昭和61年

年次世界経済報告

定着するディスインフレと世界経済の新たな課題

経済企画庁


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第2章 ディスインフレへの道

第2節 ディスインフレの定着

1. インフレ期待の変化

81~82年以降,主要国の物価上昇率は,前述の厳しい金融引締め政策や,不況及びそれに伴う失業率の上昇を通じて大きく低下した(前出第2-1-1図)。この結果,60年代後半以降,主要国の経済を根深く蝕みインフレの自己増殖の原因ともなっていたインフレ期待-賃金と物価のスパイラル的上昇現象-も鎮静化し,ディスインフレの定着に大きな役割を果たした。

本節では,最初にアメリカ及び西ヨーロッパ,特に西ドイツについて,賃金上昇率決定の要因を分析することによりインフレ期待の鎮静化の過程をみることとする。

(アメリカの賃金上昇率決定要因)

アメリカでは前述のように,80年から83年初にかけての2回の不況の下で,失業率が大きく上昇したが,このような労働市場の需給緩和は,賃金上昇率の動向に大きな影響を及ぼさずにはおかなかった。多くの国における賃金決定と同様に,アメリカにおいても,通常の時期にあっては名目賃金決定の要因の最大のものは,物価の動向である。実際,アメリカの賃金上昇率を労働需給要因(失業率の逆数)と物価上昇率及び生産性上昇率によって説明する推計式を作成して分析してみると(第2-2-1図),物価上昇率の係数は約1(0.92)となり,またほとんどの時期の賃金上昇率の方向性を決めており,その説明力は極めて強いことが分かる。しかし,80年1~3月期から82年4~6月期の時期にあっては,前述の景気後退に伴う失業率の急上昇のため,労働需給要因による賃金引き下げ圧力が大きく,これが賃金全体の動向を支配していた。言い換えれば,70年代後半の高インフレ期にあっても,ここ2~3年の物価安定期にあっても,アメリカの名目賃金上昇率の主要な決定要因が物価上昇率であることには変わりはないが,景気後退に伴う労働需給の大幅な緩和という大きな犠牲を通じて,その方向を上方から下方へと変え,それまでの物価上昇と賃金上昇のスパイラルから,賃金上昇率の低下と物価上昇率の低下の逆スパイラルへと-フィリップス曲線の右上方シフトから左下方シフト(第2-2-2図,付注2-1)へと-転じたのである。

(西ヨーロッパの労働市場と西ドイツの賃金決定要因)

西ヨーロッパの労働市場の場合,景気要因の他に構造的な要因に基づいて失業率が上昇している側面があり,失業率と賃金上昇率の関係はアメリカの場合ほど明瞭ではない。事実,西ヨーロッパ主要国の賃金上昇率と失業率を時間を追って図にしてみると,近年の景気拡大にもかかわらず,失業率の上昇が続いているために曲線は右下の方へ動いており,アメリカのようなフィリップス曲線の左下方シフトは認めれらない(第2-2-3図)。こうした背景には,生産年齢人口の増加の山と景気後退が重なった(西ドイツ,フランス,イタリア。第2-2-4図)とか,企業の求める職種,技能,労働条件と求職者側のそれ等が異なる等のために,労働市場においてミスマッチが発生し失業率と欠員率が同時に上昇する(べヴァリッジ曲線(付注2-2)の右上方シフト。イギリス,第2-2-5図)等の構造的な要因が作用しているものとみられる。

したがって,失業率等の単独の指標によって労働市場の需給を代表させる形で,賃金上昇率を説明することは難しい。ここでは,西ドイツの賃金上昇率について,アメリカの分析と同様の労働需給要因(失業率),物価上昇率,生産性上昇率の他に,実質GDP成長率を景気要因として説明変数にする形で推計式を作成し,その変動の要因を分析した(第2-2-6図)。西ドイツの名目賃金上昇率の決定においても,その基本的方向の決定の鍵は物価上昇率の動向が握っており,物価上昇率の係数は約0.8と大きい。一方,失業率は労働市場における構造要因のためか,賃金上昇率決定への寄与は小さく,それに代わって景気要因として導入した実質GDP上昇率の係数(約0.8)及び寄与が大きい。実際,賃金上昇率が加速から減速へと転じた80年10~12月期から83年1~3月期までの賃金上昇率の低下幅(約△3.5%)に対する影響をみると,景気要因が約△3.0%と最も大きく,労働需給要因の寄与は△0.6%程度に止まっている。したがって,西ドイツの場合は,引締め的な金融・財政政策及び,アメリカの不況の波及の下で生じた景気後退が主因となって賃金上昇率を引き下げ,これを糸口として物価・賃金が共に安定へと向かうこととなったと考えられる。

