平成元年
年次世界経済報告 本編
自由な経済・貿易が開く長期拡大の道
経済企画庁
第2章 長期拡大のミクロ的要因
80年代に入って国際金融・資本市場が急速に発展し,世界的に金融資本市場の一体化が進んでいるが,この背景には,①情報・通信技術の発達による海外市場へのアクセスの改善,②世界的な資本自由化の進展,③基軸通貨国であるアメリカの経常収支赤字の巨額化,④国際貿易の拡大及び国境を越えた企業活動の活発化等があった。このような状況の下,国際金融・資本市場はその規模においても,またそこで扱われる商品の多様性等の内容の面においても一層の発展を示した。
国際金融・資本市場の規模を概観してみると次のような特徴がみられる(第2-5-1表)。第一に,資本市場については80年代の株価上昇や証券化等の動きもあり,イギリスを除き各国とも,その拡大テンポが金融市場の拡大テンポを大きく上回っていることである。第二に,アメリカ,イギリス,日本では資本市場のウェイトが高く,西ドイツ,フランスでは金融市場のウェイトが高いことである。第三に,国際金融・資本市場の拡大テンポが年率19.7%であるのに対し,世界貿易額は同4.5%,5か国名目GNP合計は同8.0%となっており,国際金融・資本市場の規模が実体経済の規模をはるかに上回って拡大していることである。第四に,国際金融・資本市場の80年から88年にかけての平均伸び率が19.7%であるのに対して,87年から88年にかけての伸び率は8.2%と鈍化していることである。その内訳は金融市場(グロス)が7.9%増,資本市場9.5%増となっているが,このような伸び率低下をもたらした要因のーつにアメリカの経常収支不均衡のファイナンスという点でのユーロ市場の役割低下が挙げられる。
87年と対照的に,88年は民間資本の流入がアメリカの経常収支赤字のほとんどすべてをファイナンスしたが,民間資本が国際市場を経由する流れが鈍化した。すなわち,従来,ユーロ債市場で多額のネット資金調達を行ってきたアメリカの民間企業の起債は,88年には前年比で38%低下し,約80億ドルとなった。
同様に,海外の銀行からアメリカのノンバンクに対する直接貸付は,87年の270億ドルから88年には160億ドルに減少し,その一方でアメリカの銀行による非居住者からの純借入額は87年の480億ドルに対し,88年はわずかに135億ドルにとどまった。したがって,アメリカの資本収支の内訳(第1章第3節参照)をみてもわかるように,88年はアメリカの株式・社債市場,国債市場での非居住者の証券取得及び直接投資がアメリカの経常収支赤字のファイナンスに大きな役割を果たしたことになる。このほかこのようなユーロ市場の伸び率低下の理由としては,①企業の潤沢な流動性と国内市場における資金供給の増加が,国際的な仲介の役割を縮小させたこと,②主要債務国が債務の転換プログラムに基づいて資金を返済したため,銀行の債権が減少したこと,③86年の日本のオフショア市場開設にともない,86,87年は資金の動きが大きかったが,88年にはその動きが落ち着いてきたこと,等があげられるだろう。
次に,国際金融センター毎の規模をみると(付表2-18),87年に比べて88年はほとんどの国で債権,債務双方とも大幅に伸びが鈍化(例.イギリス,フランス,西ドイツ等),もしくは逆に若干減少(例.ベルギー)していることがわかる。ただし,日本だけは例外で,債権,債務とも大幅に増加している。地域別では,ヨーロッパのシェアが年々低下しているのに対して,日本のシェアが急速に拡大している。これを債権についてみてみると,ヨーロッパは80年末には63.8%を占めていたのに対し,86年末51.7%,87年末51.5%と急激に落ち込み,88年末にはついに5割を切り,47.4%となった。それに対し日本では,80年末の5.O%から,86年末10.6%,87年末13.9%,88年末16.4%とそのシェアを拡大している。アメリカでは80年以降ほとんどシェアは変わらず,12~15%程度となっている。このような動きは,各地域の債務のシェアについても同様にあてはまる。国際金融取引における日本の役割が近年急速に高まっているといえる。さらに主要国の金融資本市場における,国際金融取引のシェアをみるため,銀行部門の資産・負債に占める外国業務の比率をみると80年から86年にかけて,アメリカでは低下したが,イギリス,フランス,イタリア,日本では増加している(第2-5-2表)。アメリカにおける比率の低下には途上国債務の減少,オフ・バランス・シート取引の拡大等が影響しているとみられる。国際金融取引の拡大は,外国為替市場の拡大に反映されている。ロンドン,ニューヨーク,東京の外国為替市場の一日平均為替取扱高は,86年3月の1,965億ドルから,89年4月の4,311億ドル(ロンドン1,870億ドル,ニューヨーク1,289億ドル,東京1,152億ドル)へ3年間に2倍以上の拡大を示している。
