるヨーロッパ

1 西ヨーロッパ:厳しい通貨統合への道のり

(緩やかに景気拡大する西ヨーロッパ)

西ヨーロッパ全体の景気を,EU15か国全体(95年1月よりオーストリア,スウェーデン,フィンランドが加盟して15か国)で見ると,93年には,イギリスなど一部の加盟国では景気回復が見られたが,ドイツを始めとする大陸西ヨーロッパ諸国では,内需の低迷が続き,93年の実質GDP成長率は0.6%減となった(第1-3-1図)。

94年になると,北アメリカやアジアなどのEU域外の景気が順調に拡大したことから,域外向け輸出が大幅に増加し,こうした輸出の好調によって低迷していた設備投資の回復(94年に4年ぶりのプラス成長)にもつながり,5年ぶりにEU加盟国すべてがプラス成長となったため,実質GDP成長率2.8%と順調な景気回復が見られた。

95年に入り,為替市場の大幅な変動による先行き不透明さなどから,ドイツ,イギリス,フランスなどの主要国では拡大テンポはやや低下しているが,イタリア,スペインなどの他の加盟国では景気拡大が強いことから,95年のEU全体の景気は前年並みの成長率を達成する見込みである(欧州委員会見通し95年11月発表:95年実質GDP成長率2.7%)。

雇用情勢は,91年以降悪化していた。EU全体の失業率は,93年10.8%,94年11.2%とさらに上昇した。95年には景気拡大の持続から,95年7月現在10.7%とやや低下傾向にあるが,労働市場の構造的問題もあり,依然高水準である。国別の失業率では,スペイン(22.1%),フィンランド(17.7%),アイルランド(15.4%)が特に高い。

(単一通貨へのスケジュール)

西ヨーロッパの統合の取り組みを簡単に振り返ると,まず,85年のEC市場白書に基づいて,93年1月に欧州単一市場が発足し,欧州協同体(EC)域内の人・物・資本・サービスの移動について自由化が進んだ。同年11月には,欧州連合条約(通称「マーストリヒト条約」)が発効し,ECは,「欧州連合(EU)」へと統合のレベルを高めた。従来のECと比較すると,EUは,経済・社会的結束を強め,通貨統合や,共通外交・安全保障分野セの協力を中心とする政治統合のさらなる推進を目指している。さらに,マーストリヒト条約では,92年末に完成した市場統合に続く次の目標として,通貨統合を位置づけ,その実現に向けての具体的な道筋を3段階に分けて示している。

経済通貨統合(EMU:Economic and Monetary Union)の第1段階は,EMUのプロセスを開始させる局面と位置付けられ,90年7月から93年末までで既に完了しており,資本移動の自由化と各国の経済状況・政策に関するサーベイランスの強化などがおおむねスケジュール通り実施された。第2段階は,通貨統合を実現するための準備段階であり,マーストリヒト条約の発効を受け,94年1月から開始されており,現在はこの第2段階にある。第2段階の内容は,欧州中央銀行(ECB:European Central Bank)の前身となる欧州通貨機関(EMI:European Monetary Institute)を創設することと,各国の中央銀行の行政府からの独立性を確保するため各国の中央銀行制度の見直しなどである。そして,通貨統合が実現する第3段階では,各国通貨の為替相場が固定され域内単一通貨が導入されるほか,欧州中央銀行による一元的な金融政策が開始されることとなっている。

第3段階の単一通貨・一元的な金融政策の実現のためには,各国間の経済パフォーマンスの違いを縮小させることが不可欠であり,各国はEMU第2段階のうちに,物価,財政,長期金利,為替相場の4項目についての収斂基準(コンバージェンス・クライテリア)を達成することが求められている(第1-3-2表)。この収斂基準の達成状況は,96年末までに決定される第3段階への移行時期を左右するものである。マーストリヒト条約では,収斂基準を達成している加盟国が過半数に達している場合は,97年からそれら基準を満たす加盟国によって第3段階が開始され,残りの加盟国は経済条件が整い次第,参加することになる。また,97年までに収斂基準を満たす加盟国が過半数に達していない場合は,収斂基準を満たした国だけで,遅くとも99年1月には自動的に第3段階が始まることになっている。

収斂基準の達成状況をみると,特に財政(財政赤字・政府債務残高)に関する基準について,多くの国で基準との隔たりが大きく,94年末時点で財政赤字と政府債務残高の基準をともに満たしているのはルクセンブルクとドイツの2か国だけである。現在の経済収斂基準の達成状況から判断すると,97年からの第3段階への移行はほとんど不可能であり,第3段階が99年から開始される場合でも,当初から参加できる国はかなり限られてくると予想される(第1-3-3図)。

(通貨統合への懸念)

欧州通貨制度(EMS:European Monetary System)における為替相場の動向を見ると,為替相場メカニズム(ERM:European Rate Mechanism)の混乱から,92年9月にイギリス,イタリアがERMから一時的に離脱したほか,93年8月にはERM参加国通貨間の変動許容幅が拡大された(但し,ドイツ・マルク,オランダ・ギルダーは従来の変動幅を維持)。このように,92,93年にはEMSにおける為替市場の混乱が発生したのに対し,94年中はEMS内の為替相場は比較的安定していた。

しかし,95年に入ると,①メキシコ通貨危機,②EMU第3段階へのイタリアなどの参加に対して言及したワイゲル蔵相(ドイツ)の発言(9月)を材料とした思惑的な動きから,相対的に経済環境が脆弱な国の通貨に対し,ドイツ・マルクなどが短期間に大幅に増価した。

こうした為替市場の変動の背景としては,通貨統合のための経済収斂基準の達成が進まないことで,一部にマーストリヒト条約で定められた通貨統合の開始時期や経済収斂基準についての見直しなどが予想されたこと(マーストリヒト条約には96年に本条約の見直しを行うとの規定がある)などから通貨統合の実現が懸念されたことが挙げられよう。こうした状況の下,為替相場を安定化させ,マーストリヒト条約で定められたスケジュール通りに通貨統合を実現させることを目指して,95年6月カンヌ欧州理事会では,EMU第3段階を遅くとも99年から開始すること,9月EU臨時首脳会議では,通貨統合のための経済収斂基準を緩和しないことが再確認された。

