平成3年
年次世界経済白書 本編
再編進む世界経済,高まる資金需要
経済企画庁
第2章 ソ連の再編成と東欧の経済改革
市場経済への移行という点で,ソ連に一歩先んじることになった東欧諸国においては,90年ないし91年はじめに,経済改革が更に進み,ハンガリー,ポーランド,チェコ・スロバキアでは大規模な民営化計画が始動するようになっている。また,改革のやや遅れていたブルガリア,ルーマニアでも,91年に入ると価格の自由化等への動きが本格化した。しかし,多くの改革は既に実施に移されつつあるが,経済の実態は悪化が続いている。また,ユーゴスラビアでは民族問題もあり,内戦という事態が生じている。東欧が市場経済へ移行する過程には,多くの困難が伴っている。
90年及び91年初の東欧全体の経済情勢をみると(第2-3-1表),89年以上の悪化を示している。生産国民所得は90年10.2%の大幅な減少となり,工業総生産,粗投資は,それぞれ17.5%減,13.3%減と大きく落ち込んだ。消費者物価は,国によってばらつきはあるものの,各国とも大幅に上昇しており,失業者数も,90年末には289万人にのぼっている。貿易面では,コメコン市場の縮小から,輸出数量が10.0%減,輸入数量も0.5%減となっている。この結果,貿易収支は55億ドルの大幅な赤字に転じ,経常収支も58億ドルの大幅な赤字となった。91年第1四半期の経済動向をみると,いくつかの指標では僅かながら改善しているものの,輸出数量や失業者数では悪化が続いている。
このような経済の悪化には,湾岸危機やハンガリー等一部の国における農産物の不作といった一時的な要因もあるが,基本的には①市場経済への移行過程で経済取引が混乱していること,②財政・金融政策が引き締められていること,③コメコン体制の崩壊により,輸出が大幅に減少していること,が大きく影響しているとみられる。経済改革の過程で生じている様々な問題については,後でみることとし,まずコメコン体制の崩壊とその影響について簡単にみることにする。
コメコンは,ソ連と東欧諸国を中心とした社会主義圏の貿易体制であり,1949年にソ連の主導で設立された。ソ連がコメコンの創設を決意するに至った直接の動機は,アメリカが西欧諸国の復興を図るために1948年にマーシャル・プランを設立したので,これに対抗することにあったと考えられる。そしてその後,ソ連を中心に東欧諸国では国家間の分業体制が徐々に形成された。また,1964年から域内各国間の取引に「振替ルーブル制」が導入されることになった。しかし,コメコン域内の貿易は次のような特殊な非市場的な要素を強くもっていたため,結局は西側との競争に負けることとなり,初期の目的は十分果たせなかった。すなわち,(1)計画経済国の間における国家間貿易であったこと,(2)価格の決定が合理的に行われず,また国際価格と大きく乖離していたこと,(3)決済通貨としての振替ルーブルは,その「振替性」(注3)が実際にはほとんど機能せず,計算上の単位としての意味しかもたなかったこと,である。こうした特殊な事情が重なっていたためにコメコン域内における貿易の拡大は阻害され,むしろ停滞することとなった。
コメコンが計画経済国間における国家間貿易であったということは,各国の貿易がそれぞれの国の5ヵ年計画等に基づいて行われており,事前にその内容が品目ごとに数量・価格の両面で規定されるということを意味している。しかも,計画を策定する際には,2国間における収支均衡に力点が置かれがちであった。
次に,コメコン貿易における取引価格をみると,先に述べたように量だけでなく価格も,計画によって決められていることから硬直的であり,国際市場の価格変動も極めて不十分にしか反映しない不合理な価格設定となっていた。また振替ルーブルが単なる帳簿上の貨幣であるため,価格決定を合理的なものにしようとする動機も働かなかった。