このように国際金融取引の拡大は,各国の金融資本市場の結びつきの緊密化と並行して進んでおり,各国の金融の自由化を促進し,金融資本市場の効率性を高めている反面,各国の金融・資本市場の連動性・同時変動性も高まっており,金融面でのリスク管理の重要性と国際協調の必要性は一段と高まっている。
金融の自由化・国際化の基本フレームとしては,従来,①金利規制,②業務分野規制,③内外市場分断規制の三つが存在していたが,経済環境の変化に伴う経済主体の金融行動の変化に金融システムが対応しきれなくなったため,近年,これらの規制を緩和ないし撤廃し,市場機能の整備を図ることによって市場の効率性を高め,金融システムを再編成する動きがみられる。業務分野規制にはさまざまなものがあるが,銀行業務規制と証券業務規制についてみると,これらを緩和することにより,新商品の誕生や活発な投融資活動がもたらされることになった。また内外市場分断規制を緩和することにより,内外の資金交流が促進され,ユーロ債等の活発な起債活動がなされるようになった。
付表2-19は,欧米主要国と日本について,金融面の規制を①金利規制,②業務分野規制,③内外市場分断規制に分け,その進展状況をまとめたものである。
まず金利規制については,最も早く金利自由化に踏み出したのは西ドイツである。西ドイツでは67年4月に金利調整令を廃止し,金利自由化を行った。イギリスでも,71年5月の新金融調節方式の発表を受けて同年9月金利協定が撤廃され,金利自由化が進展した。一方,アメリカでは70年代に入り金利規制の自由化が進み,86年3月までに営利法人の要求払い預金に対する付利禁止を除き,全ての預金金利規制が撤廃された。フランスでは86年5月,シラク政権の下,期間3か月以上の預金金利の自由化が達成されたものの,その後大きな進展はみられない。日本では自由化の動きは85年に始まり,欧米に比較し遅れたものの,その後急速な進展をみせた。大口定期預金の金利自由化は段階的に小口化され,89年10月には1,000万円以上が自由化されている。
業務分野規制については,その柱をなしている銀行業務と証券業務の垣根が問題となる。西ドイツ,フランスではユニバーサル・バンキング制をとっており,元来銀行業務と証券業務を区別する法的規制は存在していない。特に西ドイツでは,資本市場の発達が遅れており,間接金融が主休である。市場創設の遅れは,マルク建CD市場(86年5月),先物取引所創設(89年末予定)等に示される。また刻々変化するドイツ株価指数の公表(88年7月)もごく最近のことである。有価証券取引税が高いことも資本市場の未発達の原因となっている。
イギリスでは,慣行によって商業銀行と証券のすみ分けがあったが,86年のビッグ・バンによって,証券取引所会員に対する外部資本の出資制限が撤廃され,商業銀行の証券業務への進出が進んだ。しかし,証券流通業務への参入の自由化等による証券業界の過当競争,手数料の低下の影響,ブラック・マンデー等によってマーケット・メーカー等の経営が悪化している。このためロンドン証券取引所はさらなる改革を検討中である。他方,アメリカでは銀行証券業務分離の法的規制としてグラス・スティーガル法が存在し,銀行の証券業務の兼営が公共債に係わるもの等を除き禁止されている。ただし,海外での証券業務の兼営は自由であり,ユーロ市場を中心に米銀は活発に証券業務を営んでいる。
また,証券子会社を通じた銀行の証券業務への進出も進んでおり,証券子会社との間でファイアー・ウォール(人,資金,情報等の分離)を設けたうえで,現在までに証券子会社によるCP・社債等の引受売買業務が行われるようにないている。しかし,銀行・証券の業務分離というグラス・スティーガル法の根幹はなお維持されている。