以下では,ドイツ,フランス,イギリス,イタリアのEU主要4か国の景気の特徴について検討する。

(1)ドイツ:95年前半減速ながらも,拡大持続

ドイツ経済は,93年には深刻な不況にみまわれたが,94年には,年初に予想された以上の景気回復・拡大となった(実質GDP成長率は,93年▲1.2%,94年2.9%)。95年前半のマルク高による輸出見通しの悪化や,今春の賃金交渉における高めの賃上げなどから,景気の後退が懸念されたが,個人消費や機械設備投資の回復が続いていることから,景気は緩やかに拡大しているが,拡大テンポは94年よりも低下している(実質GDP成長率は,95年1~6月期前年同期比2.6%)。

(95年前半のマルク高の影響)

95年に入ると,メキシコ通貨危機を契機にマルク高・ドル安が進んだことを受け,マルクは幾つかの欧州通貨に対しても増価した。94年12月から95年4月の変化を見ると,マルクはドルに対して14%の増価(94年年間増価率9%),ERMから離脱しているリラ,ポンドに対してはそれぞれ19%の増価(同5%),10%の増価(同4%)となった。一方,仏フランなどERM参加通貨との為替変動は比較的小さいものであったため,名目実効レートでは6%の増価であったが,94年年間の増価率2%と比較すると,短期間のうちにマルク高が大幅に進んだと言えよう。

ドイツの製造業の輸出率(=輸出額/生産額)は約40%であることから,こうしたマルク高によって,企業の景況感は,95年前半に輸出企業を中心に悪化した。ifo経済研究所のアンケート調査(毎月実施)によれば,企業の輸出見通し(今後3か月間:旧西独地域)が,マルク高が急速に進んだ時期にあたる2月調査から3月調査にかけて,著しく悪化した。しかし,94年から持ち越した輸出受注残高が高かったことや,輸出競争力の比較的強い資本財が輸出全体に占める割合が高いこと(94年56%)などによって,輸出(通関ベース)は1~3月期では前年同期比9.2%増と好調であった。しかし,4~6月期になると,同3.5%増となり,今後もタイムラグを伴って伸びが低下していくと予想される。これは,海外からの製造業新規受注額が,94年10~12月期前期比5.2%増であったのに対し,95年1~3月期同0.8%減(暫定値),4~6月期3.0%減(暫定値)と95年に入り減少していることからも予想されている。

一方,マルク高の物価面への影響を見ると,輸入価格は94年12月から95年6月の間に1.8%低下した。また,マルク高による輸入価格の低下から,ガソリンや暖房用石油の価格が低下したことにより,消費者物価上昇率(前年同月比)も95年1~8月にかけて2%前後で安定している。

(住宅投資の伸び悩みと機械設備投資の回復)

建設投資は,94年中は7.9%増(実質)と景気の牽引力となったが,これは主に住宅投資の増加によるものである。この背景としては,東西ドイツの統一後,東ヨーロッパやロシアからの移民の増加による住宅需要の高まりかある。

そのため,住宅新規受注数量(旧西独地域)は,93年15.2%増,94年12.7%増となった。さらに,持家の住宅ローン返済に係る減税措置(87年から94年)の期限切れ前の駆け込み需要も加わった。

しかしながら,95年に入ると,1~3月期の天候不順や,住宅税制優遇措置が期限切れとなったことなどにより,建設投資は1~3月期前期比2.3%減と大幅に減少した。4~6月期には1.0%増となったものの,統一による建設ブームが一巡したとみられることから,建設投資は伸び悩んでいる。

機械設備投資は,94年1~3月期に9四半期振りにプラスとなったものの,94年前半の回復は緩やかであった。しかし,94年後半には,輸出の増加などに伴う生産の急増による稼働率の上昇や,景気後退期における鉱工業を中心とした大幅な人員削減(91年末から93年末までの3年間に旧西独地域の鉱工業の雇用者は10%程度減少)の効果が企業収益に現れてきたことから,企業の設備投資意欲が高まり,機械設備投資(実質)は7~9月期前期比2.3%増,10~12月期同2.4%増と大幅な増加となった。95年に入ってからは,年初からのマルク高が輸出や企業収益に悪影響を及ぽすとの懸念などから,機械設備投資は,1~3月期前期比0.3%減,4~6月期同0.6%増と減速した。しかし,ifo経済研究所設備投資アンケート(95年7月発表)によると,95年の製造業の機械設備投資計画は,前年比12%増(名目値)と設備投資意欲の高まりが見られる。

(予想を上回る賃上げ)

95年の旧西独地域の賃金交渉は,例年リード役を努める金属労組(IG Meta11)の賃上げ交渉が,3月にバイエルン州で妥結した。バイエルン州における金属労組の妥結内容は,①95年1月から96年12月までの2年間における段階的な賃上げと,②週35時間労働制を95年10月から実施するといったものであり,時間当たり賃金に直すと,95年前年比4.5%増,96年同5.5%増程度の上昇(“OECD Economic Survey”による)となる見込みである。なお,ドイツの賃金交渉は,産業ごとに,全ドイツの賃金契約の指針となる地域(パイロット)が決められ,その地域における合意が他の地域にも適用されることが多く,95年の賃上げでは,バイエルン州での合意とほぼ同じ内容が他の地域の金属産業にも適用された。金属産業の賃上げを受け,化学産業,建設業などの他の業種においても,金属産業とほぼ同水準の合意がなされた。その結果,時間当たり賃金(前年比)は,94年2.0%増に対し,95年4~6月期4.6%増と上昇した。

旧東独地域の時間当たり賃金(前年比)は,94年には大幅に低下したものの,依然として旧西独地域を大幅に上回り,95年4~6月期9.2%増となっている。これは,旧東独地域の賃金契約が,一般的に旧西独の賃金交渉の影響を大きく受け,①95年の旧西独地域の賃上げ率が94年の水準(2.0%程度)よりかなり高かったこと,②旧西独地域との賃金格差の是正が続いているためである。

(悪化が懸念される雇用情勢)

今回の景気回復は,94年1~3月期から始まったが,雇用情勢は95年に入っても,あまり改善が見られない。失業率は,94年4~6月期9.8%をピークに低下したが,94年10~12月期より3四半期連続9.3%で推移した後は,やや悪化の兆しがみられ,95年9月には,約1年振りに再び9.5%となった。地域別の失業率では,95年9月現在,旧西独地域8.4%,旧東独地域14.3%と依然,旧東独地域の方が高い。しかし,景気回復期に入った94年1~3月期と95年7~9月期の失業率を比較すると,旧東独地域では,2.2ポイント低下(16.1%→13.9%)しているのに対し,旧西独地域では,0.1ポイント上昇(8.2%→8.3%)している。今回の景気回復・拡大局面では,ドイツ全体の雇用者の約8割を抱える旧西独地域の労働市場で,雇用情勢の改善が遅れていると言えよう。

