平成元年

年次世界経済報告 本編

自由な経済・貿易が開く長期拡大の道

経済企画庁


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第3章 世界貿易の拡大と構造変化

第3節 企業行動と国際競争力

上に見てきたように,産業革命が始まり世界貿易の覇権を握ったイギリスは,第2次産業革命においてはアメリカ,ドイツに追いつき追越された。大量生産方式で20世紀の工業のリーダーとなったアメリカは今や日本に追いつき追越しを許しつつある。19世紀末のイギリスでは相手国が不公正だから,という考え方が強かったが,現在の経済史,技術史の見解では,生産力の基礎である技術革新,設備投資,研究開発,教育訓練がおろそかにされた点が大きな理由とされている。現在のアメリカもこれと同様の現象が起こっている。包括貿易法は一方的に相手国を不公正と決定し報復を可能とするものであり,日本をその対象として特定している。他方,アメリカの産業自身が生産力の基礎をおろそかにしてきており,これがキャッチアップを許した原因である,という報告も数多い。本節ではキャッチ・アップを可能とした要因を,かつてのイギリスと現在のアメリカとの比較,自動車,民生用電子機器の2分野での日本のアメリカへのキャッチ・アップの状況,アメリカ・日本・ヨーロッパの企業の財務分析により明らかにしていきたい。またアメリカと日本で異なる発展の経過をたどった半導体産業の例もみてみる。

1. キャッチアップを可能とした先行国の要因,負い上げ国の要因

まずこの項では,19世紀末のイギリスと現在のアメリカを比較しながら,追い上げ国のキャッチアップを可能とした要因を産業別に見,ついで一般的要因を明らかにする。

産業別の国際競争力は,各国とも同じ生産技術を持っているならば,資本の豊富な国が資本集約的な財を,労働の豊富な国が労働集約的な財を,それぞれ輸出するとの比較優位の原則により決まってくるはずである。しかし,これは技術進歩や資本蓄積という経済の動態的な変化を捨象した,静学的な世界を前提としたときに成り立つ議論である。キャッチアップというような10年単位でみて初めて明確になってくる現象を理解するためには,このような動態的な変化を考慮する必要がある。実際に,19世紀末にイギリスがドイツ,アメリカにキャッチアップを可能とさせた要因,現在アメリカが日本にキャッチアップを可能とさせている要因を産業別に見ていくと,技術革新の分岐点においてどの生産技術を選択するかが決定的な役割を果たしていることが分かる。

企業は次のような3つのケースの技術革新の分岐点において,実際に生産技術の選択を迫られてきた。第1は,プロセス・イノベーションであり,同一の製品の生産において従来の生産技術を維持するか,新たな生産技術に切り換えるかの選択である。第2は,プロダクト・イノベーションであり,新しい製品の生産可能性の探究のための研究開発,可能と分かった時の生産化のための設備投資をどの程度行うか,の選択である。第3は,プロダクト・ディファレンシエーション(製品差別化)の中でのセグメントの選択であり,収益率や付加価値の低いセグメント,高いセグメントの選択が絶えず問題となる。

まず第1のプロセス・イノベーションに関する技術選択の例を,19世紀末のイギリスおよび現在のアメリカについて見てみよう(第3-3-1表)。19世紀末のイギリス鉄鋼業の直面した技術選択は次のようなものであった。それまで,イギリスは品質の良い無燐の赤鉄鉱を産出し,またスペインから輸入が可能であったことから,酸性法のプロセスをとった。炉の形態としては,当初は転炉,ついで平炉に普及していった。原料の優位さと,設備が小規模で可能なことから,1870年代末には,イギリスはヨーロッパ鉄鋼生産の5割以上のシェアを占めた。しかし,1877年にはトマス,ギルクリスト(イギリス)が溶解した鉄に石灰を反応させて燐分を取り除く塩基性法を発明した。ドイツ等は廉価,低品位の有燐鉱のみを産するため,直ちにこのトマス法の特許使用を契約し生産を開始した。炉の形態は当初は転炉,その後は平炉が一般化した。工程の複雑さのために設備は大型化し,旺盛な研究開発が行われた。後工程では副産物の燐酸肥料が生産された。製鋼工程の大型化につれて,前工程の製せんも大型化し,両工程の立地を隣接させ垂直統合するようになった。イギリスは酸性法に固執し,塩基性法の低コストと大型止からくる規模の経済を活用するドイツ等にキャッチアップを許した。鉄鋼生産量でイギリスは1890年にアメリカに,1893年にはドイツに追い抜かれたのである。

同様の例はソーダ灰にも見られた。1860~80年はルブラン法によるソーダ灰生産でイギリスは黄金時代と言われた。この方法は塩酸,硫黄を排出物とするため不効率であり,環境破壊の原因であった。1861年にソルベイ(ベルギー)は食塩,アンモニア,炭酸から炭酸ナトリウムを得,かつアンモニア,炭酸ガスを再生・再投入させるアンモニア・ソーダ法を発明した。ドイツ,アメリカ等はソルベイ法に移行し,1900年にはドイツのソーダ灰生産の90%がソルベイ法によるものであった。さらに電気分解が発明されると,後工程として塩素製造が可能となった。イギリスはルブラン法の既存設備に固執し,1890年には1社に統合したが,19世紀末にはソーダ灰の生産量自体が減少に転じ,1920年には閉鎖したのである。

現在のアメリカでも,プロセス・イノベーションの遅れの例が見られる。鉄鋼業においては,連続鋳造法,純酸素上吹き転炉(LD転炉),コンピュータ制御の採用如何の選択がある。連鋳法は,高炉からのせん鉄を直接圧延工程に続け,途中のせん鉄冷却(インゴッド),運搬,再加熱の無駄を省くものである。

LD転炉は,酸素の吹き込みにより炭素の除去を飛躍的に早めるものである。

日本,ヨーロッパでは連鋳法の導入は1970年代に急伸し,LD転炉も日本では1960年代,ヨーロッパでは1970年代に急伸した。コンピュータ制御も日本で最も発展した。ごれに対してアメリカはいずれについても採用が遅れている。連鋳法については,そのメリットを認めるのに遅れ,従来のインゴッド法からの切り換えコストを懸念した。LD転炉についても,既存の平炉への投資が回収不能になるとして,消極的であった。コンピュータ制御は,開発が可能かどうかに懸念を持ち導入が遅れた。結局,アメリカの粗鋼生産量は1975年から87年の間に1億2千万トンから8,900万トンに減少し,この間1億トン強の生産を維持した日本に追い越されたのである。

次項で見るように,自動車工業でも同様の例がある。アメリカの少品種大量生産方式は,ヨーロッパの職人的生産に対して革命的な効率化であった。しかし,日本で試行錯誤を繰り返しながら開発された多品種少量生産や,生産時間の短縮,品質の向上,在庫コストの低減等を実現するジャストインタイム方式は,アメリカの方式に優るものとなり,自動車生産台数は1980年にアメリカを追い越したのである。

第2にプロダクト・イノベーションの遅れを示すイギリス,アメリカの事例を見よう。19世紀後半に急速に発展した産業の一つに人工染料がある。有機化学の理論と実験はイギリスとドイツで発展した。この中で1868年天然染料アリザリンがパーキン(イギリス),グレーベ,リーベルマン(ドイツ)により合成された。これは染料の合成が偶然でなく,系統的,組織的な実験によりもたらされた最初の例となった。しかしイギリスにとってはこれが最後の発見となった。組織的な研究をイギリス企業は支援せず,企業自身も衰退した。アリザリン以降の発見は,ほとんど全てドイツによるものであり,バーディシェ・アニリン(BASF),ヘキスト,AGFA等の企業が,優秀な研究者を持ち組織的な研究を企業主導で推進した。この結果,19世紀末には世界の人工染料市場の9割をドイツが生産することとなったのである。