また,多国間の決済システムとしての振替ルーブル制についてみると,そもそもこの制度は,縮小均衡に陥りがちな2国間決済貿易の弊害をなくすために導入されたものであった。域内各国間の取引には振替ルーブルが導入され,2国間の債権,債務は「国際経済協力銀行(コメコン銀行)」に対する債権・債務へと切替えられた。これと類似の決済制度としては,1950年に西欧で導入された欧州決済同盟(EPU)がある。第2次大戦後,西欧諸国の通貨は交換性を失っており,域内の貿易は主として2国間決済によって行われていた。EPUは,西欧域内の貿易を,多国間決済に移行させ,それによって貿易を活性化させようとするものであった。
しかし,コメコンの振替ループル制とEPUの間には大きな違いがあった。
つまり,EPUの場合は,BIS(国際決済銀行)という十分なドルと金の準備を持つ機関が,決済通貨としてドルを用いた。これに対し,コメコンでは,決済を行っていたコメコン銀行が,十分な準備を持たなかったため,決済通貨である振替ルーブルはドル,あるいは金との交換性を持っておらず,信認の面で大きな欠陥があった。加えて,コメコン貿易は計画に基づいた国家間貿易であったために,ある加盟国が追加的に振替ルーブルを入手しても,この振替ループルを使って他の加盟国からの輸入を追加的に増加させることは,事実上困難であったとみられる。このように,振替ルーブルは,実際上は多国間の決済通貨としては十分機能していなかったとみられる。
こうした3つの特質をもつコメコン貿易は,事実上は2国間決済貿易に近いものにとどまった。89年の東欧諸国における変革はコメコン貿易の縮小に拍車をかけ,90年に入ると東欧諸国の間からコメコンの解散が提案されるようになった。90年1月のコメコン総会では,「国際価格化・ハードカレンシー決済化・企業間貿易化」導入の方向が決定され,91年1月から実施に移された。この改革は,従来のコメコン貿易の性格を根本的に変えるものであった。
まず「国際価格化」は,これまでの2国間交渉等による振替ルーブル建ての価格決定をやめ,国際価格を採用することで,これまでの域内価格の混乱を除去することを企図している。「ハードカレンシー決済化」は,振替ループルによるこれまでの決済制度を廃止して,ドルなどの交換可能通貨による決済を行うことである。この変革の目的は,貿易で獲得した黒字を,域内だけでなく域外との決済にも使えるようにすることにある。また「企業間貿易化」は,コメコン貿易の特徴であった国家間貿易を解体して個別企業間の貿易へと切り替え,商品構成や価格の決定を自由化することである。
これらの改革は,コメコン市場を市場原理に基づいた国際的な貿易市場にすることを意図したものといえる。しかし,競争力のある輸出品が乏しいことに加えて,外貨準備が少なく,通貨の交換性も不十分なコメコン諸国が早急にハードカレンシーによる個別決済に移行することはそもそも難しいことであった。また,企業間貿易への移行も直接取引の経験の少ない企業に混乱をもたらすこととなり,一部ではバーター取引(物々交換)が行われるような事態に至った。このように,閉鎖的で非競争的な貿易システムから,何らの段階的措置を講じないで,一気に自由主義的な貿易システムに移行したために,コメコン諸国の貿易量は急速に縮小することとなった。
91年6月にはコメコンは正式に解散されたが,この影響は,東欧諸国にとってはソ連以上に深刻であると考えられる。まず,1つには,石油等の価格が国際価格に移行した場合,東欧諸国の輸入価格が大幅に上昇し,交易条件が悪化する。また,コメコンに対する貿易依存度が,東欧諸国ではソ連よりも高いため (第2-3-2表),対コメコン輸出の縮小が国内経済に及ぼす影響がより大きくなるからである。チェコ・スロバキア等,コメコン貿易への依存度の高かった国では,特に影響が深刻となっている。また,各国ともコメコン向け輸出の減少を西側向け輸出によって補おうとしているが,品質等の問題からその工業製品の競争力は低い。このため,全体として東欧の輸出は大幅な減少となっている。これに対し,ソ連の主たる輸出品は石油や天然ガス等の一次産品であるために,品質面で輸出競争力が問われるという要素は,東欧諸国に比べて相対的に少ないといえる。
