平成元年

年次世界経済報告 本編

自由な経済・貿易が開く長期拡大の道

経済企画庁


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第2章 長期拡大のミクロ的要因

第6節 社会主義国の構造改革

80年代に入って社会主義諸国では,経済成長率が次第に低下傾向を示し,国営企業等における官僚主義の弊害,労働者の怠慢といった問題が目立つようになってきた。一方資本主義諸国では,公的企業の非効率の改善,財政赤字削滅の必要性等から民営化,規制緩和が盛んに行われ,このことが世界経済の長期拡大にも貢献している。これらを背景に,社会主義諸国においても,硬直化した中央指令的な計画経済を緩和し,市場メカニズムを導入する経済自由化の改革が活発化してきた。

社会主義諸国の最近の動向をみると,ソ連では「ペレストロイカ」(改革)の下で政治改革はかなり先行しているものの経済面での具体的成果はまだ国民にもたらされておらず,労働者のストライキや民族運動が活発化するなど改革は試練を迎えている。東欧では各国の歴史的・民族的な事情もあって政治面及び経済面での改革状況が国によって異なり,その進展度合いの違いからいく.つかのグループへの分極化傾向が現れてきており,ソ連が東欧諸国における政治・経済等の改革プロセスへの介入(付注2-5)を行わないことを表明したこともあって,東西分断をもたらした戦後ヤルタ休制(付注2-6)は激しい変革期を迎えている。中国では積極的な経済自由化により経済改革はソ連・東欧より先行していたものの,政治機構は依然共産党中心で,中には経済自由化を利用して独占的利益を得る者も続出したことから,政治の民主化を求める知識層・学生や市民との対立が深まり,89年6月の天安門事件を招いた。政府は,改革派・民主化勢力を抑える一方で改革・開放路線の堅持を唱える,という問題を抱えながらも西側諸国との政治・経済関係の回復に努めている。

以上のように各国の事情はそれぞれ異なるものの,方向としては,社会主義諸国は,スターリン・モデル(付注2-7)から脱却しつつ各国の実情に応じて自らの政治・経済休制を再構築し,国際的な緊張の緩和の気運を背景に西側との交流活発化や経済の自由化を進めていくこととなろう。

1. 試練を迎えるソ連

ソ連では,経済改革の成功のためには硬直化した政治システムの改革が不可欠との認識から,89年に「人民代議員大会」の新設,新「最高会議」の創設,「最高会議議長」(国家元首)職の新設,といった大胆な政治改革を実行に移した(付図2-5)。また,グラスノスチ(情報公開)の進展から,新設の人民代議員大会や最高会議等を通じて,従来は秘匿されていた重要な経済統計が明らかにされ,財政赤字1,200億ルーブル(88年GNP8,660億ルーブルの14%),89年軍事費773億ルーブル(同9%),対外債務総額336億ルーブル(同4%,うち対西側債務281億ルーブル,米CIA-DIA資料では88年対西側債務417億ドル),地下経済規模700~900億ルーブル等と報告されている(公定レートで1ルーブルは約1.6ドル)。

これらの数字はいずれもソ連経済が構造的な問題を抱えていることを示している。本格的な経済構造の再構築を行うには,過渡期の混乱と停滞を覚悟しなければならないが,この期間が長すぎると改革その-ものが挫折することになる。

経済の不振は労働者のストライキや民族運動を誘発し,それがさらに経済を悪化させるといった悪循環に陥るからである。市場メカニズムを取り入れた以上,それが十分機能するための経済システムの構築が必要であり,新たな政治体制の下,比較的早い段階でこれを成し遂げられるかどうかに,ペレストロイカの成否がかかっているといえよう。

(独立採算制の状況)

工業部門では,国営企業法(88年1月施行)の下で,資金の自己調達による企業の独立採算制が十分な成果をあげていないことが指摘されている。これは,生産指令に代わる「国家発注」の割合が依然として高く,企業の創意工夫や効率化を活かす余地が少ないことが影響している。また,国営企業法による法律的枠組みの変更だけで経済が適切に機能するとは限らず,①原材料,生産財(資本財)の卸売市場の発達,②製品の販売ネットワークの拡大と多様化,③必要な金額を迅速に調達できる発達した資金市場の成立,といった経済上の条件整備を進めることが必要である。