電気業も同様な例である。電気の理論と実験はイギリスがリードし,発電機の原理である電磁誘導は1831年ファラデー(イギリス)により発見された。最初の発電所はエディソンにより,1881年イギリスで設立され,電灯の需要を中心に普及した。電力の生産では規模の経済が重要であること,電気の用途には無限の可能性があることは広く認められていた。しかしイギリスでは,全ての市町村が自らの発電所を持つべきである,との法律(電灯法)のため,小規模で規格の異なるものとなり,大規模化が困難であった。ドイツでは大規模な発電と送電が,1900年ウエストファリアの送電網等で始められた。またワーナー・ジーメンス(ドイツ)等により,電車,電気炉,電気化学,電気モーター等の新分野が開発されていった。このように発展したドイツの電気企業は,20世紀初頭に,ジーメンス・シュカート・コンバインとAEGの2大巨大企業に統合された。そして,第1次大戦後には,発電量でドイツがイギリスを追い抜いたのである。

現在のアメリカに見られる同様な例としては,民生用の半導体がある。詳しくは,次項以降で述べるが,半導体の理論,技術,産業化はいづれもアメリカで,軍需用を中心として発展した。軍需用には高処理速度,高性能のバイポーラ型ICが主体となった。他方,民生用には,演算速度は劣っても小型化が可能で,消費電力の低いICが必要である。日本は1970年代はバイポーラ型ICの利用に大きく依存していた。80年代に入ると日本はメモリー主体のMOS型ICの生産によって技術を集積し,ロジックもMOS型ICで置き換えることを可能にし,民生用半導体の条件を満たすこととなった。世界の半導体市場に占めるシェアは1986年に日本が48%とアメリカの39%を追い抜いたのである。

キャッチアップを可能とした第3の要因である,製品差別化におけるセグメント間の参入,退出の典型的な例は,現在のアメリカに数多く見られるので,次項で自動車,民生用電子機器について詳しく見ることとする。

以上の産業毎のキャッチアップの要因を見ると,技術革新の分岐点における企業の生産技術の選択が,19世紀末のイギリスの場合でも,現在のアメリカの場合でも,決定的だったことがわかる。さらに,発展性のない技術の袋小路に入ると,その後の技術革新の可能性全てが失われる事例も多い。

次に,このようなキャッチアップが可能となった一般的要因について,19世紀末のイギリスと現在のアメリカについて比較しながらまとめておこう。まずマクロ経済的要因を見ると,投資率が両者とも低いことがあげられる。現在のアメリカの投資率(実質ベースの粗民間設備投資/GNP)は12%前後(名目ベースで10%前後)で,ヨーロッパとは同水準だが,日本の20%前後(昭和63年度名目ベースで18%)より低い。19世紀末のイギリスの投資率(実質ベースの純国民資本形成/NNP)も6-8%で,ドイツの13-16%より低かったのである。しかしながら,金融面の条件は対照的である。アメリカは世界最大の債務国であり,対外純負債残高のGNP比は10%を超えている。国内の資金需給はタイトで金利は高く,外国資本の流入によってファイナンスされている。これに対し19世紀末のイギリスは巨大な債権国であり,対外純債権残高のGNP比は100%を超えていた。金利は長短とも2.8%前後で,ドイツ(3%以上),アメリカ(4%以上)より低かった。イギリスのこのように潤沢な金融資産は,外国の鉄道や債券への投資に向けられ,国内には向かわなかった。イギリスでは国内の投資機会が不足していたことが理由とされている。現在アメリカでは,設備投資や研究開発投資の不足を高金利のためとし,マクロ的に貯蓄を高め,金利を下げさえすれば,投資は回復する,との議論がなされている。しかし19世紀末イギリスの例は,企業が技術革新のリスクを回避し続ける場合には,たとえ貯蓄超過となっても投資が不足し,産業の国際競争力が弱化し続けることを示している。

次にキャッチアップのミクロ経済的要因として,経営者の投資行動,および教育・研究開発の生産とのリンクがあげられる。現在のアメリカ,19世紀末のイギリスとも,経営者は投資決定において,短期的・金銭的な利益を重視し,長期的な技術革新からの利益を軽視する傾向があることが指摘されている。その理由も共通しており,(1)伝統的な技術,既存の設備が重視され,新たな技術や設備は軽視されること,(2)経営者は生産の現場とは疎遠であり,財務面からのみアプローチすること,(3)生産スタッフは軽視され,財務スタッフが重用されること,等があげられる。特に現在のアメリカにおいては,経営者の報酬が企業業績に直接リンクされていることが多い。このため,生産的投資を,それから生ずる長期にわたる収益フローの割引現在価値を最大化するように行う(これは企業の株式価値の最大化にほかならない)との合理的な投資行動は妨げられ,当期の収益ない)し配当の最大化を目的とするという,経済合理性に欠ける行動がとられ企業の長期的な生産力を弱める結果となっている。

教育・研究開発の生産とのリンクについても,現在のアメリカと19世紀末のイギリスとの間に共通の問題点が指摘される。両者とも世界一の工業国としての地位は,旺盛な研究開発とその工業化,それを支える優秀な人的資源があったために,確立されたのである。その優位が揺らいだ理由として,(1)これまでの先行者としての技術革新の成果が出つくしたこと,(2)追い上げ国が生産の拡大,効率化,技術革新をシステマチックに支えるような,教育・研究開発体制をとるのに対し,先行国では切迫感がないこと,等があげられる。研究開発について更に詳しく見てみよう。国全体としては,アメリカは国防研究から航空・宇宙・電子産業へのスピン・オフを特色としてきたが,コスト・ダウンのインセンティブが少ないこと,高性能指向であること等,必ずしも民生用製品の生産に繋がっていない。日本は逆に民生用製品とその生産工程そのものが,企業の研究開発の中心となっている。19世紀末のイギリスでは,初期の産業革命がアマチュアの発明家によってなされたために,組織的に研究開発を行う,という考えが根づかなかった。ドイツは上に見たとおり企業が組織的に研究開発を行った。企業の研究開発を先行国,追い上げ国について比較すると,現在のアメリカ企業の研究開発支出のGNP比は1.3%と,日本の2.O%より低くなっている。19世紀末の例としては,ドイツのコールタール企業は1886-1900年の間に948の特許を取得したが,イギリスは86に止まったことがあげられる。

教育訓練についても同様の点が指摘される。アメリカでは初等・中等教育のパフォーマンスが主要国と比較して低いことはよく知られている。またアメリカでは,生産の場においては,それ以前に習得した技能を用いるだけであり,日本,ドイツのように,組織的に職場で技能を向上し,多様化する機会がない。

19世紀末には,プロシアが1860年には初等教育を義務化し,大学教育,マイスター制による職業訓練に至るまで国の手で制度化された。しかしイギリスでは,上記のように,産業活動は個人で行うものとの考えからシステマチックな教育訓練の必要性が認識されなかったし,また技術者は教育訓練によって自らの技能が他に知られることを好まない風潮があった。このため初等教育の義務化は1870年と遅れ,職業訓練も重視されなかったのである。

以上のように,現在のアメリカ,19世紀末のイギリスが,それぞれ日本,ドイツに,キャッチアップを可能とさせたのは,技術革新の分岐点における生産技術の選択が直接的な要因であった。そしてその背景としては,財務面に偏った短期業績主義による設備投資,研究開発,教育訓練の遅れが明確な共通パターンとして指摘できるのである。

2. アメリカ,ヨーロッパ,日本の競争力比較のケース・スタデイ

前項では生産技術の観点からアメリカとイギリスの競争力低下の例を産業別に概観し,その一般的要因を明らかにした。現在のアメリカの産業カ競争力の低下が需要側からは説明できず,供給側の対応に起因することは需要が伸びているにもかかわらず,供給が弱化している産業が多いことからもわかる。すなわち,1970年代半ばから80年代にかけての原油価格ρ高騰やドル高などの経済環境の変化により,アメリカの産業(さ需要の拡大を背景とする産業と需要の停滞を背景とする産業にはきり分化し現在アメリカの競争力が維持が強化されている産業の多くは前者に属し,競争かが下低下している産業は後者に属する場合が多い。しかしながら自動車,民生用電子産業などでは内需が拡大しているにもかかわらず競争力が低下しているのである。そこでこの項では上記2分野について,アメリカの競争力低下を中心に,ヨーロッパや日本との間でなぜ国際競争力の格差が生じたのかを企業行動という供給側の面から具体的に見てみる。