今回の景気回復における旧西独地域の失業者の推移を見ると,94年7~9月期より減少に転じたが,95年4~6月期よ9再び増加し,95年7~9月期には,今回の景気後退・回復局面における失業者のピーク(94年4~6月期)を僅か0.8万人下回るだけとなっている(第1-3-4図)。また,雇用者(旧西独地域)も,景気の谷(93年10~12月期)から6四半期連続で減少を続けており,さらに5四半期目にあたる95年1~3月期には,減少幅が拡大し,依然下げ止まりの兆しが見られない。

このように95年に入ってから,雇用情勢の改善が見られないのは,次のような要因が重要であると考えられる。①95年前半の建設業の不振から同産業の雇用回復がはかばかしくないこと,②95年初めからのマルク高による価格競争力の低下,③95年春闘での賃上げによる労働コストの上昇などから,余剰人員の整理が依然続いていることに加え,新規労働者の採用意欲が低下していることである。登録求人数(旧西独地域)を見ると,94年6月以降は増加を続けていたが,主要産業の賃上げが妥結した95年5月以降は減少している。

(2)フランス:フラン防衛の金融引締め等で景気拡大鈍化

90年下半期に景気後退局面に入ったフランス経済は,93年1~3月期゛を底に回復に転じ,94年半ばに力強さを増した後,95年に入って拡大のテンポが緩やかになりつつある。実質GDP成長率は93年▲1.5%,94年2.9%,95年上半期・前期比1.3%となった。

失業率は,94年4月以降緩やかに改善してきたが,95年7月からは下げ止まりの兆しが見られ,依然高水準を続けている(95年9月11.5%)。95年5月に就任したシラク大統領とジュペ首相は,財政赤字削減と並んで雇用拡大を最大の政策課題に掲げている。消費者物価上昇率は95年8月に実施された付加価値税率引上げ(18.6%→20.6%)によりわずかに高まっているが,依然低水準にある(95年9月前年同月比2.0%)。

(緩やかな景気拡大)

ここ2年ほどのフランスの景気動向を概観すると,まず93年半ばに外需主導で回復を始めたが,93年10-12月期までは在庫調整による成長押し下げが大幅で(93年GDP成長率寄与度▲1.8%),緩やかな成長にとどまった。

94年半ばになると,在庫調整が一巡した一方,家計部門の需要が増勢を増し,以後95年半ばに至るまで,多少の変動を経ながらも拡大を続けた。しかし,乗用車買換えに対する5,000フランの補助金付与制度が95年6月に終了したことなどから,同7月以降,個人消費がやや伸び悩んでいる。

一方法人部門では,94年半ばまで在庫の圧縮と設備投資の抑制が続き,賃金水準の安定とあいまって,企業の財務体質は大きく改善された。設備投資は94年後半に至ってようやく活発化し,95年1~3月期まで増勢を増してきた。しかし,95年3月に金融が引き締められたことなどから,4~6月期には減少に転じた。

貿易収支は92年に黒字に転じた後,黒字基調が定着しており,95年2~4月は過去最高の黒字を記録し続けた。

(構造的な失業問題と新政権の雇用対策)

失業率は90年の8.9%を底に上昇に転じ,93年以降の景気回復にもかかわらず,依然高水準で推移している。特に若年失業者,長期失業者の割合が高い。

若年者(15~24歳)失業率は24.6%,失業者全体に占める長期(1年以上)失業者の割合は35.8%となっている(ともに94年)。これには,次のような構造的な要因が指摘できる。

    ①最低賃金水準が高い。フランスでは,全国で年齢に関係なく適用される全職業最低賃金(SMIC,95年7月に月6,010フランから月6,250フランに引き上げられた)が設定されているが,平均賃金額に対する最低賃金額の割合をOECD加盟各国で比較すると,フランスはオランダに次いで高い。高い最低賃金水準は,特に未熟練労働者の労働コストを高めている。

    ②雇用主の社会保険料負担が重い。最低貨金水準の労働者の場合,労働コストの49%を社会保険料が占めており(94年),しがもその割合は近年上昇してきている。

    ③失業保険給付が手厚く,失業者の就業インセンティブを低めている。失業保険給付は,92~93年の改正で給付期間が短縮され,期間中に給付額が漸減する制度も導入されたが,それでもなお,給付期間はEU諸国の中で特に長い国の一つとなっている。

この他,解雇に関する法規制の厳格さや,低所得者の収入確保・社会復帰を目的に,88年に実施された最低収入保証制度(RMI)も,労働市場を硬直化させていると考えられている。

ジュペ首相は95年6月に緊急雇用対策を発表した。これは,①1年以上失業中の者を雇った雇用主に対して,一人雇うごとに月2,000フランの補助金を2年間支給し,最低賃金に達するまでの社会保険料の雇用主負担を2年間免除する,②給与水準が最低賃金の1.2倍未満である被雇用者について,社会保険料の雇用主負担を軽減する,などを柱にしており,新たな財政負担を伴うものが中心となっている。しかし,フランスの失業問題は構造的な側面が強いこと,また次に述べるように,近年財政赤字削減の重要性が高まっていることなどを考えると,今後の雇用対策としては,最低賃金制度・失業保険制度などの制度問題に,更に踏み込むことが重要であると考えられる。

(削減の遅れる財政赤字)

フランスの財政収支は,90年代に入って景気後退とともに悪化し,一般政府財政赤字のGDP比は,89年の1.2%から93年には6.1%へ拡大した。94年には国営企業の民営化収入などによって6.0%とやや改善したが,99年に予定されている欧州通貨統合に参加するための収斂基準の一つとして,一般政府財政赤字のGDP比が3%以内であることが原則的に必要である。ジュペ内閣は,翌6月の補正予算案発表に合わせて,この比率を95年5%,96年4%,97年3%と引き下げていく計画を発表した(フランスの会計年度は暦年に一致している)。この計画に沿って95年9月に閣議決定された96年度予算案は,中央政府財政赤字を削減するものとなっており,11月に政府が発表した社会保障制度改革も社会保障会計の赤字削減に取り組んだものとなるなど,赤字削減に向けた努力が図られている。ただし,歳出削減などにより既得権益を失う労働組合の中には反発もある。