90年以降の動きを通してみると,東欧諸国は改革の進展度合によって2つのグループとユーゴスラビアに分けることができる。第1グループは,改革が安定化政策,価格・貿易の自由化等,言わば改革の第1段階から,民営化等の構造政策を中心とする第2段階へと移ってきている国であり,ポーランド,チェコ・スロバキア,ハンガリーの3国を挙げることができる。第2グループは,91年に入りようやく第1段階の改革が本格化しはじめた,ブルガリア,ルーマニアの2国である。そして,ユーゴスラビアでは,90年初に急進的な改革が導入されたにもかかわらず,民族問題等から内戦という状況に陥っている。まず,各グループごとに導入された民営化以外の経済改革の動きを概観する(付表2-4①,②)。
第1グループ(ポーランド,チェコ・スロバキア,ハンガリー)の3国 (付表2-4①)は,ほぼ完全な価格自由化と貿易自由化を90年までに実施した。通貨の国内交換性については,ポーランド,ハンガリーは90年中に,また,遅れていたチェコ・スロバキアも91年初にそれぞれ確保されている。経済安定化政策では,ポーランドが90年初より賃金抑制税を導入し,同時に緊縮政策を実施している。チェコ・スロバキアも91年初から同様の政策を実施した。これに対し,ハンガリーはより緩やかなガイドラインの提示による賃金抑制指導を採用しており,財政金融政策でも,他の2国のような急激な引締めは行っていない。
税制改革では,ハンガリーが最も進んでおり,89年までに付加価値税,個人所得税,法人税といったEC型の税制が導入されている。他の2国でもほぼ同様の税制を導入するための準備が進められている。また,財政赤字は中央銀行が補填するという従来からの政策に対しても見直しが行われており,ハンガリーでは88年からTB(短期国債)の発行,91年からは中期国債(3年物)の発行がそれぞれ始まり,一般に売却されるようになっている。証券市場の開設では,ハンガリー,ポーランドが先行しているが,チェコ・スロバキアでも民営化の進展に合わせて準備が行われている。
第2グループ(ブルガリア,ルーマニア)では(付表2-4②),90年前半まで旧共産党政権の影響力が強く残っていたことから,全般的に経済改革の進展は鈍かった。しかし91年に入ると,ブルガリアでは野党出身(現・無党派)のポポフを首相とする連立内閣が誕生し,ルーマニアでも主導権が改革派のロマン首相へと移ったため,経済改革がようやく本格的に開始された。しかし,ルーマニアでは9月,改革に反対する反政府暴動によりロマン政権が倒れたことから,経済改革のテンポは減速を余儀なくされている。
まず,ブルガリアでは,IMFの指導に基づいて策定された包括的な改革プログラムが91年2月から実施された。このプログラムは,価格,通貨,貿易,賃金,財政金融についての改革政策から成っている。価格面では,大部分の品目について自由化が行われた。規制が残されているエネルギー,食料品などの品目についても,大幅な価格引き上げが行われるとともに,食料品に対しては最高価格(平均して当初価格からおおよそ350%以内)を設定し,政府が市場を監視する方式に移行された。通貨政策では,これまで3種類あった為替レートを一本化し,商業銀行間市場での需給に応じてレートが設定されることとなった。一般の企業や市民も,商業銀行を通じて随時,通貨の交換が可能になった。貿易面では,輸入の数量規制が廃止された。また,輸入品については,旧コメコン諸国との貿易協定によるものを例外として,一律15%の特別輸入税がかけられた。一方,食料品や原料品に対しては,輸出規制が残された。この輸出規制は,インフレが鎮静化すれば廃止される予定となっている。賃金に対しては,90年に実施されていたインデクセーションシステムが見直され,国営企業などの賃金総額に対する上限設定が導入されるとともに,労働組合との合意により,インデクセーション比率自体も低めに抑えられている。
財政面では,90年13.0%であった財政赤字の対GDP比率を91年には3.5%に引き下げることが目標とされている。また歳入の対GDP比は,輸入品販売による差額収入(国際価格より高く国内で販売)の廃止と,実質所得の低下による利益税収の逓減により,低下することが見込まれている。一方,歳出面では,価格補助金,コメコン圏輸出への補助金,農業・鉱業等の不採算業種への生産補助金の廃止・削減によって,対GDP比を引き下げる予定である。金融政策では,91年第1,2四半期について,銀行部門の純国内資産の伸び率を7.5%を超えないように抑制し,商業銀行の最低準備率をこれまでの5%から7%に,基準金利を45%に引き上げた。また,90年12月と91年1月には初の短期国債が発行された。
