平成3年
年次世界経済白書 本編
再編進む世界経済,高まる資金需要
経済企画庁
第4章 市場経済の拡大と再編
東西冷戦の終結という世界の政治経済構造の著しい変化が起こるなかで,アジア,特に西太平洋地域においては経済のダイナミックな変化が続いている。
すなわち,活発な貿易,直接投資を通じて域内の経済関係が一層緊密化するとともに,近隣の国・地域が集まって経済関係を強める動きが現れている。また,こうしたなかで,各国の経済構造の調整が進んでいる。本節ではこのような動きを立ち入って把握するために,まず,西太平洋地域の貿易,直接投資の動向をみる。その上で,最近の局地経済圏の実態を概観し,さらに各国における経済構造調整の例として,韓国,台湾をとりあげる。
西太平洋地域の経済成長は,70年代後半以降目立ち始め,世界経済の成長を大きくリードしてきた (第4-1-1-①図)。その内訳をみると,アジアNIEs(以下,NIEsと略す)がしばしば前年比10%を上回る高い経済成長率を実現してきた。アセアンも80年代前半に成長鈍化の時期はあったものの,88年以降高い経済成長が続いており,今や世界のなかでも最も成長の高い地域どなっている (第4-1-1-②図)。中国も80年代末に鈍化を示したものの,80年代の経済成長率は70年代を上回っている。域内の経済大国である日本は,成長率はやや低下しているものの,先進諸国のなかでは最も高い成長を達成している。こうした西太平洋地域の高い経済成長の背景には,貿易の増大と域内での直接投資の拡大がある。
そこで,80年代後半のこの地域の経済成長と輸出の関係をみると,NIEsとアセアンで特徴的な変化がみられる。NIEsは85年から87年にかけて,輸出依存度が上昇するとともに経済成長率が上昇しており,輸出主導型の成長が目立っていた。しかし,88年以降は輸出依存度が低下するなかで高めの成長を維持している。特に90年は成長率が上昇するなかで輸出依存度が低下しており,内需中心の成長に転換しつつあることを示している。他方,アセアン諸国では,85年以降,経済成長と輸出依存度の上昇が並行して進んでおり,輸出主導型の成長を続けている。中国は,引締めあるいは緩和政策によって成長率は大きく変化しているが,対外開放政策を反映して輸出依存度は上昇している(第4-1-2図)。
こうしたアジア各国における輸出依存度の変化は,為替レートの変化によってもたらされた面が大きい。85年のプラザ合意後,円がまずドルに対して大幅に上昇した (第4-1-3-①図)。この結果,NIEsの通貨は概ねドルに連動していることから,円に対して大幅に切り下がることとなった (第4-1-3-②図)。このため日本に対するNIEsの価格競争力が大幅に増し,輸出が拡大することとなった。更に,円に対するNIEsの為替レートの低下は,日本からNIEsへの直接投資の急増をもたらし,NIEsの輸出が拡大するもうひとつの要因となったとみられる。その結果,85年から87年にかけて輸出依存度の大きな上昇が生じた。しかし,88年以降は一転してNIEs各国の為替レートが上昇したため,輸出の伸びは鈍化した。加えて後述するように,NIEsの賃金の上昇もあって価格競争力が大幅に低下したため,NIEsからアセアンへの直接投資が促進された。
西太平洋地域の輸出が世界輸出に占めるシェアをみると,80年代初と比較して10%以上上昇し,現在では20%を超えている。その内訳をみると,日本及びNIEsの上昇テンポの早さが目立っている。しかし,89年以降は西太平洋地域の輸出シェアは日本とNIEsの輸出シェアの低下が続いていることから低下している。他方,アセアンは88年以降輸出シェアを高めている。また,中国も徐々に輸出シェアが上昇している。このように,西太平洋地域の輸出の主役は,全般的に依然として日本とNIEsであるが,最近ではアセアンのシェアが高まりつつある (第4-1-4-①図)。
次に,西太平洋地域における輸入のシェアをみると,80年代中頃に同地域の経済成長率が低下したことから世界輸入に占めるシェアも一時的に低下したが,基調的には上昇しており,90年には20%弱と80年代初と比較して5%以上上昇した。NIEs全体の輸入のシェアは高成長を反映して一貫して上昇しており,87年以降は日本の輸入のシェアを上回っている。中国は引き締め政策等により90年は輸入のシェアが低下しているが,80年以降その推移をみると徐々にそのシェアは高まっている(第4-1-4-②図)。
以下,日本,NIEs,アセアンおよび中国の貿易構造の変化を概観する。
日本の輸出先別の変化を85年と90年で比較すると,米国向け輸出のシェアが低下し,欧州,NIEs,アセアン向けのシェアが拡大している。米国向けの輸出シェアの低下の主な理由は,80年代央以降,円高によって輸出競争力が低下するとともに,貿易摩擦緩和を目的として直接投資が増加し,それによって日本の輸出は現地生産へ相当程度切り替わったことである。一方,欧州向けのシェアの拡大については,一部には米国向け輸出が欧州向けへとシフトしたこともあるが,基本的にはECの市場統合を直近に控え欧州の経済成長が高まったこと,円が対欧州通貨に対しては,対ドル・レートほどは切り上がらなかったことによるものと考えられる。また,NIEs向けのシェアの高まりは,これら諸国の工業が高度化するにつれて日本の資本財への需要が高まったこと,所得水準が一段と向上するに伴って日本の消費財への需要も高まったことがあげられる。アセアン向けについても,日本等からの直接投資の増加により資本財の輸出が大幅に増加していることが指摘できる (付図4-1-①)。
