平成2年
年次世界経済報告 本編
拡がる市場経済,深まる相互依存
平成2年11月27日
経済企画庁
第4章 一体化進む世界経済の課題
前節でみたように,貿易,直接投資の相互交流の深化により世界経済の一体化が進んでいるが,世界経済の持続的な拡大を維持することは,自由な貿易,直接投資の交流を拡大するための良好な環境を提供する。本節では,世界経済の一体化の基礎となる持続的経済拡大を維持するための条件を検討する。
そこで,世界経済の現局面をみると,滅速しつつあるとはいえ,戦後最長に迫る長い拡大局面にある。アメリカの82年11月以降の景気拡大は,60年代の約9年にわたる長期拡大に次ぐものであり,ECも83年以降,黄金の60年代に比肩する息の長い拡大を示しており,日本の景気上昇も90年10月現在47か月目で,戦後第2位の長さとなっている。このような先進国の景気拡大にリードされて,発展途上国でもアジアNIE Sをはじめアジア諸国では景気拡大が続いている。しかし,中南米やサブ・サハラでは低成長からなかなか脱しきれず,好調なアジア諸国とは対照的な経済パフォーマンスを示している。
本節では,まず先進国について,今回の息の長い景気上昇を支えた要因を,60年代,70年代の上昇局面との比較で検討し,その特徴を整理するとともに,今後さらにその拡大が持続するための条件を検討する。一次に発展途上国について,地域別に80年代の経済パフォーマンスを比較し,その相違を生んだ背景を調べた後,特に工業化を進める上での農業の改革の役割について詳しく検討する。
(1)今回の長期拡大の特徴
先進国で83年以来続いている今回の景気拡大は,いずれも戦後一,二を争う長さとなっているばかりでなく,①インフレを抑えながらの成長であること,②需要面で,アメリカの需要拡大の先行,日・ECの対米輸出の回復とそれに続く内需の回復,アメリカの輸出の回復,あるいは,消費ブームとそれにやや遅れた投資ブームの発生というように,成長の牽引力が入れ替わりながら切れ目なく続いたこと,③豊富な労働力の供給と賃金上昇の緩和,④サービス化の進展が成長をリードするとともに,在庫循環を小幅化していること,などの特徴がみられる。
(インフレを抑えながらの成長)
先進主要国経済の83年以降のパフォーマンスを,実質成長率,インフレ率,失業率について60年代および70年代の景気拡大局面と比較すると(第4-2-1図),米欧日とも,実質成長率が鈍化し,失業率に高まりがみられるものの,インフレ率は70年代より大きく鈍化したという特徴がみられる。これは,80年代に入って,①労働生産性の伸びが鈍化し,潜在成長率が低下しているとみられること,②主に西欧において,需要の拡大だけでは減らすことの難しい構造的な失業が増加し,いわゆる自然失業率が高まっているとみられることに加えて,インフレ抑制を重視した経済政策の運営がなされたことを示している。このように,80年代には,実質成長率と失業率の改善は60年代と比較してやや控えめではあったが,インフレ率は70年代平均よりは小幅化し,比較的に緩やかな物価上昇の下で着実な成長が実現されており,その面では,かなりバランスのとれた成長を示したといえよう。
80年代にインフレなき成長の維持という,まずまずの成果をおさめることができたのは,一つには石油価格の安定,一次産品市況の軟調という好環境によるところが大きいが,それと同時に,主要国がインフレ抑制を第一としてそれぞれ特徴のある政策運営を行ったことが寄与したとみられる。
80年代に入って,先進主要国では中期的にインフレなき成長を目指す新たな政策スタンスがとられるようになった。これは,一たん高騰したインフレを抑制することの困難さ,政府支出や財政赤字の拡大が税負担増や金利高を通じて経済の供給面にマイナスの影響を及ぼすことなどが,70年代を通じ政策当局の共通の認識となったことによるものである。