ルーマニアでは,価格の自由化が90年11月,91年4月及び7月と段階的に行われてきたが,ほぼ7月の段階で自由化は完了したとみられる。一方賃金に対しては,インデクセーションを制限する制度が導入された。労働者の賃金の上昇は物価上昇の60%,年金の場合は同70%に制限されるが,一時的に労働者,年金生活者には補償給付も行われている。労働者への補償給付は雇用している企業が支給することとなっており,政府は,これによって企業に過剰雇用を整理させることも意図している。
通貨レウは,まず91年4月の価格自由化とともに対ドルの公定レートが35レイ/ドルから,60レイ/ドルに切り下げられ,続いて8月には外貨交換所の設立により,通貨交換の一部自由化が行われるとともに,為替レートは大幅に切り下った(248レイ/ドル)。
財政政策では,90年には対GDP比1.1%の黒字だった財政収支を,91年においても1.5%程度の赤字に止める目標を掲げており,1~4月では黒字となっている。歳出では,価格補助金や企業補助金が削減され,歳入では累進構造をもった個人所得税が91年4月から導入されている。
ユーゴスラビアは,90年初めからポーランドと類似の急進的な改革を導入し,前年からのハイパーインフレの鎮静化には一応の成功を収めた。しかし,自由化が進むにつれて複雑な民族問題が表面化し,共和国間の武力衝突へと発展した。このため,経済状態は急速に悪化している。市場経済化を目指す改革についても,最大規模のセルビア共和国が依然として社会主義体制の維持を主張するなど,大きな進展はみられていない。
90年に各共和国で行われた自由選挙によって,ユーゴスラビアは,①民主化・市場経済化を進めようとするスロベニア,クロアチアと,②社会主義体制を維持しようとするセルビア,モンテネグロ,③両者の中間的な立場をとるボスニア・ヘルツェゴビナ,マケドニアの3勢力に分かれたということができる。
戦前からの民族感情も手伝って,90年後半からは,このうち前2グループ間の対立が先鋭化し,91年6月のスロベニア,クロアチアの独立宣言以降,はげしい武力衝突へと発展した。
このため,90年初めに導入された経済改革で,一旦は安定化した国内経済も,連邦・共和国双方での通貨増発や,連邦への拠出金不払い,及び共和国間での貿易戦争等の影響から,再び悪化している。
次に,コメコンの解体や経済改革の実施によって,各国経済がどのような状況にあるかを,グループごとにみてみる。
第1グループの3国の経済情勢をみると,引締め政策の程度,コメコンへの依存度の違いが,生産の動向に現れている。ポーランドでは,所得抑制を伴った緊縮政策が実施されたために国内需要が減退し,工業生産は大幅に落ち込んだ(第2-3-1図)。ただし,貿易への依存度は他の国と比べて低く (第2-3-2表),西側への輸出も伸びたため,コメコンとの貿易縮小による影響は比較的小さかった。これに対しチェコ・スロバキアでは,90年後半から緊縮的な政策が導入されたが,貿易に大きく依存している同国では,コメコン市場の喪失の方が影響は大きかったとみられる。また,ハンガリーは前2国のような緊縮政策を採っておらず,主として生産の減少はコメコン市場を失った輸出品に現れている。
またポーランド,チェコは,厳しい緊縮政策の実施によって,物価上昇は数%台に抑えられ (第2-3-3表),財政収支も90年には黒字化し,91年も赤字は小幅に止まるものとみられるなど,安定化政策の効果が現れている (第2-3-2図)。これに対し,ハンガリーは金融面と比べ財政面での引き締めがやや弱く,財政収支は90年には小幅の赤字となったものの,91年には再び対GNP比3.1%とかなりの財政赤字が見込まれている。この結果,インフレ率も90年の28.9%,に対し,91年は30%台と推測されている。こうした背景には,同国の歳出には,住宅公庫への補助金等削減の困難な部分が残っていることがあると考えられる。
