昭和61年
年次世界経済報告
定着するディスインフレと世界経済の新たな課題
経済企画庁
第2章 ディスインフレへの道
1960年代末から70年代にかけて,主要国では,物価上昇率が次第に高まっていった。この背景には第1には,世界的な過剰流動性の下でインフレ期待が高進してきたことがある。こうした情勢をアメリカについてみると,1968年以降マネーサプライ(M1)の増加が経済その他の趨勢を上回り,マネーサプライと名目GNPの比率である“マーシャルのk゛のトレンドが1960年から67年頃までのデータから得られるトレンドより,上方にシフトするに並行して,GNPデフレータでみた物価上昇率の水準もそれ以前の2~4%から上昇し5%を越えるようになった。背景の第2は,戦後の技術革新が一服する一方で,経済の外延的拡大が継続したことから様々な生産資源の需給が逼迫してきたことである。すなわち,天然資源であれば,石油危機に象徴されるように石油その他多くの一次産品の価格は70年代に大幅に上昇した。また,主要国では労働需給も逼迫し,賃金上昇率も期を追って高いものとなっていった。こうした現実の一次産品価格の上昇や賃金の上昇は,それ自体,現実の物価上昇の要因となったほか,人々のインフレ期待を一層高進させる効果も持っていたと考えられる。
また,このようなインフレ期待の上昇は逆に,一次産品価格や賃金の上昇をもたらすという効果もあり,物価と賃金が累積的に上昇するような状況となった。
この結果,物価上昇のために一次産品の消費国と輸出国,様々な資産・債権・債務の保有者の間などで所得分配の変化が生じた。また資源配分の面でも,取得原価を基本とする会計原則の下で生じる企業設備の償却不足や,製品の値上げや在庫等の値上り益により安易に利益をあげられること等のために,設備投資等に抑制的圧力が働いたと考えられる他,物価上昇に伴う名目金利の上昇に対して,多くの国で金利の上限が規定されていたことから,金融の面でも様々な問題を生じた。こうした物価上昇の加速がもたらす様々な問題に対して,主要国では,70年代末から80年代初にかけて,厳しい金融の引き締め等の政策が採られた他,民間経済においても,省エネルギー・省資源化が進展し,生産資源の需給が緩和され,次第に世界経済全体を巻き込むディスインフレの流れへと繋がっていった。
アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)は,P.ヴォルカーの議長就任後間もない1979年10月に,インフレ抑制と安定的な貨幣供給をねらいとして,日々の金融政策上の操作目標をそれまでのフェデラル・ファンド・レートから非借入準備預金へと変更し,極めて厳格な金融引締めを行った。この措置は,①インフレの高進の下で,名目金利であるフェデラル・ファンド・レートを基準として金融調整を行うとインフレのために,実質金利は低下傾向となり,金融の量的側面に対しては緩和方向のバイアスを生じ易いこと,②フェデラル・ファンド・レートの目標値の変更は政治的干渉を招き易く,その機動的な変更が困難であったこと等のために採られたものであった。
しかし,こうした処置は,折からの「金融革命」の下での新しい金融商品の出現・普及により金融政策の中間目標である貨幣供給量指標自身が混乱していたこと等もあって,短期的な結果としては,貨幣の過少供給と著しい高金利をもたらした。
具体的に新しい金融商品の代表としてNOW(Negotiable Order of Withdrawal)勘定について,その普及の貨幣供給量指標に対する影響をみてみよう。70年代初にマサチューセッツ州に始まった,決済機能を持ちかつ利子を生むNOW勘定の導入は70年代後半には,類似の金融商品と共に他の州へ拡がりをみせ,80年12月31日には全国的に認められるようになった。しかし,このような金融商品の普及は,様々な貨幣供給量指標相互間の関係を歪めることとなった(後出第2-5-2表参照)。すなわち,人々は,利子を生むという点において,通常の当座預金からNOW勘定へ,また決済性を持つという点において,貯蓄性預金からNOW勘定へと資金をシフトさせた。とりわけ貯蓄性預金からNOW勘定への資金シフトは,貨幣供給量指標上,M2に含まれM1B(当時,現在のM1に等しい)には含まれない資産からM1Bに含まれる資産への資金の移動を意味しており,当時FRBが重視していた貨幣供給量指標であるM1Bに対して,膨張圧力を作り出すことになった。