平成3年

年次世界経済白書 本編

再編進む世界経済,高まる資金需要

経済企画庁


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第4章 市場経済の拡大と再編

第2節 中国の経済発展戦略

第2章でみたように,ソ連・東欧においては,社会主義経済が事実上崩壊した。ソ連では,市場経済への移行が不可避となりつつあるが,現在のところは極めて深刻な経済困難に直面している。一方,アジアにおける社会主義国である中国においては,ここ10年余り市場機能の導入,西側経済との関係拡大が徐々に進められ,その成果が現れているが,新たな課題も生まれてきている。

本節では,中国の78年以降の経済改革,対外開放の動きを振り返りつつ,中国経済の現状を概観するとともに,幾つかの点についてソ連経済との比較を行つてみることとする。

1 78年以降の経済改革の流れ

(1)経済改革の進展

文化大革命期(66年~76年)には,中国経済は政治運動が激化する中で大きな打撃を受けた。このため,文化大革命の終焉とともに,経済の再建を図ることが共産党及び政府の最重点の課題となった。そして,78年12月に開かれた第11期3回全国中央委員会全体会議(以下,3中全会とする)では,「工業,農業,国防,科学技術の現代化を促す」とする,いわゆる「4つの現代化」方針が確認され,同時に経済改革,対外開放路線が打ち出された。この結果,従来の中央集権型の計画経済体制に対する見直しが行われ,中央に過度に集中した権限の分権化と,市場原理の導入により,経済の効率化,活性化が図られることとなり,これが中国の新しい経済発展戦略となった。ただし,政府,企業と共産党組織との分離といった政治面における改革は,その進展が遅れている。

その後の10年余り,改革・開放路線は時にそのテンポを緩めながらも,基本的に維持されてきている。経済改革の進展過程は,大きく分けて①1978年~83年,②84年~87年,③88年~現在,の3時期に区分できる。以下,各々の段階ごとに改革の動きを追っていくこととする(付表4-5)。なお,対外開放政策の進展については,次項で詳しく述べる。

(1978年~83年)―第11期3中全会で改革路線の基本方針提示

改革の第一歩として取り上げられたのは,農村部の改革である。中国の人口の約8割は農村部に集中しており,農村経済の発展と安定は,他の分野の改革を進展させる上での基盤であった。

5D年代以降,農村部は人民公社により組織化されており,農民は生産ノルマを達成すれば一定の収入配分を得ることができた。また,政府は,農産物を低価格で買い付け,販売価格との差額を重工業投資へ配分する政策を採っていた。この結果,農民の生産意欲は減退し,農村経済の発展のテンポを鈍らせた。このため改革に際しては,人民公社体制と,価格体系の矛盾の見直しが行われた。まず,79年に①農家に対する生産請負制(国と契約した生産量を請負い,余剰分は自由市場で販売し,利潤を留保できる)の積極的導入,②主要農産物の国家買付け価格の大幅な引上げ(穀物,綿花,油料作物等で平均24.8%引上げ),③農業機械等,農業投入財の販売価格引下げ等が行われた。この結果,農村部の交易条件が大きく改善されると共に,農民の生産意欲が刺激され,農業の生産性が向上した。

農村での副業を奨励したことから,農村部での産業構造は多様化した。中でも成長著しいのが「郷鎮企業」 (注2参照)である。「郷鎮企業」は,国営企業に比べ,市場の状況に合わせて生産,投資,販売を柔軟に調節することができるという優位性がある。その優位性を生かし,農業機具,消費財の生産を中心に生産シェアを拡大するとともに,農業の生産性の向上に従い生じた農家の余剰資金,余剰労働力を吸収し,その生産規模は次第に拡大している。

金融面の改革もこの時期より徐々に進められた。まず,70年代末から専門銀行が次第に設立され,それまで銀行業務全体を管理していた人民銀行は中央銀行として位置づけられ,同銀行が扱っていた一般銀行業務は各専門銀行へ移管されていった。そして,それまで国家財政から無償で支給されていた企業への設備投資資金,運転資金等は専門銀行等からの融資へと切り換えられた。

財政面でも資金管理の分権化が進み,80年からは地方政府の財政請負制が導入されている。この財政改革は,地方の財政収入の内,一定額(算定の仕方は各地方自治体により異なる)を地方財政へ留保し,残りを中央財政へ上納する制度である。留保される資金の使途については,地方政府の裁量に任される。

また,財政が赤字となっている地方政府に対しては,中央から補填金が充てられる。これにより,中央政府が地方政府の歳入,歳出を一括管理していた従来の体制が改められ,地方政府の資金管理の権限が強化されることとなった。