地方経済の独立採算制への移行が,89年8月の最高会議,同9月の共産党中央委員会総会等で承認された。これは,国営企業の独立採算制のような国全体にわたる上からの改革に対し,各地方の民族の自主権拡大要求等にみられる下からの民族問題(付注2-8)への対応として行われるもので,中央集権主義や命令的・行政的指導方法が諸民族の利益に重大な損失を与えたとして,ソ連邦を構成する15共和国の権限の大幅拡大,政治的自主性強化を打ち出している(中央委総会報告)。自治権拡大の主な内容は,従来国家所有とされてきた土地,森林,地下資源,大陸棚等の水域資源,などに対する所有権をこれら資源の存する共和国に属するものとし,その所有権を基礎に各共和国は,予算編成,価格政策,エネルギー政策などの経済政策を行うことができる,というものである。これは,共和国の権限と連邦の権限(外交,国防,全連邦レベルの経済政策等)との分離を明確にしたものである。現在,90年1月よりエストニア,ラトビア,リトアニアのバルト3国と白ロシアの各共和国が,91年よりグルジア共和国が,独立採算制への移行を決定している。

(消費財不足の問題)

消費財不足はより深刻となっており,西側からも大量の輸入が行われている。

しかし統計をみると,消費財重視の政策から,消費財の生産統計は増産を示しており,最近では消費財生産の伸びは生産財生産の伸びを上回っている(88年は生産財3.5%増に対し消費財5%増)。このため,国営商店等での消費財不足の原因として,①比較的福祉面の整った大企業等の企業内販売に回っている,②高値で売れる地下経済に流れている,③流通手段が拡大していないために退蔵されている,といったことが挙げられている。なお,90年の年間計画では,消費財生産の伸びを生産財生産の伸びの約13倍(消費財6.7%,生産財0.5%)とすることが計画されている。

(農業改革)

農業部門の不振は,ソ連経済全体の成長の足を引っ張っており,根本的な生産方式の転換へ向けて改革が進められている。従来のコルホーズ,ソフホーズといった集団的農業方式は,農民の増産意欲を刺激するものではなく,その生産性は欧米諸国に比べて極端に低いとされる。このため,ソ連最高会議幹部会は89年4月,賃貸借に関する幹部会令を発し,協同組合方式の農民集団や個人農民に,①土地,建物,設備・機械,輸送手段,家畜等の50年以上にわたる賃貸,②これら賃借権の相続,等を認めた。これは生産手段の私的所有を事実上承認したものであり,農民に所有意識を持たせることで生産意欲を刺激するものである。これを受けてバルト海沿岸のラトビア共和国では,個人農業者等に対して①農地の無期限貸与,②生産手段の銀行融資等を利用した自主調達,③生産した農産物の自由販売,などを認めた法律(共和国法)が採択された。

またソ連政府は同年8月,コルホーズ,ソフホーズから前年実績を上回る増産分をドルで買い上げる新政策を発表した。この自国農民へのドル支払いは,①貴重なドルを入手したいとの動機が増産への刺激となる,②大量の穀物輸入の支払に充てていたドルの節約になる,との点で有効であるとしており,将来的には協同組合方式の農民集団や個人農民にも適用を拡大する方針である。

(財政赤字の問題)

ソ連の財政赤字は89年現在1,200億ルーブルに達し,これは88年GNPの14%に相当する巨額のものとなっている。財政赤字の主な原因には,軍事費と価格補助金があげられる。

89年の軍事費はソ連政府発表によれば773億ルーブル(88年GNPの9%)にのぼっているため,軍事支出の縮小による財政赤字の改善策を打ち出している。

具体的には,90年の軍事費を707億ルーブルにまで削減し(8.5%滅),89~90年に全兵員数の12%に相当する50万人の兵力削滅(東欧駐留軍を含む欧州地域24万人,極東を含むアジア地域20万人等)を行う方針である。また,軍需産業の民生転用(89年末までに40%の転用を目標)や兵員の労働力化により,国内の民生部門の供給能力拡大を目指している。

他方,価格補助金は,次第に巨額なものとなっており,この理由として,①食料品について,農民からの国家買上げ価格を引き上げているのに対し,消費者への販売価格は長期間安く据え置いているため,その差額(補助金に相当)が拡大している,②基礎的な原材料・資材等について,その生産コストが上昇しているのに対し,それを下回る低い販売価格設定が維持されているため,生産企業の赤字が拡大し,これへの補助金が増大している,といったことが挙げられている。生産コストを反映した価格設定や,さらに価格自由化も議題に上っているが,それに伴うインフレ(中国の例)を懸念する意見も強く,早急な価格改革には着手していない。

政府は,以上のような軍事費や価格補助金を圧縮することにより,90年には財政赤字を600億ルーブルにまで削減することを目標としている。

(インフレの進行)