2. 一次産品価格の安定

逆スパイラル現象が発生したのは,賃金と物価の間の関係だけではない。主要先進諸国についてみれば,一次産品価格を中心とする輸入物価と一般物価水準の間についても,以下でみるように,一方の下落が他方の低下を呼び起こす関係が働き,物価と賃金の逆スパイラル現象を強化するように作用した。

一次産品価格(石油を除く,ドル建て)は70年代に世界経済の外延的拡大や過剰流動性及びインフレ期待の高進等を背景に石油危機を直接の契機として2倍以上にも大幅に上昇し,実質でみても73~74年には,それ以前を3~4割上回る水準に達した(第2-2-7図)。しかし,こうした一次産品価格の上昇が輸入物価を経由して先進諸国の一般物価水準を押し上げるに伴い,実質でみた一次産品価格は下落し,75年には既に従前の水準まで低下した。さらに名目でみた一次産品価格も80年代に入ってからは,次第に下落へと転じていったのである。

(一次産品価格下落の要因)

このようなドル建ての名目一次産品価格の下落の背景には以下のような要因があったものとみられる。第1に,アメリカを中心とする主要国の金融引締めの下で,①ドルの為替相場が上昇したため,同一のドル建て価格では他国通貨建てでみた一次産品の価格は高いものとなり,市場の裁定が働きドル建ての一次産品価格に下落圧力がかかった,一方,②強力な金融引締めは,名目金利の上昇・インフレ期待の喪失という形で実質金利を上昇させ,一次産品に対する投機的需要ないし,在庫需要を減少させ価格低下圧力を生じた。第2に,実物的側面をみても,①70年代の一次産品価格上昇の下で,一次産品輸出国は輸出力を強化したのに対し,②需要国側はコスト削減のために大幅な省資源化を行った他,経済全体としての高付加価値化の動きもあり,一次産品に対する需要の原単位は大きく低下した(前出第2-2-7図),③また最近では,高金利・ドル高に端を発する世界経済の拡大鈍化の下で一次産品に対する需要は一層圧迫された。こうして金融・実物両面から,一次産品市場には超過供給圧力が働き,その価格は低下へと向かったのである。この一次産品価格の低下は,輸入物価を通じて主要国の賃金や物価ひいてはインフレ期待を鎮静化させる方向に寄与し,一方,主要国の物価の安定は再び一次産品価格に低下圧力をもたらすこととなり,物価を安定させる方向へ累積的な相乗効果がもたらされることとなったのである。実際,一次産品価格(石油を除く,ドル建て)を先進国の実質GDPや卸売物価,ドルの実効レートさらには実質金利といった要因で説明する推計式を作成しその変化の要因を分析すると,1971年から79年までの時期には,世界的な物価上昇(寄与度78.2%),景気拡大(同20.4%),ドル安(同19.1%)を主因に159.9%も上昇した一次産品の価格は,79年から82年の時期には,やや下火になったとはいえ,物価上昇が継続している(同23.1%)にもかかわらず,ドルの増価(同△24.9%)及び実質金利の上昇(同△4.4%)等のため15.0%の下落に転じ,主要国の輸入物価の安定に大きく寄与したのである(第2-2-8図)。

以上のように,世界経済は,強力な金融等の引締め政策と不況を発端として,賃金上昇率及び一次産品価格という70年代にはインフレ高進の眼目ともされた要因の下落を通じて,現在の著しい物価の安定を実現したのである。