(1) 自動車産業

アメリカの自動車産業は大型車大量生産指向を背景に,1950年代まで乗用車生産シェアで世界の50%以上,自国市場での販売シェアの90%以上を占めるなど世界をリードし,1960年代に入っても貿易面ではおおむね黒字であった。しかしこの大型車クラスへの生産集中は同時にアメリカ市場における中・小型車分野へのヨーロッパや日本からの参入を招き,とりわけ第1次石油ショック以降コンパクトカー分野で日本車などのシェア拡大を許した。またヨーロッパは当初コンパクトカー分野で優位性を保持していたが,日本車のシェア拡大にともない中大型の高級車分野の市場セグメントを強化していった。1987年にはアメリカは乗用車生産シェアで世界の約24%,輸入比率で約30%となり,自動車および同部品の貿易赤字は赤字全体の約1/3にあたる600億ドルとなった(第3-3-1図,第3-3-2図)。

アメリカの国際競争力が低下した要因としては,まずアメリカ企業による生産が大型車に集中したため,中・小型車分野での競争力が劣ったことが挙げられる。とりわけ第1次石油ショック以後,それまで大型車が支配的であったアメリカ市場で小型車/超小型車の需要が急増した際に,コンパクトカーの開発に遅れ,日本や韓国などの急激なシェア拡大を許した(第3-3-3図)。しかしこうした市場セグメントの問題とは別に,より根本的な要因としては,アメリカ企業の生産システム自休が時代遅れとなり,競争力が低下したことが考えられる。そこでアメリカ,ヨーロッパ,日本企業それぞれの生産システムの形成過程と特徴を述べ,さらに競争力を比較してみる。

(アメリカの生産システム)

アメリカの生産システムは1920年2代に構築されたが,まずその基本思想は画一的なモデルをオートメーション化されたシステムで大量生産することであった。生産体制面をみると現場の作業は分解され,オートメーション化に対応するように単純化,専門化された。生産設備はオートメーションの高度化により規模の経済性をもたらした反面,変更には多大なコストを要するため,現場の作業の単純化とともに生産削滅やモデル・チェンジなどの環境変化に極めて対応しにくい硬直的なものとなった。生産管理面では作業改善には専門のグループがあたり,品質も監督者のチェックに委ねられることで現場の労働者は改善の意識を持たなかった。

生産現場では生産設備が故障しても組立ラインを止めないことが優先されたため,常に大量の予備在庫や予備設備,予備人員が必要であった。また生産の社会的組織面では大量生産システムに適合するように最終組立業者,部品供給メーカー及び金融機関などが垂直的に組織されたが,一方で最終組立業者と部品供給メーカーとの間ではある程度距離をおいた関係が維持された。最終組立業者と部品供給メーカーとの契約は短期契約が普通で,調達先の決定要因はコストでありかつ研究開発や新製品開発計画などは一切秘密とされたため,部品供給メーカーは先を見越した設備投資やコストダウンをはかりにくくなっていた。商品開発面では,なるべく1つのモデルの寿命を長く延ばすことで資本コストの最小化および短期的な収益の最大化が図られていたため,その開発サイクルは長期化していた。

(ヨーロッパの生産システム)

ヨーロッパでは,当初アメリカの生産システムを導入したが,気候条件やガソリン税などの差異から国によって求められるニーズが異なり,標準車を大量生産するシステムは十分には適合しなかった。そしてこの市場の分断化を背景に多数の小規模生産者が各国の異なった市場条件に合った設計,技術で製品をつくり上げていった。しかし1950年代から60年代にがけて世界中で関税障壁が低下しはじめると,ヨーロッパ自動車産業の製品の多様性は最大の強みとなり,アメリカとは対照的にヨーロッパの輸出シェアは域内,域外とも急速に上昇した。この時期アメリカ市場に対しても,ヨーロッパ企業はフォルクス・ワーゲンのビートルに代表される小型車で,当時アメリカ企業が生産していなかった分野に参入し成功をおさめた。このヨーロッパ企業の小型車市場での優位性は1960年代半ばまで続いたが,日本が低価格車で小型車市場に参入したことによりその優位性にかげりが見え始めた。この分野では量産技術による低コスト化が重要であるため,アメリカの生産システムを導入していたヨーロッパ企業は後述する日本の新しい生産システムには対抗できなかった。ヨーロッパ企業は日本との競合を避けるため,マーケティングの中心を中大型クラスにシフトさせ,多様な技術を駆使した高級化・少量生産指向で上位セグメントを強化していった。

ヨーロッパの自動車産業には圧倒的な優位を誇る最終組立業者がないことから,各業者は競争力維持のために研究開発に力を入れた。また部品供給メーカーや自動車デザイン会社も独自に研究開発に取り組むなど,全体として製品技術の面で技術革新を取り入れたハイテク・イメージを高めることにより国際競争力を維持してきた。しかしながら,最近日本車の高級車市場への参入がみられこのクラスでの競争も激化してきている。

(日本の生産システム)

日本でも,第2次世界大戦後アメリカの生産システムの導入を試みたが,市場規模が小さく需要が分断化している上に多くのメーカーが存在したのでうまく適合しなかった。その後,日本は品質と消費者ニーズを重要視し,欠陥の防止によるコスト削減の追求を基本思想とする新しい生産システムを構築していった。終身雇用制の普及により人件費は固定費とみなければならなくなった反面,技術向上のための教育訓練の効果が企業に帰属することが期待されることから人的投資を積極的におこなった。生産体制の面では,チーム単位に仕事が与えられチームの中で仕事が細分化する方法をとった。しかもチーム内ではそれぞれの労働者が複数の作業を習得しているので,製品仕様や作業フローの変更への迅速な対応,現場レベルでの作業改善が可能であった。生産設備も硬直的な機械化ではなく製品の仕様変更の際に切り換え可能なフレキシビリティーを持たせた。

生産現場では,「部品を必要な時に必要な量だけ生産ラインに供給する」ために後工程が前工程に引き取りに行き,前工程は引きとられた分だけつくるジャストインタイム方式がとられ,予備在庫は大幅に圧縮された。同時に機械の異常時には生産ラインを止めその時点で原因の究明が行われる「自働化」の方式がとられた。これらの方式を支えるためには生産工程全体に流れを作る必要があるので,最終工程の完成車組立ラインのロットを極力小さくし,同じものを続けて流さないことで,最終工程の生産のバラツキを小さくすると同時に金型交換のスピードアップが図られた。このジャストインタイム方式,自働化,小ロットでの部品生産という従来の生産システムとは異なる概念により,予備在庫の圧縮がなされた結果,生産のボトルネックの早期発見が可能になり,不良率の低下と生産性の向上をもたらした。生産の社会的組織面では,部品供給メーカー同士の競争関係と最終組立業者・部品供給メーカー間の機動的な協力関係が両立されており,最終組立業者と部品供給メーカーの相互協力,情報交換,製品授受を通じて,柔軟な商品開発や品質改善を可能にしている。

(それぞれの生産システムの競争力比較)

アメリカ,ヨーロッパ,日本の生産システムの競争力を生産性及び品質,R&Aamp;D支出,商品開発サイクルの面から比較してみよう。

まず最終組立工場の生産性及び品質の国際比較をみてみると(第3-3-4図),標準車1台を組み立てるのに要する総労働時間は,平均で日本の工場が19時間,日本のアメリカ現地工場が20時間である一方,アメリカ企業の自国工場は27時間,ヨーロッパ企業の自国工場(量産メーカーのみを対象)では36時間であり,明らかに日本企業が操業する工場の生産性が優位にある。品質に関しても同様で,使用開始後100台あたりの欠陥届け出数は,平均で日本の工場で52件,日本のアメリカ現地工場で56件,アメリカ,ヨーロッパでそれぞれ90,173件となっている。

次に1985年における自動車1台あたりのR&AD支出ではアメリカがヨーロッパおよび日本をわずかに上回っているが,アメリカで承認された自動車関連のパテントシェアでは日本企業が急速に伸びており,1985年には日本の上位3社が取得したパテント件数の合計がアメリカのビッグ3の合計を上回っている(第3-3-5図)。実際日本企業は4輪駆動や多バルブエンジンに代表される独自の技術基盤を確立し,それにより製品イメージを高めることに成功している。