前述のように,軍事費や価格補助金の増大が巨額の財政赤字を招き,この赤字分の支出を通貨の増発で埋め合わせてきたために,マネー・サプライが過剰となって(この15年間で3倍以上,現行残高7,500億ルーブル),経済にインフレ圧力をもたらしており,消費者物価上昇率は,81~85年に年平均5.7%,86年6.2%,87年7.3%,88年8.4%と,年々高まってきている。他にインフレの要因として,①重工業・軍事部門優先策により,消費財生産が後回しにされてきたことから,消費財供給の絶対量が不足している,②労働生産性の伸びを上回る名目賃金の伸びにより,企業のコストが上昇し,独立採算制に基づく企業はこれを安易に製品価格に転嫁した,③名目賃金の上昇は,国民の購買力を高め,消費財への需要を増大させた,といったことが挙げられる。

他方,国民の貯蓄状況をみると,名目賃金の増加にもかかわらず品不足で買うものが少ないことから,家計における貯蓄率は上昇してきており(70年4.5%,80年5.6%,87年8.4%),銀行への預金総額も増大している(87年末は対70年末比5.7倍)。このため,89年に見込まれる600億ルーブルの財政赤字の埋め合わせについては,通貨増発によらずに国債(年利5%,15年物,売買自由)発行により民間資金を吸収することでまかなうこととしており,潜在的なインフレ圧力の軽減を目指している。ただし,国債発行の円滑化のためには,銀行や多数の国民が参加できる債券の流通市場を整備・拡大する必要がある。

インフレ抑制のためには,①金融市場を早急に整備して機動的な金融政策がとれるようにすること,②財政資金の適切な配分により供給力を高めるような財政政策を採用すること,などの金融面,財政面からの適切な経済政策が必要である。

2. 分極化傾向にあった東欧

ソ連のペレストロイカは東欧にも多大な影響をもたらしたが,歴史的・民族的に性格の異なる東欧各国の受け止め方も一様ではなく,政治面,経済面ともに積極的な改革を進めるポーランド,ハンガリー,ソ連型の改革には政治面,経済面ともに消極的な東ドイツ,ルーマニア,経済面での改革は進めながらも政治面での改革には慎重なチェコスロバキア,ブルガリア,というように分極化する傾向を示してきた(第2-6-1図)。ただし,今後の動向については注意深く見守っていく必要がある。ポーランド,ハンガリー以外の各国が改革に消極的あるいは慎重なのは,いずれも20~30年程度の長期政権又はその継承政権となっているため,改革の必要性を唱えることは自らの過去の成果の否定につながりかねないからである。なお,ユーゴスラビアは独自路線を歩んできており,従来より対西側交流は活発である。以下,各国別にみていく。

(1) 積極改革派のポーランド,ハンガリー

ポーランド,ハンガリーは東欧において,最も改革の進んでいる国であり,西側諸国も両国の政治・経済の民主化を歓迎し,89年7月にはブッシュ米大統領が両国を訪問して経済支援を表明,同月のアルシュ・サミットでは両国の改革を支援することが宣言された。この宣言を受けて,EC委員会を中心にポーランドへの食糧援助が具休化され,その後も他の西側諸国を加えて両国支援関係国会議の開催等,具体的検討が行われている。他方ソ連も,全ての民族・国家が自らの政治・社会休制を自由に選ぶ権利をもつ,として両国の改革を支持し,東欧諸国における政治・経済等の改革プロセスへの介入(前掲付注2-5)を行わないことを表明している。

(ポーランド)

ポーランドは,自主管理労組「連帯」による下からの民主化運動を,非合法化や戒厳令(1981~83年)で抑えつつ,市場原理の導入による経済改革を行ってきたが,十分な成果をあげることができず,むしろ食料品価格の引上げ等がインフレ率の上昇を招き,国民の不満を増大させた。このような中,連帯による運動が再び活発となり,89年4月の再合法化を機に国民の支持を拡大し,6月の新制度による議会選挙(前掲付図2-5)では,複数政党制による自由選挙部門(新設の上院の全100議席及び下院の35%の161議席)で連帯が圧勝し,9月には連帯主導による連立内閣(マゾビエツキ首相)が樹立され,社会主義初の非共産党主導政府の成立となった。

同内閣は,市場原理の広範な導入や国営全業の民営化等を目指しているが,経済構造の改革にはなお相当な困難を伴うものとみられ,日用品・食料品不足の急速な悪化や東欧一となった巨額の対西側債務(88年373億ドル,第2-6-1表)の重圧が厳しく,民主化を歓迎する西側の支援に頼らざるをえない状況である。また,89年8月の食料品価格自由化もあってインフレが高進しており,新連立内閣が山積する経済問題にどのように対処していくがが課題となっている。

(ハンガリー)