内外市場分断規制については,西ドイツが61年に対外経済法の制定により為替管理の原則撤廃を行い,イギリス,日本もそれぞれ79年,80年に相次いで為替管理を撤廃している。一方フランスでは,為替管理の規制緩和が段階的に行われているものの,全面廃止には至っていない。投融資に関しては,日本で73年に例外5業種を除き対内直接投資の自由化が行われ,アメリカで74年に対外直接投資規制が廃止され,フランスでも76年に対外直接投資規制が一部緩和された後,86年には居住者による対外投資借款がほぼ自由化された。さらにEC市場統合に向けて,ECでは90年7月以降,資本移動の自由化がなされることになっている。中央銀行準備などの規制を受けないオフショア市場は,アメリカのIBF(81年),日本のJOM(86年)創設により拡大している。日本,西ドイツ,フランスのユーロ債市場における外債発行,主幹事業務に関する規制の緩和が進んでいる。国内資本市場における非居住者の参入についても,西ドイツの中期貯蓄国債の購入の非居住者への開放(88年),日本の東証会員権の外国証券会社への付与(86,88年),フランスの非居住者へのフラン建貸付規制緩和(86年)等の進捗がみられる。
以上のように三つの規制について,進展状況は各国まちまちであるが,金融の自由化・国際化は着実に進展している。
このような金融の自由化・国際化は,世界経済の持続的な拡大を支える要因として重要な役割を果たしてきた。即ち,各国の資源配分の効率性を高め,成長を高めるという所期の効果に加え,アメリカのような経常収支赤字国あるいは発展途上国のような貯蓄不足の国に対して,円滑に資金を供給する役割があった。このような資金流入がなければ,資金不足国の金利は高まり,その影響をうけて設備投資,成長の阻害要因となったであろう。
しかし,金融の自由化・国際化の進展によってもたらされる便益とともに,次のような弊害が生じる可能性が存在することを認識する必要がある。第一に,金融取引に関する制度上の諸規制は,主として銀行経営の健全性確保を通じた信用秩序維持(ないしは預金者保護)を目的として実施されてきたため,これらの諸規制を撤廃し,金融自由化が進展することにより,信用秩序維持が脅か)される危険性が存在していること,第二に,金融自由化・国際化の下での金融取引の拡大は,金融システムの効率を高め,利用者の便益を向上させるが,一方で,金融伸介業務における各種のリスクを高め,金融システムの安全性を損なう可能性を内包していることである。
80年代を通じて,各国は金融自由化の進展に伴う銀行経営に関する諸リスクの発生に対処するため,金融機関の自己資本をバッファーとして重視するようになり,各々の国で自己資本に関する規制を導入したが,各国間で規制が異なっていたために国際的競争条件の不公平が生じるようになった。また金融取引のグローバル化の進展に伴って各国金融市場の相互依存関係が強まったことから主要国間における規制の調和が急務とされるようになった。このような事態に鑑み,BIS(国際決済銀行)は88年7月に開いた会議で「自由資本の測定と基準に関する国際的統一化」と題する最終合意を発表し,銀行経営の健全性確保と各種のリスク回避を図った(付表2-20)。この合意によれば,銀行の自己資本のうち,少なくとも50%は普通株式及び税引後留保利益から生じた公表準備金からなるコア資本で構成されなければならず,その他の補足的資本はそれと同額まで算入できるとされている。また,銀行の資産をその信用リスクによってウェイトづけし,各資産の額にリスク・ウェイトを乗じたものを合計してリスク加重資産を算出するが,92年末までに,リスク加重資産総額に対してコア資本が4%,コア資本と補足的資本の合計を8%とすることが目標とされている。さらにバランスシートに載らない取引についても変換係数を使って信用リスク相当額を算出することによって対象資産に加えるとしている。
BISによる自己資本比率規制の国際的統一化は,自由闊閤達な取引や投資の展開によって発生するリスクを管理し,銀行業務の健全性を確保する目的で生まれてきた。しかし今日,国際協調は銀行業務だけでなく,証券業務にも及んでいる。
89年9月証券委員会国際機構(IOSCO)は,証券会社の自己資本規制,株式決済制度の統一,株式の多国間売り出しなど,広範な分野について各国が国際協調を進めていくことで基本的合意に達した。これは,証券取引の国際化の進展に際し,規制面における国際的調和の必要性が主要先進国を中心に高まっていることを示すものである。