各国でとられた政策に共通しているのは,①財政政策は,短期的な景気動向に対応したファイン・チューニングではなく,むしろ中長期的な目標をたてて,それに沿って運営されるようになったことである。しかも,方向としては,公的部門の役割を縮小するとともに,財政赤字を削減するというものである。特に西ヨーロッパでは,財政再建が重視され,財政赤字の縮小が徐々に進んだ。②金融政策は,70年代の苦い経験にたって,インフレ抑制をきわめて重視して運営された。このため,生産の加速がみられる時には,比較的に早期に引締めに転じ,金利が引き上げられてインフレ心理の発生を防いだ。また,③規制緩和,民間部門の重視などの政策がとられ,競争が促進され,経済の硬直性が緩,和され,インフレ抑制的に作用した。,なお,この規制緩和は,特にサービス産業の発展を促すことにもつながり,景気拡大の長期化に貢献している。こうした相対的に慎重な政策スタンスがとられたことから,80年代には,主要国の稼働率は比較的に緩やかな上昇に止まり(第4-2-2図),景気の過熱が先送りされて,賃金・物価上昇の加速を抑制した。特にアメリカでは,60年代の長期拡大期に,製造業稼働率は90%を上回る高水準(1966年4~6月期のピーク,91.5%)に達したのに対して,今回のピーク時(89年1~3月期)には84.7%にとどまっている。西ヨーロッパでも,製造業稼働率はイギリス・を除いて比較的に低めとなっていた(しかし,最近では,西ドイツが90%前後に高まるなどかなり高水準となっている)。また,この中で,主要国の実質金利が,以前の景気上昇期と比較して高水準を続けたことも,インフレ抑制が重視された今回の上昇局面の特徴である。
(需要面での成長要因の交替)
80年代初の先進国の景気後退は,第2次石油危機を契機としたもので,世界的に同時に進行し,かつ戦後の記録の中でも最も厳しいものの一つであった。今回の回復はまずアメリカから始まり,西ヨーロッパでは,イギリスを除けば,回復はやや後れたが,83年春頃には,ほぼ一斉に拡大に向かった。当初は,アメリカの内需が拡大の牽引力であり,西ヨーロッパの回復は弱く,ドル高の下でアメリカ向けの外需が中心であった。85年以降は,ドル高が修正局面に入り,アメリカの景気は一時足踏みしたが,ちょうどこの頃から西ヨーロッパの内需も回復を示すようになり,逆に,アメリカの輸出が回復を始めたことから,アメリカの景気も再び持ち直すようになった。第4-2-1表は,こうした拡大要因が85年を境に交替し,米欧間で内外需が入れ替わって,拡大を持続させたことを示している。
当初のアメリカの内需拡大の主役は個人消費であった。個人消費は,82年春以降力強く回復し,特に耐久財需要が強かった。この回復ば,レーガン大統領の経済再生計画(81年2月発表)に含まれた個人所得税の減税がきっかけとなったとみられる。もともと,この計画はアメリカ経済の中期的な構造改革を目標としたものであり,この個人所得税減税も本来は貯蓄率の上昇による投資の促進を狙いとしていたが,結果的には,需要刺激効果として大きく現れた。その後,住宅投資も回復し,84~85年の設備投資ブームに結びついた。西ヨーロッパでも,85年以降は,個人可処分所得が回復し,乗用車を中心に消費ブームがみられるようになった。
こうした主要国の消費ブームの拡がりには,家計貯蓄率が80年代を通じて低下したことも背景となったと考えられる。主要国の家計貯蓄率は,80年代以前から低下傾向を示していたが,80年代には,アメリカおよびイギリスを中心に低下を示した(第4-2-3図)。アメリカおよびイギリスの家計貯蓄率の低下は,主として,①インフレ率の低下,②住宅価格,地価の上昇による実質資産価値の上昇,③戦後のベビー・ブーム世代が,世帯形成期になったというデモグラフィック要因,④金融の自由化による家計の資金借入比率の高まり,⑤個人消費を優遇する税制措置,などの影響によるところが大きいとみられる。
