昭和60年
年次世界経済報告
持続的成長への国際協調を求めて
昭和60年12月17日
経済企画庁
第1章 1985年の世界経済
1983年,84年の自由世界の一次エネルギー需要は,83年2.6%増,84年3.9%増と4年振りに増加に転じた。こうした一次エネルギー需要の増加にもかかわらず,83年の石油需要は減少し,84年も2.0%の増加にとどまった。一次エネルギー需要増は持続的に伸びた石油代替エネルギーの増加によって,まかなわれたのである。84年にはOECD諸国の実質成長率が4.9%増と高かったこともあり,一次エネルギー需要は3.9%増加したが,そのうち約67%は石油代替エネルギーによって,まかなわれたのであった(第1-4-1表)。
84年には世界的景気拡大等もあって,5年振りに自由世界の石油需要は前年を上まわった。しかし,石油需給は緩和基調を続けている。こうした動きには,需給両面からの理由がある。まず,景気回復にもかかわらず石油需要の伸びが低いことである。短期的要因としては,ドル高はアメリカ以外の国々にとっての実質石油価格の上昇をもたらし(第1-4-1図),各国の石油輸入を減少させる方向に働いた。中長期的には,各国とも石油消費節約技術を導入し,また石油以外の代替燃料へのシフトを行ったことがその要因として挙げられる。IEA(国際エネルギー機関)では,OECD諸国の実質GDPl単位当りに対する石油消費量は79年に比べ,84年には75%程度であるとしている。景気が拡大しても,石油需要はそれほど伸びない,というパターンに変ったといえよう。
供給サイドにも大きな変化が起りつつある。すなわち,非OPEC諸国のウェイトの上昇と,OPECの生産量の大幅な減少である。79年以降,共産圏を含む非OPEC生産量は年率2.7%の着実な伸びをみせ,OPECは79年から84年までに実に年率11.0%の減少になっているのと対照的な動きをみせている。つまり,石油需要の低迷の中,OPECは,この非OPECの増産によって減産をやむなくされているともいえよう(第1-4-2図)。こうしたことのため,OPEC加盟国の多くが財政的に苦境におちいり,増産と安売りに走りがちとなっている。
こうした動きの中で,OPECは84年10月に臨時総会を開き,OPEC全体の生産上限を日量150万バーレル引き下げることとした(11月から1,600万バーレル/日)。しかし,85年1月末には臨時総会を開き,83年3月に次ぎ,OPEC史上2度目の公式販売価格引き下げを実施しなければならなかった。すなわち,ここでアラビアン・ライトの価格を1ドル/バーレル引き下げて28ドル/バーレルとし,油種間価格差を2.40ドル/バーレルに縮小する,ことなどの合意であった。イギリス政府も,3月には英国国営石油公社(BNOC)を解体する旨の発表をした。原油価格の低迷で,原油購入価格と売り渡し価格の逆ザヤから赤字を計上していたためである。こうした動きの中で,スポット価格は公式販売価格を大きく下回っていたものの,4月中ごろまで堅調を続けていた。欧米における寒波やイギリスの炭鉱ストも一因であった。しかし,4月後半以降,スポット価格は弱含みとなり,5月に入ってからは,サウジ・アラビアの大幅減産にもかかわらず,下落しはじめた。不需要期を迎えたことに加え,ナイジェリア,エクアドル等一部OPEC加盟国が生産割当枠を上回る増産をしていることや,イランが安売りを行ったからであった(第1-4-3図)。
84年11月からのOPECの生産上限(日量1,600万バーレル)は国別にも設定されている。そのうち,OPECの盟主としてのサウジ・アラビアはOPEC全体の生産上限を守るために,調整役として機能することが予定されており,スウィング・プロデューサーと呼ばれているのはそのためである。
サウジ・アラビアにはOPEC全体の生産上限日量1,600万バーレルから各国の生産割当量を差し引いた残りである日量435万バーレル程度の生産割当が定められていた訳であるが,84年10月の390万バーレルから85年1月の330万バーレルまで徐々に生産量を落としてきた。こうしたサウジ・アラビアの減産は,スポット価格の下支え効果を持つものとして機能した。しかし,サウジ・アラビアの減産だけでは需給バランスを支え,スポット価格の下落をとめることはできなかった。バーター取引などによる結果としての安売りも行われるようになった。しかも,サウジ・アラビア自身も財政上の問題等から,減産負担に耐えられなくなって来た。6月初めのOPEC閣僚執行委員会でヤマニ石油相はファハド国王のメッセージを読みあげた。それはOPEC加盟国に対し,石油価格と生産枠の取決めを守らない状況がこれからも続くようなら,サウジ・アラビアは世界市場での自国のシェアを犠牲にしてまで価格支持を続けるつもりはないとの警告であった。そして,7月上旬の石油相会議で,サウジ・アラビアはスウィング・プロデューサーとしての役割を自ら放棄することを明らかにした。
一般に市場では軽質原油の方が高い価格で取引きされている。ガソリン等価格の相対的に高い軽質製品が多く得られるからである。だが,精製設備の高度化もあって,重質原油からでも付加価値の高い軽質製品をより多く生産できるようになり,公式販売価格が相対的に安い重質原油への需要が強くなった。軽質原油の供給過剰が目立つようになったのは,こうしたことが背景にある。また,主として軽質原油を生産する国と重質原油をも相当量生産する国との間での利害対立から,いわゆる油種間価格差の問題が起きているのである。1月下旬の総会でアラビアン・ライトが1ドル/バーレル値下げされ,油種間価格差が縮小されたことから,こんどは軽質原油が有利となったのであった。そのため,売れ行き不振となった中,重質原油を相当量算出するサウジ・アラビア,クウェート,ヴェネズエラ等が働きかけて,7月下旬の第74回定例総会において,中質原油価格を0.20ドル/バーレル,重質原油価格を0.50ドル/バーレル引き下げることを多数決により(アルジェリア,リビア,イランは反対)決定したのであった。