今日の金融の自由化・国際化,さらにはグローバル化は,各国の金融システムが単に国境を越えて関係をもち,影響を与えあうだけでなく,さらに進んで互いに結びつき,一つに統合された「地球規模」の金融システムに変化していくという積極的な意義をもっている。こうした状況の下,銀行の自己資本比率の統一化にみられるように金融諸規制の国際的な平準化が今後益々必要となっていくものとみられる。
世界的な金融・資本市場の自由化の流れは,ヨーロッパにおいても急速に進展している。イギリスでは1979年以降サッチャー政権下で,大幅な規制緩和が行われ,1986年には証券取引所規則の改革(ビッグ・バン)が行われた。また,西ドイツ,フランスでも近年,急速な改革が進められている。西ドイツは金融面での地位向上を目的として,金融・資本市場の整備,創設,内外取引の規制緩和等がブンデスバンク主導のもとに行われている。またフランスでも金融・資本市場の整備,創設が政府主導のもとで行われ,85年にはCD,CPの発行が解禁され,86年TBの一般投資家の保有が認められるようになった。さらに86年には金融先物市場(MATIF)も創設された。このようなヨーロッパ各国の金融・資本市場の自由化は,1992年EC市場統合への過程で資本移動の自由化が現実的になったことに刺激されており,今後とも世界的な金融・資本市場の自由化の流れとあいまって,一層加速するものと思われる。それでは,まずEC市場統合及び通貨統合への動きはどのように進められているかを概観することとする。
EC(欧州共同体)は,1957年に締結されたローマ条約に謳われているように,「共同市場を設立し,加盟各国の経済政策を徐々に接近させ共同体全体の経済活動を発展・拡大させ生活水準の速やかな向上や加盟国間の関係緊密化を促進すること」を目指してきた。60年代には関税同盟の結成,共通農業政策の開始等一定の進展があったが,70年代には石油ショック等もあり,各国とも自国の国内的対応に追われ,市場統合の動きは,あまり進展しなかった。
しかし,EC市場統合の動きは,近年飛躍的に加速している。その背景としては,①1985年6月に「域内市場白書」(コーフィールド・レポート)が発表され,その中で完全な域内市場を実現するために除去すべき,人・物・サービス・資本の移動の自由に関する障害,約300項目が明示されたこと(付表2-21),②1987年の「単一欧州議定書」により,1992年までの統合市場完成が明示され,また,閣僚理事会での特定多数決方式(総数76票中54票賛成で可決)の対象となる項目が拡大されたこと,③1988年「欧州統合の経済効果に関するレポート」(チェッキーニ・レポート)が発表され,域内GDPの押しあげ効果,雇用機会の拡大等が明示されたこと等があげられる。
市場統合の内容のうち,金融面の統合に関して,「域内市場白書」においては重点を①資本移動の自由化と②金融制度の統合の2つに置いている。しかし,「単一欧州議定書」では,金融統合の達成すべき項目として,上記二点の他③経済・通貨同盟を挙げており,これを目指した金融協力の強化が謳われている。金利調節,通貨量政策等の金融政策は,各国の経済政策の要であり,金融面の統合は国家主権に直接関わる問題であるため,金融面の統合については,各国の利害の調整に手間取り,進行の遅いものとなっていた。しかし,近年金融統合についても,以下に述べる通り目覚ましい進展がみられる。そこで,ここでは金融統合の三側面について,その進捗状況をさらに詳細に述べることとしたい。(第2-5-1図)。
資本移動の自由については,すでにローマ条約において資本移動の漸進的な自由化が謳われている。これは,①EC域内諸国間における資金配分の適正化・効率化を図るための資本移動の自由の確保,②人,物,サービスの移動には必ず資金移動を伴い,単一市場の創設のためには資本移動の自由が前提条件となる,との考えを背景としたものである。60年には第1次自由化指令が,また62年には第2次指令が採択され,この両指令により直接投資および上場証券投資等に関する部分的な自由化は進展していたが,その後1960~70年代を通じてそれ以上の進展はなかった。むしろ通貨不安と2度にわたる石油ショックの発生という経済的混乱のなかで,ローマ条約で認められたセーフガード措置により,資本移動の自由は後退を余儀なくされた。