次に,日本の輸入についてみると,欧州,NIEsからの輸入のシェアの拡大が目立っている。これは,85年以降の円高で製品輸入が大幅に拡大しているが,その主な輸入先が欧州やNIEsであったことによる。特に,乗用車が西ドイツ地域から,電気機器についてはNIEsからの輸入が増加していることが特徴的である。米国からの輸入のシェアも上昇している。なお,アセアンからの輸入は,87年以降高い伸びが続いているが,ウェイトの高い石油の価格が下落したために金額でみた輸入のシェアは低下した(付図4-1-②)。
同様にNIEsの輸出先別の変化を85年と90年で比べてみると,米国向け輸出のシェアが85年の34.8%から90年には25.0%に大きく低下し,対米依存型の輸出構造に大きな変化があった。NIEsの通貨がドルに対して大幅に切り上げられたことの他にも,貿易摩擦の回避を目的として米国への直接投資が行われ,これまでの対米輸出の一部は米国での現地生産に代替されていること,米国向けの輸出の一部が,欧州等他の市場にシフトしていることが背景にある。アセアン向け輸出は対アセアンの直接投資の増加に伴い拡大した。このほかNIEs域内向け輸出シェアの拡大が,新しい動きとして注目される。これは,電気機械を中心に域内での分業体制が広がっていることや,域内の所得水準が向上し,耐久消費財(テレビ,VTR)等,域内での製品貿易が拡大していることが主因である (付図4-2-①)。なお,輸出を商品別にみると,製品輸出が中心であり,90年では約90%を占めている。なかでもIC,電気製品等の機械類が高い伸びとなっており,機械類は90年で輸出額の40%に達している,(付図4-2-②)。
NIEsの輸入先別の変化をみると,シェアでは輸出のように目立った変化はみられない。ただし,NIEs域内からの輸入シェアは輸出と同様に上昇している。なお,日本からの輸入シェアは依然高く,資本財等の供給面で日本への依存が高いという構造にはあまり変化がみられない(付図4-2-③)。
アセアンの輸出先別の変化を85年と90年で比べてみると,90年には日本のシェアが低下している。これは,85年から86年にかけて原油価格が大幅に下落し,インドネシア,マレーシアの対日輸出金額が減少したためである。しかし,87年以降,対日輸出は,製品を中心に2桁増が続いている。一方,この間のシェアの拡大が最も目立っているのは,対欧州である。対欧州はアセアン輸出総額の15.3%から19.2%に拡大しており,その中心は西ドイツ地域である(85年から90年にかけての欧州への輸出総額に対する増加寄与率は39.9%)。これは,アセアンが繊維製品,電気機械・同部品をはじめ製品輸出において強い国際競争力を有するようになるとともに,西ドイツ地域を中心に欧州が景気拡大期にあったことを反映している。NIEs向けの輸出も,86年には原油価格下落の影響から大幅に減少したが,87年以降はその伸びを高め,シェアも拡大している (付図4-3-①)。
輸出を商品別にみると,石油など一次産品のウェイトが高いものの,繊維製品,機械(電気機械,輸送機械)を中心に85年以降大きな変化がみられる。85年では,製品輸出は25.7%に過ぎなかったが,90年には51.4%に達している(付図4-3-②)。特に,最近の機械の増加が著しい。90年の輸出総額の増加は前年比13.6%であり,そのうち機械の増加寄与度は,5.4%に達している。こうした輸出構造の変化は,タイ,マレーシアだけではなく,石油の輸出依存度が高いインドネシアにもあらわれている。同国では機械産業は未発達なものの繊維製品等の輸出の伸びが高く,総輸出額に対する非石油・ガスの輸出シェアは85年の33%から90年には60%近くに達している。
次に,輸入先別の変化をみると,日本,NIEsのシェアが拡大している。これは,後に述べるように,日本,NIEs等からの直接投資の受入れ拡大に伴い,資本財・中間財の輸入が増加していることが最大の要因である。また経済成長に伴い,最近では,棒鋼,セメント等の建設資材や消費ブームに伴う消費財の輸入も拡大している。高成長を背景に,米国,欧州がらの輸入も高水準の伸びとなっている(付図4-3-③)。
次に,アセアン域内の貿易についてみると,貿易規模としてはまだ小さく,アセアンの輸出全体に占める域内のシェアも85年6.0%から90年3.8%とみかけ上は大きく低下している。しかし,87年以降についてみると,アセアン域内でも貿易は2桁の伸びが続いている。従来のアセアン域内の貿易については,各国とも一次産品が輸出の主力であったため,石油を除き補完関係よりも競合関係が強かった。しかし,例えば日本の自動車,電気機械メーカーの直接投資によって,各企業レベルでアセアン域内における部品や生産工程の分業が進むなど,近年では,域内での補完関係が強まるという現象があらわれてきている。
最後に,中国の輸出先別の変化を85年との対比でみると,米国,欧州,NIEsのシェアが拡大している。特に,香港向けが中心となっているNIEs向けの輸出のシェアが大幅に上昇しており,90年では輸出総額の42.2%を占めている。これは,香港の対中投資の増加に伴い中国で加工された製品の香港経由の輸出が増えていることと,中国と台湾との貿易が主として香港経由で行われており,85年に台湾当局が中国との間接貿易に干渉しないとの方針を示したこと等による。一方,日本への輸出のシェアは大幅に低下している。これは,86年に石油価格が下落した影響が大きかったためである(詳細については,第4章第3節参照)。