(1984年~87年)―第12期3中全会で都市改革に着手

84年の第12期3中全会以降,改革の重点は農村から都市部に移され,企業改革,価格改革等が積極的に進められた。

企業改革に関しては,79年より既に経営請負制の試験的な導入が開始されていたが,84年からはその本格的な導入が行われている。経営請負制とは,企業に経営権を与える一方,企業に対し政府への一定額の税金・利潤の納付等を義務付ける,企業と政府相互間の契約制度である。従来,企業は,全て国の計画に基づいて企業活動を行っていたが,請負制の導入により経営権の委譲が進み,生産,投資,販売等の面で企業の自主決定の範囲が広がった。また,請負分を超過した利潤については企業に留保することが認められ,その使途も設備投資や従業員の賃金増等,企業の裁量に任されることとなった。請負の内容は,企業と政府間の交渉により決定されるため,企業によりその形態は異なるが,多くは一定利潤の納付や生産量,技術プロジェクトの達成等について契約が結ばれている。この制度は現在多くの国営企業で導入されており,88年半ばで導入企業数は全体の90%に達している。

経営権の委譲と共に,84年より「工場長責任制」が導入され,企業に対する政府の干渉抑制と,企業経営者の経営権強化が進められている。85年がらは,賃金表に基づく固定的な賃金制度を改め,企業の裁量で労働量に賃金をリンクさせる決定方式を採ることが可能となった。また,86年には経営者に労働者の解雇権等が認められた。

株式制度の導入も84年より,北京,上海等の大・中都市を中心に進められている。株式制度を導入した企業は商業,サービス業関連企業に多くみられ,また,国営企業よりも郷鎮企業等の集団所有制企業で積極的に導入されている。

株式制度を導入した企業数は,89年時点では6,000以上に達している。

一方,価格体制についても改革が進められている。これまで中国の価格体制は公定価格のみであったが,農・工業部門での請負制の導入をきっかけとして,請負超過分の生産物に対し買上げ価格の割増や市場価格での販売を認めたことにより,価格の多重化が進んでいる。価格統制を撤廃し,販売価格が自由化された生産物もこの時期に急増し,小型の工業製品(消費財)や,副食品等については自由に販売価格決定が行われるようになった。

しかし,改革の進展は,同時に経済の過熱化を引き起こし,87,88年の物価は2桁を超える高い上昇となった。この背景には,①企業改革,財政改革で自主権を拡大した企業,地方政府による投資の大幅拡大,②賃金の大幅引上げによる購買力の増大,③価格統制が緩く,利潤率の高い軽工業に生産が集中した結果,原材料・エネルギー等が逼迫し,それらの生産財の自由市場での販売価格が急騰したこと,等があると考えられる。

(1988年~91年)―第13期3中全会で経済調整政策決定

88年の第13期3中全会では,前年からの経済過熱を抑えるため,経済の引締め政策の実施が決定された。また,89年の「天安門事件」以後は,改革の進め方に対し慎重な意見が強まり,インフレ抑制のため価格改革が当面見合わされる等,経済改革の進展はこの時期足踏み状態となった。しかし,90年半ば以降は改革の進展テンポも回復してきている。価格改革も,物価の鎮静化を背景に進められ,91年には穀物,食用油等の販売価格の見直し等が行われている。

(2)改革進展上,顕在化した問題点

経済改革が進展するにつれ,中央政府が経済活動を統括していた中央集権体制は次第に変容し,各経済単位に対する計画,生産,販売等の面での権限の委譲が進んでいった。この結果,農家,企業等の生産に対するインセンテイブは高まり,農業,工業生産は80年代に入り急速に拡大した。成長率をみても,改革前(52年~78年)が平均6.4%だったのに比べ,改革期(79年~90年)には平均9.7%に高まっている。それにつれて国民の生活水準も向上し,国民一人当たりの消費水準の伸びは,改革前の平均3.3%から,改革期には平均12.4%へと高まった。また,投資の伸び,輸出の拡大といった点においても大きな進展がみられ,経済改革は後にみる対外開放とともに成果を上げてきたといえよう。

しかし,現段階の中国は経済改革の過渡期にあり,市場原理の導入もまだ部分的であるために,次のような問題も浮上している。

(不完全な権限委譲)

企業改革により,国営企業の経営自主権は建前上は大幅に拡大されたが,企業の所有権は国側に残されている。このため,経営者の人事,勤務評定等には国が関与している。一方,経営上の赤字は国側が財政面で補填し,企業側は実質的に責任を負う必要がない。89年に「企業破産法」が発効したが,これまでに企業経営の悪化によって実際に倒産した例はほとんどない。こうした結果,企業側にモラル・ハザードが生じやすくなっている。改革で企業側に留保されることになった利潤の使途は,設備投資の他,非生産的投資(企業の従業員向けの施設整備等)で拡大していると言われている。また,生産量の拡大を重視するあまり,低品質で市場の需要に見合わない製品でも増産を続けるため,企業の在庫が著しく増加している。この大幅な売れ残り在庫の増大は,金融引き締めと相まって,支払いのめどがたたない企業間信用(いわゆる三角債)の膨張を引き起こしている。

(多重価格体系の矛盾)