1980年代に入ると,欧州経済の回復によりEC統合の気運が盛り上がり資本移動の自由化の動きも再び前進し始めた。85年の「域内市場統合白書」の提出を受けて86年11月第3次指令案が採択され,直接投資の完全自由化や経常取引にかかる長期資本移動の自由化等が実施された。さらに88年6月には資本移動の域内完全自由化を目指して域内の外国為替管理規制の撤廃を主目的とした第4次自由化指令案が採択され,原則として金融取引に関する信用供与および短資移動が自由化されることとなった。
第4次自由化指令案の特徴は下記の通りである。
①すべての資本移動を無条件自由化の対象としていること。
②1990年7月1日までの自由化が原則ではあるがスペイン,ポルトガル,ギリシャ及びアイルランドについては一部取引に関し1992年末までの猶予を認めている(ポルトガル,及びギリシャは一部取引につきさらに1995年末までの猶予延長可)
③ベルギー,ルクセンブルグで採用されている二重為替相場制の廃止(1992年末まで)を規定している。
④EC各国とも緊急避難的な資本規制を一時的に発動できるセーフガード条項が盛り込まれている。
金融制度の統合に関するECの具休的提案は,銀行,証券,保険等を中心に広範な業務分野に及んでいるが,その中心をなすのは銀行業務分野の統一であり,その基本的な方針は「第2次銀行指令案」(88年2月,閣僚理事会に提出)に盛り込まれている。
第2次銀行指令案にみられる第1の特色は母国当局によ,る監督(homecoun-trycontrol)を原則とするEC「単一銀行免許制」の導入である。これにより,EC諸国丙のある1カ国で銀行免許を取得することにより,他の域内国で支店の開設が可能となる。また,監督面では,本店所在国以外の国(hostcountry)にある支店は,流動性規制等一部を除き原則として当該国ではなく本店所在国(homecountry)の監督下に置かれ,ることとなる。
第2に,EC域内の銀行が域内において行いうる業務範囲について,通常の商業銀行業務に加えて,顧客勘定による証券売買や株式ρ発行引受け等広範な証券業務を含むユニバーサル・バンキングの考え方が導入されたことも大きな特色である。
第3は,域外国の銀行が現地法人の設立や買収の形態でEC域内に進出する場合,被進出国のみならずECすべての国と当該国との間で相互主義(reci-procity)が満たされているか否かをEC委員会が審査するという相互主義の原則が導入されたことである(EC委員会は,審査の結果,相互主義の原則が充足されていないと判断された場合には,設立認可を保留することができる。)第2次銀行指令案は,理事会提出後,その内容については,相互主義条項の適用や母国監督の原則等に関しなお各国の意見の一致をみていない点もあったが,89年7月のEC蔵相・経済理事会で妥協案が合意に達した。この妥協案では,外国銀行に国内銀行と同じ待遇を与える第3国の銀行に対して,EC市場への参入を認めるとされ,銀行の営業環境をECと同様なものに整備するよう諸外国に求めているようにも読めた当初案に比し,穏やかな内容に変わった。
すなわち,当初この条項は解釈によっては,ユニバーサル・バンキング(銀行・証券業務の兼営)を認めていないアメリカ,日本の銀行の閉め出しにもっながるとの批判が強かった。そこでEC委員会は,相互主義的条項を,EC域内銀行が第3国で同等の競争機会を得るための交渉に適用することとした。すなわち,ECの銀行が第3国においてECと同等の「実効的市場アクセス」が満たされない場合には交渉が開始され,「内国民待遇」も受けられない場合には,当該第3国の銀行によるEC市場への参入を留保,制限することができるとした。
さらに,第3国銀行の申請の度に,その国の相互主義的扱いを審査するとしていた当初案を緩和し,EC委員会が定期的に第3国におけるEC域内銀行の待遇を評価するこどとした。この妥協案の狙いは,外国銀行の参入制限ではなく,外国で営業するECの銀行の公正な待遇の確保にあるとしている。
なお,妥協案では,1993年以前に設立された外国現地法人に対する相互主義条項の遡及適用はしないことが規定されている。
92年金融統合に関連した問題として欧州統一通貨・中央銀行構想があい,ずれも92年統合のアクションプログラムの中に明示的に示されておらず,EC加盟各国の考え方もまちまちであった。
