昭和62年
年次世界経済白書
政策協調と活力ある国際分業を目指して
経済企画庁
第2章 世界的な貿易収支不均衡-その原因と影響‐
アメリカの貿易収支赤字を,アメリカ国内の総需要と総供給とのバランスでとらえた場合,総供給の伸びを上回って総需要が伸びてきたということが問題となる。本節では,アメリカの貿易収支赤字の問題をこうした観点からとらえ,特に需要面での問題に焦点をあて,低い家計貯蓄率に代表されるアメリカの家計の赤字休質についての分析を行う。その際,伝統的な家計貯蓄率の低さと,80年代に入ってからの一層の低下という二つの側面を考えてみる。
アメリカの家計貯蓄率の推移をみると,1950年代から70年代にかけては,70年代央に9%台まで上昇したほかは,おおむね5%台後半から8%程度の低水準で推移した(第2-4-1図)。これは他の先進国がおおむね10%を超える貯蓄率を続けていたのに比べ,かなり低い水準であったということができる。
アメリカの貯蓄率が伝統的に低いことの一つの背景には,アメリカの税制のあり方がある。アメリカでは,従来から個人所得税において,消費者信用,住宅ローン等の金利の支払いが,課税対象から全額控除できる仕組みとなっていた。このことは,控除できなかった場合に比べ,貯蓄の期待収益率と消費の機会費用の関係を,相対的に消費に有利なものとしており,消費優遇,貯蓄抑制的な制度となっていた可能性が高い。現に,アメリカでは消費者信用,住宅ローンが古くから発達し,86年末には消費者賦払信用残高の可処分所得比は19.1%に達し,住宅抵当信用残高の可処分所得比は84.9%にまで達している(第2-4-2図)。
86年税制改革においては,こうした問題を是正するため,消費者信用金利の所得控除を91年までの5年間で段階的に廃止することとされた。しかし,不動産を担保にしたローン(HOME EQUITY LOAN)の金利については,主たる住宅及び第2住宅を担保とする債務に係る利子は所得控除の対象とされたままであり,また,債務の額が住宅購入費に改築費を加えた額を越えない範囲においては所得控除できるなどの回避手段があり,十分な措置であるとはいいがたい。
アメリカの貯蓄率はこのように伝統的に低い水準にあることに加え,貿易収支赤字が拡大した80年代においては,さらに一層の低下傾向にある。これには,①物価上昇率が低下したことにより消費意欲が増進されたこと,②実質可処分所得の伸びが鈍化する一方で,消費は過去の習慣からその拡大テンポを緩めることができなかったこと,③84年以降低下している失業率が将来に対する不安心理を軽減し消費を促進したこと,④企業への支払い利子等消費以外の支出による負担が増加したこと,等の要因が考えられる。そこで,個人消費支出の可処分所得比を物価上昇率,実質金利,失業率等によって説明する関数を推計し,それをもとに80年代の貯蓄率の低下を要因分解してみた(第2-4-3図)。
物価上昇率要因は,82年以降かなり大きく貯蓄率低下の要因として働いている。個人消費支出デフレーター上昇率をみると,80年をピーク(前年比10.8%上昇)として81年以降低下を続け,86年には前年比2.2%の上昇となった(第2-4-1図)。このような物価上昇率の低下は,実質金利の上昇を通じて貯蓄の期待収益率を高め消費抑制的に働く一方,将来の物価水準でデフレートした実質資産価値の増加による資産効果等により消費促進的に働く。実際の消費行動はこの両者のネットの効果で決まるが,推計式からみると後者の効果は前者の効果の2倍程度であることがわかる。このように,ネットの効果では物価上昇率の低下が消費促進的,貯蓄抑制的に働らき,75年の貯蓄率の水準に比べおおむね2%程度の引下げ要因になったと試算された。