OECDは,95年9月発表の対フランス経済審査報告で,公共部門の縮小,医療保険制度・年金制度の見直しなどによる歳出削減の必要性を指摘している。

(金融政策:フランの安定と景気下支えのトレードオフ)

財政赤字を削減するにも,雇用を拡大するにも,国内景気の拡大が持続することが重要な条件である。

しかし一方で,フランス政府は従来から「強いフラン」を基本方針の一つに掲げ,特に対マルクでのフラン価値の安定に配慮した金融政策を続けてきた。この結果,国内景気下支えのために低金利が求められる一方で,強いフラン維持のためには,短期市場金利の高め誘導を余儀なくされるというトレードオフが続いている。95年は特にそれが顕著であった(第1-3-5図)。

95年2~3月にかけてフランがマルクに対して減価,ERMで定められた中心レート(1マルク=3.35386フラン)からのかい離幅は,一時的に6%を超えた。これを受けてフランス銀行は3月,①それまで6.4%で行っていた5~10日物現先オペを当面停止,②これに代えて翌日物現先オペを8.0%の水準で開始して短期市場金利を高めにし,投機的なフラン売りの抑制を図った。この翌日物現先オペの金利は4月,ドイツの利下げを受けて,7.75%に引き下げられた。

新政権は,景気の持続的拡大のために金利低下が必要であることを繰り返し強調し,ジュペ首相は「高金利がフランス経済を窒息させている」と述べた。

その後,フランが対マルクで水準を戻してきたため,6月には5~10日物現先オペが7.5%の水準で再開され,その後フランの回復に合わせて適用金利は6.15%まで段階的に引き下げられた。この結果,短期市場金利は大きく低下した。

しかし,10月に入ると,財政赤字の削減が計画通りに進まないのではないがという懸念や,ジュペ首相辞任の噂などから,フランが対マルクで再び大幅に減価したため,フランス銀行は再度5~10日物現先オペを停止して,翌日物現先オぺを導入し,さらに適用金利を7.25%へ引き上げた。その後フランが安定に向かったため,翌日物現先オペの金利は2回にわたって引き下げられ,11月には5~10日物現先オペが6.35%の水準で再開された。

(3) イギリス:インフレを抑制しつつ緩やかな景気拡大続く

イギリス経済は89年1~3月期から92年4~6月期にかけて,3年以上にわたる戦後最長の景気後退を経験した。実質GDP成長率は,91,92年には,2年連続のマイナス成長(それぞれ,▲2.0%,▲0.5%)となり,失業率もピーク時には10.5%にまで達した。

92年下半期からイギリス経済は,他の西ヨーロッパ諸国に先がけて,景気が回復に向かい,93,94年と順調な拡大を続けたが,その原動力となったのは,個人消費と輸出であった。個人消費は,92年9月・ERM離脱以降の金融緩和に伴い,家計部門の負債に対する利払い負担が緩和されたのを受けて,耐久財消費を中心に順調な拡大を続けた。輸出は,ERM離脱以降,ポンドが主要国通貨に対して大幅に減価し,イギリス製品の価格競争力が高まったことなどから,大きく拡大した。

95年に入っても,1~3月にかけて,ポンドが他の欧州通貨に対して減価したことなどから,輸出は順調に拡大しており,回復の遅れていた設備投資にも回復の兆しが見られる。しかし,個人消費の拡大は緩やかであり,失業率も改善傾向にあるものの,そのテンポは非常に緩やかになっている。

今回の景気回復から現在に至るまでの特徴として,景気拡大が続く中で,94年末から年央にかけて物価上昇率がやや高まったものの,低水準で安定していたことが挙げられる。このような低水準の物価は,イングランド銀行が,94年9月から95年の2月までに,3回にわたってインフレ予防的な金融引締めを行ってきたことに加えて,イギリス政府のインフレ・ターゲットに基づいた新しい政策スタンスを反映したものであったと考えられる。

(輸出の拡大と経常収支の改善)

個人消費と並んで,今回の景気拡大をリードしたのは輸出であった。GDPベースで見た輸出は93,94年と順調に拡大し(93,94年の実質輸出は,それぞれ前年比3.3%増,8.2%増),成長率を大幅に引き上げる要因となった(93,94年の実質GDP成長率に対する輸出の寄与度は,それぞれ0.8%,2.1%)。

このような順調な輸出増加の要因としては,イギリス・ポンドが92年9月のERMからの離脱を機に大幅に下落したことにより,イギリス製品の価格競争力が高まったことが挙げられる。イギリス・ポンドは,92年9月以降,92年内に対ドルで約20%,対マルクで約13%減価し,実質実効為替レートでみても,約10%下落した(第1-3-6図)。その結果,相対単位労働コスト(単位労働コスト=雇用所得/GDPで,これを他国と比較した相対的水準)が大きく低下するなど,イギリス製品の相対的な競争力は大幅に改善されることとなった。国際競争力の改善は,94年に入り,他の西ヨーロッパ諸国が本格的な回復軌道に乗ったこと,及びアメリカ経済が好調に拡大したこととあいまって,大幅な輸出増につながった。輸出先別に輸出額の推移を見ると,アメリカ,ドイツ,フランス向けの輸出が大きく増大した。

92年9月以降のポンド安に伴う貿易収支改善効果は,93年初から輸出入に影響を与え,貿易収支の赤字を緩やかに縮小させた。ただし,95年4~6月期には,アメリカ,西ヨーロッパ諸国などの景気がやや減速していることから,輸出の伸びが鈍化し,貿易収支の赤字も再び拡大している。

この間,経常収支は,貿易収支赤字よりも急速に赤字減少が進み,94年7~9月期には,一時的に,87年1~3月期以来の黒字となった(前掲第1-3-6図)。これは,輸出の拡大により貿易収支赤字が縮小した効果に加えて,サービス収支の黒字拡大や投資収益の拡大により,貿易外収支の黒字が拡大したことによるものである。95年に入り,貿易収支赤字の拡大などから,経常収支の赤字幅は拡大している。

(イギリスにおける金融政策と低いインフレ率)