中国の輸入先別の変化をみると,90年には,米国,日本からの輸入のシェアが低下している。これには89年以降の輸入抑制によって,米国,日本からの電気製品等の輸入が制限された影響が強く出ている。他方,欧州,NIEs,アセアンのシェアは拡大している。特に,輸出と同様に,主として香港経由の輸入であるNIEsのシェアの上昇が大輻であり,そのシェアは85年の11.8%から90年には31.2%となった。
以上,西太平洋地域の貿易の変化をまとめると,その特徴としてあげられるのは,第1に,米国向けの輸出シェアが低下する一方で輸出先が多角化し,域内における輸出入の比重が高まっていることである。第2に,NIEs,アセアンを中心に製品輸出なかでも機械輸出の占めるシェアが大幅に拡大しており,また,この機械製品を中心として域内での分業関係が広がりつつあることである。第3に,直接投資の受入れ国において,投資国からの資本財の輸入が拡大していることである。特にアセアンにおいて日本,NIEsからの資本財輸入が直接投資の増大によって高まっている。そこで,以下では最近目立って増加したアジア諸国における直接投資の動向をみることとする。
85年以降の通貨調整に伴う相対的な競争関係の変化によって直接投資にも大きな変化が現れてきている。すなわち,アジア諸国の対外直接投資及びその受入れ動向をみると,日本からの直接投資は円高後,大幅に増加した。他方,NIEsは85年から89年までは投資の受入れが拡大していたが,90年には受入が減少に転じ,逆に海外への直接投資が急増し始めている。その投資先は,貿易摩擦回避を目的とする欧米向けが中心であったが,最近では,対アセアン向けが大幅に増加している。アセアンでは,88年以降投資の受入れが急拡大している。中国も香港からの投資を中心に受入れ額が拡大している。このような直接投資は,産業構造や輸出,輸入品目の変化をもたらしているだけではなく,こうした諸国間での貿易ネットワークの形成等,域内関係の緊密化を促進している。
NIEsの投資受入れ額は86年から89年まで大幅に拡大している。その内訳をみると,日本からの投資が大きく寄与していることがわかる(第4-1-5図)。これは,既に述べたように,85年以降,NIEs各国通貨の対円レートが大幅に減価したためである(前掲第4-3-②図)。日本からの直接投資をみると,円高が進んだ86年度には,韓国向けが前年度比3.3倍(4.4億ドル),台湾同2.6倍(4.4億ドル),香港同3.8倍(5.0億ドル)とシンガポールを除き大幅に増加し,その後も増加を続けていた。
しかし,90年になると,これらNIEsの投資受入れ額は大幅に減少し,逆にNIEsからの対外投資が急増することとなった。その結果,対外投資が投資受入れを上回り,わずかながらも純投資国(地域)となった (前掲第4-1-5図)。こうした背景には,為替レートが88年以降上昇に転じ,賃金も88年以降急速に高まっていることがあげられる。ドル表示の名目賃金でみると,韓国,台湾の賃金水準は,タイ,フィリピンを大幅に上回り,格差が年々拡大している (第4-1-6図)。
韓国,台湾について対外直接投資の推移をみると,89年,90年の増加は,北米,アセアン向けが中心である (第4-1-7図)。北米向けは貿易摩擦の回避を目的とするものが多いとみられる。アセアン向けは,相対的に賃金コストが低いアセアン諸国へ生産拠点を移転しているためである。
こうした対外直接投資の急拡大によって,国内投資が減少するとともに,製造業の生産拠点が国内から海外に移動し,国内の生産,雇用に大きな影響を及ぼす,いわゆる産業空洞化がNIEsでも懸念されている。国内投資と対外直接投資の大きさを対GDP比率でみると,韓国では,国内投資比率は88年以降上昇しており,産業空洞化の傾向ははっきりみられないが,台湾では,国内投資の比率が88年以降やや低下するとともに,対外直接投資の比率が上昇している(前掲第4-1-7図)。
次に,アセアン諸国の直接投資の受入れ状況をみると,アセアンへの投資は87~88年頃より急拡大している。その中心は日本とNIEsからの直接投資である。特に90年は,NIEsからの投資が50%を超えており,投資主体の中心が日本からNIEsへと交替している(第4-1-8図)。業種別にみると,化学及び機械(特に電気機械),ホテル等の観光関連が多くなっている。
アセアン諸国への直接投資が最近増加している理由としては,①NIEsに対する賃金コスト上の優位性が向上していること,②中南米,南アジア等他の途上国に比べ政情が比較的安定しており,相対的に投資リスクが小さいこと,③アセアン各国では,首都圏を中心に,電信・電話,港湾,道路等のインフラが整備されてきたこと(但し,投資の急拡大によりインフラ整備が追いつかないことが各国で問題となっている),④直接投資への優遇措置が実施されていること等があげられる。アセアン各国では,国際競争力の強化を目的とした投資優遇措置を80年代後半から本格的に行っている。これまでとられた政策で,直接投資増加にとって大きな効果があったとみられるものは,輸出向け投資に関する100%の外資比率の許可,関税引き下げ,輸出向け商品に関する優遇税制,またインドネシアで実施された外国銀行の支店開設規制の緩和等である(付表4-1)。
このような,日本,NIEsからの直接投資の増加に伴い,日本,NIEsからアセアンへの輸出が拡大していることについては既に述べたとおりである。日本,NIEs,アセアンとの経済関係は直接投資を通じて緊密化している。さらに,直接投資の受入れが,アセアン域内の貿易を拡大させる方向に作用している。この点をもう少し詳しくみてみよう。