ポーランドでは,賃金抑制税(注4)による所得抑制によって実質賃金が大幅に低下している(第2-3-3図)。実質賃金の低下は,ポーランド製品の価格競争力の維持に寄与し,為替レートの大幅な切り下げとともに,90年以降の対西側輸出の急速な増大をもたらす要因になったといえる。他方,マクロの安定化政策は,引締めあるいは緩和と振れがみられる。すなわち,高金利の持続によって企業の経営状態は厳しい状態が続き,失業者も増大したため,90年後半には一旦,緊縮政策が緩和された(第2-3-4図)。しかし,これにより,西側からの輸入が急増し,貿易収支黒字が縮小したため(第2-3-5図②),91年に入ると関税の引上げとともに,緊縮政策が再び強化された。この結果,インフレは抑えられたものの,生産は減少を続け,失業率は91年10月には7.7%にまで悪化した。国内の不満は高まっており,10月の総選挙を前に,議会内保守派や労働組合を中心に緊縮路線見直しの気運が高まっている。
為替政策については,ポーランドでは,90年1月以来,通貨ズロチをドルに対して固定し続けたため,90年後半からのドル高につれて,ズロチが欧州通貨に対して切り上がり,貿易に悪影響を与えた。これに対して,ハンガリー,チェコは,中央銀行が主要通貨バスケットに対して随時レートを見直す制度を採用している。ポーランドでも,まず91年5月にドルへの固定を主要通貨バスケットへのリンクに改め,続いて10月には,バスケットに対して随時レートを見直す制度へと移行した。
コメコン貿易の縮小と解体及び西側への輸出のシフトは,この3国の貿易の地域構造を大きく変化させた。80年代後半から西側輸出を増加させていたポーランド,ハンガリーは,91年にはその輸出の多くを西側(特にEC)へ一段とシフトさせた(第2-3-6図)。このようなシフトが可能であったことには,両国の主要輸出品目が食料品や消費財であったことも手伝っている。これに対し,チェコは主要輸出品目が機械・資本財であるため,西側へのシフトは前2国ほどには進展していない。
第1グループの3国では,中小規模の民間企業が急速に増大している。ポーランドでは,90年の工業生産の13.4%が民間部門によって生産されている。小売店の4割は民営化され,小売売上に占める民営店のシェアは89年の5%から90年には35%にまで拡大した。ハンガリーの企業構造をみると (付図2-2,2-3),工業,サービス業等とも小規模企業の数が急速に増加している。チェコでは,中小規模の企業に対しても国有化が行われていたため,現状ではなお前2国に比して民間比率は低くなっているが,中小企業を対象とした「小民営化」は,かなりの進展を見せている。ただし,いずれの国においても,大企業の民営化は遅れており,国営部門はなお国民経済に大きな位置を占めて続けている。
ブルガリアとルーマニアの2国では,89年以降の国内政治と経済の混乱の中で,政権が経済改革に消極的な態度をとり,有効な経済政策を採用しなかった。このような政策の不在は,90年における生産と雇用の減少をもたらした1つの背景となったと考えられる(第2-3-4表, 第2-3-5表)。これら2国では,90年末に政治情勢が変化し,主導権を握った改革派は,91年に入ると,価格の自由化,通貨の国内交換性付与,インフレ抑制のための緊縮政策,所得政策など抜本的な経済改革に着手した。また,対外貿易面では (第2-3-5図),両国の製品の競争力が低いことや,両国の通貨が91年初めまで過大評価されていたこと等から,対西側輸出は大きく減少している。
ブルガリアでは,コメコン貿易,特にソ連への依存度が高かったために,貿易の縮小は工業生産に大きな打撃を与えた。一方,価格自由化による物価上昇は91年4月頃にはほぼ鎮静化した。
ルーマニアでは,緊縮政策の影響によって生産は減少しており,91年1~7月で工業生産は12.3%の減少となっている。一方価格の自由化によって,インフレは昂進しており,91年全体として160%程度の上昇が見込まれている。