スウィング・プロデューサーとしての役割をやめると明らかにしたサウジ・アラビアの増産の如何が注目されていたが,8月までは220万バーレル/日程度に減産を継続していた後,9月上旬に実質的な値引き販売であるネットバック(石油製品価格から精製コストなどを引いて逆算した原油価格)方式での販売を一部石油会社との間で実施し,増産に踏み切ったとみられる。サウジ・アラビアの生産量は,ミドル・イースト・エコノミック・サーベイによれば9月は280万バーレル/日,10月は400万バーレル/日程度に達する見込みである。スポット価格引き下げ要因としては,この他にイラクがサウジ・アラビア経由の新パイプラインを完成させ,増産に動いていることも大きい。逆に,ソ連の原油生産低迷による西側への輸出減や,イラクによるカーグ島への攻撃激化によるイランの輸出量の減少等は,スポット価格上昇要因となっているが,原油価格の動向は基調的には弱含みのものといえよう。
1980年をピークとして,OPECの石油収入は減少を続けていた。84年には石油需要の5年振りの回復もあって,83年と同水準(マイナス0.6%)にとどまったが,その水準は80年の57%でしかない(第1-4-2表)。
産油国の輸出額は80年まで急速に伸びた。しかし,81年以降石油需要の伸び悩みと価格の低迷もあって,その後大きく低下している。これに対し,輸入額は82年まで伸び続け,産油国の経常収支は82年以降赤字となっている。産油国は輸入削減努力を続けねばならなくなった。84年にはこうした努力の結果,経常収支赤字を60億ドルに抑えることができたが,これは前年の赤字184億ドルからみれば大きな改善ともいえる。石油収入の減少には,80年から82年までは輸出量の減少が主因であり,83年には輸出量の低下と価格下落がほぼ同程度の影響を与えている。価格を下げてもなお販売量が増大しない,というところに現在の産油国の苦悩があると考えられる(第1-4-4図)。
石油収入の低迷は実質GDPを低下させた。産油国の実質GDPは80年,81年,82年とマイナス成長を続けた。83年からは若干回復し,83年0.3%増,84年1.9%増となった。これは実質GDPの約3分の1を占める石油生産の減少幅が縮小してきたことを主因としたものである。非石油部門の生産の増加率も,石油収入の減少にともなう引締め政策により増加率は低下してきているものの,83年に2.1%,84年に2.0%とそれぞれ増加したことも理由であった(第1-4-5図)。
物価は,輸入物価の安定と引締め政策の実施などから,80年の前年比13.6%上昇から,83年9.8%,84年10.8%と物価上昇率は低下してきている。国別にみるとサウジ・アラビアは83年1.0%上昇,84年1.0%低下と安定しており,他の国も80年,81年の2桁の上昇から低下しているものが多いが,ヴェネズエラ,ナイジェリア等は悪化している。特にナイジェリアでは経済状態の悪化等から,8月中旬クーデターが起るなど不安定な動きがみられる。また,イラン・イラクの両紛争国は依然高いインフレとなっている(第1-4-3表)。
80年をピークとして,中東産油国の歳入予算は大幅に低下している。歳出は各国の長期的な開発支出計画の実施の必要性もあり,84年までの低下幅は歳入ほどの大きさはない。しかし,それでも81年以降,大きく歳出予算を削減している(第1-4-6図)。歳入予算に対し歳出予算削減の難しさから,財政収支尻は83年には240億ドルの赤字(歳入に対し約17%)に達したが,85年には一層の歳出削減(約14%)を行うなど,財政はいわば縮小均衡を目指すものとなっている。石油収入の減少による財政赤字の補填のため,これまで産油国は対外資産の取崩しや自国の中央銀行からの借り入れ等を行ってきたが,こうした対応には限界があり,それが85年予算に反映したものといえよう。
例えば,サウジ・アラビアは歳入・歳出とも2,000億サウジ・リアルと3年振りの均衡予算となった。本年度予算を前年度と比較すると歳入の6.6%減に対し,歳出は23.1%の大幅減となっている(第1-4-4表)。
財政支出の削減は,中東産油国の開発支出の削減につながっている。こうした国々にとって,開発プロジェクトの実施は将来の石油資源の枯渇に対する重要な政策である。しかし,石油収入の減少により,こうしたプロジェクトに対する発注額をも減少させねばならなくなったのである。中東諸国のプロジェクト発注額は81年の700億ドルをピークに減少を続けており,84年には300億ドルと81年のわずか44%程度となっている。(第1-4-5表)。
プロジェクトの内容をみてみると,「工業」,「電力・淡水化」は相変らず主流を占めているものの,「炭化水素」および「道路・鉄道」のシェアが落ち込んだ。
これは油田,ガス田の採掘事業および道路・鉄道などのインフラストラクチャーへの投資がほぼ一巡したことにもよるとみられる。
80年9月に戦火が拡大したイラン・イラク紛争は昨年6月にイラン・イラク双方が合意した国連事務総長の提案による民間都市攻撃停止が85年3月初旬に崩壊して,両国の民間都市攻撃が開始された。さらには両首都攻撃合戦へと激化していった。イラクによるタンカー攻撃は,4月以降鎮静化していたが,7月に入り,再開され,攻撃地点も南下した。8月中旬以降イラン最大の石油積み出し基地,カーグ島に対する爆撃が本格化し,その後イラン・イラク相互の石油・経済施設攻撃がエスカレートしてきた。6年目に入ったイラン・イラク紛争は,両国の生産量・輸出量の増減をとおして,原油市場に不安定な要因となっている。