今回の景気拡大期においては,物価は94年末から上昇率がやや高まってきてはいるものの,低水準で安定していた。景気回復が始まった92年7~9月期から最近に至るまでの消費者物価上昇率(住宅金利を除く)は,低水準で推移している(第1-3-7図)。これは,インフレ率の目標値を設定しているイギリス政府にとって,おおむね目標値の範囲内で消費者物価が推移していることになる。

92年9月のERMからの離脱後,ポンド安進行によるインフレ懸念の高まりを抑え,金融政策への信頼を回復するために,92年10月に,「新しい金融政策のフレームワーク」が発表された。この新しいフレームワークにおいて,金融政策にインフレ・ターゲット政策が導入され,①中期的なインフレ率を政策目標として採用する,②政府のインフレ目標や見通しを公表し,政策の透明性を高める,③将来の見通しを重視し,インフレ予防的な政策運営を行う,ことが方針として打ち出された。そして,翌月には中期的なインフレ率の目標値として,消費者物価上昇率(住宅金利を除く)を前年同月比上昇率で1~4%の範囲に収めることが公表された。その後,更に,遅くとも97年の夏頃までに同インフレ率を目標圏の下半分(1~2.5%)に収めることが目標とされている(95年11月時点)。

これまでのところ,このようなインフレ・ターゲット政策,特に,インフレ見通しの公表とインフレ予防的な金融引締めは,金融政策に対する信認を高め,インフレ率を低水準に抑えるのに貢献していると考えられている。インフレ・ターゲット政策導入前後の物価上昇率の推移を見ると,インフレ・ターゲット政策が導入されて以降,消費者物価上昇率が目標圏内でおおむね安定している(前掲第1-3-7図)。この期間は,景気が回復から拡大に向かい,内需に高まりが見られ,需給も徐々に引き締まりつつあった時期であったことに加え,ERM離脱後のポンド相場の急落により,輸入物価が上昇したことから,消費者物価にもある程度上昇圧力がかかっていたものと考えられる。にもかかわらず,インフレ率の目標値が維持されていたということは,インフレ・ターゲット政策が金融政策に対する信頼を高めることに成功し,また,インフレ予防的な金融引締めがインフレ期待をうまく抑制したことを′意味するものと思われる。

ただし,94年末から95年央にかけて,やや物価上昇率が高まり,それを受けて大蔵省及びイングランド銀行が,インフレ見通しを上方修正したことには,注意する必要がある。大蔵省及びイングランド銀行は,それぞれ95年5月と6月に95年・96年のインフレ見通しを上方修正したが,このような見通しの上方修正は,金融政策への信認を弱め,その有効性を減じる可能性がある。これに対して,イングランド銀行は,現在のインフレ目標の達成を確実にするような金融政策運営を継続することにより,政策当局の政策目標に対するコミットメントの強さを示し続けていく必要があろう。

(4) イタリア:好調な輸出に支えられた景気拡大

89年4~6月期より景気に減速感が見えはじめたイタリア経済は,設備投資を中心に内需が低迷したことから,92年の末から景気後退に入り,93年にはマイナス成長(▲1.2%)を記録した。設備投資は,92,93年と2年続けて減少したが,その要因としては,循環的なストック調整に加え,ERMの枠組みにおいてドイツの高金利政策の下で,当時ERM通貨であったリラの減価を防ぐため,自国金利を高めに維持する必要があったことが挙げられる。

93年10~12月期に入ると,イタリア経済は緩やかな景気回復軌道に乗り,その後徐々に拡大のテンポを強めたが,その原動力となったのは輸出であった。

今回の景気拡大は,ERMからの離脱(92年9月)以降,リラの大幅な減価により,輸出が増加したことから軌道に乗った。また,ERMからの離脱に伴い,金融政策の自由度が増したことから,94年5月までの間に計12回,7.0%という大幅な公定歩合の引下げが行われた。その効果が93年後半から徐々に顕在化したことにより,機械設備投資と個人消費は,93年末より拡大に転じ,イタリア経済の拡大はさらに力強いものとなった。

95年に入ってからも,イタリア経済は,外需が引き続き好調に推移していることから,他の西ヨーロッパ諸国の景気拡大が緩やかなものとなる中で順調な拡大を続け,95年は94年を上回る3%前後の成長率を達成する見込みである。

しかし,失業率は,景気拡大にもかかわらず改善は緩やかであり,依然高水準で推移している(95年7月11.7%)。また,最近,輸入物価上昇と需給ひっ迫から,物価上昇率が高まっている(生計費上昇率は,95年9月前年同月比5.8%)。

(リラ安が貿易・物価に与えた影響)

リラは,92年9月のERM離脱以降,他の欧州主要通貨に対し下落傾向で推移している。リラの対マルク・レートを見ると,ERM離脱(92年9月)直後~93年3月と94年12月~95年4月の2回,リラは大幅な下落を経験している(下落幅は,ERM離脱後が約29%,94年12月~95年4月は約20%)。

このようなリラの下落は,①輸出の増加というプラスの影響と,②輸入物価上昇に伴うインフレ圧力の高まりというマイナスの影響,を与えている。

輸出は,ERM離脱以降94年前半まで,国際収支ベースで2桁を越える増加を続け,特に,EU域内・東ヨーロッパ向け輸出が大幅に拡大した。94年後半からのリラ安の効果も,徐々に顕在化しつつあり,95年に入り輸出は増勢を強めている。

このような輸出拡大を受けて,貿易収支は95年に入り改善傾向にある。ERM離脱直後のリラ安の際には,貿易収支は,リラの下落から2四半期ほどのラグをもって改善し,93年1~3月期からは黒字に転換したことから,94年末からのリラ安の貿易収支改善効果も,今後更に強く表れてくるものと思われる(第1-3-8図)。

次に,物価上昇率と対マルク・レートの変動を見ると,ERM離脱直後のリラ安と94年末からのリラ安のどちらの場合にも,リラが下落した後に生産者物価上昇率が高まっているのがわかる。ただし,生計費に関しては,ERM離脱直後は上昇率が低下したのに対し,94年後半からは上昇率が高まりつつある(前掲第1-3-8図)。これは,92年7月のスカラモービレ制の廃止により賃金の上昇が抑制されたことに加え,ERM離脱時のイタリア経済は景気調整局面にあり,需要が低迷していたために,輸入物価の上昇が生計費の上昇にまで波及しなかったのに対し,94年後半以降は,景気回復で需給がひっ迫していたために影響が波及したものと考えられる。このような物価上昇率の高まりに対し,イタリア銀行は94年8月から95年5月まで3回にわたり,計2%の公定歩合引上げを行ったが,依然,外需を中心とした需要が強いことから,95年秋時点では,物価上昇率は依然高止まりしている。