改革の進展に伴い,政府の価格決定権は徐々に縮小しているとはいえ,鉄鋼,石炭等の重要な生産財については,低い水準に設定された政府統一価格が適用される品目が多い。また,これらの品目については,政府から請け負うノルマの比率も高く,コスト増を価格に転嫁しにくいため,生産財を扱う企業は生産の増大に伴って赤字が拡大している。このように価格体系の歪みは,生産財部門でのシェアが高い国営企業の経営を悪化させるとともに(91年半ばで国営企業全体の約40%が赤字経営),国の財政負担も増大させている。また,多重価格が存在することによって,生産を請け負った企業が,計画外生産物の販売価格の方が高く設定されていることを利用し,請負分の生産物を自由市場で販売し,請負を達成しないという傾向も現れつつある。

(地方政府の権限強化に伴う弊害)

国内経済と対外開放政策の改革に伴い,資金,外貨,物資の配分に関する権限が次第に地方政府に委譲された。例えば,国家財政支出に占める地方財政支出のシェアをみても,81年の46.0%から,90年には60.2%へと拡大しており,地方政府の資金管理に対する権限が強化されている (第4-2-1図)。こうした地方政府の権限強化が進む中,他方では,各地方政府が管轄地域内の企業を優遇し,他の省,市からの商品に対して課税,流入の規制を行う等,市場を閉ざす傾向が現れてきている(中国では「諸侯経済」と称している)。同時に,地方政府は企業経営に対しても干渉の度合いを強めている。財政改革で,請負を超過した財政収入は地方政府へ留保されるようになったため,各地方政府は管轄下の企業からの収入を増やし,財政収入拡大を図ろうとしている。このため,金融機関に対し企業への融資を促す等優遇策をとる一方,企業に対し各種の費用負担,罰金徴収を課すといったケースもみられる。

(マクロの金融政策の不備)

改革により,国から地方政府,企業側へと資金管理の権限を委譲した結果,国家財政の規模は縮小し,歳入額の対国民総生産比をみても,81年の22.8%から90年には18.7%となっている。一方,国家予算に計上されない,地方政府,国営企業等が独自に管理する「予算外資金」のシェアは拡大し,88年には国家歳出に匹敵する規模となっている (第4-2-2図)。また,国家財政から支出されていた企業の投資資金等も,銀行からの融資に切替えられ,資金の流れは次第に国の計画でコントロールできなくなっている。加えて,金融制度の整備は進んでいるものの,市場の資金総量を間接的にコントロールできる金融制度はまだ未発達であり,十分機能していない面がある。各銀行の支店の中には,管轄地域の経済成長,財政収入増を求める地方政府の指導に従って,融資枠を膨張させる例もみられる。

他方,金融機関相互間で資金の過不足の調整が十分に行われていないため,資金不足となった銀行は中央銀行からの借入れに依存しがちとなっており,このことは通貨供給量の増加を促し,インフレを助長させる要因となっている。

(3)経済改革の今後の方向

以上のような問題点を考慮すると,国営企業のあり方についての見直し,価格の一層の自由化,中央と地方における政策の調整と,明確化等が今後の改革の中で取り組まなければならない課題として挙げられよう。改革路線は,既に中国経済全体で押し進められている。中央政府では改革路線を維持するとの姿勢は崩しておらず,地方政府もまた独自に改革を積極的に進展させている。

中央政府は経済改革に対して基本的に改革を推進する方針を採っている。91年4月に採択された「第8次5ヵ年計画(91年~95年)」及び,「10ヵ年計画(91年~2000年)」の採択にあたっては,一方で経済の安定を重視するとともに,他方で改革を着実に進めていくとの方針を示している。また,91年6月には,国家経済体制改革委員会が提出した今後10年間の経済体制改革の構想が承認され,改革に対する積極的な姿勢がうかがえる。

一方,地方政府では,自主権の拡大に伴い,政策を地方政府の裁量で柔軟に調節しており,中央政府の承諾の下に独自の改革,開放を推進している。例えば,経済特区の深しんでは,外国人,外資企業に対しても住宅,宅地の使用権の売買,国営企業(地方政府管轄下の国営企業)の民間,外資への売却等を全国に先駆けて進めている。また,広東省では,将来の契約雇用制への完全移行(現在は部分的に導入)に備え,今年中に失業,労災保険,年金等の社会保険制度を確立する計画を公表した。

また,地方政府は,次項にみるように外資の導入にも積極的である。例えば,90年に設置の決定した上海浦東新区では自由貿易区(輸出入に関税がかがらない)の設置等,特区以上の優遇措置を導入することが決定されているが,これに対し既存の特区は後を追って中央政府に同様の優遇策の導入を要求し,結局は保税区(自由貿易区と同じ)の設置等の認可を受けている。

以上のように,改革は地方政府レベルで先行しながら進展している。ソ連における「八月革命」の影響から政治的には不確実な面もあるが,中央政府もこうした動きを押し止めることは困難であり,今後の改革,開放路線はこれら地方の動きを追いかける形で進展していくであろう。しかし,中国が,工業国をめざして経済発展を進めていくに際しては,生産財や資本財の生産を担う国営大企業の抜本的な改革が不可欠となっている。その際,私的所有権の問題のように,政治面における改革の遅れがネックとなっているような問題にも真剣に取り組むことが求められよう。