個人消費プームにやや遅れて設備投資も,主要国で回復は向かい,アメリカでは88年以降,西ヨーロッパでは88年,89年と投資ブームがみられた。
80年代の投資ブームの特徴は,設備の拡張よりは,合理化を目的とした,ハイ・テク化,ロボット化のような技術革新と直接に関連した部門が中心となっており,サービス部門でも,カード化や自動化など省力化投資が積極的に行われた。特に,西ヨーロッパでは財政再建が進み,企業の信頼感・安定感の改善から投資を促進したほか,1992年のEC統合化に備えた設備投資の促進も影響しているとみられる。
(在庫循環の緩和)
今回の景気拡大が長保ちしている理由のーつとして,在庫循環が緩和していることが指摘されている。アメリカおよびECの在庫投資率(在庫投資/GNP)の動きをみると,いずれも60年代,70年代,80年代と低下している(アメリカ:0.9→0.7→0.5%,EC:1.5→1.2→0.4%)。また,今回の拡大局面でも在庫投資率の変化は小さい(付表4-3)。これは,特に80年代に,①在庫管理技術の進歩,②サービス化の進展,③需要側の購入計画の公開,④品質の向上と国際規格化,などが進んだことを反映したものとみられる。こうした在庫投資率の低下が,今回の引締め政策の比較的早い発動による需要の抑制に対して,生産を大幅に削減する必要性を低めているとみられる。
特に,経済のサービス化は,全体としての在庫投資率を低下させる効果をもったとみられる。たとえば,イギリスの在庫投資率の動きをみると,製造業については,循環的に変動する中で,低下が明瞭になったのは80年代に入ってからであるのに対して,全産業在庫率の低下は,より早くから,景気循環とあまり関係なく進行している(付図4-7)。
(豊富な労働力の供給と賃金上昇の緩和)
80年代には,先進主要国では,デモグラフィック要因から若年層の労働力供給の伸びが大きく,また,女子を中心に労働力率の高まりがみられたことから,労働力人口の伸びは引き続き高めであった。生産年齢人口(15~64歳)の伸びは,80年代には,アメリカ,カナダではベビー・ブームの影響が急速に減衰したことから鈍化したが,西欧では総じて70年代より高く,西ドイツなどでは60年代よりも高くなっている(第4-2-4図)。とくに,若年層(15~24歳)が全人口に占める割合は80年代初には15~19%にも達した(60年代初は12~18%)。しかし,85年頃からは,若年層の比率も低下傾向を示しているため,生産年齢人口の伸びも鈍化してきている(90年14~16%)( 付表4-4 )。
労働力率(OECDの定義による)も,戦後概して高まってきているが,とくに80年代には,主要国の女子労働力率は50%前後から70%近くまで上昇している(付表4-5)。
このため,先進主要国では若年層および女子を中心に労働力人口の伸びは,80年代にも比較的に大きく,成長の持続を下支えした。しかし,このことは,一方で,80年代に長期拡大が続き,雇用の伸びがみられたにも.かかわらず,若年層を中心に高失業が続いていることの背景ともなっている。
今回の景気上昇局面では,イギリスなど一部を除いて,賃金上昇率が過去の上昇局面と比較して小幅な上昇に止まっているのが特徴である。主要7か国の賃金上昇率は,82~89年には4~6%と70年代の9~15%と比べてきわめて低くなっている。
こうした賃金の安定は,①労働需給が,70年代に次いで緩和しており,失業率が高かったこと,②労働組合の交渉力が組織率の低下などから弱まっており,また,雇用の安定や生産性の向上・競争力の強化を重視する姿勢になっていること,③賃金インデクセーション条項の適用比率の低下や利潤分配制度が導入されたこと,④インフレ抑制を重視する金融政策に対する信頼度が高まったこと,などが影響しているとみられる。