しかし,こうした情勢の変化・混乱にもかかわらず,事後的に統計をみれば,しばらくの間M1Bは,安定的に推移していた。すなわち,79~81年の名目のM1B(M1)の伸び率は短期的にはかなりの上下を伴いつつも,ならしてみれば6~8%で安定的に推移しており,またM1B(M1)でみた“マーシャルのk゛も82年に入るまでは過去のトレンド線上にあったのである(第2-1-2図,第2-1-3図)。しかし,前述のような「金融革命」による資金のシフトの下では,このようなM1B(M1)ベースでみた安定は,M2ベースでの著しい金融引締めを意味していたと考えられる。すなわちM2ベースでみた“マーシャルのk゛は通常よりも1割近くも低下し,実質でみたM2は2年以上にわたって前年同期を下回ったのである。
このような,厳しい金融の引締めは,高進を続けるインフレともあいまって,特に金融的要因の影響を受け易い短期金利を中心に金利水準を押し上げ,プライム・レート(最優遇貸出金利)では20%を越え,3か月もののTB(財務省証券)のレートでも17~18%に達するなど,かつてない高金利が現出した。また実質金利の水準(TB3か月ものレートからGNPデフレータ前年同期比上昇率を差し引いたもの)でみても8%前後と極めて高い水準となった。こうした短期金利の上昇の要因をTB3か月もののレートについて分析すると,79年7~9月期から81年4~6月期までの上昇幅7%弱のうち4%強までが金融要因またはそれに準ずる要因によるものであった可能性が示唆される(第2-1-4図)。
一方,アメリカと同様に高いインフレに悩んでいた西ヨーロッパ等の先進諸国でも次第に金融・財政の引締めへと転じていった。西ヨーロッパ諸国では,第1次石油危機後に拡張的政策を採った国ほどその後のインフレと経常収支赤字に悩んだ経験から,第2次石油危機とともに各国で金利が引き上げられた他(第2-1-5図),西ヨーロッパ各国の“マーシャルのk”の動向をみてもいずれの国においても80~82年にはトレンドを大幅に下回る水準となる等,金融引締めが強化された。こうした西ヨーロッパ諸国の金融の引締めの背景にはインフレの高進のほかに,80年以降,アメリカの高金利に伴ってドルが上昇してきたため,自国通貨を防衛し資本の流出や,輸入物価を通じるインフレを防止するという観点上,金融を引き締めざるを得なかったという側面もあったと考えられる。
一方,財政面でも,各国の政権は政府財政が経済全体に占める比率の縮小を目指していた。これは一つには第1次石油危機後の財政拡張の名残りの財政収支赤字が各国とも大幅なものとして残っていたこと,いま一つには金融引締め政策による民需抑制効果に対し,財政面からの資金需要を抑制すればそれを緩和することができるという考え方をとる国が増えたことのためである。このためフランスのミッテラン大統領の就任(1981年5月)当初の一時期を除いて,おおむね緊縮的な財政政策が続けられた。
一方,厳しい金融引締め等の下で生じた極めて高い金利水準は,アメリカの実体経済に大きな影響を及ぼした。アメリカ経済は,80年前半に高金利の下で軽い景気後退を経験した後,レーガン大統領の減税等の経済政策に対する期待等もあって,80年後半から81年前半にかけて,高金利の下では異常ともいえる景気回復を示したが,81年央に至り,高金利の下に経済活動が抑圧され不況に陥り,82年の成長率は△2.5%と第2次世界大戦後の混乱期の1947年の△2.8%以来の下げ幅を記録した。また,一方こうしたアメリカの高金利はドルの為替相場に対しても影響を及ぼしたと考えられ,ドル相場を押し上げるという形で近年のアメリカの国際収支不均衡問題の一つの端緒を作ったと考えられる。
この高金利の下でのアメリカの経済活動低下の中心は住宅投資,設備投資といった投資項目及び,消費では耐久財消費の項目であった。設備投資の決定要因の詳細な分析は後述の第3章第4節にみる通りであり,実際の企業もしくは家計の資金上の負担は,名目金利の他に税制や物価上昇率,償却の方法等様々な要因によって影響を受けるが,単純に実質GNPに占める実質設備投資及び実質住宅投資の比率と,それぞれに関連する金利の動向を重ね合わせてみても,80~82年の投資項目の対GNP比率の低下に金利の急騰が深く関わっていたことは明らかであろう(第2-1-6図)。企業や家計は,異常な高金利の負担の前に投資や耐久財の購入を断念し,このためアメリカは不況へ陥ったのである。