東欧諸国の経済では,国営企業が依然として主要部分を占めている。国営企業の民営化は,計画経済の中から,市場経済の主体を生み出さなければならないという意味で,経済改革の最大の課題である。ここではハンガリー,ポーランド,チェコ・スロバキアの3ヵ国に絞って,民営化の動きをみてみよう。東欧諸国における民営化は,西側先進国における民営化とは全く異なる障害または困難を抱えている。主要な相違点としては,①国内に企業資産を売買する仕組みと,資金が不足していること,②国営企業の多くが正確な会計処理を行ってきていないため,資産評価が困難であること,③売却後の経営を任せられるような経営者が不足していること,④対象となる企業数が極めて多い(中規模以上だけでも千~数千社)こと,⑤所有権を確定することが容易でないこと等が挙げられる。
89年にハンガリーで試みられた「自主的民営化」は,国営企業の経営者に民営化の主導権を与え,手続きを簡略にするため,国営企業資産を帳簿ベースで評価し,その資産・負債や法律関係を新企業が引き継ぐ,といった民営化手法であった。しかし,このような手法の下では,旧経営者層が企業資産を利害関係者へ不当に安売りする等の問題が多発し,国民から強い反発を招いた。このため,ハンガリーや後続の各国では,民営化を所管する省庁を設置し,民営化はその省庁が管理して進めていくという方針が採られた。しかし民営化を図る具体的な方法については,国によって大きく異なっている。ハンガリーでは,時間・費用を犠牲にしてでも企業資産の市場評価や株式の一般公募による売却を進めるという政策を採用している。他方,ポーランドとチェコ・スロバキアでは,市場による企業評価等の難しい問題を回避する方法を採ることとしている。
なお,第2次大戦後に社会主義化を図った際に国家に接収された財産に関しては,ポーランド,ハンガリーは基本的に金銭による補償で対処しようとしているのに対し,チェコ・スロバキアは,原則として旧所有者へ返還することを決定している。このような補償や,返還のための措置は,民営化を進める上で不可避の問題であるが,事実の確認等に煩雑を極めるので実施にかなりの時間が必要と考えられる。
89年に「転換法」を制定し,一旦は企業による自主的な民営化を目指したハンガリーも,90年にはその失敗への反省から,国家資産庁主導へと方針を変更した。中小企業については,自主的な民営化や従業員による買収を引き続き認めるが,大企業については,次の3つの手法がそれぞれのケースに応じて採られている。
第1は,「自主的民営化」と呼ばれるものであり,「転換法」による自主的民営化の手法に,国家資産庁による許可・監督を加えたものである。これまでの自主的民営化では,経営者の発議があればそれで成立したが,現在では国家資産庁の許可が必要とされている。この民営化手法に国家資産庁による認可と監督の手続きを介在させることによって,インサイダー的な取引の入る余地をなくした上で,民営化を迅速に行おうとする手法であるといえよう。
第2は「計画的民営化」であり,国家資産庁が民営化対象企業のリストを作成し,約20企業ずつ売却していく手法である。90年9月には最初の20企業が,同年12月の2回めには23企業が対象企業に選ばれている。対象企業は,業績が良好で民営化に対して従業員等の支持がある企業となっている。売却の際には,個人投資家や年金基金等の国内機関投資家が優先されるが,外国資本の参入も許されている。90年12月現在の対象企業資産は,総資産額で730億フォリント(約11.2億ドル)となっている。ただし,この手法には時間と労力を要するという難点があり,民営化の進行が緩慢となっている。
上記2つの民営化手法では企業評議会(労働者の代表によって組織される国営企業の経営組織)が民営化を発議することが,民営化の出発点であり,前提である。これに対し,第3の「投資家主導の民営化」は,投資家が買取りたいと希望する企業について直接,国家資産庁と交渉を行う手法である。ただし,この民営化の申し出は従業員や経営者からもできることになっている。