(イタリア経済の展望と課題)

95年に入ってからのイタリア経済は,やや過熱気味ながら順調な景気拡大を続けているものの,依然解決しなければならない構造的な問題が存在する。

イタリア政府は95年内のERM復帰と98年からの通貨統合参加を目標としているが,通貨統合参加のためには,マーストリヒト条約で合意した収斂基準を達成しなければならない。しかし,現在イタリアはこの基準を一つも満たしていない。その中でも,長期金利を高止まりさせている大幅な財政赤字(94年GDP比9.5%)の削減が急務である。ディーニ内閣は,懸案事項であった年金改革法案を成立させるなど,財政赤字削減に関して一定の成果を挙げたものの,今後も国営企業の民営化などを着実に進めていく必要があろう。

さらに,リラのERMへの復帰も難問である。現在ドイツの金利が低下傾向にある一方で,イタリア経済は過熱気味で更なる金融引締めが求められていることから,復帰への環境は整ってきているように見える。しかし,リラは政治的要因により投機の対象となりやすいことから,リラ相場を安定させるのは難しく,ERM復帰にはまだ時間がかかるものと思われる。

2 東ヨーロッパ:足並みそろった拡大続く

東ヨーロッパは,80年代末の市場経済移行への改革開始以降93年までは,マイナス成長の国が多かったが,94年には主要6か国すべてがプラス成長となり,生産回復の足並みがそろいつつある。95年に入っても着実に経済回復が続いており,体制移行に伴う生産減少は収束し,拡大局面に入ったと考えられる(第1-3-9表)。また,ポーランドなどは,OECDとEUへの加盟申請や,通貨の交換性拡大を行い,より国際的に開かれた経済を目指している。しかし,①先進国に比べれば依然として高率の物価上昇率,②ハンガリーなどで続いている財政赤字と経常収支赤字,③各国における民営化や金融制度整備の遅れなど,課題も多い。

(ポーランド:成長の一方で高インフレ・高失業率)

ポーランドは,東ヨーロッパで最も早く92年に生産回復を遂げ,その後も,ヨーロッパ経済の回復と民間部門の拡大(現在GDPの約6割)を背景に,輸出と設備投資の拡大が成長を牽引,労働生産性も向上している。また,95年1月には通貨の経常取引交換性を実現する(財・サービス貿易取引について,自国通貨と国際通貨の交換に関する規制を撤廃,資本取引については規制残る)など,対外的な自由化も進展している。

しかし,物価上昇率(消費者物価上昇率。以下同じ)と失業率は依然高水準が続いており,インフレ抑制のための財政赤字削減と,失業対策などの財政支出拡大とを,いかにバランスさせるかが課題となっている。また95年に入ると,ドイツ国境での未登録貿易も含めた輸出が増加,外貨準備の急増が新たなインフレ要因となった。このため政府は,95年5月から,為替レートの変動幅を,従来の基準レートの上下2%から同7%へ拡大して為替を増価させ,外貨準備の増加を防ごうとしている。なお,失業率は94年半ば以降,物価上昇率は95年半ばに,低下の兆しを見せている。

(ハンガリー:経常収支と財政収支の悪化続く)

ハンガリーは,かつて東ヨーロッパの計画経済の中で,最も経済自由化の進んだ国であった。移行改革開始後はポーランド同様,改革の先駆者とみなされ,生産回復も93年から始まり,94年には,実質GDP伸び率が移行後初めてプラス成長に転じた。

しかし,93年以降,①脱税などを背景とした税収不足や社会保障関連支出増による大幅な財政赤字と,②為替の実質増価を背景とした輸入の増加や対外利払いめ増加による大幅な経常収支赤字,という2つの赤字が続いている。また,94年後半以降,それまで比較的安定していた物価上昇率も高まっている。

このため政府は,95年3月に緊急経済政策を策定し,①為替レートの9%切下げとクローリング・ペッグ制への移行(それまでは,不定期にしばしば通貨の切下げを行ってきた),②一時的な輸入課徴金の導入,③国営部門の人件費の抑制などを中心に,経常収支赤字,財政赤字の削減を図り,中長期的に持続可能な成長を目指している。

(チェッコ:貿易収支の急速な悪化)

チェッコは,①移行改革開始時点(90年)での対外債務が少なく,財政収支が92年2月以来黒字であること,②失業率が比較的低水準であること,③94年には,個人消費と設備投資の増加を中心に,移行改革開始後初めてのプラス成長となったことなど,このところ東ヨーロッパで・最も順調な経済回復を遂げている。

しかし,94年半ばに貿易収支が赤字に転じ,赤字幅は,95年1~3月期にはGDPの7%近くまで急拡大した。これは,固定為替相場の維持によるところが大きい。すなわち,ポーランドやハンガリーが,固定為替相場制度を採用しながらも,自国通貨の切り下げを頻繁に行ってきたのに対して,チェッコは91年1月以来,一定の通貨バスケットに対して自国通貨コルナの交換比率を変更しておらず,基準レートからの変動幅も0.5%と小さい。一方で物価上昇率は94年以来10%前後と,EU諸国などに比べれば高く,その結果実質実効レートベースでコルナの価値が増価して,貿易収支赤字が拡大したと考えられる。さらに,名目為替レートの安定は,国内金利の高さやカントリー・リスクの低さと結びついて,短期的な海外資本を流入させ,マネーサプライの膨張を通じて,新たなインフレ圧力になりつつある。

このため,95年6月に,インフレ抑制のための政策金利引上げと,利上げに伴う投機的な短期資金流入を抑制するための外為規制強化策が発表された。また,95年中を目標に,通貨の交換性(経常取引全てと資本取引の一部について)の実現が目指されており,これによって海外への資本流出が促進され,マネーサプライが減少することが期待されている。

(その他の東ヨーロッパ主要国)

スロヴァキアの経済情勢は,93年のチェッコとの連邦解体以来,チェッコよりも悪化していた。しかし,94年には物価上昇率が年率10%台前半に低下し,西ヨーロッパ経済の回復による輸出増から,実質GDPは前年比4.8%増と大きく回復した。ただし,高水準の失業率,投資の減少が続き,民営化が遅れるなど,今後の成長には懸念が残る。