他方,景気の後退は,当然雇用情勢の悪化をもたらした。アメリカの失業率は第2-1-7図にもみられるように明瞭に成長率と逆相関を示しているが,80年代に入ってからの動向についてみれば,80年前半の景気後退において,それまでの5.8%程度から7.6%程度へと2%ポイント弱上昇した後,80年後半から81年前半にかけての景気回復期にはほとんど改善を示さないまま,次の景気後退を迎えた。この81年央からの景気後退期において失業率は,再び大きく上昇し82年末から83年初にかけては10.0%を超える記録的な高水準に達し,次節で詳しくみるように,物価上昇率低下の糸口となったのである。
このようにしてアメリカは,金融面の問題に端を発して不況へと陥ったが,82年以降,金融政策がマネーサプライ(M2)の実質の伸び率や,M2ベースの"マーシャルのk"などでみて中立的ないし緩和的なものとなり,またレーガン政権当初からの様々な減税プログラムが実行段階に入る一方,国防費を中心に支出の拡大が続く中で,連邦財政収支赤字の拡大とともに,83年に入っては景気も大きく回復・拡大した。
しかし,アメリカ経済をデフレではなくディスインフレの方向へ向かわせる推進力となったこの連邦財政収支赤字の拡大は,一方では,需要の拡大と金利の再上昇ひいてはドル高の長期継続を通じて,アメリカの国際収支の赤字拡大の一つの大きな要因となった。
この連邦財政収支赤字拡大の下での金利の上昇を,財政的要因の影響をより強く受けると考えられる長期金利(国債20年もの)について,その要因を分析したものが第2-1-8図である。長期金利は,まず81年7~9月期から83年1~3月期の間に,物価上昇率の低下,景気の悪化といったデフレ的現象とそれに対応する金融の緩和という金利引下げ要因の下に,財政赤字の拡大がかなり大幅であったにもかかわらず,3.6%の低下を示した。ついで,83年1~3月期から84年4~6月期の間には,物価要因がかなり金利引下げ要因として効いたにもかかわらず,財政赤字の拡大が大幅であったこと及び,こうした財政・金融政策の効果もあって景気が拡大してきたことから2.3%の上昇を示した。この結果,81年末~82年初の14%台から10%台へと低下した長期金利は84年央には再び13%台という高水準に逆戻りした。
(ドル相場の上昇と国際収支の悪化)
他方,アメリカの高金利は,それ自体としては国際金融市場においてドル資産の魅力を高め,ドルに対する需要を増加させる効果を持つものと考えられる。もちろんドルの為替相場の決定要因は物価の動向など他にも様々な要因があり,極めて複雑なものであると考えられるが,実際,ドルの為替相場は名目の実効レートでみても,アメリカ内外の物価を調整した実質実効レートでみても金利の高騰にやや後れはしたものの,ほぼ同時期に上昇を始め,金利がかなり低下した83年にはやや下落する気配を示したものの,金利の再騰と共に再び大きく増価した。こうしたドルの実質実効レートの上昇は,アメリカの商品が国際市場において相対的に高価なものとなり価格競争力を失うことを意味しており,若干のタイム・ラグを経て,アメリカの貿易収支赤字の拡大の大きな要因として働いたものとみられる(第2-1-9図)。
以上の84~85年初までの流れを思い切って単純化してまとめれば,①減税及び財政拡大は主に需要刺激的に作用した。また,②金融政策もマネーサプライの伸びは回復したものの,M2ベースの“マーシャルのk"でみれば83年には平均を上回ったものの84年には再び平均を下回る等,必ずしも緩和といえる状態ではなかった(前出第2-1-3図)。一方,③労働市場では一時よりは低下したものの依然高い失業率が継続していたとなる。この結果,労働市場の供給超過と,実物面及び金融面での需要超過が発生し,これら原因のの一つでもある「財政赤字」と実物面での需要超過による「国際収支赤字と景気拡大」,金融面での需要超過による「高金利とドル高」,さらには,次節で詳しくみるような労働市場の供給超過による「物価の安定」が併存することとなったのである。