新企画の発案から商品化までのサイクルを比較してみると,アメリカ,ヨーロッパが62カ月であるのに対して,日本は43カ月と優位にある(第3-3-6図)。このように日本企業の商品開発サイクルが短縮化できている要因としては①商品開発チームの責任者(プロジェクト・マネージャー)には開発にあたって最も機能的な組織を編成する権限が与えられており,中心となる開発チームは開発期間中はもちろん,時には生産開始まで組織が維持されること,②開発の初期段階に開発の進め方に関する意見調整が十分になされることにより,開発途中での計画挫折がほとんどないこと,③開発の早い段階から最終組立業者と部品供給メーカーの情報交換が行われることで,複数の開発過程を同時並行に進められること,などが考えられる。

(今後の展望)

以上みてきたようにアメリカの国際競争力は過去低下をみせてきたが,最近ではアメリカ企業の最高水準の工場での生産性は日本企業の工場の平均をわずかに上回ってきており(第3-3-4図),改善がみれる。これは日米自動車メーカーの合弁企業において,日本式経営方式と品質管理方式の導入により生産性と品質面で大幅な向上がみられたことが寄与しており,また日本企業の在米工場の生産性と品質の向上が刺激となっている面もあるものと考えられる(日本企業の対アメリカ工場進出の状況については付表3-3,付図3-4を参照)。また労使関係や最終組立業者と部品供給メーカーの関係も改善されてきており,さらに今後日本企業による新たなアメリカ現地での組立,部品調達,R&AD部門設立が進むとみられていることから,今後の国際競争力の回復に寄与することとなろう。

(2) 民生用電子産業

民生用電子産業にるても,自動車産業同様アメリカ企業,ヨーロッパ企業の競争力低下,日本企業の競争力強化の様相が見られる。しかし,競争力が低下してきてはいるものの,それは,両地域における民生用電子産業の市場規模の縮小を意味しているのではない。むしろ市場規模は拡大を続けている。アメリカでは,79年130億ドルであった市場は,83年284億ドル,さらに88年には438億ドルと79年当時の3倍以上にまで拡大している。また,ヨーロッパでも81年に187億ドルであった市場が85年には235億ドルへと拡大,年率6.O%の伸びを見せている (第3-3-7図)。

しかし,このような市場規模の拡大を支える旺盛な需要の相当部分は,輸入によってまかなわれている。アメリカの場合,79年時点ですでに28%であった民生用電子機器の)市場における純輸入割合は年上昇を続け・88年には30・1%に達している。

一方,ヨーロッパでも状況は同じである。70年当時は全体で黒字であった民生用電子工業の貿易バランスは,75年にはすでに赤字となっており,その後,年々赤字幅は拡大し86年には65億ドルにまで膨れあがっている(第3-3-8図)。ヨーロッパの競争力の弱さを象徴しているのが民生用電子部門のVTR部門である。80年代初めから民生用電子部門の代表的製品となった家庭用VTR市場では,ヨーロッパのメーカーは大苦戦を強いられており,ヨーロッパのVTR市場は88年には70%以上を日本メーカーによって占められている (付図3-5)。

このように民生用電子産業の市場規模の拡大にもかかわらず,日本を始めとする外国企業にシェアを奪われているのはアメリカ企業,ヨーロッパ企業の競争力が相対的に低下していることを示している。このように競争力に格差がついた原因は企業行動の相違にあるといえる。

民生用電子産業の産業的特性は,研究開発型,知識集約型であることだが,とりわけ,プロダクト・イノベーション(製品技術革新)主導型と言える。産業のライフサイクル論からすると,産業の勃興期にはプロダクト・イノベーションが盛んであるが,やがて,製品技術が安定するとプロセス・イノベーション(製造的革新)が進展して産業の成長期を迎え,次いで製造技術が標準化すると成熟期に入り,やがて衰退期を迎えるとされる。自動車産業については,現在も製品技術に漸進的進化が続いているものの,国際競争力を強化し得たのは,前述の通りその独特の生産管理方式(ジャスト・イン・タイムまたはカンバン方式)にあると言われる。すなわちプロセス・イノベーションによって主導されていると考えられる。一方,民生用電子産業も大量生産技術の開発等プロセス・イノベーションも行われているが,むしろ半導体等の技術革新に支えられ,不断の製品技術開発が続けられており,プロダクト・イノベーションに主導されていると考えられる。

すなわち,アメリカ,ヨーロッパ企業の競争力が,民生用電子産業において低下した要因としては,①プロダクト・イノベーションの相違,②その背景として,企業行動意識が極端な短期業績主義であること,③両者の企業マーケティング戦略が日本のそれと違っていたことが挙げられる。

(アメリカの企業行動)

民生用電子機器の代表的製品であるテレビ,カラーテレビ,VTRは当初アメリカによってもたらされた。最初のテレビは1939年アメリカで発売され,カラーテレビ放送も1956年にアメリカで開始され,VTRもアメリカ企業によって開発された。

しかし,その後アメリカ企業の市場シェアは,市場規模の拡大にもかかわらず後退の一途を辿り,現在に至っている。アメリカの電子工業における民生用電子機器部門の衰退の様子は,アメリカの電子工業の部門別貿易バランスと部門別雇用者数の推移(第3-3-9図)によっても明らかである。

まず79年当時36億ドルであった民生用電子機器の貿易赤字は83年には78億ドルと倍増,88年には132億ドルとさらに増加した。その間産業用電子機器の貿易黒字は逆に増加し,近年通信機器部門が貿易黒字を大幅に伸ばしている。一方,雇用数についても民生用電子機器部門が減少,通信機器電子部品,コンピューター部門の雇用者が増加している。

すなわち,アメリカ企業は民生用電子部門から撤退した後,電子工業部門でもコンピューター等産業用電子機器へと事業展開し,さらに,一部は他産業へと事業展開をシフトしていった。その結果,アメリカの民生用電子産業における企業の研究・開発投資も減少することとなった。電子産業の部門別R&Aamp;D支出の推移(第3-3-2表)を見ると,民生用電子部門では滅少傾向にあるものの,逆にコンピューター等産業用電子部門及び電子部品部門では年々高まっている。民生用電子産業での競争激化により高い利益率が望めなくなったこと,また競争に勝つためには長期的かつ莫大な研究開発投資が必要とされ,さらに投資のリスクも高かったことから,こうした投資が抑制された。また同時に,技術者も企業を離れていった。このように研究開発の抑制がプロダクト・イノベーションの停滞を招いたと見られる。

このようなアメリカ企業の行動を規定しているのが短期業績主義と言われるが,その背景として,企業の事業資金調達方法があげられる。アメリカの企業は事業資金を十分に発達した資本市場を通じて主に個人投資家から調達しており,そのため配当率を高水準に維持しなくてはならない。そこで,事業展開する場合には少しでも収益率の高い分野への進出が不可欠とされ,収益率が悪化する場合には,主要業務部門を切り捨てても収益率の高い業種への進出という形の行動を起こすのである。

民生用電子産業はもともと利益率が低く,大量生産で採算をとる分野である。

しかし,市場における競争が激しくなると,アメリカ企業は,短期的利益を追求する体質があることから,価格の引き下げ等のいわゆる価格競争戦略で対抗することができず,民生用電子産業からの撤退を余儀なくされ,価格よりも品質を重視する産業用電子産業へ進出したのである。最初にVTRを開発したアメリカ企業が,民生用VTRの生産を中止し,放送用機材市場に進あしたのもこのような事情を背景としたものである。

日本,アメリカの競争力に絶対的な格差がついたのは,両国企業の石油ショックに対する対応の違いであるといわれる。70年代中ばは,石油ショックによる不況のため,世界各国ともカラーテレビをはじめ民生用電子機器需要は冷え込んでいた。このような中,日本企業は徹底した合理化とコストダウンを実施するとともに,中長期的視点から高水準の設備,研究開発投資を行った。これに対して,アメリカ企業は,短期的な収益確保のため,中長期的な研究開発投資を抑制したのである。このような,長期,短期の経営姿勢の違いがプロダクト・イノベーションに格差を生み出し,その後の民生用電子機器に対する需要拡大期において,アメリカ企業の供給能力が不十分なものとなり日本企業は圧倒的な優位性を獲得したのである。