2 対外開放政策下の沿海地域の発展

国内の経済改革への着手と並行して78年以降,中国は対外開放政策を掲げた。従来の外国からの借款,投資,援助は受け入れないとの方針を翻し,外資導入を積極的に進めると同時に,貿易拡大を促し,対外経済活動の活発化を図った。この結果,中国の対外経済活動は80年代に入り急速に活発化し,対国民総生産比でみると,外資導入額(契約ベース)は83年の1.2%から90年には3.3%へ,輸出額でも81年の7.5%から90年には16.9%へと増加している (第4-2-3図)。これら対外経済の発展が特に目覚ましいのが沿海地域である。沿海地域,特に経済特区を有する華南地区は,香港,台湾との地理的,血縁的な優位性を活かし,経済交流を活発化させている。

(1)対外開放政策の進展

(貿易体制改革)

従来,貿易事業は中央政府に所属する12の国営の対外貿易総公司とその地方分公司とが独占し,輸出入は対外貿易部の計画に沿って行われていた。しかし,84年の改革後は行政機関と貿易企業とが切り離され,各貿易企業が他の生産企業から委託を受けて貿易業務を代行し,手数料を徴収する貿易代行システムへと移行した。更に,88年からは貿易企業に対する独立採算制・損益自己負担制の導入が次第に進み,各貿易企業は,政府から外貨獲得とその上納等を請け負うようになった(91年より全面的に導入)。また,貿易公司の設立認可権が中央政府から各地方政府に委譲されたため,その数は急速に増加し,91年には3,000社以上の企業が貿易業務権を有している。

また,85年からは,国が直接的に貿易を指導するのではなく,国の定めた輸出入許可品目については貿易活動を自由に行うことを認めた。また,それ以外の品目に関しては対外貿易部等の政府機関の発行する許可証の獲得を義務づけ,より間接的手段で貿易をコントロールすることとなった。

(経済特区等の設置)

中国では,沿海地域に幾つかの優遇地区を指定し,国内産業の振興を図るとともに,外国資本の誘致を進めている。

まず,80年に,広東省の深しん,珠海,汕頭と福建省の厦門に「経済特区」として経済的に独立した地区を設立することが正式に政府から承認された(88年には海南省が追加された)。「特区」では,対外経済を活発化するため,行政上の自主権が大幅に拡大されており,外資の誘致策として,企業への所得税の減税,原材料等の輸入関税の免除等の優遇措置が採られている(付表4-6)。

特区の成功を受け,84年には沿海部の14都市(後に威海市が追加)の開放が決定し,各都市には「経済技術開発区」の設置が認められ,特区並みの優遇政策の下,技術開発,新産業の発展が目指されることとなった。更に85年には,長江,ミン南,珠江の3つのデルタ地区,88年には遼東,山東両半島といった複数の県,都市を含む広い地域に「経済開放区」が設置され,より広範囲で外資導入が進められることとなった (第4-2-4図)。また,90年には上海の浦東新区の設置が決定された。ここでは,税制面等で経済特区以上の優遇措置の導入が行われ,工業のみならず貿易,金融,情報面の中心地としての発展が試みられることとなる。上海は一大工業都市ではあるが,沿海南部の特区に比べて経済の成長テンポが鈍く,今回の決定はこの上海の経済活性化を促す意味も含まれている。

(外資導入の分権化)

現在,対外借款に関しては中国政府機関(財政部,対外経済貿易部),人民銀行等の金融機関の他,広東,福建,上海,天津,大連等一部の地方自治体についても独自に契約する権限が認められている。また,外国企業からの直接投資の受け入れについては,投資額に制限を設けた上で,地方政府についても審査・認可権を与えている。当初,地方政府が審査・認可しうる直接投資受入れの上限額は地域で格差が設けられており,84年の段階では,上海,天津が3,000万ドルまで,北京市,遼寧省は1,000万ドルまで,山東,漸江省等の他の沿海部は500万ドルまでとなっていた。しかし,次第に格差は縮小し,87年には特区も沿海諸省も一律3,000万ドルまでとされることとなった。

(外貨管理制度の改革)

輸出拡大策の一環として79年より,貿易業務を扱う企業に対し,一定額の外貨留保(ただし,外貨そのものではなく,同額の外貨の使用権の留保)を認めることとなった。当初,外貨の留保率は,地域,外貨の収入源等により異なっており,沿海地域がより優遇されるようになっていたが,91年からは地域ではなく,商品別に留保率を定めることとなっている。

(2)拡大する外資導入

これらの政策の結果,外資導入額(契約ベース,以下同様)は80年代以降急速に伸びており,83年の34.3億ドルから90年には123.3億ドルへと拡大している。86年以降は対外借款のシェアが高かったが,89年以降は「天安門事件」の影響から借款の規模が縮小したため,直接投資のシェアが高まっている。

(香港資本を中心に拡大する直接投資受入れ)