アセアンでは,85年以降の為替調整による相対的優位性の向上,輸出促進・外国投資優遇措置により,域外国との貿易が拡大しているだけでなく,直接投資を通じて機械産業を中心に域内貿易が拡大する動きがみられる。代表的な分野としては,日本からの直接投資を契機に,カラーテレビ,VTR,エアコン等の家電について,アセアン各国でメーカー毎に製品別の分業体制が確立されつつある。それに伴い,タイ,マレーシアではIC等で部品供給企業の成長もみられる。また,自動車では,日本およびアセアン各国間で部品の相互供給体制が広がりつつあり,アセアンから完成車も一部輸出されるようになってきた(第4-1-9図)。このように自動車の生産でアセアン各国間で部品生産の分業が行われはじめたことに対応して,89年には,日本の自動車メーカーを主な適用対象と想定して,「ASEAN関税割引制度」が制定された。
アセアンでは,特恵貿易協定によって域内での関税引き下げが実施されており,78年に行われた71品目の関税引き下げを皮切りに順次実施されてきた。しかし関税率はなお高く,輸入代替政策に基づく輸入制限措置もかなりみられたこと等からこれまでは有効に機能してこなかった。しかし,最近の域内各国間での関係緊密化の流れのなかで,域内関税は92年を目途に広範囲の品目で25~50%引き下げられることになっている。こうした措置は,アセアンの貿易と投資の増加につながるものと期待できる。
直接投資の受入れによるアジア各国との経済関係の強化は,中国についてもみられる。第4章第3節でみるように中国の対外開放政策は,同国が良好な経済的成果を挙げてきた大きな原動力の1つとなっている。特に,中国沿海部は,香港及び台湾との貿易が強化されることにより発展してきた。この貿易関係の強化には,NIEs,アセアンの場合と同様に,直接投資の受入れによる効果が大きく作用している。85年以降の直接投資の推移をみると,天安門事件により89年には落ち込んだが,その後増加しており,なかでも香港がその中心となっている。統計上区別はできないが,台湾からの投資は香港からの投資に含まれている。台湾から香港経由の直接投資が増加しているものとみられる(第4-1-10図)。
これまで,貿易と直接投資の展開を中心に西太平洋地域にける経済のダイナミズムをみてきた。ここでは,やや視点を変えて,西太平洋の個々の地域における局地経済圏の形成に着目して,経済発展の新たな展開を探ることとする。
西太平洋地域には,多様な国家・地域が存在する。その中には,①第2次世界大戦の廃墟から一早く復興を成し遂げ,アジアで唯一,先進工業国グループの仲間入りを果たした日本,②輸入代替政策から輸出指向政策に転じることによって,長期にわたって高い経済成長を実現してきたアジアNIEs,③アジアNIEsの成功に習い,外資の積極的導入によって工業化のテンポを高めているアセアン,④70年代末に中央集権的な自給自足の経済体制から改革・開放路線に転じ,経済開発の加速化を図っている中国等が存在している。こうした国々は発展段階が異なるものの,その資本や技術,労働力等,それぞれの比較優位を生かしつつ,あるいは競争し,あるいは協力関係を深めることで高い経済成長を実現してきた。
ダイナミックな経済発展を遂げている西太平洋地域において,最近,国境を挟んで隣接する地域が緊密な経済関係を形成する動きがみられる。これは,経済的な相互補完性を基礎にしつつ,貿易,投資等の経済活動,人の往来が活発に行われるなかで徐々に形成される経済圏であり,中央政府主導で形成される性格のものではない。西太平洋地域全体をカバーするような経済関係を,リージョナルな経済関係とでも呼ぶことにすれば,こうした地域内の個々の経済関係は,言わばサブ・リージョナルな経済関係とでも呼ぶことができよう。最近,このようなサブ・リージョナルな経済関係を「局地経済圏」と呼ぶこともある。
西太平洋地域内の局地経済圏には経済関係の発展の成熟度合に違いがあるものの,①華南経済圏,②成長の三角地帯(トライアングル),③環日本海経済圏,④環黄海経済圏,⑤インドシナ経済圏といったものがあげられる (第4-1-11図 ,第4-1-1表)。
こうした局地経済圏は,その存在が認識され,あるいは積極的形成が提唱されるようになって日も浅いため,呼称もそれを用いる人,また国によって異なる場合がある。例えば,環日本海経済圏や環黄海経済圏は重なる部分もあり,両者あわせて北東アジア経済圏と呼ばれる場合もある。局地経済圏は,言わば実体が先行する中から独自の経済圏が形成されてきた感が強く,従って,対象地域や活動領域といったものも,特定化されていない。このため,ASEANやAPEC(アジア太平洋経済協力)等のように,参加国,活動範囲がより明確である中央政府主導型の経済協力関係とは性格が大きく異なる。
西太平洋地域の局地経済圏の中には,華南経済圏のように,既に相当程度の実休を伴って発展しているものがある。そこでは,国境は存在するが,物はもとより,資本や人の移動が半ば自由に行われている。また,香港ドルのように特定の通貨が国境を超えて流通するなど,独自の経済圏を形成している。こうした例がある一方で,環日本海経済圏のように局地経済圏形成のニーズは明確に認められながら,国際政治関係の不透明さが残っていること等もあり,現段階では貿易取引の活発化や定期航路の開設等,一定範囲の交流関係に止まり,局地経済圏としては未成熟な経済圏もある。