また,日本,アメリカ企業のマーケティング戦略の違いも競争力に格差を付けた。日本企業は,マーケット・リサーチを生産,販売にも積極的に生かした。

カラーテレビがすでに普及し,ターゲットとすべき需要層が2台目需要あるいは低中所得者需要になりつつあった時期に,小型機中心の生産,販売を指向し,量販店の開拓にも注力,流通ルートをも確保したのに対し,アメリカ企業は,依然大型機種重点の販売を指向し続け,量販店,小売店の開拓にも十分に取り組まなかった。それゆえ,安価で小型ながら高性能な,市場ニーズに合致した日本製品は,市場に強力に浸透していったのである。

民生用電子産業において,日本企業が言わば消費者本位で,マーケット・リサーチによる市場ニーズに対応した製品開発を行うとともに,長期的視点に立った地道な研究・開発を行ってきたのに対し,アメリカ企業は,むしろ株主本位であり,長期的な研究・開発よりも短期的な利益確保を優先したのである。

民生用電子産業がこれだけの成長産業でありながら,メーカーの撤退が相次ぎ,衰退していったのもこのようなアメリカの企業行動に起因すると言える。

(ヨーロッパの企業行動)

ヨーロッパの場合もアメリカと同様,民生用電子工業の衰退については,プロダクト・イノベーションの停滞によって説明ができる。その背景として,ヨーロッパ企業にも短期業績主義の問題が存在するが,アメリカ企業の場合と若干異なる。

ヨーロッパの場合,民生用電子産業は1950年代にはアメリカの攻勢を受けたが,各国は自国産業を保護しアメリカの参入を阻止するべく,各国が独自の判断で,アメリカとは異なる規格を採用した。たとえば,テレビ放送システムについては,アメリカがNTSC方式であるのに対し,フランスはSECAM方式,他のヨーロッパ諸国はPAL方式を採用した。またVTRについても,当初80年代初頭,ヨーロッパではV-2000方式という,日本のVHS方式ともベータ方式とも異なる方式で生産が行われた。すなわち,技術的な障壁を築くことにより外国産業の参入を阻止してきたわけであるが,このことが逆にヨーロッパの企業競争力の低下を招くこととなった。

ヨーロッパ企業の競争力の低下は賃金コストの高さ,生産性の低さといった一般に言われる要因(付図3-6)の他,規格の相違により市場が分断され,市場規模が狭く,量産効果が薄いことも大きな要因と言える。ヨーロッパの企業はたとえばEC12カ国に電機製品を輸出する場合には,現状10~11通りの規格を採用しなくてはならないのである。ヨーロッパ各国での規格の相違は外国企業の参入阻止に関しては効果をあらわしたと思われるが逆に企業が競争力を強化するべく,ヨーロッパ全休を市場と考えた場合にはそれは強力な障害となったのである。規模のメリットが期待できないことから,長期的な研究開発投資よりも短期的利益の確保が重要とされた。これがヨーロッパ的な短期業績主義であり,それによって,産業としてのプロダクト・イノベーションも小規模かつ不十分なものにとどまったのである。

このような障壁の存在は,企業のマーケティング戦略にも少なからず影響してきた。すなわち,生産,販売ともに各国の個別事情が存在し,また各国の消費者ニーズも異なることから,どうしてもヨーロッパ・スケールでのマーケティングが困難となり,必然的に各国単位のマーケティングへと小規模なものにシフトせざるを得ないのである。ヨーロッパの分断された市場はヨーロッパの企業経営者にリスクを乗り越えても新しい事業分野へ進出しようとする意識を希薄なものにしたのである。企業の経営者は,生き残るために安全な道を選び,競争力のある製品開発のため投資する積極姿勢を欠落させてしまったのである。そのために,日本のVTRの市場参入,シェア拡大を招いた。ヨーロッパ企業のこのようなマーケットの細分化も,競争力を弱めた要因と言える。

現在,ヨーロッパで進められている市場統合の動きは,上記の通り分断された市場を統合し,規模のメリットを生かしヨーロッパ産業,ヨーロッパ経済を強化することを目的とするものである。1992年EC統合に向け,技術的な障壁の除去,すなわち,規格の統一も進められている。プロダクト・イノベーションにも変化がおこっており,ユーレカ計画等ヨーロッパスケールでの官民一体となった大規模な研究開発もスタートしている。その中で,次代を担う民生用電子機器としてのHDTV(High Definition Television)の研究開発が注目されている。しかし,そのHDTV開発にあたり,ヨーロッパにおいては,番組制作規格(1250/50規格)と放送規格(HD-MAC方式)とも日本が開発している規格(1125/60規格,MUSE方式)と異なるものをユーレカ計画により開発している。テレビジョン方式,とりわけ放送規格の採用にあたっては,各国の周波数事情や放送政策等に左右されるものであるが,ヨーロッパが独自方式を開発することを決定した背景には,産業界がら自国産業の競争カ保持のため独自規格を採用すべきとの要望があったといわれている。ヨーロッパの場合,国際競争力を回復するには,規格の相違に頼らず,経営者が積極経営姿勢を取り戻し,民生用電子産業のプロダクト・イノベーションを進展させることが重要である。

(日本の企業行動)

日本企業はここ40年間の間に少量の低廉でしがも低品質な部品とラジオの製造からマーケット・シェアにおいても,技術面でも世界をリードするに至るといった飛躍的な発展を遂げた。日本の民生用電子産業においては,半導体産業に支えられ,プロダクト・イノベーションが継続されてきており,それによってこのような発展が生み出されたといえる。

すなわち,日本企業が企業競争力さらに産業全休の競争カを高めた要因としては,①日本企業が電子技術での不断の研究開発,すなわち,プロダクト・イノベーションを推進したこと,②その背景として,アメリカ企業のような高水準の利益率の追求よりも長期的発展を重視したこと,③国内市場同様海外市場,特にアメリカ市場を念頭に置き,綿密なマーケット・リサーチに基づいたマーケティング戦略を行ったこと,が挙げられる。

日本の電子工業は欧米企業からの技術導入をもって始まった。当初,日本は労働集約的な産業で比較優位を持ち,低廉で良質な労働力を国外に求めていた資本集約的なアメリカ企業の進出により,その現地アッセンブラーとしてスタートした。その後,電子技術で立ち遅れていた日本企業はトランジスター,ラジオ,テレビ等の技術を欧米から積極的に導入し,実用化技術の開発にも注力した。さらに,積極的に市場調査に乗り出し,市場ニーズを適確に把握する手法を身につけ,そのニーズに合致した商品の研究・開発をも併せて行うようになった。日本における技術者教育と欧米企業からの技術により,日本の技術力,生産能力は急速に高まった。60年代には電子管,トランジスター,家庭用ラジオ,自黒テレビ市場の大部分を獲得し,80年代には,カラーテレビから集積回路,VTR技術へとシフトしていった(第3-3-10図)。特にVTRにおいては,日本の中にVHS,ベータの2方式が併存し,その両陣営の企業が激しい技術開発競争を行ったが,そのことが一層競争力を高めた。このことは,規格の相違がヨーロッパにおいては,競争力の低下へ導かれたこととは,対照的といえる。すなわち,規格は相違してもその中で,不断のプロダクト・イノベーションを推進したことが,日本企業の競争力を強化したのである。

一方,日本の企業は,欧米企業の技術水準,経営水準に追いつく目的のために長期的発展を求められた。また,日本企業の株主についても,その意識は,単に配当率を引き上げることよりも,企業の長期発展を求めることが多かった。

そのため,日本の企業はアメリカ企業と違い,短期業績主義に走ることなく,企業としても,長期的視点に立った研究・開発投資ができたのである。

また,企業経営についても,国内市場指向の強いアメリカ企業に比べ,海外市場指向,輸出指向が強かったことから,海外市場に参入するために綿密なマーケット・リサーチが必要とされた。日本企業には,巨大化したアメリカ企業に較べ規模も小さかったことから,市場ニーズを生産,販売へ直ちに生かす柔軟性をも持ち合わせていた。前述の通り,アメリカ市場において,ターゲットが低所得者層に変化した時に,日本企業は小型,低価格を武器に市場シェアを拡大したのは,その典型と言える。このようなアメリカ企業に無いマーケティング戦略を採用したことも日本の企業が飛躍した重要な要素であった。

