平成3年

年次世界経済報告 資料編

経済企画庁


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II 1990~91年の主要国の政策動向

第7章 ソ  連

2. ゴルバチョフとエリツィンの協調期(3月国民投票~8月クーデター)

91年3月17日,連が制の維持の是非を問う全ソ国民投票が9共和国 (注1)で実施された (表1)。投票に参加した9共和国合計で,有権者の80.0%が投票に参加,うち76.4%(有権者の61.1%)が連邦制の維持に賛成票を投じた。ただし,モスクワ市やレニングラード市等の民主派勢力の強い都市部では,賛成票は50%程度であった。また,ロシア共和国では,共和国大統領制の導入を問う投票も同時に実施され,投票者の69.9%が賛成票を投じた。全ソ国民投票の結果,連邦制維持への国民の信任が示されたとする保守派は,中央権力の強化と急進改革派の追放に乗り出した。ロシア共和国では3月28日,エリツィン議長解任を狙う保守派の代議員グループの要求で臨時人民代議員大会が開催された。しかし,保守派の激しい攻勢にもかかわらず,エリツィン議長解任は失敗した。逆に全ソ国民投票の際に69.9%の賛成を得た直接選挙によるロシア共和国大統領制の導入と,6月12日の大統領選挙実施までエリツィン議長に経済危機打開の非常大権を賦与することが大会で承認された。大統領制の導入は,国民の高い人気を得ていたエリツィン議長がロシア共和国大統領となる道を開くものとなった。

4月2日,国営商店における小売価格の引上げ及び一部自由化が実施された。価格引上げは,基礎食料品や日用品を中心に平均60%(ただし,肉,パンは200%,卵,食用油,茶は100%)となった。しかし,自由市場での価格はすでに国営商店の数倍から数十倍に上昇しているため,この程度の引上げ措置では国営商店に物が出てくるという結果にはならず,インフレ率が更に高まるだけとなった。

ゴルバチョフ大統領の訪日(注2)直後の4月23口には,3月の全ソ国民投票に参加した9共和国め元首(共和国大統領またば共和国最高会議議長)及びゴルバチョフ大統領により,①新連邦条約あ早期締結,②経済危機打開プログラムの早期実施等を内容とする合意がなされ(9+1合意),事実上,ゴルバチョフ大統領とエリツィン議長が協調していく姿勢が示された。

他方,パブロフ内閣の「経済危機打開ブログラム」が,同じ23日にソ連最高会議で承認された。同プログラムは,当面の経済困難の打開を目指したものであるが,これに対して,①ヤブリンスキー,シャターリン,ペトラコフ等の急進改革派経済学者グループは,“依然として中央統制の手法を用いている。共和国を中心とする経済同盟と国民合意政府の創設以外に道は外い”と批判し,他方,②共産党保守派実力者リガチョフ・前政治局員は,向プログラムが市場経済への加速化された移行を強調していることを“正当化し得ない急進主義”と批判,また,③ナザルバエフ・カザフ共和国大統領は,同プログラムをおおむね評価しつつも“共和国の経済的権利を侵害する箇所がある”と批判するなど,各勢力からの批判が出された。

3月初から続いていた炭鉱ストは,5月にエリツィン議長がロシア共和国内にある石炭産業及びその他の基幹産業を連邦からロシア共和国に移管させる命令を発したことから,同月中にはおおむね終息した。同命令には,労働集団に所有と経営の形態等を含めた完全な経済的自主権を与えることが含まれていたことも,スト終息につながった。

6月12日にロシア共和国で大統領選挙が行われ,投票率74.7%,得票率57.3%でエリツィン・同共和国最高会議議長が当選した(7月10日就任)。副大統領には,アフガン戦争に空軍パイロット(大佐)として従事した軍人ルツコイが選任された。この副大統領選任によって,改革派の旗手エリツィンの政治的基盤が一層強化された(8月のクーデターの際にはルツコイら改革派軍人が反クーデターの軍事的役割を果たした)。また同日,モスクワ市とレニングラード市の市長選挙も実施され,ポポフ及びサプチャクがそれぞれ当選した。

パブロフ・ソ連内閣首相は6月178,ゴルバチョフ大統領が有する経済特別権限の一部を内閣に委譲するよう要求し,更に保守派代議員グループ「ソユーズ」はゴルバチョフ大統領の辞任を要求した。これに対し同大統領は,「ソユーズ」の共同議長アルクスニス,ブロヒン両代議員らを名指しで激しく非難するなど,大統領と保守派との緊張が高まっていった。

他方,急進改革派経済学者でロシア共和国前副首相のヤブリンスキーは,ゴルバチョフ大統領とエリツィン議長の後押しを受けて,アメリカのハーバード大学グループと合同で急進的な経済改革案(いわゆるハーバードニヤブリンスキー案)を策定した。この案は,西側から年間200~350億ドル程度の金融支援を今後数年にわたって見込んだものであった。同案を基本にゴルバチョフ大統領は7月17日,ロンドン・サミットに出席していた先進7か国首脳との会談に臨み,支持を求めた。これを受けて,先進7が国による6項目の対ソ支援策が表明されたが,同大統領が期待していた大規模な金融支援は見送られた。ロンドン・サミットで西側からの金融支援取りつけに失敗したゴルバチョフ大統領と急進改革派に対し,保守派は,ソ連を屈辱と借金漬けによる破滅に追い込む′ものとして,厳しい非難を浴びせた。

エリツィン・ロシア共和国大統領は7月20日,共和国の国家機関等における政党活動を禁止する大統領令を布告した。これはエリツィン大統領の管轄下がら共産党の組織,活動を追放するものであり,共産党は激しく反発,共産党書記長を兼任するゴルバチョフ大統領も党の立場がらこれを批判した。

新連邦条約の草案はゴルバチョフ大統領によって90年11月に初めて提示され,その後数度にわたる修正が続けられてきたが,4月23日の「9+1合意」以後も各共和国の意向をうけて中央統制を弱める方向で修正され,最終案が策定された。例えば,①徴税は共和国が一元的に行い,共和国が連邦と合意した一定率の連邦税を納付すること,②天然資源の所有権を連邦から共和国に移管すること,③軍事政策,対外政策,連邦予算,通貨発行等を連邦の専権事項がら共和国との共同管轄事項とすること,④最高会議(2院制)のうち新設する共和国会議を連邦会議より優越させること,等の修正が行われた。ゴルバチョフ大統領は,特に連邦税については,連邦独自の徴税権を最後まで主張したものの,エリツィン議長に押し切られる形で妥協した。こうして共和国の権限が一段と強化された新連邦条約最終案が8月13日に公表され,まず同月20日に連邦とロシア,カザフ,ウズベクの各共和国との間で調印が行われる運びとなっていた。


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