(サービス化の進展)
先進主要国では,80年代にはサービス化が更に進展して,経済拡大の牽引力となるとともに,新たな雇用機会を提供した。これは,在庫循環を小幅にして,景気変動をなだらかにする効果をもったとみられる。先進主要国の流通,運輸・通信,金融などのいわゆる第3次産業は,80年代にも,いずれも製造業の伸びを上回る拡大を続けており,GDPに占める比率は,米欧日では80年代初の55~64%から87年には57~67%に高まっている(第4-2-5図)。総雇用に占めるサービス業の比率も,金融・不動産業などを中心に大きく伸びており,87年に,流通,運輸・通信,金融・不動産業で40%前後,公務員などその他のサービスを含めた全体では,55~70%にのぼっている( 付表4-6 )。このように,製造業部門では軒並み減少しているのに対して,サービス部門では,ほとんどがプラスとなっているという,対照的な動きとなっている。
こうした,経済のサービス化は,企業部門におけるリースや作業の外部化(宣伝,補修,部品,在庫など),個人需要の外部化(クリニニング,外食など),共同化(保育所,高齢者介護など)に対応したものであり,今後も,拡大が予想される分野であるとみられる。
(2)長期拡大を持続させるためのプラスとマイナス要因
先進主要国では,90年に入って,アメリカを初めとして成長率の鈍化を示している国が多いが,これは一時的な調整局面であり,91年には成長率も再び高まるとみられていた。しかし,8月の中東情勢の緊迫化によって,すでに石油価格の急騰がみられ,石油需給の不確実性が増すなど,世界の経済環境は悪化している。以下では,中長期的にみて,今後も長期拡大を持続させていく上でプラスとなりうる要因とマイナスと考えられる要因をみてみよう。
(市場経済の拡がり)
90年代の世界経済の最も明るい面は,89年秋以降のソ連・東欧諸国の経済改革の急速な進展による市場経済の拡がりである。かつては社会主義経済圏として壁をめぐらし,その中で独自の経済体制をとっていたものが,一挙に壁を取り払って,西側の市場経済体制に移行するとともに,西側諸国との経済交流の拡大に進もうとしている。これらの国では,GATTやIMFなどの国際経済制度に積極的に参加する方向に踏み出しており,貿易,直接投資面での交流拡大の気運も高まっている。
こうした東西融合による世界経済への影響は,当面はドイツ統合により金利上昇圧力が高まっていることにみられるように,必ずしもプラスばかりとは言えないが,全体として非効率な中央統制経済の比率が低まることで,長期的には,特に貿易・投資面での拡大を通じてプラスの効果をもたらすものとみられる。
さらに,西側諸国,ソ連・東欧諸国を問わず,世界経済が貿易・資本移動を通じてより一体化の度を強めていくことは,競争による各国経済の活性化,資源配分の効率化に資するものである。たとえば,前節でみたように,貿易は引き続き成長の原動力であり,80年代後半に貿易の成長率弾性値は大きく高まった。東西間の新たな市場の開放は,貿易の一層の拡大を通じて,世界経済に新たな活力を与え,成長を高める契機となる可能性があろう。
加えて,世界経済の一体化の進展は,一国の経済拡大が輸入を通して他国に伝播し,各国経済の成長を平準化し,景気変動を緩和するとともに,景気拡大国のインフレ圧力を緩和すること(輸入の安全弁効果)にも資するものである。このような一体化は,一方で,各国の金融・資本市場の変動を増幅するりスクがあるものの,そのメリットは,今後ますます各国経済に作用していくものと考えられる。
(軍縮による民需転換)