(今後の展望)

民生用電子産業は,半導体等の電子部品産業に支えられ,プロダクト・イノベーション主導型の産業として成長してきた。また,今後とも成長の見込まれる分野である。テレビ放送システムの高度化(音声多重放送,衛星放送,ハイビジョン放送等)とあいまって,それに対応した周辺機器が次々と生み出されてくるであろう。

前述した通り,ハイビジョン放送に対応したハイビジョン受像機及びその周辺機器の市場は,2000年には3兆円規模とも言われ,民生用電子産業の次代の代表的製品となる可能性を秘めている。各国とも研究・開発に注力しているが,ヨーロッパ,日本などにおいて独自の放送規格を採用しようとしている。例えば,ヨーロッパがHD-MAC方式,日本がMUSE方式である。しかし,いずれの規格になろうとも,このHDTV市場で競争力を維持するためには,やはり各国企業のプロダクト・イノベーションと企業マーケティングが鍵となろう。

民生用電子産業において,競争力を回復するためには,長期的視点に立った不断の研究・開発,すなわちプロダクト・イノベーションーと市場シェア重視のマーケティング戦略が必要不可欠と考えられる。

3. アメリカ,日本で異なる発展の経過をたどった産業のケース・スタディ-半導体産業

(1) 半導体産業の現状

アメリカの半導体産業はトランジスターの商業化を皮切りに,1950年代から70年代にかけて世界を常にリードしてきた。1970年代半ばには,世界に占める

シェアが60%で,内訳は国内シェア95%,ヨーロッパでのシェア50%,日本でのシェア25%となっていた。しかしながら1980年代にはいると,アメリカのシェアが低下し,かわって日本のシェアが急速に拡大した。その結果,87年には世界に占めるシェアでアメリカが40%,ヨーロッパが10%と低下する一方,日本は10年間で28%から50%へと急速に拡大した(第3-3-11図)。アメリカの半導体及び関連装置の貿易収支をみても,1970年代には黒字であったが,82年には3.7億ドルの赤字に転じ,84年には23.4億ドルの赤字に拡大した。その後若干縮小しているものの,なお10億ドル台の赤字となっている(第3-3-12図)。一方日本の半導体メーカーは世界の外販市場でのシェアでは既に1986年にはアメリカを追いている。さらに世界の半導体企業の売上ランキングの上位10社のうち6社は日本企業であり,特に上位3社を独占している。

他方,半導休製造装置産業の分野でも競争が激化する中,日本企業のシェアが1970年代の10%から1987年には35%と拡大してきている。日本はまた,半導体産業にとって重要なパッケージング,自動組立装置などの資本設備,様々な純粋原料,サービスなどの周辺分野でもシェアを伸ばしてきている。

このような日本とアメリカの半導休産業の相違点について,産業構造,需要構造,技術開発の面からアメリカ,日本それぞれの半導体産業の歴史を振り返りつつ述べてみる。

(2) 産業構造の相違

アメリカの半導休産業は1950年代の創世期においては,半導体を使用する電気・通信・コンピュータの大企業が主体であった。1960年代になると大企業の技術者がスピンアウトし自ら企業を設立し,次々にベンチャー企業が生まれていった。この時期,政府による研究開発投資と高価格での調達保証,中小企業保護政策,発達した金融市場からのベンチャー・キャピタルの流入などがベンチャー企業の形成促進要因として働いた。当時半導体分野では技術革新が早いテンポで進んでいたが,情報伝達とそれを受けての意思決定が遅い大企業はベンチャー企業の機動性についていけず,1960年代後半から70年代始めにかけての最初の半導体不況時に,多くの大企業が半導休部門から撤退した。例外としてIBMやAT&Tなどの巨大企業は,大きな影響を受けずに最大の生産を行っていたものの,完全なキャプティブ(内製化)メーカーであったため,外販市場には登場しなかった。この大企業の撤退がさらにベンチャー企業の設立に拍車をかけることとなった。1970年代後半になると競争の激化等から設備投資時代にはいり,膨大な設備資金を必要としたため,競争力のあるベンチャー企業だけが残った。幾つかのベンチャー企業は大企業に買収された後,じきに撤退もしくは他社への転売のかたちで消滅していった。1980年代にはいるとICの多様化に対応して価格競争になりにくい特殊用途の半導休を専門に製造するベンチャー企業が多くなってきている。

これに対し,日本の半導休産業は当初,1970年代の電卓需要が生じるまで,産業を牽引するほどの需要はなかった。したがって,当時国際競争力を有していた総合電機メーカーが当初は自社内供給を目的として半導休の製造を開始し,その後の半導体産業の成長を担った。

アメリカは1970年代まで技術革新のほとんどを担っていたが,その技術革新は多くの場合,小さなベンチャー企業から生みだされてきた。すなわちベンチャー企業は意思決定が早く,新しいアイディアで次々に市場参入し,この過程が繰り返される中で新しい商品が産まれ,技術革新を促したのである。しかし製品が成熟期をむかえた現在,それらの半導休製造を専門とするアメリカ企業は大資本をバックとした日本の総合電機メーカーと競合するようになってきている。

さらに,1980年代においてアメリカの半導体産業はVLSI(大規模集積回路)の大量生産技術の開発へと移行していった。しかしこの新しい技術の開発には巨大な資本投下,R&Aamp;D支出の拡大や部品供給過程から製造過程までを含む大規模な開発プロジェクトが必要であったため,アメリカ企業の中には,最先端の製造技術に追随できないものもあった。

(3) 需要構造の相違

アメリカと日本の最終用途別の市場構成をみると(第3-3-13図),日本の場合アメリカに比べて民生用の需要が43%と極めて大きいが,一方アメリカは産業用需要が中心で民生用需要の占める割合が7%と小さいのに加えて,日本にはほとんどない軍事関係の需要を含む官・公需が21%とかなりの割合を占めている。このことはそれぞれの国の半導休産業とそれに対応する需要面の歴史的な変遷に起因している。

アメリカでは,早い時期から国防省によって,軍事・宇宙開発向けIC開発を目的とした産業育成のための資金援助が行われていて,軍需依存型の技術開発で成長してきた。しかし1960年代の終わりから70年代初頭にかけて軍事需要の伸びが鈍化したことや軍事調達を前提としていたためにコスト削減努力がなされなかったことから,技術・生産両面で技術が低下した。その後,需要の中心は軍需からコンピュータなどの産業用電子機器に移行し現在に至っている。

これに対し,日本の半導体産業は当初電卓用を始めとしてコンピュータや音響機器用などが需要の中心であった。そして第2次石油ショック後の軽薄短小,メカトロニクス化にともないVTR,自動車,家電などで本格的にICが使用され,民生用需要が拡大したことにより急激に成長した。そもそも民生用製品が市場において優位に立つには製品自体が価格競争力を持つ必要があり,また使用される用途および環境の変化の幅が大きいため,その部品となる民生用半導体分野では,①絶えずコスト引き下げ圧力がかかることで,メーカーにコスト意識が芽生え,結果として価格競争力が高まった,②大きな環境変化にも対応できる性能が要求されるため,品質向上に好ましい影響を与えた,③コストを引き下げるためできるだけ多く生産・販売しようとする傾向が強いことから,量産技術の進歩に結びついたなどの好結果を生みだした。

(4) 技術開発

半導体は典型的な技術先行型産業であり,アメリカの半導休産業が世界をリードしている時は,半導体デバイスの基礎的な技術革新はほとんど全てアメリカで生まれていた(付表3-4)。しかし,1987年のアメリカ国防省科学委員会の報告では25の技術分野でアメリカが先行している分野はわずか4つであると指摘されている(付表3-5)。これによると,アメリカはマイクロ・プロセッサやロジックなどの設計集約型の基礎分野で今なおリードしているものの,デバイス技術や製造技術を中心とした応用分野で立ち遅れている。さらにX線リソグラフ,ガリウムひ素,3次元ICなどの重要な分野でも日本が対等もしくは先行してきている。