ハンガリーは,ソ連に先駆けて早くから共産党主導による上からの改革に取り組んでおり(68年「新経済メカニズム」),消費生活の水準も西側に近く,経済面での改革が先行している。ハンガリー動乱(付注2-9)以来のカダル長期政権(1956~88年)の退陣で改革の動きが一層強まり,個人所得税・付加価値税の導入,株式市場の創設,西側との合弁自由化及び貿易活発化等が積極的に推進されている。このように,従来の商品市場の自由化に加えて資本市場の自由化も活発化させており,西欧型の経済構造への接近を図っている。しかし,西側との取引拡大に伴い,対西側債務も増加しており(88年168億ドル,前掲第2-6-1表),インフレ,失業,所得格差等の問題も発生している。

他方,政治面では,89年に入って改革は急速に進められており,10月,ハンガリー共産党はプロレタリア独裁(付注2-10)に基づく共産主義を自ら放棄して「ハンガリー社会党」に改名し,新たな党綱領を採択した。同綱領では,政治面では複数政党制・完全自由選挙による議会制民主主義を掲げ,経済面では国家所有を協同組合所有・個人所有へ転換し,市場メカニズムを商品から労働,資本,土地,情報等の各分野へ拡大して利潤原理に基づく市場経済を構築し,さらに,安定した柔軟な金融制度の確立や通貨フォリントの外貨とρ交換性を高めるζとを目指している。また,同月の憲法改正において,国名をハンガリー人民共和国から,「ハンガリー共和国」に変更し,共産党の一党独裁の規定を削除し,複数政党制・完全自由選挙による議会制民主主義と西欧型の市場経済を目指すことを明確にした。これらの改革を受けて90年前半には,新設の大統領職の選挙及び複数政党制・完全自由選挙による議会の総選挙が予定されている。

また,市場経済の本格的な稼働のため,EC加盟を示唆する一方,コメコン(付注2-11)との距離を置き始めている。さらに,将来的な中立化(フィンランド,オーストリア,スイス等をモデルとする)の構想を表明しており,この際のワルシャワ条約機構(付注2-12)からの離脱問題が討議にのぼるなど,中部ヨーロッパにおける新たな位置を模索中である。

(2) 東ドイツ,ルーマニア,チェコスロバキア,プルガリアの情況

(東ドイツ)

東ドイツは,ホーネッカー長期政権(1971~89年)の下,強力な中央集権型の計画経済により,東欧では比較的良好な経済実績を達成してきており,また,中央集権型の「コンビナート」方式のもとで技術革新による資源の節約と生産の効率化に成功したとしている。このためソ連型の改革も,特に必要でないとして消極的な姿勢を貫き,むしろ改革に伴う国民の民主化要求が共産党政権を弱体化させるのを懸念してきた。

しかし,80年代後半になって成長率が低下してきており(84年の5.5%から88年の3%まで年々低下),その不満等から89年9月以降,ハンガリーやチェコスロバキア,ポーランド経由で西ドイツに数万人規模の亡命者が出ている。これに合法的な西ドイツへの移住者(89年1~6月約3万7千人,前年は年間約2万9千人)を加えると,89年に入ってすでに10万人以上が流出しているため,従来より労働供給の制約(労働力人口87年793万人,80~87年年平均0.3%増,70~80年同1.2%増)に悩む東ドイツにとってはかなりの打撃となる。他方,新フォーラム,社会民主党といった改革を求める政治組織が結成され,ライプチヒ,ドレスデン等で民主化要求デモが活発化するなど,政治・経済の軌道修正を求める声が高まっている。

このような情勢を背景に89年10月,ホーネッカー政権は退陣し,クレンツ政権が成立した。新政権は2,基本的には従来の路線を継承するものとみられるが,国内の民主化・自由化要求の声が高まっていることから,改革に対するこれまでの消極的な姿勢の見直しの動きがある。

(ルーマニア)

ルーマニアは石油等エネルギー資源に恵まれ,ソ連に頼る必要性が低かったことから,従来より独自路線の傾向が強く,現行チャウシェスク長期政権(1965年~)においても,ソ連型の改革は不要としてむしろ共産党による中央管理の強化に努めている。しかし近年,生産国民所得の伸びが低下してきており(84年7.7%から88年3.2%),主要産業である石油の生産量も頭打ちとなってソ連にエネルギー源を頼らざるを得なくなっている。また,中央管理の強化と農業重視の方針に基づいて,従来の農村を解体して新しい農工センターに再編成する「農村改造計画」を推進しているが,ルーマニア内に居住するハンガリー系農民の伝統・文化を抑圧するものとして隣国ハンガリーとの摩擦が生じている。