サブ・リージョナルな局地経済圏の形成を促す要因としては,①関係地域間の経済的な相互補完性,②対立から協調へと動く国際政治情勢の変化,③アジアNIEsのような目覚ましい経済発展を遂げている地域の存在,④計画経済諸国の市場経済化に向けた改革の実施と経済開放化,⑤地方分権化や地域指向を背景とした地方自主権の高まり等がある(付表4-2)。これに加え,華僑の結びつきに表れているような民族的な連帯意識が介在している場合もある。
経済的な相互補完性についてみれば,これら局地経済圏を構成する各地域においては,労働力や資本,資源等の生産要素の偏在が顕著に認められる。従って,地域間で分業を行った場合,分業の効果が大きく発揮される可能性を潜めている。
本来,こうした地域は相互に結びつき,国際分業のメリットを享受することによって経済発展を図るのが自然であった。しかし,第2次大戦後の東西対立構造の中では,イデオロギー重視や同盟関係維持の観点から経済合理性は軽視されてきたと言えよう。こうした状況に転機をもたしたのが中国の「改革・開放」政策とソ連の「ペレストロイカ」である。とりわけ,ソ連のペレストロイカとそれに基づく新思考外交の展開は東西冷戦を終焉へと導き,局地経済圏を形成する上での障害を取り除くこととなった。 第4-1-11図にみられるように,西太平洋地域の局地経済圏が,東西対立下で局地紛争を経験し,東西対立の最前線と化した地域に集中していることは注目されよう。
局地経済圏が形成される地域には必ずと言ってよい程,アジアNIEs等のダイナミックに成長する経済地域が含まれている。高度経済成長を遂げる経済地域は急速な構造変化をみせており,その変化の影響が周辺地域にまで及ぶことが局地経済圏形成の大きな原動力であろう。
中ソの市場経済化に向けた改革は,一方で,地方分権化の動きを顕在化させている。中国における各省の経済自主権の高まりやソ連の各共和国・地方州の発言権の強化は,華南経済圏,環日本海経済圏等の局地経済圏の形成に大きな影響を与えている。何故なら,自主権の強化は,自らの経済開発の成果を自らの地域内の再投資に向けることを可能にし,地域経済発展のインセンティブを与えるからである。そして,その背後には,中国やソ連のような広大な国土を持つ国においては全国一律の経済開発を行うことは困難であるため,条件の整った地域から先ず開発を進め,そこを核に周辺地域の開発を進めていき,全体のレベル・アップを図るといった国家の経済開発戦略もあろう。振り返って我が国をみると,環日本海経済圏構想に対して日本海沿岸の各自治体,民間企業が積極的に参加する姿勢を示していることからも明らかなように,我が国における地域開発指向の強まりも局地経済圏の形成に大きな力となっている。
民族的な連帯意識は,サブ・リージョナルな局地経済圏の形成に大きく寄与し,また,潤滑油的存在となっている。華南経済圏においては,言語的に同一の広東省と香港・マカオの珠江デルタ地域が一つのまとまりを持った経済圏を形成している。同様に,言語が等しく血縁関係者も多い福建省と台湾が,香港等を経由しつつも台湾海峡を挟んで貿易や直接投資,人の交流等を活発化させて,もう一つの特徴ある経済圏を形成している。これら地域を結び付けているのが中華民族の連帯意識であり,華僑資本の存在である。民族・言語が等しいということは,商慣習に通じ,コミュニケーションが容易であり,信頼関係の醸成も容易であることを意味する。同様に,環日本海経済圏の中では,ソ連の極東地域開発や豆満江河口流域(中国,北朝鮮,ソ連が国境を接する地域)の開発において,朝鮮民族が一つの核となって協力関係を強化させる動きがみられる。中国では東北地方を中心に192万人,ソ連でも極東地域を中心に44万人の朝鮮民族が居住しており,こうした同一民族の存在が草の根レベルの協力関係の構築を容易にしている。
西太平洋地域においては,市場メカニズムに基づく自由で開放的な経済協力′関係が形づくられてきた。この自由で開放的な経済関係が,この地域の経済ダイナミズムの源泉となってきた。そして今また,新たな動きとして登場してきた局地経済圏は,こうした流れに反することなく,西太平洋地域の経済ダイナミズムに新たな次元を加えるものと理解される。
局地経済圏の形成は,実態先行型の経済協力関係が中心であり,個別の地域開発プロジェクトを除いてみれば具体的な目標があるわけではない。しかし,局地経済圏の実態はこれまで西太平洋地域で形成されてきた経済協力関係と同じ類型のものである。,何故なら,既に実態として協力関係が進展している局地経済圏であっても,あるいは未だ構想の域を大きくでない局地経済圏であっても,その核心にあるものは,域内外からの外資の積極的導入とそれに基づく輸出産業の育成・発展による経済開発の促進である。しかも,それ自体は市場規模が小さいことから,世界市場を相手とした輸出産業を育成しなければならず,そこには閉鎖的なプロック経済の影はみえない。
例えば,華南経済圏は,中国の改革・開放政策によって外に開かれた地域ができたことにより発展してきた。そこでは,農村改革によって急速に台頭・発展してきた郷鎮企業と,為替や賃金の上昇等から競争力を失った香港や台湾等の華僑資本が結びつき,開放政策によって設けられた経済特区,開放都市を舞台に低廉な労働力を活用することで労働集約的な製品の委託生産・加工を行う。
そして,生産されたものは世界に向けて輸出するといった分業関係の成立から,この地域は発展を遂げてきた。中国は世界最大の人口を擁し,その潜在的な市場性に着目して外国企業が進出するといった側面もある。しかし,現実には労働集約型の輸出産業が,中国の低賃金と豊富な労働力に魅力を感じ,競争力を維持するために進出を図るケースが圧倒的に多いとみられる。そこでは,自由貿易・開放経済が必須の条件になっており,閉鎖的な経済圏の形成とは無縁であろう。