79年以降,中国が受け入れた直接投資の累積額は89年末で338億ドルにのぼる。外資との合弁企業の数は,89年末時点で約2万社あり,企業数では国営工業企業数の29%に達するが,生産額では3%程度に止まっており,投資規模が大きくないことを示している。このように,外資企業の国家経済に占める割合はまだ小さいが,次第にそのシェアを広げてきている。特に100%外資企業は近年成長を高め,外資企業全体に占める投資金額のシェアをみても,83年の2.1%から,89年には29.5%へと拡大している。

国・地域別では,外資導入当初より香港からの投資が圧倒的に多く,90年には全体額の59.8%を香港(統計上マカオを含む)が占めている(第4-2-5図)。アメリカ,日本がその後に続き,この3国・地域で直接投資額全体の7割以上に達している。

これらの投資は,主に沿海地域に集中しており(付表4-7),中でも,経済特区を有する華南地区が活発で,広東省と福建省の2省で直接投資の受け入れ額全体の50%以上を占めている。華南地区では特に地理的に近い香港との結び付きが強く,労働力不足,賃金上昇による国際競争力の低下に悩む香港から多くの製造業が進出している。これらの合弁企業の多くは原材料,部品を香港から輸入し,衣料,時計,玩具,電気機器等労働集約型製品の受託生産を行っている。

(活発化する台湾からの資本流入)

台湾からの投資は,統計上では香港からの投資額の中に含められている。これは,台湾当局が中国との直接的な投資を禁止しているため,台湾企業が香港を経由して投資を行っていることによる。台湾からの投資規模を正確に把握することは難しいが,中国側の発表数字によれば,90年末での累積投資件数は約2,000件,投資金額は18~20億ドルにのぼるとされている。業種では,織物,アパレル関係,玩具,プラスティック製品等の労働集約型産業が中心で,中小規模の企業が多く進出している。投資先は,主に広東省や,福建省であるが,特に特区の厦門市には,地理的な近さに加え,台湾企業のための投資優遇地区が設置されている等の要因から集中している。

(3)貿易構造の発展

対外貿易の規模は,開放政策により拡大している。しかし,輸入は国内の消費意欲の高まり等により増加テンポを強める一方,輸出は為替の切下げ,輸出補助金の支給等の振興策にも係わらず輸入ほどは伸びなかった。このため,84年以降,貿易収支は赤字が続いていたが,90,91年については輸入の引締め策等が影響し,黒字へと転化している。

輸出構造は,工業化の進展を受けて変化している。食料品,原材料等の一次産品のシェアが81年の44.2%から90年には25.6%へ縮小する一方,工業製品は50.7%から74.4%へと拡大している。中でも,機械・輸送機器や,雑貨製品(衣類,履物等)の伸びが高い。

輸入構造は,農業生産の向上により食料品が減ったため,一次産品のシェアは81年の36.5%から86年の13.2%へ縮小した。しかし,その後は,農業の生産不振,経済過熱による原材料の需給逼迫等から徐々にシェアが高まっている。

工業製品のシェアは鉄鋼,紡績等の原料加工製品,産業用機械等の機械・輸送機器を中心に拡大し,81年の63.5%から90年には81.5%となった。

相手国,地域別では,香港が80年代半ば以降,日米を抜き,輸出入共に最大のシェアを占め続けている。これは,香港の対中投資の増加と,それに伴い中国製品の加工貿易港としての香港の地位が強まっていること等に起因している。中国で生産された委託加工製品は,香港でさらに加工された後,その大半は他国へ再輸出されている。また,香港から中国への輸出製品もほとんどは他国からの製品が占めている。輸出と輸入の両面における中国との間の加工・中継貿易は,香港の統計上の「再輸出」の増加に大きく寄与している。ちなみに,香港の輸出総額に占める中国製品の再輸出額のシェアをみても,81年の10.5%から,90年には37.6%へと拡大している。

中国と台湾との第3国・地域(主に香港)経由の間接貿易も,85年に台湾当局が中国との間接貿易に干渉しないとの方針を示した後は急増している(第4-2-6図)。構造的には,中国側の大幅入超となっている。また,中国の全輸入額に対する台湾からの間接輸入額は81年の1.8%から90年の6.1%へと拡大している。

(4)今後の対外開放政策

改革後の中国の対外経済活動は,近隣の香港,台湾等のNIEs諸地域と提携した沿海地域を中心に活発化している。また,国際貿易の枠組みの中で,他国との競争下に置かれるようになったことは,同時に中国国内の経済制度の改革,整備の必要を迫る結果ともなった。広東省等,経済特区を有する沿海地域でより改革が進展しているのは,その現れであるとみられる。

沿海地域での対外開放政策は一応の成功を遂げたが,その結果内陸部との経済格差が拡大しつつある (第4-2-7図,付表4-7)。沿海地域の12省,直轄市は面積では中国全体の13%程度ながら,その経済規模をみると,国民総生産額の約5割,工業生産の約6割,輸出額の約7割を占め,外資導入額では9割以上が集中しており,この地域が中国経済の要となっていることが窺える。このため,地方政府の中には,独自に地方財政の負担で特区に準じた優遇地区を設け,外資誘致を進め,経済活性化を図る例も現れている。現時点では,中央政府が地方のこれらの政策を追認する形になっているが,一定地域のみでなく,全国レベルで対外開放政策を推進する時期が来ているといえよう。