日本が技術水準の向上に有利である要因として,大きく3つの理由が考えられる。第1の理由は1970年代に日本では技術者数が増加したのに対してアメリカでは逆に滅少したことで技術者数が逆転し,日本が技術開発に不可欠な人材供給面で優位に立ったことである。さらに日本では,技術者は長期雇用が保証されていることから企業従属度が高くスピンアウトがアメリカに比べて少ないため,企業内の技術蓄積が確実に行われた。

第2の理由としてはアメリカ企業の短期的な利益重視の経営姿勢を原因とする技術流出がある。アメリカ企業は短期的な利益を重視する傾向があるため,利益増加を目的に先行している技術を売却・交換したり,コスト低減のために日本を初めとする他国の企業に生産委託する対応をとった。したがって,アメリカの優れた技術に対して日本企業はアクセスが容易であった。

第3の理由は日本が民生用を中心としたMOS型ICの開発に着手し,比較的早期からその実用化に取り組んだことである。先に述べたようにアメリカでは当初軍需依存の形で技術開発がなされ,高処理速度,高性能のバイポーラ型ICが主休であった。これに対し日本では1970年代初期まではバイポーラ型ICを多く生産していたが,民生用には,演算速度は劣っても小型化が可能で,消費電力が低く,かつ集積度を高めやすいICが必要であった。この条件をみたすために日本はメモリー主休のMOS型ICの開発から出発して技術を蓄積し,ロジックもMOS型ICで置き換えることに成功した。この過程で日本は製造技術の高度化と量産プロセス技術,集積度を高めるために必要な微細加工技術の向上を図った(MOS型ICとバイポーラ型ICについての解説は付注3-1を参照)。

(5) 今後の展望

半導休産業は単に現在の300億ドルから2000年には2,000億ドルに拡大が見込まれる急成長分野であるだけでなく,半導休自身コンピュータや通信などを含む他の主要な製造業にとって不可欠な部品である。そのためアメリカにおいても半導休の製造技術の重要性に着目しており,1987年に民間と国防省の共同出資によって半導体開発機構SEMATECHを設立して,製造技術及び半導体製造装置の技術向上に向けて官民あげて取り組んでいるところである。また,民間においても,1989年に,半導休メーカーとコンピューターメーカーにより,DRAMを製造するコンソーシアム構想が打ち出され,現在事業化のフィージビリティ・スタディ,資金の調達等の準備中である。

また,日米両国の半導体企業間においても,個々の企業対企業ベースであるが,両国の特徴を生かした技術協力関係が急速に増加しつつあり,今後も,積極的な日米間における技術提携,交換等を行うごとで,双方の技術力を総合的に向上させるように努力することが望まれる。

4. 企業の財務構造の比較

ケース・スタデイにより,自動車,民生用電子の各産業において,各国の競争力の格差に結びつく企業行動の相違を明らかにしてきたが,そういった企業行動の相違は,各国企業の財務諸表からも伺い知ることができる。以下では,日本,アメリカ,ヨーロッパの代表的企業の売上高構成比率及び関係比率を比較し,企業行動の特徴およびその背景を明らかにしたい。

なお,欧米企業の財務データの制約により,1982年,1985年の2時点の比較とした。また欧米企業については,財務諸表の細目が各国の会計処理方法等の相違により必ずしも同一ではなく,勘定科目の分類,内容,性質には若干の差があるが,できる限り分類統一が図られたデータを用いて分析を行った。各国の企業財務諸比率の比較にあたっては,対象企業数,企業規模が異なること,特定の代表的企業についての経営比較であること等の諸点には留意する必要がある。

(1) 企業財務の構成比率

第3-3-3表・1は,1982年及び1985年のデータ(但し,日本企業は1982年度及び1985年度)を用いて,各国企業の売上原価,販売費・一般管理費等,各項目の売上高に占める割合を表している。売上原価率は,1982年はアメリカが76.4%,ヨーロッパが76.2%で日本の79.5%に対し,それぞれ3.1ポイント,3.3ポイント低い。また1985年は,アメリカが75.9%,ヨーロッパが75.6%で,日本の78.8%に対して,それぞれ2.9ポイント,3.2ポイント低い。アメリカ企業の売上原価率が日本企業より低いのは,アメリカでは原材料,部品の内製化が一般的であり,一貫生産の下,原材料費,外注加工費が相対的に安くなることに起因すると考えられる。なお,売上原価には,純粋な原材料費,外注加工費の他,工場労働者の労務費も含まれるが,賃金コストの高いヨーロッパでも売上原価率は,日本よりも低い。他方,販売費・一般管理費率はアメリカが最も低く,ヨーロッパが高くなる。1982年は,ヨーロッパが18.1%で,アメリカの15.5%,日本の14.6%に較べ,それぞれ2.6,3.5ポイント高く,1985年も,ヨーロッパが19.O%で,アメリカの15.2%,日本の15.6%に較べ,それぞれ3.8,3.4ポイント高くなっている。ヨーロッパが高いのは,賃金コストの高さだけではなく,ヨーロッパ市場全体をマーケットとする場合,各種の障壁の存在に伴う余分な管理費の存在といった要因も考えられる。

この結果,営業利益ベースでは,1982年はアメリカが8.1%で,ヨーロッパの5.7%,日本の5.9%に対してそれぞれ2.4ポイント,2.2ポイント高く,1985年もアメリカが8.9%で,ヨーロッパの5.5%,日本の5.6%に対してそれぞれ3.4ポイント,3.3ポイント高い。さらに営業外損益を考慮した税引前当期利益ベースでは,1982年はアメリカ企業の日本,ヨーロッパに対する格差は拡大し(アメリカ7.8%,,ヨーロッパ4.5%,日本4.0%),1985年では逆に格差は縮小した(アメリカ7.8%,ヨーロッパ5.0%,日本4.8%)。

しかし,営業外費用比率は,1982年はアメリカが1.70%で,ヨーロッパの3.52%,日本の4.24%よりも低く,1985年もアメリカが1.55%で,ヨーロッパの2.62%,日本の3.09%よりも低い。日本企業の営業外費用比率が高いのは,日本企業が高度成長期における投資を主に借入金でまかなってきた結果である。資本構成(第3-3-3表)により明らかであるが,自己資本比率は,日本が,1982年,1985年とも最も低く,必然的に他人資本比率は日本が最も高くなる。また,ヨーロッパでも企業が伝統的に株式公開を嫌い,銀行融資による間接金融に依存してきたこと,さらに政府も制度金融を重視し,資本市場の育成が遅れたこと等から自己資本比率がアメリカより低くなっている。

税引前当期利益から法人税等を差し引いた売上高当期利益率の段階においては,1982年アメリカが3.4%で日本の1.9%に対して,1.5ポイント高く,逆にヨーロッパは1.7%で日本よりも0.2ポイント低くなり),また1985年でもアメリカが4.6%で日本の2.3%に対して,2.3ポイント高く,逆にヨーロッパは1.9%で日本よりも0.4ポイント低くなった。各国の税引前利益に対する法人税等の比率は,1982年アメリカが55.8%,日本が53.2%,ヨーロッパが62.9%となっており,また1985年はアメリカが40.6%,日本が53.1%,ヨーロッパが62.2%となっている。1982年,85年ともヨーロッパが売上高当期利益率で日本よりも低くなったのは,法人税等の比率が日本に較べて高いことが原因である。

(2) 企業財務の関係比率

次に各国企業の収益性を明らかにするために,関係比率を比較してみよう(第3-3-3表・2)。なお,以下利益については税引後の当期利益を用いた。企業収益の総合指標である総資本利益率(当期利益/総資本)を1982年及び1985年のデータ(但し,日本企業は1982年度及び1985年度)で比較してみると,1982年は日本2.0%,ヨーロッパ2.1%に対し,アメリカは4.3%,また1985年は日本2.6%,ヨーロッパ2.7%に対し,アメリカは5.5%といずれもアメリカが倍以上も高い。この総資本利益率は,売上高利益率(当期利益/売上高)と総資本回転率(売上高/総資本)の相乗積として表される。それをおのおのに分解してみると,売上高利益率は,日本1.9%(1982年)2.3%(1985年),ヨーロッパ1.7%(1982年)1.9%(1985年)に対し,アメリカは3.4%(1982年)4.6%(1985年)とやはり倍近い。他方,総資本回転率は日本1.1回(1982年,1985年)ヨーロッパ1.3回(1982年)1.2回(1985年)に対し,アメリカ1.4回(1982年)1.3回(1985年)となっており,大差はないといえる。言い換えれば,日本企業,ヨーロッパ企業は,総資本回転率ではアメリカ企業と大差はないが,売上高利益率で大きな差があり,これが総資本利益率の格差の要因となっているのである。