また,アセアン域内の協力関係として注目される成長の三角地帯(シンガポール,インドネシアのリアウ州,マレーシアのジョホール州で構成)についても,外資の導入と輸出産業の振興が構想の核心にある。そこでは,開発の進んだシンガポールは,土地,労働力の制約から技術集約型産業に特化して東南アジアのビジネス・センターとしての役割を担うことになる。インドネシアのリアウ州は,豊富かつ低廉な労働力を背景に労働集約型の産業に特化した経済開発を行い,シンガポールの生産基地を形成する。そして,既にシンガポールから労働集約的な生産ラインの移転が進んでいるマレーシアのジョホール州は,既に賃金上昇等の現象がみられることから労働コストが多くを占める工程をインドネシア地域等に譲り,両者の中間的役割を担うとされる。成長の三角地帯は,この3地域間で分業を行うことで,国際分業のメリットを最大限に享受しようとしている。
環日本海経済圏の中で,最近,脚光をあびるようになっているのが豆満江(中国名は図們江)河口流域の経済開発計画である。この構想も,豆満江河口流域に関係国が経済特区を建設し,外資の導入を図って輸出産業を育成することにより経済開発を進めていこうとするものである。その計画には,韓国も積極的に参加する姿勢をみせている。環黄海経済圏では,賃金の高騰と労働力の供給制約に悩む韓国が,外資導入に積極的な中国の山東省等の地域を選んで工業団地を造成し,労働集約型の輸出産業を移転する計画がある。インドシナ経済圏も,タイを核として周辺国の国境貿易,投資倉拡大することで経済協力関係を強化することを意図している。そこでは,森林資源などの資源の共同開発を行うことで戦乱で疲弊したインドシナ経済を再建し,また,この局地経済圏の提唱者であるタイの地方経済の開発を進めようとしている。
西太平洋地域の経済協力関係は,こうした局地経済圏の形成が進むことにより,一層緊密さを増すことになる。また,局地経済圏は,政治的障害が取り除かれるなかから形成されてきたものであるが,逆に,局地経済圏が発展すれば,好むと好まざるとにかかわらず,残存している政治的障害・問題の解決にも良い影響が及ぶことが期待される。
西太平洋地域の経済ダイナミズムについては,局地経済圏という角度から考察してきたが,これとは別にそれぞれの国においても新しい事態に対応した動きがみられる。ここでは,アジアNIEsの代表として韓国と台湾を取り上げ,近年の経済状況の変化がこれら経済にどのような問題を生起させているか,また,両経済がどのように対応しているかを構造調整に焦点を当ててみていくこととする。
韓国と台湾は,いずれも輸出指向の工業化を推進することで,四半世紀以上の長期間にわたって高い経済成長を実現してきた。特に,80年代に入って,世界経済が長期拡大を続け,世界貿易が大幅に拡大するようになると,その恩恵を最大限に享受することとなった。輸出の著しい拡大により,韓国では86年以降3年連続,台湾では84年,86年,87年と連続して二桁成長を達成したことは記憶に新しい。
この間,両地域の経済はどのように変わってきただろうか。まず,産業構造の変化をみてみよう。1970年と1988年(輸出主導の経済成長に翳りが見え始めた年)の2時点をとりあげて名目GDPに占める製造業の構成比を比較してみると,韓国では21.3%から32.5%へ,台湾では29.2%から37.8%へと高まりがみられる。就業構造をみても製造業へのシフトが生じている姿が見て取れる(付表4-3)。また,対外依存度(通関輸出額の名目GNP比)は,韓国では10.4%から35.1%へ,台湾では26.0%がら48.4%へとそれぞれ著しく高まり,輸出指向の工業化の進展が見て取れる。
高度経済成長の実現により,韓国と台湾の所得水準も目立って高まっている。韓国では,ドル・ベースの1人当たりGNPは,77年に1,000ドルを超え,90年には5,000ドル台に達した。台湾は,韓国よりやや先行し,76年に1人当たりGNPが1,000ドル台に達した後,87年には5,000ドルを超え,90年には8,000ドル近くにまで達している。先進国へのキャッチ・アップという観点から,韓国と台湾の1人当たりGNPを先進国平均の1人当たりGNPとの比率でみると,89年にはそれぞれ26%,40%に達している。為替レートの上昇がドル・ベースの1人当たりGNP額を膨らませている面もあるが,耐久消費財を中心とした消費ブームがみられる等,国民の消費生活の改善は進んでおり,所得水準は着実に向上している。
所得水準の大幅な上昇と経常収支の黒字累積を背景に,韓国・台湾は先進国段階に急速に接近することとなった。例えば,韓国は88年11月にIMF8条国へ,89年10月にGATT11条国へと移行した。また,韓国,台湾ともにアメリカやEC等からの特恵関税の適用縮小・除外措置を受けるに至っている。また,韓国・台湾は規模は小さいながらも経済協力を開始しており,援助する立場に到達している。
韓国と台湾では,このような経済発展がみられる一方で,80年代後半の高度経済成長期から既に,目覚ましい成長を支えてきた諸条件に変化がみられ始めていた。さらに,経済の先進国化と軌を一に政治・社会の民主化が進み始めており,経済状況の変化を一段と加速し,複雑化させている。