ルーマニアとブルガリアは,もともと経済水準が低かった上,移行改革の開始が遅く(それぞれ90年,91年に改革開始),物価上昇率も高水準が続いていた。しかし,ルーマニアでは,93年に生産が回復に転じ,94年以降も輸出の増加を受けて回復を続けた。物価上昇率も,IMFとの政策合意に基づく緊縮政策の実施により,93年の年率300%近くから95年半ばには30%を切る水準にまで急速に低下している。一方,ブルガリアは,94年にはプラス成長に転じたものの,投資は依然減少している。物価上昇率は,94年前半の通貨の急落などにより高まったが,最近では高水準ながらもやや低下している。

3 ロシア:生産下げ止まりで,回復の兆し

1991年12月,バルト3国とグルジアを除く旧ソ連の11共和国が参加して独立国家共同体(CIS:Commonwealth of Independent Statesグルジアは93年にCIS加盟)を形成したことにより,ソ連は15の国に分裂し,69年の歴史に幕を閉じた。92年初めには,ロシアにおいて価格自由化が断行され,市場経済への移行に向けた本格的な経済改革が開始された。ロシア以外のCIS諸国も,ロシアが経済改革を実施したことや,各共和国間の旧来の経済関係が途絶したことなどを背景に,′計画経済の維持が困難になり,市場経済への移行を図った。

急進的な改革を進めたロシアでは,改革政策の不徹底から継続的生産低下,インフレの高進,失業の増大にみまわれた。ロシア以外のCIS諸国も,当初は独自通貨をもたなかったため,共通通貨のルーブルを通じて,ロシアの経済政策や経済混乱の影響を直接的に受けた。このため,相次いで独自通貨の導入に踏み切ることとなったが,経済改革の遅れから,これら諸国の経済困難も長期化した。

しかし,ロシアでは,インフレの収束は遅れているものの,95年半ば頃より生産は下げ止まっており,また,恒常的に減価傾向にあった通貨ルーブルが対ドルで増価するなど,95年に入って経済情勢に明るさが見られるようになっている。もっとも,95年12月の国家院(下院)選挙,96年6月に予定される大統領選挙などに関連する政治情勢の流動化が,回復の兆しを見せている経済に影響を与える可能性がある。ロシアに比べ改革が遅れていたウクライナやベラルーシなどのロシア以外のCIS諸国では,94年頃より価格自由化や民営化が本格化してきており,ロシア同様,経済再生への糸口をつかもうとしている。

(1)ロシアは95年に入って生産回復へ

(94年,工業を中心に生産大幅低下)

ロシアの実質GDPは,92年19.0%減の後,93年には12.0%減となり,減少幅が縮小したが,94年は15.0%減と前年よりも減少幅が拡大した(第1-3-10表)。この結果,マイナス成長となった90年以降94年まで累積で,実質GDPは48%低下したことになる。これには,工業部門の不振が大きく影響しており,他方,改革で興隆している商業やサービスなどの新興セクターの統計的補足が不十分であることが影響しているとみられる。

鉱工業生産(実質)は,92年18.0%減,93年16.2%減の後,94年は21.7%減となった。94年の減少幅の拡大は,①93年後半から94年初めまで維持された緩やかな経済引締め措置を背景に,企業の未払い債務問題が再び深刻化したこと,②ルーブルの過大評価や,退役軍人会やスポーツ協会といった特定社会団体の免税輸入特典の付与などから,消費財を中心とした工業品輸入が急増して国内製品の市場を奪ったこと,などによる。国内の軽工業や機械工業などでは,デザイン,品質,技術力の遅れなどから輸入品に対して競争力をあまり持たず,輸入品との競争の激化によって,生産が大幅に落ち込んだとみられる。

他方,輸出需要のある石油や天然ガスなどの資源関連工業の生産低下幅は,相対的に小幅にとどまった。

農業生産(実質)も,90年以降減少を続けており,93年の4.0%減から94年には9.0%減と減少幅が拡大し,94年のGDP減少幅拡大の一因となった(前掲第1-3-10表)。穀物生産は,資金不足を背景に,農業機械の保有量の減少や燃料不足,施肥量の減少などが影響して,94年に8,130万トンと過去10年間で最低の生産量となった(90~93年平均1億295万トン)。

市場経済化の流れのなかで,ロシア経済全体の生産構造は大きく変化している。実質GDPに占める財生産の比率は,90年の60.6%から94年には43.5%に低下した。代わって,サービス生産(商業,金融,運輸,その他)が90年の32.5%から94年には50.0%に上昇し,市場経済国の生産構造に急速に近づいている。これは,ソ連時代の旧体制下では,非生産的サービス(個人用運輸,銀行・保険,教育,住宅サービス,政府サービスなど)については国民所得統計にもカウントされないという状況であったため,需要があっても,サービス部門に必要な資源配分が行われなかった。しかし,市場経済化によって,金融セクターが重要産業部門として登場してきたことに加え,個人向けのレストランや商店,各種サービスが急速に発展してきていることが,サービス生産のシェア拡大に貢献している。

(95年には鉄銅,化学などを中心に生産回復)

95年1~9月期の実質GDPは前年同期比3.0%減,鉱工業生産は同3.0%減と,いずれも前年同期に比べて減少幅が目立って小幅化した(前掲第1-3-10表)。特に各月の動きで見ると,前年同月比で減少傾向にあった鉱工業生産は,94年後半に下げ止まる兆しを見せ始め,95年中頃から前年同月の水準を上回っており,下げ止まっている(第1-3-11図)。業種別では,輸出需要の大きい,鉄鋼,非鉄金属,化学・石油化学などが前年同期比で増加しており,石油や天然ガスの生産減少幅も小幅化している。他方,軽工業や食料品といった消費財関連工業は依然として大幅な減少となっており,パフォーマンスの二極分化が見られる。

生産が回復の動きをみせるなかで,雇用情勢は引き続き悪化している。ロシアの失業率(ILOベース)は93年末5.5%,94年末7.1%,95年7月7.8%(失業者数は570万人)と継続的に高まっている。

(収束が遅れるインフレ)

92年初めの価格自由化で,ロシアの物価は一挙に数倍に上昇した後,財政赤字の抑制と厳しい通貨供給量の管理によって,改革開始当初の92年前半にはインフレは短期間に収束すると期待されていた。しかし,財政・金融の引締めが徹底できず,引締めと緩和が繰り返される状況が続いたことから,高い物価上昇が続き,インフレの収束は遅れている。