一方,小規模企業の民営化は,「小規模国営企業私有化法」に沿って行われている。国内流通,ホテル,消費関連サービス等,約1万件が対象となっており,公募,競売によって,2年以内に民営化することが国家資産庁に義務付けられている。売却相手としては,国内居住者,企業,または国内企業と契約している外国人と規定されている。企業資産の評価は,国家資産庁がアドバイザーとして選んだ外部の専門家に依頼する。
ポーランドとチェコでは,株式化による売却の舞台となる金融資本市場の整備がハンガリ一に比べ大きく遅れており,対象となる国営企業数もハンガリー以上に多いことなどから,一般に「バウチャー方式」と呼ばれる手法が採用されている。バウチャーとは,企業の株式との交換が保証された証券で,市民一般に無償または安い値段で配布される。一般公募等による通常の民営化では,個別企業の資産評価や財務諸表の準備,株式市場の設置といった金融面での準備・手続きが必要となる。しかし,このバウチャー方式では,そうした手続きを省略することができるため,比較的迅速な民営化が可能となる。
ポーランドでは,90年7月に制定された「国営企業民営化法」に沿って民営化が進められている。同法で規定されている民営化手法は,「清算による民営化」と「転換による民営化」の2種類である。しかし,小規模店舗等については,同法の成立以前から清算やリースによる民営化が進められているため,法規中では特段の規定はない。
「清算による民営化」は,国営企業の既存の債権・債務を清算した上で,民間へ売却する手法である。この手法は,民営化の手続きが簡便であるため,中小企業を経営者や従業員が買取る場合に多く使われている。90年12月以来,100社以上がこの手法によって民営化されている。政府は91年中に少なくとも500社をこの手法によって民営化する計画である。
一方,「転換による民営化」は,国営企業を一旦国有株式会社に転換してから,所有権移転庁が競売,公募等を行う手法である。株式の一定割合は,従業員と一般市民に分配することが義務付けられている。この一般市民への分配は無償のクーポン(バウチャー)を配布することによって行われる。このクーポンは,民営化企業の株式の直接購入や,投資信託会社の株式購入に使うことが出来る。90年11月には,5社について株式公募が初めて行われ,一般への株式売却分は91年1月に完売となった。91年中には40~50社がこの手法によって民営化される予定である。
チェコ・スロバキアは,ポーランドに比べ高度に集中の進んだ大規模企業が多い。反面,新聞スタンドのような零細店舗にいたるまでほぼあらゆる企業が国営化されていたため,民営化の対象となる企業数は,ハンガリー,ポーランド以上となっている。
チェコ・スロバキアの民営化は,中小企業を対象とする「小民営化」と,大企業を対象とする「大民営化」とに分かれている。「小民営化」の詳細は,90年11月に制定された「小民営化法」に示されている。比較的小規模な国営企業のうち,旧所有者への返還の対象とならない物件(推定12万件)が「小民営化」の対象となる。物件は全て競売によって売却される。チェコ・スロバキアの市民権をもつ者は購入価格の10%を供託すれば,この競売に参加することができ,十分な資金のない者は銀行から特別融資を受けることができる。一つの物件に対して競売は2回行われる。1回目の競売では売却価格の下限は,当初に設定されている価格の50%までとされ,外国人は参加できない。第1回めの競売で売れ残った物件については,下限価格を当初価格の20%にまで引き下げた上で2回目の競売が行われ,外国人も参加することができる。
「大民営化」は,91年2月に成立した「大民営化法」によって規定されており,推定約3,000社の大企業が対象とされている。その手順は,まず,国営企業が国有の株式会社に転換され,連邦及び各共和国の「信託基金」と呼ばれる基金の管理下に移される。次に,連邦大蔵省が有償で市民に投資クーポン(バウチャー)を配布し,信託基金の管理下にある企業の株式がこのクーポンと引き替えに売却される。企業の株式の値決めは投資クーポンを単位として入札で行われるため,時間と費用を消費しがちな企業資産の評価の問題を回避することができる。このクーポンの国民への配布は,91年10月より開始されている。