まず,対外面における状況変化をみると,貿易摩擦の激化と市場開放圧力の高まりが挙げられる。韓国と台湾は,アメリカとの間の貿易黒字が拡大し,大きな摩擦が生じるようになったので,それぞれの通貨を切り上げた。両通貨の対ドル・レートは,対米貿易黒字が大幅化した87~88年頃には急速な調整を強いられた。また,韓国と台湾の経常黒字が累積し,所得水準が目覚ましく向上したことに伴って,これらに対する特恵関税の適用除外措置がアメリカ等によってとられた。こうした動きと並んで,国内市場の開放を要求する圧力が高まった。韓国と台湾は,貿易依存度が高ぐ,また,良好な国際関係を維持する立場から,市場開放に前向きに対応するようになっている。
国(地域)内面の状況変化としては,賃金の大幅上昇により生産コストが上昇したこと,労働力の不足が顕在化したこと等があげられる。両経済の国際競争力を決定づけていた相対的低賃金は,高度経済成長による所得の増加により大幅に調整された。特に,韓国・台湾ともに,政治面での民主化の進展が労働運動の高揚となって現れ,賃金引き上げ圧力を高めることになった。韓国では,87年6月の虜泰愚大統領(当時は民正党大統領候補)の「6・29民主化宣言」後,労働争議が多発化するようになり,賃金上昇率も加速化した。また,台湾では,87年7月の戒厳令の撤廃と89年1月の野党勢力の合法化等によって市民の政治・経済への参加意識が高まり,労働争議が多発し,賃金引き上げが加速した。労働需給の面では,第一次産業から第二次産業への労働力供給は,第三次産業の隆盛もあって次第に限界に近づいている。また,高学歴化や所得水準の向上は労働力需給のミス・マッチを引き起こし,製造業や建設業等では,労働力不足が顕在化する職種も現れている。
こうした内外にわたる経済条件の変化を受けて,競争力を失った韓国,台湾の輸出は89年頃より伸び悩み,あるいは停滞を示した。この結果,両経済の成長率は急速に鈍化した。しかし,所得の向上や市場開放・規制緩和等を背景に民間消費や建設投資等の内需が好調となって輸出の不振を補ったため,これら経済は厳しい景気後退に陥ることはなかった。
こうした経済環境の急激な変化に対して,韓国と台湾がとった対応策には共通する要素が多分にみられる。
韓国,台湾では,国際競争力の低下や欧米諸国の特恵関税の適用縮小・廃止,更に貿易摩擦の激化等から,労働集約型の輸出産業の生産拠点をアセアンや中国などに移転させる動きが活発化した。アジアNIEsからの対外直接投資が88年頃より急速に拡大したことは,既に詳しくみたとおりである (前掲第4-1-7図)。
経済の高度化と労働集約型産業の海外移転の影響を受けて,最近では,韓国,台湾における製造業の地位が後退する現象が認められる。名目GDPに占める製造業の比率は,韓国では1988年から90年の3年間に3%ポイント余り低下して29.2%となった(付表4-3)。台湾でも,この比率は同じ期間に4%ポイント近く低下し,34.1%となった。就業構造の面でも製造業のシェア低下が起きている。
韓国,台湾では,こうした製造業の地位の低下を防止し,労働集約型産業の海外移転による国内産業の空洞化を避けるため,国内では技術集約型・高付加価値型産業の育成・振興が図られている。当局が音頭をとり,ハイテク産業や情報化産業,新素材産業等の特定産業分野への投資を勧奨したり,研究開発体制の整備等が図られている。また,自らの技術開発には,多大の時間とコストがかかることから,海外からの技術移転・導入もより積極化させている。しかし,例えば韓国では,技術移転促進の鍵となる外国からの直接投資受入れに際し,厳しい許認可審査,外国企業による経営支配に対する慎重姿勢,不安定な労使関係等,受入環境が充分に整っていないといった問題がある。こうした問題を解決しなければ,,海外からの技術導入もスムーズには進展しない可能性がある。技術集約・高付加価値産業の発展が韓国・台湾経済の製造業再編には必須とみられており,政府の中・長期計画等でもそうした産業のシェア拡大が見込まれている。
貿易面では,アメリカに大きく傾斜した貿易構造が,摩擦の激化によって修正を迫られている。 第4-1-12図にみられるように,輸出面での対米依存は,88年頃を境に低下しており,他のアジアNIEsやアセアン等きの輸出比率が高まっている。市場の多角化は徐々に進んでいると言える。そして,規模は小さいが,ソ連・東欧諸国等の新規市場の開拓も進んでいる。例えば,韓国の自動車輸出では,北米向けが不振を続ける中で,東欧向け輸出がその不振をカバーする現象もみられる。また,91年初にソ連との間で30億ドルの借款供与協定を結んでいる。ソ連1東欧地域への輸出は今後とも拡大していこう。また,台湾では,従来,認められていなかったソ連・東欧との直接貿易が解禁され(対東欧直接貿易は88年3月,対ソ直接貿易は90年2月解禁),これら地域との貿易が急速に拡大している。
市場開放圧力の高まりに対しては,韓国,台湾とも関税率の引き下げや輸入禁止・制限品目の解禁・解除を随時行っている。また,知的所有権の保護等の国際慣行への調和,金融・資本市場の段階的開放,投資関連規制の撤廃等,貿易摩擦緩和に向けて迅速な対応を行っている(付表4-4)。
韓国,台湾では,以上にみたように内外における情勢変化の中で,これまで高度経済成長を支えてきた経済システムが経済の継続的な発展の障害と化したり,実態に合わなくなってきている。既に,80年代の後半から,こうした事態がよく認識され,経済構造調整の必要性が叫ばれきた。例えば,韓国では,88年10月に「経済構造調整諮問委員会(大統領の諮問機関)」が,①調和ある国際関係の模索,②円滑な産業構造調整の推進,③安定した国民生活の追求を柱とした経済構造調整を政府に答申するなどの具体的な動きがあった。両国経済とも先進工業国への仲間入りを目前に控え,経済の自由化・国際化は時代の流れとの認識が定着しつつあり,経済システムの根幹に関わる部分の見直しも不可避となっている。