東西協調の高まりは,欧州を中心に軍事面での緊張緩和をもたらしており,各国の国防支出にも削減の余裕を与えている。世界の防衛費は,最近(1989年)では約9,500億ドルと推計され,世界のGNP約20兆ドル(当課試算,1988年)に対してほぼ5%に相当する。主要国では,アメリカで5.9%,イギリス4.0%,西ドイツ2.4%,日本1.O%,ソ連8.4%などとなっている(1989年実績の対GNP比。アメリカ,イギリス,日本は年度)(第4-2-2表)。
こうした防衛費の必要度は世界の政治・軍事的環境によるものであり,一挙に削滅することは難しいが,冷戦の発想を超えて東西関係が本格的な対話と協調の時代に移行しつつあること,各種の軍備管理・軍縮交渉も促進されていることから,今後は軍需から民需への転換が徐々に進むとみられる。軍需生産は国民経済にとって最先端技術の開発・応用等の面で有用性もあるものの,経済的負担も大きく,寡占,注文生産の特質が強いために価格メカニズムが働きにくく,資源配分の効率が弱められる傾向を有し,また,ソ連,アメリカを初めとして財政赤字の大きな要因ともなってきた。したがって,軍需生産の縮小による民需の拡張は,経済の効率化を通じて,今後の成長持続に資するとみられる。
(エネルギー制約)
80年代には,一次産品価格が軟調を続け,石油価格も低水準に止まったことから,先進国の交易条件(輸出価格/輸入価格)は高水準を維持してきた。しかし,8月以降は,石油価格が急騰しており,交易条件は急速に悪化している。
86年に石油価格が半減した時には,7大国は約1,150億ドル(86年のGNP比IA%)の所得移転を受けたと試算されており(国連),当時の景気の中だるみを支える要因となった。今回の石油価格の急上昇による影響度は第1章3節でみた通りであり,中東情勢の今後の展開いかんにもよるが,マイナス要因となることは避けられないとみられる。
もっとも,今回の石油価格の急上昇は,世界の石油需給が80年代の長期拡大を背景に悪化したことが背景となっており,石油価格の上昇は遅かれ早かれやってきたものとみられている。とくに,石油価格が低水準にある中でエネルギー原単位が,先進国では低下傾向が停滞し,発展途上国では逆に上昇する傾向がみられた。このため,需要が着実に伸びる一方で,非OPECを中心に供給が頭打ちとなり,需給のひっ迫のおそれが高まっていた。したがって,8月の石油価格急騰は,偶発的な事件として捉えるよりも,中期的な石油需給のひっ迫化傾向を踏まえて,今後も程度の差はあるにしろ起こりうる現象と捉えるべきである。このため,今後は省エネ,代替エネルギーへの転換への努力が更に重要となろう。
(デモグラフィック要因)
80年代の成長を支える一因となろた若年層を中心とする生産年齢人口の伸びは,今後は急速に鈍化し,90年代にはほとんど停滞すると予測されている(付表4-4)。この要因は,①労働供給を制約するほか,②高齢化の進展による貯蓄率の低下につながる,③政府の社会保障負担の増加などを通じて成長制約要因となるとみられる。また,このほか労働供給面では,これまで労働力人口の伸びを支えてきた女子の労働市場への参入が進み,特にアメリカでは女子の労働力率が89年に69.4%に達しており,ほぼピークにあるとみられている。西ドイツや日本などでは,女子の労働力率はなお50%台にとどまっており,上昇の余地はあるものの,今後は総じてデモグラフィック要因を中心に,労働力の量的な伸びはあまり望めなくなっている。したがって,今後,主要由では,構造調整を進めて労働力をより効率的に使用すること,教育や職業訓練などによる労働力の質的な向上を図ることがますます重要性を高めている。