そこで,1988年6月ハノーバーで開催されたEC理事会は,EC通貨統合の推進とそのための通貨経済同盟研究委員会(通称・ドロール委員会)の設置,1989年6月のEC首脳会議で通貨統合へのプロセスを検討することを決定した。
このドロール委員会は89年4月「経済・通貨同盟に関するレポート」を発表,90年7月1日の資本移動の自由化を第一段階として,下記の通り3段階で欧州中央銀行制度の創設,共通通貨の発行を目指す通貨統合実現のプランを提示した。
〈第一段階〉既存の中央銀行総裁会議の機能強化を通じて,各国の通貨・経済政策の協調と経済パフォーマンスの収斂を図るとともに,EC全通貨のEMS(欧州通貨制度)への全面加盟,すなわちERM(為替相場メカニズム)への参加を求める。
〈第二段階〉欧州中央銀行制度の創設を目的とする。同制度が政策の一般的指針を定めるとともに,プールした資金による介入を行うが,通貨・経済政策の最終責任は各国当局に帰属する。
〈第三段階〉為替レートをEC各国間で固定,撤回不能とし,単一通貨を発行するとともに,欧州中央銀行制度が通貨政策を一元的に決定し,その最終責任を負うこととする。
ERMへ不参加であったイギリス,ギリシャ,スペイン,ポルトガルの4カ国の内,スペインは6月19日に正式に参加し(付表2-22),6月のEC首脳会議ではイギリスも条件付きでEMS全面参加を表明し,下記のような共同コミュニケが発表された。
①通貨統合は,漸進的に推進すること。
②ドロール・レポートは,経済通貨同盟に向けてのひとつのプロセスを示すものであるが,経済通貨同盟の実現にあたっては,各国の多様性等も考慮すべきであること。
③経済・通貨同盟の第一段階は1990年7月1日こ開始すること。
④第二段階への移行に際し必要とされる,ローマ条約改正のための政府間協議会の開催に備え準備作業を開始すること。(但し,政府間協議会は,第一段階が始まり,適切かつ十分な準備作業が完了した時点で開始する。)
首脳会議は,通貨統合へのプロセスをこのドロール・レポートの3段階プランに沿って進めることに大筋で合意した。しかし,イギリスは,その後ドロール・プランの第二,第三段階に代えて,独自案を発表している。
EC通貨統合への動きは,前述した資本移動の自由化,金融制度の統合,通貨・経済同盟の三側面とも,ここ数年の間に急速な進展を見せている。しかし,1992年統合市場の実現までに解決しなくてはならない問題も数多く残されている。その内の緊急課題とされているのが資本移動の自由化に伴う各国の証券・貯蓄税制の調和問題と通貨安定のための政策協調の強化である。ここでは,上記二つの問題点の意味を考え,また通貨統合に対する各国の考え方の相違を明らかにし,EC通貨統合の今後の見通しについても言及することとしたい。
資本移動の自由化が直ちに影響を及ぼすのが各国税制の調和問題である(第2-5-3表)。現在でも源泉税率の違い等から資本移動が起こっており,利子所得課税が行われていないルクセンブルク等には国外から大量の資金が流れ込んでおり,ヨーロッパのタックス・ヘブンとなっている,資本移動が完全に自由化された場合には,その時点で高税率国から低税率国へ大規模な資本移動が発生し,各国の金融・資本市場は大混乱に陥る可能性がある。
EC委員会は,89年2月証券・貯蓄利子に係る源泉課税の調和案を発表した。
その内容は,①EC域内居住者の利子所得に対して,税率最低15%の源泉課税を導入,②脱税防止の観点から各国税務当局間の情報交換強化,等である。フランスのように共通利子課税の設置に前向きな国もあるものの,各国の個別事情を背景に12カ国の足並は揃っていない。金融立国のルクセンブルクは自国の金融センターとしての地位が脅かされるとして,断固反対しており,3月には銀行の守秘義務を法的に強化することを決定した。また,1月に10%の源泉課税を導入した西ドイツは,国民の不人気から,7月1日に源泉課税を廃止してしまった。利子課税の調整問題は,各国の財政面に直接影響を及ばすものだけに,今後ともその解決には相当の時間を要すると思われる。
欧州通貨制度(EMS)は,EC域内の特定の国々のみを対象とし,その内部に一定の幅のなかで変動を許容した一種の固定相場制を維持するとともに,ドルやその他すべての域外通貨に対して共同変動相場制を採用する地域的な国際通貨機構である。