すなわち,韓国においては高度経済成長を支えた財閥企業の整理・再編による経済民主化が,台湾においては経済活動の主要な部分を占める公営企業の民営化や公営事業への参入規制の緩和が経済構造調整の重要課題としてあげられている。
韓国では,財閥が政府の産業政策に沿って,戦略的輸出産業の発展に努力し,高度経済成長を実現してきた。しかし,その影で,成長の恩恵が国民大衆に十分に行き渡らず,財閥に富が集中したとの厳しい見方もなされている。財閥総帥やその一族の少数個人によるグループ企業の株式や経営支配に基づく富の独占傾向,政府との緊密な関係を背景とした低利の政策金融への過度の依存と銀行借入の独占状況,更には不動産への投機的な行動等が指摘され,政治の民主化の進展とも相まって,国民大衆の財閥批判を強めさせたと言われる。財閥に経済力が集中している程度をみると,1985年時点で上位10グループの財閥によって全雇用者の11.7%,全出荷額の30.2%,全輸出額の32.2%が占められるに至っている。また,財閥は,財閥相互の競争意識や他財閥の影響力を受けることを嫌う傾向から採算性を二の次にしても幅広い業種に進出を図るなど勢力を拡大する傾向を強めてきた。このため,85年時点で,10大財閥のグループ企業は147社,1グループ平均約15社を数えた。財閥のこうした経営体質は,国民経済全体としてみると非効率を生み,ひいては国際競争力の弱化や資源の浪費を生んだと言われる。
韓国政府は,財閥への経済力の集中を抑制するため,これまでも財閥に対して銀行貸出規制を行うなど財閥肥大化を牽制してきた。しかし,現実には財閥規制の効果はあまり上がらず,むしろ資金制約による設備投資や研究開発投資の遅れから財閥企業の国際競争力の低下という事態を招いたと言われる。このため,91年に入って,財閥に対する与信管理制度を大幅に改めている。財閥グループ毎に枠を設定して総量規制を行うこれまでの方式から,①1つの財閲に最大3系列企業まで与信規制の対象から外すことを認める,②財閥一族の持株比率が低く,企業公開の進んだ企業も規制対象から外す,そして,③それ以外の企業については与信規制を強化するといった内容の新たな与信管理方式に移行した。この新制度が目指すところは,財閥の専門業種への特化と企業公開の促進であり,また,低下著しいと言われる国際競争力の強化にある。
韓国の場合,財閥の見直しと並んで,金融制度の改革も経済の自由化・国際化の流れの中で重要な課題となっている。これまで,銀行を中心とした金融機関は,多くの国営銀行が存在することに端的に象徴されるように,国の開発戦略を資金面から後押しする政策金融機関と化していた。これらは,主として輸出企業や大企業に低利の資金を供給し,高度経済成長の基盤作りに貢献してきた。しかし一方で,こうした金融機関は経営不振企業や衰退産業であっても国の救済方針に基づき貸付を増やしていったため,不良債権が著しく増加し,経営基盤を脅かすまでになってきた。また,これら金融機関の取引対象の外に置かれた中小企業や個人は,闇金融に過度に依存するという現象が生まれた。このため,80年代に入り,商業銀行の民営化を推進し,銀行への規制緩和を進め,非銀行金融機関を育成することで金融機関の体質強化を図り,種々の金融ニーズに応えようとした。ただ,こうした動きは,当初は緩慢であり,経済の急速な発展に比べて金融部門の発展が立ち遅れる状態が続いた。しかし,80年代後半には,特に国際収支が大幅に黒字化するに伴って,金融市場の開放圧力が高まり,金融改革のテンポも早まるようになっている。
一方,台湾では,第2次大戦後,民間資本を抑制して国家資本の発展を優先する「民生主義」の原則の下,公営企業を保護することで経済発展が進められた。そして,経済発展期においても民間企業の寡占を防ぐため公営企業を重視する政策が取られた。この結果,経済の国際化が進んだ最近に至っても,重要産業では公営企業による寡占状態が続いている。特に,川上に位置する基幹産業や金融,エネルギー,運輸・通信等の部門では大半が公営企業によって占められている。そして,こうした公営企業への保護政策は,経済発展が進み,経済の自由化・国際化が求められる時代になると,経済発展の障害となってきた。
特に,金融機関の多くが公営企業で占められている台湾では,銀行の資金貸付けが公営企業や大企業に偏り,民間企業や中小企業の投資資金の確保を難しくしている。
しかし,80年代後半になると,民営化議論が盛んになり始めた。89年には「公営企業民営化小組」設けられ,民営化の具体策が検討された。そこにおいて,商業銀行,保険会社,鉄鋼,造船,製紙等の19の公営企業の民営化が決められた。そして,90年に入ると,商業銀行の株式売却による民営化が開始された他,公営企業の出資会社である再投資会社の民営化も決定されている。公営事業分野への民間企業の参入については,89年7月に銀行法が改正され,新たな商業銀行の設立が認められた。そして,91年6月には,15行の民間銀行の設立が認可されている。
韓国と台湾は,NIEsとして経済的に先進国への接近を図る一方で,輸出指向型の発展戦略をとるアセアンから急速に追われる立場にある。韓国と台湾が経済の自由化・国際化を図る方向で市場開放,規制緩和,民活等の問題に取り組んで,構造調整を積極的に進展させることは,両経済の成長ダイナミズムを維持するだけでなく,貿易や直接投資を通じた西太平洋地域における分業関係を一層高度化させ,この地域の経済発展に資することとなろう。