このように,90年代には,新たな成長制約要因もかなり出てきている。これに対して,上にあげた市場経済の拡がりや軍縮による民需転換といったプラス要因のほかに,景気循環を緩和する在庫循環の要因,サービス化の進展,インフレなき成長を目的とした政策運営の持続,生産性の伸びを促進する技術革新の進展など,従来からの成長支持要因もなお作用するとみられ,今後も先進国が長期拡大を持続するための必要条件はある程度そろっているとみられる。
(途上国の80年代の経済パフォーマンス)
80年代,途上国の成長は,70年代に比ベアジアを除き全般に鈍化した。60年代半ば以降の経済成長率を地域別にみると,60年代後半から73年の第1次オイル・ショックまでは世界経済の成長率は約5%であり,各地域とも例外なく成長していた。73年から80年にかけては2度のオイル・ショックの影響が大きく,先進国の成長率低下により世界経済の成長率は3.3%,(年平均,以下同じ)に鈍化した。しかし,途上国ではサハラ以南アフリカ(以下,「サブ・サハラ」)の成長率が大きく低下したのに対し,各地域の成長率はあまり低下せず,南アジアではむしろ成長率が高まった。80年代は,世界経済の成長率は3.1%と73年から80年までの成長率と比べて大差ないが,地域別にみると大きくパフォーマンスが分かれている。東アジアでは8.4%,南アジアでは5.5%と成長率を高めているのに対し,ラテン・アメリカ,サブ・サハラでは著しく成長率が低下してG)る。1人当たりGNP成長率でみると(第4-2-6図),ラテン・アメリカがマイナス0.6%,サプ・サハラがマイナス2.2%と低下している。サブ・サハラは成長率の低下に加え,高い人口増加率が生活水準を一層悪化させている。
産業別の生産の伸び率を地域別に見ると(第4-2-3表),東アジア,南アジアでは,80年代に工業,農業ともに伸びを高めた。他方,ラテン・アメリ力では工業は80年代に入り1.1%増と大きぐ伸びを低下させ,農業もプラジル等一部の国で生産の拡大がみられたが,全体としては80年代に伸びが低下した。サブ・サハラは工業が80年代でマイナスとなっており,農業も70年代と比較すると80年代はやや伸びが高まっているが,1.8%増と低い伸びにとどまっている。
ここで,輸出数量の伸びを地域別に80年代で比較すると,東アジアが14.7%増と伸びが目立って高く,南アジアも6.1%増と比較的高い伸びとなった。それに対し,ラテン・アメリカは4.9%増,と途上国平均を下回っており,サブ・サハラは全く伸びがみられない。
次に,投資率(GDPに占める投資の割合)をみると(第4-2-7図),東アジアは65年,73年,80年とその水準を高め,80年代を通じて30%台の高率を維持している。南アジアでも85年まで傾向的に高まり,88年には低下したもあのラテンアメリカを上回っている。これに対し,ラテン・アメリカでは80年には25%近くに達したものの,85年には20%を割り込み,88年になっても,南アジアの水準を下回っている。サブ・サハラでは80年代に投資率の低下がさらに著しい。
それではアジアとラテン・アメリカ,サブ・サハラとの差異はどのような経済政策の下で生じたのであろうか。まず,アジア諸国が輸出指向型の工業化を進め,外国市場で絶えず競争にさらされながら,競争力を高め,輸出の拡大,生産の増加を果たしたのに対し,ラテン・アメリカ,サプ・サハラでは輸入代替型の工業化を志向し,国内産業の保護・育成を図ったが,かえって非効率な生産を許し,競争力の強化に結びつかなかったという点が指摘される。また,マクロ経済政策においても,アジア諸国では総じて安定的な政治的基盤の下にインフレ,貿易赤字を抑えるような慎重な政策運営が採られたのに対し,ラテン・アメリカでは概して,政治的基盤が不安定であり,インフレ高進,財政赤字拡大等の経済問題に対し,有効な打開策を打てない状況にあった。このような不安定なマクロ経済政策が資本逃避,貯蓄率,投資率の低下等に相当寄与しているものと考えられる。さらに,ラテン・アメリカ,サブ・サハラについては,過度の対外借入が累積債務問題に発展し,投資率,成長率の低下につながっている。