消費者物価の前月比上昇率は,92年半ばから95年半ばの期間を見ると,概して言えば,秋頃から翌年初めまで加速した後,春先から年央まで鈍化するパターンを繰り返している(第1-3-12図)。94年は,1月の17.9%から8月の4.6%まで上昇率は鈍化したが,春から夏場にかけて農業や石炭といった特定産業や極北地域への財政補助金支出の増大によって,緊縮策が緩んだ結果,通貨供給量の伸びが高まり,94年秋頃よりインフレ圧力が高まった。94年10月には,「暗黒の火曜日」と呼ばれるルーブルの大暴落もあって,上昇率は前月比二桁へと加速した。この結果,経済安定化が遠のき,政府の改革政策への信任が揺らぐ危険がでてきたため,94年11月には経済閣僚の一部が更迭されるとともに,引締め策の維持が確認された。

こうした状況を挟んで策定された95年度予算(1~12月)では,①財政赤字を圧縮する(GDP比で94年度の▲11%から95年度予算では▲5.6%以下へと圧縮する計画)とともに,②赤字ファイナンスをインフレ誘発的な中銀融資では行わず,国債発行や国際機関からの借入れで賄うことが規定きれた。

95年に入って,IMFとの政策合意などにより緊縮政策が基本的に維持されているため,物価上昇率は徐々に鈍化している。消費者物価の前月比上昇率は,95年1月17.8%をピークに順次鈍化し,9月4.5%,10月4.7%となった。

しかし,年率では70%程度と依然として高い物価上昇が続いている。95年前半のマネーサプライの増加傾向から,年末にかけ更なる低下は困難視されている。

ルーブルはドルに対し,改革開始以降,93年央に一時的に増価する場面があった以外は,一貫して減価していたが,95年5~6月には再び増価した(95年6月末の同4月末比13.0%増価)(前掲第1-3-12図)。これは,インフレの沈静化,生産回復の動きなどを背景に,ロシア人を中心としたロシアの証券(利率の高い大蔵省証券など)への投資が目立って増加し,ドルを売ってルーブルを買う動きが強まったためとみられている。さらに,外貨準備の増加(95年央時点で約100億ドル)と経済安定化の動きを受けて,政府と中央銀行は95年7月初めに,ルーブルの対ドル・レートの変動幅を7月6日から10月1日まで1ドル=4,300~4,900ルーブルの間に抑える目標相場圏を設定して,通貨の安定にも注力した。この結果,ルーブルは7月以降,1ドルニ4,500ルーブル前後で安定的に推移している。これに力を得て,政府は,8月末に,同目標圏を95年末まで延長することを決定した。

しかし,ルーブルの価値の安定が一時的にロシア金融市場の混乱につながった。ロシアの銀行は,高インフレ下で設備投資資金など,企業反の中長期貸出しをほとんど行っておらず,外為市場などでの投機的取引で収益をあげているのが実態といわれる。したがって,通貨の安定はロシアの銀行の収益源を奪うため,8月末には一部銀行の倒産の噂を契機に,連鎖倒産を恐れた銀行が銀行間の取引を停止させ,ロシアの金融市場は混乱に陥った。これに対し中央銀行は,緊急措置として,①債券市場における短期国債の買い入れ,②短期的に資金繰りの悪化した銀行に対する中央銀行の直接貸出しにより資金供給を行い,市場の流動性回復に努めた。ただ,約3,000行も乱立し,弱小銀行が大部分を占めるロシアの銀行業界の整理・合併は,経済改革を継続させる上で避けて通れない問題となってきている。

(資源輸出で貿易は拡大)

ロシアの貿易(CIS諸国との貿易を除く)は,ロシア経済の低迷によって91~93年に減少したが,94年以降は緩やかに拡大している。貿易収支は,89~90年と大幅な赤字を記録した後,91年以降は黒字が続いており,94年は198億ドル黒字(GDP比13.9%)となった。(注1-2)

輸出(ドル・ベース,名目額)は,93年に4.5%増と拡大に転じ,94年は8.4%増,95年1~7月前年同期比27.6%増となった。石油・天然ガスなどのエネルギー資源,鉱産物の輸出が好調であることから,拡大傾向を維持している。

他方,輸入額(同)は,91~93年に大幅に減少した後,94年は5.4%増と拡大に転じ,95年は1~7月は前年同期比22.6%増となった。耐久消費財や食料品などの消費財の輸入が増えており,機械・設備などの投資財の輸入はロシアにおける投資不振を反映して低迷している。

ロシアのCIS諸国との貿易(ドル・ベース,名目額)は,91年以降減少が続いていたが,95年に入って増加するようになっている。輸出は,94年30.1%減の後,95年1~7月前年同期比8.8%増となった。輸入は,94年17.1%減の後,95年14.6%増となった。

(2)ようやく本格化したCISの経済改革

ロシアを含むCIS全体の実質GDPは,93年11.5%減の後,94年は16.0%減となった。CIS全体の鉱工業生産(実質)は,93年12.0%減の後,94年は23.0%減と大幅に減少した。CIS全体の固定投資(実質)も,93年10%減の後,94年は25,0%減となった。物価は,93年に比べて上昇率は鈍化したものの,引き続き高い上昇をみせた。CIS平均の消費者物価は,93年には15.5倍,94年には7.5倍の上昇となった。

ロシア以外のCIS諸国は,ロシアとの経済関係が極めて密接であったため,91年末にソ連が崩壊し,各国が政治的に独立を達成しても,経済の自立基盤を形成するには相当の時間がかかった。また,この間,経済改革の方向性についても,国民のコンセンサスを得ることができず,価格や貿易などの経済自由化,国営企業の民営化などの私有化の推進といった本格的な経済改革を開始するのが遅れた。経済が悪化の一途をたどるなかで,ウクライナ,ベラルーシなどの諸国は,94年から,財政赤字の削減,価格自由化を含む経済改革を本格化させている。改革政策へのコミットメントが明確になるにつれ,膠着していたIMFなどの国際機関や先進国などからの改革支援も具体化されている。

こうしたなか,95年に入り,多くのCIS諸国では生産の減少幅が小さくなり,また,物価上昇率も次第に鈍化しており,経済改革と経済再生への正念場の時期を迎えている。