また,香港,台湾等との結び付きの強さも,裏を返せば他の先進諸国との結び付きの相対的な弱さをも示している。華南地域の経済の急成長は香港,台湾の存在によるところが大きい。このため,たとえ経済特区を広範囲に拡大しても,これら地域との結びつきの弱い北部,内陸部で華南地域と同様の成功を遂げることは難しいとみられる。アメリカ,日本等の先進諸国,更に隣接する韓国等,各国からの直接投資導入を進め,投資関係の多様化を図ることが今後は必要である。そのためにはインフラ整備等による投資環境の整備を図るとともに,経済・政治改革の一層の自由化が必要となろう。

3 中国の経済改革の成果とソ連の経済改革

中国の工業化への試みはソ連に比べて歴史が浅く,開放戦争が終わった50年代に入って漸く開始された。中国は世界最大の人口を抱え,しかも,人口の大部分が農業に従事する農業国であり,工業化を図ることは容易ではなかった。

工業化に向けた政策は導入直後には新中国建設への情熱やソ連の援助等もあって一応順調であった。しかし,50年代末には大躍進政策が失敗し,更に60年代初めには中ソ対立によりソ連からの援助も停止されたことから,それ以降の中国の工業化は,国内の限られた資本と技術に頼らざるを得ず,大きな制約を受けた。60年代後半の文化大革命の混乱期とその後の収拾期を経て,70年代が終わる頃には,中国は孤立主義的な経済開発の方向を棄てて,西側の資本・技術を導入することで経済開発を進める路線に転換した。いわゆる改革・開放政策の開始である。

中国の経済改革と開放政策は10年余りを経過し,既にみてきたように新しい問題を抱えつつも,全体としてはまずまずの成果もあげてきた。一方,ソ連の改革は,ペレストロイカが始まって既に5年以上が経過したとは言え,市場経済化に向けた経済改革はこれまでのところ成果はあがっておらず,これから正念場を迎えることになる。市場経済化に向けた経済改革では,中国がソ連に一歩先んじることとなった。中国の改革をソ連と比較した場合,いくつかの顕著な違いを指摘することができる。第一に,ソ連は政治体制の改革を先行させたが,中国は経済改革から着手したことである。第二に,中国は,,改革当初に,農業改革に成功したことである。第三に,中国は,コメコンという閉ざされた国家間貿易システムに加盟することなく,西側諸国との間で貿易を拡大したことである。第四に,中国は,「経済特区」等を設けて香港等の華僑や西側諸国から直接投資を積極的に受け入れていることである。

以下では,農村改革,郷鎮企業および対外開放政策をとりあげてソ連との比較検討を行い,今後のソ連の経済改革に対する教訓を求めてみたい。

(中国の農業改革の成果)

中国の改革・開放の歴史は,既に前節で詳しくみてきた。ここでは,中国とソ連の食糧生産の比較を行いつつ,農業改革の成果をみてみよう。

中国は,広大な国土を擁しているにもかかわらず,総耕地面積は9,600万haと国土面積の約10%にしか過ぎない。この限られた農耕地に人口の約8割が集中して農業を営んでいる。中国経済において農業部門・の発展が重視されなければならない理由は,まさにこの点にある。限られた耕地の中で,中国の食糧生産は, 第4-2-8図にみられるように,60年代以降,80年代中頃まで,ほぼ一貫して増加してきた。この間,食糧の播種面積は縮小していることから,農業の労働生産性(農民1人当たりの食糧生産)の上昇と機械化や肥料の多投による土地生産性の高まりが食糧増産をもたらしたと考えられる。農業の労働生産性についてみると,70年代初めまで停滞を示したあと,70年代末の農業改革の実施に伴い目立って高まっている。

80年代中頃以降,中国の食糧生産(穀物。イモ類等を含む)が停滞するようになったのは,70年代末に引き上げられた食糧価格がその後抑制されたこと,人民公社の解体により灌漑等の農業インフラの保守・整備が遅れたこと等による。生産請負制によって自主性が高まった農民は,現金収入を増やすため,持てる生産余力を,統制価格が適用される食糧生産よりも自由価格で取り引きされる野菜生産等に振り向けた。この結果,野菜等の生産は拡大したが,食糧生産は停滞するようになった。