最後に,注目すべき点として,農業部門と工業部門の関係がある。アジア諸国では工業が高成長を続けている一方で,農業も着実に生産を拡大している。
ラテン・アメリカ,サブ・サハラについては,工業部門のみ,ならず農業部門の生産の伸びも低い。このことは,工業生産の拡大と農業生産の拡大の間に相互関連があることを窺わせる。この点は次でみることとする。
(農業が工業化に果たす役割)
農業の生産拡大は工業の生産拡大と相互に関連しながら経済成長を促す(第4-2-8図)。この点をみるために,途上国の中で,農業の生産性向上を基礎として,工業化を早いスピードで進展させた韓国を例としてとりあげる。韓国では65年に米の高収穫品種の導入を国家的事業として開始し,また,肥料の投入を促すため政府が肥料の購入信用を行った。こうした農業生産促進措置は,農家の生産拡大意欲を高めた。そのため,中間投入財の導入が進み,それが農業機械,肥料をはじめ中間投入財部門の生産を拡大させ,中間投入財の価格低下がもたらされた。それによってさらに中間投入財の利用が進み,その結果,米の生産性は著しく向上し,85年には6,351kg/haと日本(6,225kg/ha)を上回り,アジアの最高水準となった。さらに農業の生産性向上が余剰労働力を産み(付図4-8),韓国の急速な工業化の条件として機能した。つまり,市場拡大の面でも労働供給の面でも農業の発展が工業化を促進する基盤としての役割を果たすのである。
こうした観点からサブ・サハラとアジア(中でもインドと中国)との間では,農業が工業化に果たした役割が大きく異なっていた。
サブ・サハラ各国の多くは上記の農業の経済成長への寄与はそれほど重視されているとはいえず,むしろ農業の生産拡大意欲を減退させる政策が採られていた。まず第1に,農業に対する高課税である。工業化の促進と財源確保の目的から税率は極めて高く,特に農産品の輸出税が高課税である。これは,IMF(国際通貨基金)の助言もあって財政赤字削滅を進める中で徴収可能な分野が限られている等の止むを得ない事情もあったが,ガーナでは農業粗付加価値額に占める税の割合は60%以上となっている。第2に,輸入代替の目的で工業品について保護政策が採られていたことである。このため工業品価格が上昇した。さらに,食料品価格の上昇抑制のために穀類が輸入制限措置から除外される等,農産品価格は工業品価格に比べ低く抑えられた一方,工業品価格上昇の過程で農業投入のための資材価格が上昇した。このため農業部門の収益が圧迫され,農業部門の投資は低迷することとなった。第3に,為替レートの過大評価による輸出への影響である。農産品の国際市況は先進国が小麦,とうもろこし等の余剰生産物の輸出を増加させる一方,需要が伸び悩んだ影響から長期低落傾向にある。加えて,為替レートの調整が物価上昇分に見合って行われなかったため,実質為替レートの上昇を招き,農産品輸出は滅少し生産意欲を一層損なう結果となった。このように農業生産にマイナスの影響を与えたことは,結果的には,国内の市場拡大,国民所得上昇,貯蓄率の向上等,工業生産拡大のための基礎条件の形成を難しくしたものと考えられる。
他方,アジア各国は農業生産を順調に増加させてきた。アジア諸国では,農業の生産性向上のために灌概設備の充実,肥料をはじめとする投入資材購入に対する補助,農産物価格支持制度といった農業の生産性向上のための助成措置を積極的に行った。こうした農業振興策の下で高収穫品種の導入を行ったため
「緑の革命」といわれる農業生産の増大が,もたらされた(付図4-9)。