EMSにおいては,各通貨は,欧州通貨単位(ECU)建てで表示された中心相場を持ち,それに基づき計算された二国通貨間の中心レートの上下合計2.25%(イタリア・リラ,スペイン・ペセタは合計6%)の変動幅を持つ。そして域内諸国の通貨当局は,通貨がその変動幅に達した時には無制限の介入を義務づけられる。さらに各国通貨の対ECUレートが中心レートからの最大乖離幅の4分の3に達した時は介入の多様化等の政策措置を行うことが義務づけられる。また変動幅に達することを防ぐために任意に介入を行うこともできる。しかし,EMSの特徴は,域内各国通貨を用いた介入をおこなっている点である。そして,域内通貨での介入の場合,ECUが重要な役割を果たす。ECU(EuropeanCurrencyUnit)は,EMS発足と同時に域内における共通の計算単位として導入されたものであり,各国通貨のバスケット構成の通貨である(付表2-23)。たとえば,西ドイツが市場介入でフランス・フランを買った場合には,それをそのまま準備通貨として保有することなく,ただちにそのフランを欧州通貨協力基金に集中して,その日のレートでECUに換算し,基金に対するECU建ての債権にする。逆にフランスは基金に対してECU建ての同額の債務を負うことになる。そしてフランスは,この基金に対する債務を介入のあった月の月末から75日以内に決済することとなる。これが超短期信用供与制度と呼ばれるものである。
このようなEMSは,EC経済に対しては,一定の役割を果たしてきたと思われる。貿易面では,EC各国の貿易が域内依存を強める中(域内依存度1988年,輸出57.7%),域内の変動幅の縮小が為替変動による貿易への影響を和らげ,貿易の拡大にも寄与していると考えられる。経済政策面では,域内各国の経済政策,経済状態が接近するようになっている。EMSが目指してきた通貨の安定もおおむね達成されている。1987年1月にEMS発足後11回目の調整がおこなわれて以来,現在まで長期間調整が行われていない。(付表2-24)。実質的にはマルク圏であるEC域内で,各国が対ドイツ・マルク相場を一定範囲内に維持することに努力した結果,各国は西ドイツ,ブンデスバンクの「インフレ抑制最重点政策」を必然的に受け入れざるを得なくなり,これによっても,インフレ抑制の効果が生み出されている。このように,EMS"は長期的にはインフレの抑制を通じて国際競争力を向上させ,また為替相場の安定による先行き不透明要因の減少を通じて設備投資を拡大させるなど経済成長にも寄与してきたものと見られる。
また,EC各国が通貨統合へ動きだして以来,欧州各国の金融・資本市場が急ピッチで整備されてきたが,同時にECUの利用も拡大している。ECU建債券市場で,イギリス,フランス,ベルギー等欧州各国が国債を相次ぎ発行したことから,国際資本市場におけるECUのシェアは急拡大しており,ECUはドル,ポンド,円,スイス・フラン,西ドイツ・マルクに次ぎ,6番目の通貨に成長した。ECUは住宅ローン等民間レベルにおいても幅広く利用され始めており,統合へ向けECU市場は今後とも着実に拡大を続けると思われる。
しかし,近年拡大が見られるEC加盟国間の貿易不均衡および経常収支不均衡の問題は,今後金融統合へ向けての不安材料と言える。主要4カ国(西ドイツ,イギリス,フランス,イタリア)の貿易収支の推移( 第2-5-4表 )を見ると,西ドイツが大幅な黒字(1988年,1,280億マルクの黒字)となっている一方,イギリス(同,249億ポンドの赤字)は大幅赤字,フランス(同,900億フランの赤字),イタリア(同,129兆リラの赤字)も赤字となっていることがわかる。また経常収支についても,西ドイツが黒字,イギリス,フランス,イタリアが赤字となっている(付表2-25)。このような域内経常収支不均衡は,EMS内の各国通貨の安定に対しマイナスの影響を及ぼし,ひいては通貨統合の動きに対する阻害要因ともなろう。
EC諸国の市場統合,通貨統合に対する考え方は,各国の個別事情すなわち,各国の財政政策及び経済状態の相違もあり,統一されてはいない。EC諸国の中で,発言力が強くEC統合の主導的役割を果たしている西ドイツ,フランス,イギリスをとりあげ,その考え方の違いを明らかにしたい(付表2-26図)。
①経済面の主導国・西ドイツ
ヨーロッパ経済の地位回復には,市場統合による競争力強化が不可欠であり,西ドイツにとってもより高い経済成長,雇用増を実現するものとして,市場統合を強力に推進するというのが,西ドイツの考え方である。