ルーマニアは近年,対西側債務返済を最優先として輸出振興と輸入削減によりその返済に努めてきたが(前掲第2-6-1表),88年は過去最高の貿易黒字を計上し,翌89年3月末で対西側債務を完済した。このことは,多額の累積債務を背負うポーランド,ハンガリーの改革派諸国に比べて1つの成果を示しているが,一方では輸出最優先のために国民に対して消費財やエネルギーの供給不足,賃金の抑制といった負担を課しているため,国民の高まる不満にどう対処していくかが今後の課題となる。

(チェコスロバキア)

チェコスロバキアでは,68年のドプチェク政権による「プラハの春」(付注2-13)を否定する立場の政権が続いてきたため,政治面での自由主義的な改革には慎重で,ポーランド,ハンガリーの民主化・自由化路線に対しても,批判的な立場をとってきた。しかし,経済の自由化・市場メカニズム導入は必要との認識からソ連型の経済改革を徐々に進めており,個人営業法,企業の独立採算制を規定した国営企業法,西側との合弁企業法,外資法等を制定するなど緩やかな改革を指向している。

対西側債務は比較的少ないが(81年46億ドル,88年57億ドル,前掲第2-6-1表),その分西側からの技術導入は遅れており,工業製品の国際競争力は失われている。今後は,西側技術の導入を推進し,新規の拡大投資を抑えて,設備更新や増え続けている未完成工事の早期完成に投資を集中させ,国内産業を高度化して工業品の国際競争力を強化することを目標にしている。

(ブルガリア)

ブルガリアは,東欧では従来よりソ連との関係が最も密接であるが,ソ連型の経済改革は漸次行ってきたとしている。政治的にはジフコフ長期政権(1954~89年)の後,ムラデーノフ政権となった。経済的にも,ソ連を中心とした対社会主義国貿易が8割程度を占めるなど,東側との関係は今後も強化発展を保つ方針である。しかし近年,西側との経済関係にも前向きな姿勢をみせており,電子・精密分野を中心に西側からの借款による技術導入に積極的で,85年以降対西側債務は増加傾向にある(85年37億ドル,88年73億ドル,前掲第2-6-1表)。

(3) 独自路線を歩むユーゴスラビア

ユーゴスラビアは,非同盟主義の独自路線を歩んできており,早くから市場メカニズムの導入や労働者による生産手段の自主管理を行い,また西側との経済取引にも最も積極的で,貿易に占めるシェアも現在では7割程度が西側との取引となっている。80年のチトー大統領死去以降は6共和国・2自治州による集団指導体制をとっているが,近年になって経済は次第に悪化してきており(第1章第1節参照),88年は工業,農業,投資がマイナス成長,約200%の高率のインフレ(89年9月の消費者物価指数は前年同月比1,181%,前月比48%の上昇),高率の失業(88年約14%),増大する対外債務(87年195億ドル)等問題が噴出している。このような経済情勢の下,チトー死後セルビア民族主義を強めて政治的主導権を確保しつつも経済運営で成果をあげられないセルビア共和国に対し,その圧力に反発するアルバニア人等の自治州や,北西部にあって地理的・文化的に西欧に近く比較的経済実績の良好なスロベニア,クロアチア共和国等の不満が表面化し,民族対立が生じている。マルコビッチ内閣(89年3月~)は,民族問題に配慮しつつ,西欧型市場経済の確立を目指した経済改革を続ける,としている。

3. 矛盾深まる中国経済

中国は,ソ連・東欧に先駆けて78年から経済改革を進めており,経済の活性化によって高い成長を続けてきたが,80年代後半には改革に伴う新たな問題も出現している。70年代までの重工業重視政策から一転,80年代には消費財生産も重視されたが,80年代後半には消費財を中心とする生産過熱が生じた。これに対し,原材料・エネルギーは慢性的なひっ迫となっている。このため原材料等は,輸出余力が低下すると同時に,地方への権限委譲もあって輸入が増大したため,このような両面から貿易収支赤字を拡大させた。また財政面では,財政収入が低い伸びに止まっている反面,農業・価格等財政補助金支出の増大,投資や賃金支給の増加等による企業財務の悪化に対する財政補助金支出の増大,等から財政赤字が拡大した。

88年後半から,こうした問題に対して引締めが行われているが,建設投資の削減等から失業は増加しており,また89年6月の天安門事件以来,対中投資や国際機関からの貸出停止など対外的にも困難な状況となっている。官僚機構の改革や学術面での思想開放などといった政治改革についてはソ連・東欧では経済改革の前提として行われているが,中国では経済改革の方が先行している。