一方,ソ連をみると,総耕地面積は6億300万haと国土面積の27%に上り,中国の耕地面積の6倍余りと規模が大きい。しかし,これら耕地は気象条件の厳しい地域に広がっており,気象変化の影響を受けやすい。このため,ソ連の穀物生産は,前掲第4-2-8図にみられるように60年代前半に不作を繰り返した。その後,70年代初めまでは農業投資の拡大もあって生産は比較安定し,増産傾向さえみせた。その後は,再び気象変化の影響を強く受けて豊凶の大きな波を繰り返しながら不安定な状態が続き,穀物生産は停滞色を強めた。ソ連の穀物播種面積は70年代中頃まで増加した後,その後は漸次減少し,最近では60年代初めの水準にまで縮小している。他方,農業の労働生産性は長期にわたって停滞状態が続いている。このため,ソ連の穀物生産は播種面積,天候および土地生産性に左右され,労働生産性は増産要因とはならなかったと言える。労働生産性が向上をみなかった原因としては,集団農業によるインセンテイブの欠如が指摘される。これに対し,農民の自主性が重んじられ,自由市場への販売も可能で,現金収入の手段となる自留地農業では,その耕地はソ連全体の耕地面積の2%にしか過ぎないが,食肉やミルク生産では全体の約3分の1,卵生産では全体の約3分の2を占める等,極めて生産性が高い。しかも,品質の良いものが多く生産されている。自留地農業がこのように高い生産性をあげているという事実は,集団農業の不振の原因がどこにあるかを逆に浮き彫りにしている。従って,中国の成功例も踏まえて考えると,自営農の本格的な復活や農産物の価格自由化が実施されれば農民の生産意欲が高まり,ソ連の農業生産は著しく高まることが期待される。

(郷鎮企業の役割増大)

中国では,農業改革によって人民公社が解体され,その傘下にあった「社隊企業」が郷(村)及び鎮(町)というレベルの地方公共団体に引き継がれる形で存続した。いわゆる郷鎮企業は,狭義にはこうした地方公共団体経営企業を指す。しかし,最近,話題にのぼる郷鎮企業は,数人の個人が資本を持ち寄ってつくる協同組合企業,個人所有の私営企業,更には外国との合弁企業等をも含む広義の概念である。狭義の郷鎮企業である地方公共団体が経営する企業であっても,実際は個人に経営を委託する場合も多く,私営企業と性格が大きくは変わらない。

こうした郷鎮企業は,農業改革による農業生産性の高まりによって,農村部に余剰労働力が大量に発生したことから,それを吸収する手段として奨励され,急速に拡大していった。中国の郷鎮企業数の推移をみたのが 第4-2-9図である。1984年に郷鎮企業数が急増しているのは,この年から郷鎮企業が広義の概念で把握されるようになったことを反映している。84年以降をとってみても郷鎮企業数の増加は顕著である。また,郷鎮企業の生産高も急速に拡大しており,工業総生産高に占める郷鎮企業の生産高のシェアは89年には33.7%に達している。

郷鎮企業の発展により,これまで国営企業が柔軟に対応できなかった消費財やサービスの供給が多様化し,品質も向上した。このように,郷鎮企業の台頭は,以前の硬直的で非効率な経済活動に柔軟性を与えるという好影響を及ぼしている。郷鎮企業の経営者の中には高額所得者も数多く現れ,これが刺激となって,新たな郷鎮企業を生み出すといった現象もみられる。

郷鎮企業が市場経済の担い手となって,中国の経済発展に大きく貢献しているこどは明らかである。しかしながら,問題点が無いわけではない。即ち,儲け第一主義に基づいて,儲かる分野への集中投資に走り,原材料不足を深刻化させたり,輸入需要を急増させる等,マクロ経済バランスを損う現象も現れている。また,郷鎮企業の中には生産効率の低い企業もあるといわれ,1社当たりの雇用者数も1989年時点で7.6人と零細規模の企業が多いとみられる。企業間競争が激化する事態になれば,いずれ競争力のない企業の整理,・淘汰が進むと考えられる。

(郷鎮企業とコーペラチフ)

中国の郷鎮企業に近い存在が,ソ連では小規模の協同組合企業,いわゆるコーペラチフである。ソ連では,経済ペレストロイカの一貫として企業経営の改革がゴルバチョフ政権の下で行われてきた。この流れの中で,小規模の協同組合企業に法的基礎が与えられて(88年の「協同組合法」),コーペラチフが急速に台頭することとなった。

コーペラチフの数は,90年初で約19万社で中国の郷鎮企業(同年1,869万社)に比べれば遙かに数が少ない (第4-2-10図)。これは,郷鎮企業は10年以上の歴史を持つが,コーペラチフは登場して間がないことにもよると思われる。

就業者数を比較すると,中国の郷鎮企業の就業者は89年時点で9,400万人と全就業者の6分の1を占めている。一方,ソ連のコーペラチフは兼職者を含めて500万人弱と全就業者の僅か3.5%を占めるに過ぎない (第4-2-11図)。

郷鎮企業とコーペラチフの業種別構成を企業数のシェアでみると,いずれも工業部門が3分の1前後を占めていることがわかる。特徴的なのは,郷鎮企業では商業や飲食業が多いのに対し,コーペラチフでは,建築業が多いことである(第4-2-10図)。ソ連では従来,計画経済体制でカバーし切れない生産活動をいわゆる第二経済によって補ってきた。農業における自留地農業がその典型であるが,建設部門では住宅や小規模の建設工事を請け負う集団(シャバーシニキ)の伝統があった。小規模の協同組合企業の制度が導入されて,このシャバーシニキが合法化され,建築業のコーペラチフが多く生まれたと考えられる。