通貨同盟については,ブンデスバンクのペール総裁によれば,単一欧州市場設立に(4,貿易面に加え,統合金融市場の創設により,資本の自由な移動と各国通貨の自由な交換を実現するとともに,不動の固定相場を設定することが不可欠であるが,通貨統合は最終局面であり,まず通貨・金融政策面での協調を段階的に強化することが必要としている。欧州中央銀行は単一通貨が生まれれば,当然必要な機関であるが,ブンデスバンクのように各国政府,EC政府がら独立した意志決定機関として位置づけ,がっ強力な通貨政策を持ち合わせた組織であるべきだとしている。また,単一通貨については,バスケット方式のECUはパラレル・カレンシーとはなり得ず,したがって統合通貨とはなり得ないとしており,マルクのように各国通貨中最も強い通貨でなければならないとしている。弱い通貨であると通貨同盟全休が弱休化しかねないからである。
②政治面の主導国・フランス
市場統合は,相対的に地位の低下したEC経済を発展させると同時に,政治的には,フランスがEC統合の主導権を握ることによってヨーロッパの盟主の地位を確保したいとの思惑もあり,フランスとしても積極的に対応している。
通貨同盟については,ミッテラン大統領は,市場統合を完成させるためには,欧州通貨,欧州中央銀行創設を含む完全な欧州通貨同盟の創設が必要であるとし,ドロールプランに対し全面的支持を表明している。フランスが通貨同盟を支持する背景としては,経済政策の柱としてEMS参加を通じ西ドイツとの積極的協調政策をとり,通貨安定に成功していることが挙げられる。また,EMSの強化は,為替変動が経済に悪影響を及ぼすとのフランスの考えにも合致している。
③金融面の主導国・イギリス
イギリスは,基本的には市場統合促進を支持しているが,EC委員会による中央集権的政策統制ではなく,各国の自発的協力により内外に開かれた統合市場の創設を目指している。
通貨同盟に対しては,サッチャー首相は当初から批判的であり,欧州中央銀行や統一通貨は主権の侵害と判断している。イギリスは,EMSには加盟しているものの,EMSへの完全加盟,すなわちERMへは未だに加盟していない。
EMSは,実体経済的には,西ドイツのマルク圏であり,イギリスがEMSに完全加盟した場合には,イギリスがマルク圏の中にとりこまれてしまうのではないかという危惧があるからである。それを回避するために,十分にイギリス経済の競争力が蓄えられてEMS内でマルクと拮抗していけるようになるまで,完全加盟を遅らせたいというのが本音であろう。実際,サッチャー首相はEMSへの完全加盟をマドリッド・サミットでは表明したものの,あくまで「条件付き」である。この「条件」は,①域内市場統合の進展,②資本移動の自由化の達成,③イギリスのインフレ率の低下である。しかし,イギリス内部には,EMSへ即時完全加盟すべきであるとの意見もある。
ドロールプランの第二,第三段階についても,サッチャー首相は通貨統合は政治的統合であり,市場統合は経済統合であるべきであると主張,欧州中央銀行設立,通貨統合に反対し,これに代わる独自のプランを示唆している(89年10月)。その骨子はマルク,ポンド等各国通貨をEC域内に自由に流通させで互いに競争させるというものである。
上記の通り,通貨同盟実現に向けて各国の考え方が異なっており,通貨同盟へのシナリオであるドロールプランに対し,各国内で必ずしも意見統一はされていないが,大筋ではフランスは全面支持,西ドイツは総論賛成・各論反対,イギリスは第二,第三段階については反対し,独自案を発表するなどの相違がある。また,経済政策の基本的な考え方についても,自由競争を重視するイギリス,政府介入にも一定の役割を認めるフランスの間で違いがあり,資本移動の自由化を円滑に進めるための前提条件である貯蓄税制の統一もあまり進展していない。また,前述した通り,EC域内の貿易収支,経常収支の不均衡拡大は,通貨統合に向け解決すべき問題である。
しかし,近年EC通貨統合への動きは,目覚ましい進展をとげてきている。
確かに通貨統合へ向け問題は多いものの,各国とも柔軟な姿勢を見せ始めていることも事実である。この統合への動きがもはや後戻りのできないものであることを,各国とも十分に自覚しているからであろう。通貨統合の第一段階のスタートが90年7月1日と時間的余裕が少ないことから,今後急進展を見せることも考えられる。