経済調整終了後再び改革を進めていくには,政治改革の面でも見直しが必要とされよう。

(1) 投資の急増がもたらした問題

(財政赤字の拡大)

中国では,1978年から開始した農村改革が一応の成功をおさめた後,84年からは企業の経済改革に着手した。中央政府による統制が縮小した反面,地方政府や企業の自主権が拡大し,投資・生産が活発化した。84~88年の実質GNPは年平均10.8%と高成長となり,この間の固定資本投資は同23.9%増と高水準であった。このため,蓄積率(国民所得のうち再投資のために使われる資金の割合)も,80~84年の年平均30.1%から,85~87年には同34,8%へと上昇した。

このように投資が活発となった理由としては,①設備が不足又は老朽化していた,②倒産・失業を回避すべく効率的投資に努めるという意識が希薄なこともあって,企業は手早く生産を拡大するために投資を拡大した,③銀行制度ができたばかりで金利が非常に低く,貸出枠の決定も事後的に決められ無制限に投資資金が借りられた,④生活水準の向上に対する要求が高まり,住宅投資等の非生産施設への投資需要も増大した,⑤投資管理面で企業の自主権が拡大した,等があげられる。

しかし,企業の,採算を省みない投資は企業の財務を悪化させた。こうした欠損企業に対する財政補助金支出は88年度には445.8億元となり,歳出総額2,668.3億元の約17%に達した。財政赤字は88年度に80.5億元と過去最高となった。

(投資単位の細分化)

こうした投資の急増は,おもに郷鎮企業(付注2-14)や個人企業の投資増大によるものであり,88年の固定資本投資は,国営部門が前年比17.3%増に対し,個人によるものが同25.4%増であった。これに伴い,生産の伸びやシェアにも変化が表れている。88年の鉱工業生産の伸びをみると,固定資産規模が大きく中国にしては資本集約的な国営企業においては,前年比12.7%増の伸びで,全国平均の伸びである同20.7%増を下回ったが,一方,固定資産の規模が小さく労働集約型が多いとされる郷鎮企業では同35.0%増,個人企業では同46.0%増と,全国平均を上回る伸びをみせた。

こうした郷鎮企業・個人企業は,もともと規模が小さく,立地条件も農村部が多いといったことから,投資効率が低いものもあるとみられる。また,投資権限を地方に分権化したことは,郷鎮企業・個人企業の発展をもたらしたが,中国の伝統的な地方優先主義もあって,中国全体のマクロ経済の健全性よりも地方利益優先の傾向を助長することとなった。

これらのことから,地方の郷鎮企業・個人企業が増加し,個々に投資を活発化させたことは,中国全体のマクロ経済レベルでみれば,平均的な投資効率を引き下げ,計画を大幅に上回る予想外の投資規模の拡大を招いた。このため,89年に入って,これら郷鎮企業・個人企業は引き締めの対象となっている。しかし,次に述べる農村の余剰労働力吸収という点では,これら企業は大きな貢献をしたといえる。

中国の労働力をみると(第2-6-2表),70年代には1~2%の増加率であったものが,80年代に入っては2~3%の増加率に高まっている。部門別構成でみると,5.3億人の労働者のうち,特にその大部分を占める農村部労働者(87年,3.9億人)が増加の中心となっている。こうした農村部の余剰労働者を吸収したのが,84年頃から急増し始めた郷鎮企業・個人企業である。80~87年までの労働者数の増加は1億420万人,うち郷鎮企業・個人企業に吸収された労働者数は5,800万人であった。このような背景には,80年代になって中国がスターリン・モデル(前掲付注2-7)を捨て,消費財生産重視の政策に切り換えたことがあり,この結果郷鎮企業・個人企業を中心に,農村の余剰労働力を吸収しつつ労働多投入型の軽工業が発展したといえよう。

(軽工業部門の投資・生産拡大)

小企業の勃興は当然のことながら労働集約的な軽工業の発展を促した。軽工業の鉱工業総生産額に占める割合は,政府の消費財生産重視の政策を受けて一貫して高まり,79年には軽工業対重工業のシェアは43.7:56.3であったのが,88年には49.4:50.6となった。

80年代の価格改革(食料・消費財の価格の一部自由化)や,利改税(利潤上納を改めて税金徴収に移行すること)の過程において,産業ごとの利益率には大きな格差が生じた。まず,価格改革の過程で生じた二重価格制のもとでは,原材料・エネルギー等の価格は低く抑えられていたため,これらを産出する重工業部門の採算は悪化した。これに対し,軽工業部門では比較的価格設定の自由度もあり,相対的に有利であった。次に,利改税(上述)の過程においては,個人所得や,個人企業への課税が緩やかであったとされ,これら小企業(主として軽工業)にとっては,税の面からも優遇されていた。そのほか,改革に伴って企業の手持ち資金が増え(例えば自家販売等により),労働者への奨励金増発が行われたため,購買力が増し,消費財への需要が急増したことも,こうした消費財産業拡大の原因といえよう。