ペレストロイカの進展によって登場してきたコーペラチフも,一本調子の発展を遂げてきたわけではない。コーペラチフが法的に認められても,それらが活動する上で市場が無いため,困難な活動を余儀無くされた。原材料や資本財などの卸売市場がなく,これらの調達・販売が制約された。また,これら物資の取引権限の多くは保守官僚層が握っていたため,取引に当たって保守官僚層の妨害を受けたり,彼らに取り入るために癒着・コネといった悪弊が蔓延した。

また,合法的な取引から閉め出されると,闇市場取引に走ったり,投機行動をとったりしたことが,一部の高額所得者の出現とあいまって,国民の反発を招いた。このため,ソ連政府は89年10月にコーペラチフの規制に乗り出す場面もあった。こうした幾つかの問題点を持つコーペラチフの活動も,ソ連の市場経済化に向けた改革の中で重要な役割を持つことは確かであろう。そこでは利潤原理に基づき活動する企業家が着実に育ちつつあるからである。

コーペラチフを市場経済化の一つの重要な担い手とみれば,ソ連の経済改革が本格的に進展すれば自ずとその数も増え,役割も高まってこよう。特に,工業部門でのコーペラチフの役割が増大すれば,中国の郷鎮企業や西側経済におる中小企業のような存在となって経済全体に活力をもたらすことが期待される。

(開放経済の効用)

次に,貿易と直接投資をとりあげて,中ソ間でどのような相違があったかをみてみよう。

第4-2-12図は中国とソ連の貿易がそれぞれどのように推移したかを示している。中国では,対外貿易は70年代初までみるべき発展がなかったが,70年代後半から貿易は急速に拡大し,中国経済の対外依存度も高まった。輸出の対GNP比は,統計が発表されている70年代後半以降をみると,急激な高まりを示していることがわかる。これに対し,ソ連の貿易は80年代中頃まで拡大基調をたどったが,そのテンポは緩やかなものに止まっている。しかも,80年代後半には貿易は停滞から縮小に向かうようになっている。そして,最近数年間しか統計が利用できないが,ソ連経済の対外依存度は低下をみせ,90年には8%程度と中国の12~13%程度に比べると,かなりの差がでている。

中国とソ連の貿易相手国の構成をみるとき,更に顕著な違いがあることが分かる。 第4-2-13図にみられるように,中国の貿易に占める社会主義諸国との取引のシェアは,60年代以前は,全体の半分以上を占め,ソ連と大差のないものであった。しかし,その後は中ソの対立激化を契機として,シェアは急速に低下し,1975年には全体の2割にも満たない水準にまで落ち,更に最近では1割を切るところまで低下している。その分,西側との取引シェアが拡大してきている。他方,ソ連の貿易に占める社会主義諸国との取引のシェアは,多少の変動はあるものの,おおむね6割前後で推移した。従って,西側との取引シェアは中国に比べて相対的に小さくなっている。以上のような対外経済依存度の違い,取引地域構成の相違は,海外の経済から受ける影響の度合いを異なったものにしている。

ソ連経済は対外依存度が低く,また,貿易構造が社会主義国に偏重しているということは,それだけソ連経済が世界市場の競争から隔絶されていることを意味している。この結果,ソ連はコストや競争という概念と疎遠になり,質や効率を軽視した経済体質を温存させることになった。何故なら,ソ連の貿易の大宗は第2章で既にみたように,市場メカニズムに依拠しない閉鎖的な国家間貿易であるコメコン貿易によって占められてきたからである。また,西側先進国との貿易においてさえも,ソ連はマーケティングや品質管理の必要性があまり無いエネルギーや一次産品等の加工度の低い商品を輸出し,稼得した外貨で機械設備や穀物といった特定商品の輸入を行うという途上国的な貿易構造であった。このため,貿易が国内経済の効率化や活性化に結びつくというメカニズムはあまり作用しなかったと考えられる。

これに対し中国では,先にみたように,西側諸国との貿易が高シェアを占めており,対外経済依存度も高まっていったので,西側経済との競争が進んだと言える。このことは,中国経済が世界経済との相互連関を強め,好むと好まざるとにかかわらず,自由主義経済の影響を強く受けることとなった。また,経済特区の設置等により対外開放政策が採られた広東省や福建省などは,多くの華僑の出身地であったことから,香港や台湾等から大量の華僑資本が容易に流入した。このような海外からの直接投資を積極的に受け入れたことにより,中国はモノや生産技術だけでなく,コストや競争という市場経済の概念を身近に理解できるようになったといえる。

両国の経済・政治構造には大きな違いがあるが,ソ連が経済改革を本格化させ,経済の効率的・質的発展を実現するためには,農業部門の改革や民間企業の育成,経済開放化は不可欠である。このような観点からみると,中国の経験から学ぶことは少なくないように思われる。