慣性効果要因は,可処分所得の伸びが低下する一方で,消費水準は過去の習慣により即座には低下しないというものであり,可処分所得の伸びが前年比0.1%増にとどまった80年に,大きく貯蓄率低下要因として働いている。消費に関連する所得は各期の所得そのものではなく,恒常的に得られると人々が予想する所得であると考えれば,短期的に所得の低下があっても,人々が所得の持続的あるいは恒常的な低下を予想しないために,消費の水準を過去の水準からあまり変化させない。しかし,人々は所得の変化が持続的なものであると認識するにつれ,消費水準を調整することになる。そのため,消費水準の変化はなだらかなものとなり,反面それが貯蓄率の変動となってあらわれる。この効果は,逆に可処分所得の伸び率が上昇した83年(前年比3.1%増),84年(同5.9%増)には貯蓄率上昇要因として働いたが,85年頃の貯蓄率の一層の低下にも寄与している。
金利については,消費に直接作用するのは名目金利から期待物価上昇率を差し引いた実質金利であると考えられる。しかし,物価上昇率の影響については既にみたので,名目金利要因のみを取り出してみると,75年との比較では,79年以降一貫して貯蓄率を押し上げる方向に働いているが,81年をピークとして以後金利が低下するとともに,実質金利の引き下げ要因となり,徐々に貯蓄率を低下させる方向に働いている。
失業率要因は,76年から79年,84年から86年の失業率の改善局面で将来に対する不安心理の縮小をもたらし,貯蓄率の低下要因として働いている。
消費外支出は企業への支払い利子と海外への純送金から成っており,アメリ力の国民所得勘定では,消費支出及びこの消費外支出を可処分所得(アメリカの定義ではグロスの財産所得の受取りを算入)から引いたものを貯蓄と定義している。そのため,消費支出が一定でも,支払い利子等の負担が増えて消費外支出が増加すると,貯蓄はその分だけ低下することになる。アメリカでは過去から,特に企業への支払い利子が年々高い率で増加しており,貯蓄率の低下要因としては,かなり大きく働いていることがわかる(75年から86年にかけて約1.6%)。
また,物価上昇率の低下や,それに伴う金利の低下を背景として,アメリカでは,このところ,債券や株式の価格が大きく上昇してきた。株式価格(ニューヨーク・ダウ,工業株30種平均)をみると,85年後半以降伸びを加速し,87年9月には2577ドルとなっており,債券価格も84年央以降上昇し,10年物国債の利回りでみて84年の12.4%から86年には7.7%となっている。
この債券・株式の価格上昇によって,アメリカの家計にはかなりのキャタピタル・ゲインが発生してきたものと考えられる。このキャピタル・ゲインのうち既に実現された分については所得統計に算入されていると考えられるが,実現されないまま残,されているキャピタル・ゲインについては,所得統計に算入されていない。しかしながら,人々は未実現のキャピタル・ゲインについても,実現されたキャピタル・ゲインほどではないにしても,ある程度は実質購買力の増加とみなして行動をとると考えられ,近年の債券・株式価格の上昇は,資産効果を通じて消費を伸ばす要因となっていたと考えることができ,未実現のキャピタル・ゲインが多少なりともある限り,貯蓄率低下の一因となっていた可能性もある。
このように,80年代の物価上昇率の低下は,将来期待されるデフレーターの低下と,債券,株式等の価格上昇にともなう名目資産額の増加という二つの効果によって,実質資産を増加させることとなり,こうした資産効果の影響で消費に促進的に働いているものと考えられる。
このように考えると,87年10月の株式価格下落が,資産効果によって,逆に消費等を抑制し貯蓄率を上昇させる効果をもつ可能性もある。
これまでみてきたように,伝統的に低いアメリカの貯蓄率は,80年代に入ってからはより一層低下した。一方,アメリカの貿易収支赤字もこの時期に大幅に拡大している。そもそも貿易収支赤字の拡大は,国内における支出の伸びが「過剰」となり,国内の生産の伸びを大きく上回って伸びてきたことを意味するものであることを考えるならば,貯蓄率の低下というアメリカの消費者の行動も,こうした過剰支出休質の一端を担っていたということができる。
また,伝統的な家計貯蓄率の低さ自休も問題の一つと考えられるが,このような伝統的な休質の問題は,短期間で解決できるものではなく,長期的に徐々に改善していかねばならない問題であることはいうまでもない。しかし,それだけに抜本的な措置が必要であるとも言え,86年税制改革による措置に加え,一層の制度面での改革が必要であるといえよう。