中国の産業別の利潤率(各企業の税引前利益の固定資産原価に対する割合)をみると(第2-6-3表),1987年の石炭産業の利潤率は固定資産100元あたり,マイナス0.77元と赤字になっており,石油,鉄鋼,非鉄金属,建材は10元程度,重工業平均では16.11元で全産業平均の20.7元を大きく下回っている。一方,軽工業は平均で33.42元で,紡織業は25.82元,ゴム製品は46.33元と重工業より高い。

このように重工業の利潤率は低く,軽工業は高い状況の下で,軽工業の生産の伸びは79年以降88年まで重工業の伸びを上回っており,88年には重工業の前年比14.5%増に対して,軽工業は同15.1%増であった。このため84~85年,87~88年の経済過熱の時には,原材料・エネルギーのひっ迫が生じており,このような重工業部門の不振が,成長への制約条件となっている。

市場原理を不均等に持ち込んだこと,つまり,政府の生産計画や,固定価格が残っている一方で,自由な競争も一部に取り入れたことは,軽工業の予想以上の増加を招き,一方で慢性的な投資財の不足を招くこととなったのである。

また,石炭・石油採掘,電力等の投資規模の平均的に大きな産業では生産物価格を抑制しているために生産が伸びず,タバコ,ゴム,プラスチック製品等の比較的小規模な企業が生産を伸ばしている状況は,投資効率の悪化にもつながろう。

(2) 貿易収支の悪化の要因

上述のような,産業構造の変化を受けて,中国の貿易の構造も変わってきている。中国の85~88年の貿易の品目別のシェアをみると(第2-6-2図),輸出については84年頃から徐々に為替レートが切り下げられたこともあって,繊維・同製品や,衣類・履物といった労働集約的製品が伸びている。また,わずかではあるが,通信・録音用機器や電気機器・同部品及び鉄鋼の輸出も伸びている。一方,輸入品目をみると,穀物や糖製品がこのところの農業不振で輸入が増加しているほか,ゴム・木材・パルプやプラスチックなど原材料や,電気機器・同部品も増えている。これは,沿海地区の郷鎮企業を中心とした軽工業部門が輸出を増大させたことから,こうした軽工業用原料といったものが増えていることを想起させ,また,経済特区での委託加工などで電気機器・部品の輸出入が増加していることも原因とみられる。企業改革後の軽工業の過熱生産のもと,これら原材料の輸入も伸びを高め,特に沿海地区の輸出指向型発展が強化された88年には輸出が前年比20.5%増に対して,輸入は27.8%増となり,貿易収支の赤字も77億ドルと拡大した。

しかし,中国の従来の中心的な輸入品であった鉄鋼や産業用機械の輸入シェアは激減しており,国内での鉄鋼等のひっ迫の一因ともなっている。国内で供給が不足しているにもかかわらず,鉄鋼の輸出が伸びているのは,企業が,国内に販売するようも,価格面及び輸送コスト面での有利さから輸出にシフトしているたあと考えられる。しかし,広大な国土・市場を持つ中国にとって,鉄鋼や重機械は基盤を支えるものであり,こうしたものが,軽工業関連の品目の輸入増加によって圧迫されるような状況は長い目でみれば健全な発展とはいえないであろう。投資構造の変化による経済の軽量化は,貿易にも影響してきている。

以上のように,中国は1980年代に入って労働者数の増大という問題に直面し,それに対して個人企業や,農村部の郷鎮企業などを発達させ,それらは労働力の吸収という面で貢献した。しかし,こうした軽工業の生産に見合う原材料・エネルギーの供給体制がまだ万全でないため,当面は軽工業を抑制し,重工業部門を育てる「傾斜生産制」の産業政策が行われよう。また,西側からの資金借入等も,こうした重工業部門の発展のためには必要とされよう。

しかし,89年6月の天安門事件以来,個人企業や農村部の郷鎮企業などへの引締めが厳しく,また建設項目(建設プロジェクト)の中止が続いていることから,失業は増加している。また,世界銀行,アジア開発銀行の新規融資凍結や,直接投資の伸び悩みは,中国の経済に大きな打撃を与えることとなろう。

88年には22.2億ドルと中国の貴重な外貨収入である観光収入も,89年には減少するとみられている。外貨準備高も89年6月には142億ドルと88年末の175億ドルから減少している。現在輸入抑制策が採られているが,長期的には対外開放路線が望ましく,一層の外資導入や,貿易の拡大均衡が求められる。