インドを例に「緑の革命」の成功と工業への波及効果をみてみると,60年代ではインドは食糧不足が深刻であり,小麦は食糧援助中心に輸入は欠かせない状態であった。政府は灌概設備への重点的投資,高収穫品種の導入,農産物買入価格の引き上げの組み合わせにより食糧増産を目指した。その結果,70年代末には小麦の自給を達成し,85年には余剰生産を生み出すまでになった。この過程で,電力,農業機械,肥料等の中間投入財部門の生産は70代後半から80年代にかけて増加がみられ,75年から86年の期間に肥料,原油は年率約12%,電力,農業機械は同8%増加した。工業生産も同期間に5.8%増加した。このように,農業生産の拡大は中間投入財部門の生産を促し,工業の生産拡大に寄与している(付注4-1)。
中国では,革命以来農村を集団化し,人民公社を組織して農民は公社の計画に従い共同生産を行ってきた。当初は生産が拡大したものの,収入が均等に配分される労働点数制度の下では,農民の生産意欲は次第に減退し,労働生産性は低迷した。しかし,70年代末から80年代前半にかけて,農業生産は急激に拡大した。この原因としては新品種の導入,化学肥料の投入増,水利灌漑施設の積極的利用等もあるが,78年からの経済改革に伴う次の二つの対策によるところが大きい。第1に,農産物の国家買い付け価格の大幅な引き上げ(平均24.8%),及び農業機械等の農業投入財の価格引き下げである(79年より実施)。これにより,農村部の交易条件は大きく改善した。第2に,農業請負責任制(土地を国から貸して経営は農民に任せる)の導入である。これにより個人農が認められたことから,人民公社は次第に解体され,83年末の段階で95%の農家が個人経営に移行した。これらの政策により,農民の生産意欲は刺激され,農業労働者一人当たりの食糧生産量が78年の1,074kgから88年の1,220kgへと,13.6%上昇する等,農業生産性は著しく向上した(第4-2-9図)。
人民公社の解体,個人農の創出・拡大は農村部の潜在的な過剰労働力を顕在化させた。この労働力の都市部流出を抑え,農村内において工業部門へ移動させる上で重要な役割を果たしたのが郷鎮企業である。郷鎮企業(県レベル以下の郷,鎮,村営の集団企業及び個人経営企業)は,農家の家庭副業が認められて農民がより収益性の高い工業の方へと余剰資金を投入したこともあり,次第にその規模を拡大していった。農村部での総生産額に占める構成比をみると,農業総生産額は78年68.5%,88年46.8%とその割合が減少しているのに対し,農村工業の割合は78年では19.5%,88年で238.1%と上昇している。それとともに雇用規模も増大し,83年に3,235万人だった郷鎮企業雇用者は88年には9,545万人に上り,実に5年間で6,000万人余の労働力を吸収した。また,郷鎮企業総生産額をみると,87年には農業総生産額を上回り,89年は8,403億元と,78年の493億元に比べ17倍の増加となった。工業総生産額に占める割合も上昇し,89年では全体の3分の1を占めている。また,沿海地域においては外資を活用して原材料を輸入,加工し,製品を輸出する輸出志向型の経営を行い,外貨獲得に貢献している。この郷鎮企業の発達は農民の所得増にもつながり,農民純収入は78年の133元から,89年の602元へと急速に伸びた。
しかし,郷鎮企業の発達は軽工業の投資と生産拡大をもたらしたものの,重工業が相対的に不振であらたことから,80年代半ばには原材料,エネルギーの需給がひっ迫した。このため,景気過熱に対する88年後半からの引締め策では,原材料,エネルギー等の重点産業部門への投資を重視する傾斜政策がとられ,郷鎮企業は金融引締め,投資抑制の下で資金不足に陥り整理・倒産が相次いだ。しかし最近では,停滞した経済を回復させる手掛かりとして,また,増大する失業者の受入先として郷鎮企業の存在を見直している。
このように中国では,78年の改革により,80年代前半までは,農業生産の拡大と郷鎮企業の発達が軌をーにして進んだ。