アメリカ企業の売上高利益率が高い背景としては,企業として売上高利益率を引き上げなければならない事情,すなわち,短期業績主義の企業経営とそれを可能にする経営環境があげられる。アメリカ企業は,前述の通り自己資本比率が高いことからもわかるように,外部借入金での調達や社債の発行よりも,発達した資本市場を通じ,株式発行により大量の資金を調達してきた。しかもアメリカの場合,株式全体に占める個人の保有率が60%超(日本は20%程度)とかなり高いことが特徴となっている。

アメリカの個人株主は,企業に対しより高い配当を求める傾向があるが,これは投資家としての株主は一株当たり配当や一株当たり利益を判断基準として行動するからである。そのため,企業の株主重視の姿勢もはつきりしており,個人資金を調達するために,必然的に配当率(払込資本に対する配当金の割合)を高めに維持せざるを得ない。そこで,企業経営者は短期的に高業績をあげる必要性に迫られ,短期業績主義に向かわざるを得ないのである。このことは,アメリカ企業の配当率が55.3%(1982年)59.7%(1985年)と日本の11.3%(1982年)12.4%(1985年),ヨーロッパの3.4%(1982年)21.0%(1985年)に対して極めて高いことからも推察できる。配当性向,すなわち税引後利益から株主配当へ振り向けられる割合も日本,ヨーロッパに対し,アメリカは68.1%(1982年)63.6%(1985年)と高くなっている。

アメリカの場合は売上高利益率が高いといっても,その内の6割以上は,配当として社外流失していまい,内部留保として残る割合は少なくなる。逆に言えば,配当率を高く維持し内部留保も残すためには,必然的に売上高利益率を高めなくてはならないともいえる。

また企業が容易に売上高利益率を高めうる事情も存在する。すなわち,アメリカでは少数の巨大企業の寡占状態にある産業が多い。そのため,売上が伸び悩む場合,また金利高等により資本コストが高い水準にある時には,企業は比較的容易に価格を引き上げ,売上低下を抑える傾向がある。

以上みてきたように,アメリカの場合,資金調達の特徴から生ずる短期業績主義にもとずく企業活動とそれを可能にする寡占的な経営環境が,企業を安易に売上高利益率を高める方向へ向かわせるとみられる。

ヨーロッパについては,日本より売上高利益率が劣るにもかかわらず,配当性向が高く,したがって,内部留保は低く抑え込まれる。各国市場が分断され,規模の経済の恩恵を受けられない上に,社会保障費や法人税率が高いことから,利益率が低く,さらに,配当で社外流出することから,自己資金での研究,技術開発は小規模なものに留まる。ヨーロッパスケールでの経営戦略は各国の市場動向を調査し,綿密な分析を行う等長期的計画が必要な上多大なコストもかかる。また,失敗する可能性も高い。すなわち,ヨーロッパスケールでの事業は,長期的に見れば潜在利益率は高いかもしれないが,立ち上がりの時期には,ハイ・リスク,ロー・リターンであって,企業経営者に余程の覚悟を強いるものである。そのため積極投資姿勢を失ったヨーロッパの企業経営者たちは,リスクの少ない,国内市場のみをターゲットとした小規模な投資にとどまったとみられる。日本に対して技術開発で遅れをとり,競争力が低下していったのは,このような背景からであろう。

(3) 企業財務の変化と競争力

日本,アメリカ,ヨーロッパの各企業の財務状況には,それぞれ特徴がみられ,そこから競争力の相違に結び付く企業行動も伺い知ることができた。だが,最近,各国企業の財務状況にも変化がみられる。

各国企業の資本構成については,日本は従来自己資本比率が低く経営資本の大部分は,借入金等の他人資本であったが,日本でも資本市場が次第に整備されていったこと,企業体力がつき,企業の信用も向上,資本市場からの資金の調達が容易となったこと等から,近年は自己資本比率は高まる傾向にある(第3-3-14図)。1970年23.4%であったが,1985年には27.4%,1987年には33.1%となっている。

他方,アメリカ,ヨーロッパ企業については,自己資本比率が低下する傾向にある。自己資本比率が低下することは,財務構造が脆弱となる理由から好ましいことではない。しかし,アメリカでは自己資本比率の低下をさほど重視していない。それは,アメリカの企業経営者が自己資本比率ではなく,自己資本利益率を高めることに最大の努力を傾注しているからである。この自己資本比率と自己資本利益率の関わりを見ると,そこに各国の競争力の格差に結びつくような特徴が見受けられる。

自己資本利益率は,(総資本利益率/自己資本比率)に分解することができる。日本,アメリカ,ヨーロッパ各国製造業の自己資本利益率(第3-3-15図)をみると,日本企業は,自己資本比率が高まっているにもかかわらず,自己資本利益率が低下していない。これは,総資本利益率の上昇を意味し,まさしく企業収益性が向上し,健全な状態と言える。しかし,アメリカ,ヨーロッパ企業の場合は,自己資本比率が低下しつつ,自己資本利益率はこのところ高まっているものの,企業体質としては重大な問題を抱えている可能性がある。なぜなら,総資本利益率が一定の場合でも,自己資本比率を引き下げることによって,自己資本利益率を高めることは可能だからである。そこには企業の実体とは関係なく,財務指標が一人歩きを始める危険性が存在しているのである。

第3-3-16図 日・米・欧製造業の総資本利益率・売上高利益率総資本回転率の推移

たとえば,アメリカの経営者は,株主が一株当たり利益を重視していることから,自己資本利益率を高めることに最大限の努力を払う。しかし,本来,経営努力の結果であるはずの自己資本利益率が,それ自体経営者の目的に変わってしまっている。経営者は,大きな権限を与えられている代わりに,短期間に業績を挙げることで評価される。アメリカの経営者は,一株当たり利益とその反映である株価に最大の関心を払う。株価が下がれば,M&Aの危機にさらされる市場原理の存在により,経営者は短期利益を維持,向上させなければならないという強いプレッシャーを受けているのである。そのため,負債による資金調達は,自己資本比率を低下させるものの,逆に自己資本利益率は上昇させることから,最近アメリカ企業に好まれるようになっている。すなわち,財務諸表上の数字のみを追求する姿勢が,「長期的かつ不断の研究・開発により,製品技術・大量生産技術を磨き,製品生産を通じて利益の最大化を図る」本来の経営活動,経営努力から企業を遠ざけてしまったのである。このことは,アメリ力の短期業績主義の企業競争力に対する弊害である。

近年,M&Aが活発化し,しかも買収金額が高額化したことから,M&Aの手法としてLBOの利用が増加する傾向にある。このLBOにより銀行からの借入金が増加する結果,企業財務面においては負債些率は高まり,自己資本比率は低下するものの,自己資本利益率は上昇することになり,企業の目的は達せられる。これが,アメリカ企業にLBOが好んで利用される理由である。しかし,このLBOを多用すれば,たとえ短期間であっても,金融費用負担が重くなり,次第に売上高利益率にも影響し,その低下を招くことにもなりかねない。

ヨーロッパでもEC市場統合が確実視されるようになった86年以降,M&Aが盛んになっているが,1992年の市場統合による,規模の経済を追求するための純粋な企業休質強化が目的であるなら問題は少ない。しかし,今後,アメリ力的なマネー・ゲームとしてのM&Aの活発化は,ヨーロッパの競争力向上にとっては不安材料と言える。

一国の製造業が国際競争力を持つかどうかは,結局,その産業での企業行動に左右されると言っても過言ではない。モノをつくる本来の目的に向かい,自由競争の下で,商品開発等の企業経営努力を続け,企業体質を強化することが,製造業における国際競争力の回復の鍵を握るといえるだろう。