中国では,政治・経済的素地が不十分であったため,改革から生ずる歪みが拡大した。現在の経済調整は必要なものとしても,10年にわたる改革の流れに逆行するような政策は,さらに経済を混乱させることにもなりかねない。経済調整が終了した段階で改革を再開できるよう政治の民主化を進めることが必要であろう。

4. 回復示す東西貿易

東西貿易をソ連・東欧諸国とOECD諸国との貿易取引としてみると(ユーゴスラビアは前者に含める),80年代に入って減少傾向を続けていた東西貿易は,世界的な景気拡大や東西両陣営の軍縮への動き及び緊張の緩和の気運を背景に,88年になってようやく回復の兆しを見せ始めている(第2-6-4表及び同表付図)。以下,ソ連,東欧諸国,中国の別に対西側との取引状況をみていく。

(ソ連)

86年には,貿易総額が戦後初めて前年比マイナスとなった。これはソ連の主要輸出品である石油の国際価格低落による輸出額の減少と,それに応じた輸入削減策によるもので,主に西側を対象に行われたために西側のシェアは低下した。ただし,西側(特にアメリカ,カナダ等)からの穀物輸入は増え続けており,88年には消費財(石鹸,歯磨き粉,カミソリ刃等)もがなり輸入された。

88年のソ連の貿易構成をみると,輸出では石油等の燃料・エネルギーが約5割であり,輸入では機械・設備・輸送手段が約4割,食品・食品生産原料と消費財で約3割となっている。また,地域別にみると,輸出では東側64%,西側36%,輸入では東側67%,西側33%となっている。

西側相手国のうち,OECD加盟国との取引シェアをみると(前掲第2-6-4表),西ドイツが輸出入とも最大で(輸出17%,輸入22%),次いで輸出ではイタリア(13%),フランス(12%),日本(12%),輸入ではフィンランド(13%),日本(13%),アメリカ(11%)の順となっている。西側最大の相手国である西ドイツとの貿易をみると,輸出は石油・石炭・ガス等が8割を占め,輸入は機械・設備等や鋼材・パイプ等がそれぞれ3割程度となっている。

将来的には穀物等食料品や消費財の輸入(両者で全輸入の3割を占める)を削減し,機械・設備等の輸入を増やして西側技術の導入を図り,国際競争力のある工業製品の輸出を中心とした工業国型の貿易構造の確立を目指している。ただし,ソ連製品が国際市場において競争力をもって流通するためには,通貨ルーブルを切下げて実勢レートに接近させ(第1段階として90年1月より100%の切下げを予定),西側通貨との交換性(付注2-15)を高めることが不可欠であろう。

(東欧諸国)

東欧諸国は,コメコン内での分担に基づき相互に輸出し合う休制をとっているが,コメコン貿易における黒字は通常,対西側債務の決済には充てられないため,ハンガリーのように西側貿易へのシフトを強めている国もでてきており(第2-6-3図),独自路線をとるユーゴスラビアも大きく西側へ接近している。一方,ポーランドは,政治的には民主化が進んだものの,経済構造は依然として変わっておらず,貿易を拡大すれば社会主義諸国どの取引シェアが高まる構造となっている。ブルガリアも西側への接近に意欲的で,西側からの輸入がやや増加しているが,もともと対社会主義諸国のシェアが非常に高く,大きく西側に向かう状況にはないとみられる。東ドイツ,チェコスロバキア,ルーマニアはコメコン結束を唱えており,社会主義諸国との取引シェアを増加させている。なおコメコンは,その分担がソ連中心主義で強制的である,との従来からの批判もあって,より自由で強制的色彩を薄めた貿易関係の構築を目指す方向にある。

(中国)

経済過熱による原材料需給のひっ迫から,これらの輸入が急増し,85年以降貿易収支は赤字が続いている。一方,外貨獲得源である観光収入(88年22.2億ドル)は,近年順調に増加していたものの,89年6月の天安門事件以降大幅に減少するとみられ,西側各国の制裁もあって約400億ドルの対西側債務の返済に苦慮することとなろう。

西側の信用低下を招く中,決済に外貨を要しない対ソ連・東欧貿易への接近を強める姿勢を示している。しかし,88年の貿易総額に占める割合をみると,最大のソ連でも3%に過ぎず,香港(27%)日本(20%),アメリカ(10%)等西側諸国との取引シェアが非常に高いため(前掲第2-6-3図),実際には早急な貿易構造転換は困難とみられ,西側との速やかな関係改善が必要となろう。