昭和60年

年次世界経済報告

持続的成長への国際協調を求めて

昭和60年12月17日

経済企画庁


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第1章 1985年の世界経済

第5節 明暗分ける共産圏経済

1. 中国 急成長続ける中国経済

(繰り上げ達成した第6次5か年計画)

84年も83年に引き続き,国民所得,工農業総生産額などは大幅な増加を示した。85年は第6次5か年計画の最終年に当たるが,上期の工業生産,基本建設投資は84年を大きく上回る急増をみせている。こうした活発な経済活動から,主要品の生産は同計画の目標額を2年あるいは1年繰り上げ達成されている(1-5-1表)。

鉱工業総生産額は,84年に前年比14.0%増となった後,85年1~8月では前年同期比22.1%増と更に急増し,85年の計画(前年比8%増)を大きく上回っている。軽工業は85年1~8月で前年同期比22.4%増と重工業の伸び(同19.8%増)を上回った。

こうした生産の急増の要因の一つは,基本建設投資の急増である。中国の固定投資総額の約7割は国営企業を含む国有部門が占め,その約6割が基本建設投資である。この基本建設投資総額は,84年に前年比23.8%増となった。85年に入っても,基本建設投資は急増を続け,1~7月前年同期比44.9%増となった。84年実績でみれば,エネルギー部門は前年比25.1%増,輸送,郵便,電信部門は同34.2%増と従来からのボトルネックである両部門への投資の基本建設投資総額に占める比率は増加したと評価されている。しかし,こうした基本建設投資も,国家予算外の自己資金や融資などによるものが激増しており,政府はこうした膨張に対し,一連の抑制策を採ってきている。

第2の要因は,旺盛な消費支出であった。商品小売総額は,生産増加,収入増加により,84年前年比17.8%,85年上半期前年同期比29.5%増と大幅な増加を示した。特に,洗濯機,冷蔵庫などの耐久消費財の増加が大きい。

第3に,84年5月から導入された企業の自主権の拡大,10月の全面的納税制への移行(それまでは利潤上納制と納税制の併存)など一連の経済改革により企業の活力が高まったことがあげられよう。

(好調な農業生産)

79年に生産責任制が導入されてから農業生産も増加を続けている。84年の食糧生産は前年比5.1%増と史上最高の水準となり,初めて4億トンの大台に乗った(4億712万トン)。農業総生産額は前年比14.5%増となった。85年の夏期収穫食糧(冬小麦中心で年間食糧生産の約2割を占める)は史上最高であった昨年に比べれば約1%の微減となったものの,8,750万トンの豊作であった。数年の豊作によって,とうもろこし,大豆等の輸出を中心に,85年には初めて食糧の純輸出国となるとの見方もある(中国商業部次官)。85年の年間食糧生産量は,東北部の洪水,内陸部の干ばつ等により減産が見込まれているものの,油脂作物,砂糖作物,麻,葉たばこは大幅に増産とみられている。

(税収の増加)

税収増加を主因に84年の国内財政収入(実績見込み)は,前年比18.1%増となった。85年1~7月も前年同期比20%の増加となった。王丙乾財政相は,経営管理を改善し経済を効率化する,基本建設投資の規模を抑制する,85年の税収任務は120億元(前年実績見込み比12.8%増)の超過徴収を保障しなければならない,各財政部門が支出管理を厳正に行う等の方針の下に,85年予算に当初計上されていた30億元の赤字を解消することとした(8月13日,全国財政工作会議)。

(経済体制の改革)

84年10月の共産党第12期中央委員会第3回総会(3中総又は3中全)において,「経済体制改革に関する中国共産党中央委員会の決定」が採択された。共産党第11期中央委員会第3回総会(78年12月)において,「農業の発展を速める若干の問題についての決定」の草案が出され,翌79年1月の第4回総会において同決定が修正採択された。84年10月の「経済体制改革に関する決定」はこれを受けるものであった。この一連の決定は経済体制を改革し,経済活力を増強することを目的としたものである。

① 権限移譲

79年1月の「農業発展についての決定」に基づき生産責任制が導入された。農業での自由化が推進され,生産責任制は農業生産の増加に大きく貢献するものとなった。このため,第12期3中全では,農業生産の発展に比し,都市部の工業,商業等の改革は立ち遅れているとの指摘がなされた。「経済体制改革に関する中国共産党中央委員会の決定」が基本的方針として打ち出されたのは,こうした指摘を受けたものでもあった。もっとも,このような経済改革は一部の企業,地方等では既に実験的に行われていた。この決定は,地方的,試験的なものにとどまっていた改革を全国的に都市部に及ぼそうとするものであった(第1-5-2表)。この決定は,これまでの行政機構による硬直的な企業管理を廃し,所有と経営を分離することによって企業の自主権を拡大し,活性化と効率性の向上を目指そうとするものであり,市場メカニズムを大幅に取り入れようとするものでもあった。これを基本的方針として,その後,具体的施策が採られてきた。

この決定の採択の直前(84年10月4日)に,国務院は国家計画委員会の「計画体制の改善に関する若干の暫定規定」を公布し,85年から試行するよう通達を出していた。この規定は生産計画,固定資産投資計画を初めとする各種計画に対し各部門・各地方の持つ審査権・認可権を拡大することを内容としており,中央の管理していたものの一部を下部へ移譲しようとするものであった。

② 価格体系の改革

第2に価格体系の改革が挙げられる。これは広範囲に及ぶ可能性をもっているが,農産物から着手された。農民の生産意欲を刺激するため,79年に政府は農産物買い上げ価格を大幅に引き上げた。この措置は,その後の農業生産の好調に大きく貢献した。もっとも,その一方で売買逆ざやが発生し財政への負担をもたらしたといわれている。こうした経験を基に,国家の統一買付け,統一販売制度を改めることとした(85年1月1日付共産党中央委員会・国務院の「農村経済の一層の活性化に関する10の政策」,3月24日公表)。これまで,食糧や綿花は国家の統一買い付けが行われてきたが,これを廃し,買い付け契約を結んだ後で国家が買い上げることになったのである。契約以外のものについては自由に市場に出せることとなり,またそこでの食糧の価格が今までの国の統一価格よりも低い場合は国がその統一価格で無制限に買い上げることとし,最低価格を保障した。このように価格保障の下での市場メカニズムを導入することによって,農業構造を需要にマッチしたものにしようとしているのである。この農産物の買い付け制度の改革を趙首相は生産量請負責任制の導入に次ぐ第2の改革と表現している(85年1月1日)。

こうした買い付け面での改革とともに,北京等の各都市で肉類,野菜などの副食品の統一価格が撤廃され,需給に応じて価格が変動するようになった(6月1日から全国で実施)。ただし,価格の上昇に対しては,政府が食料品値上げのための手当金を支給する,国営商業による供給保障によって価格の上昇を極力防止する等の対処をした。この手当金を支給するため,85年予算には22億元(歳出の1.4%)が計上された。

③ 賃金の平均主義の改革

第3に賃金における平均主義を改め,労働に応じた分配という原則に沿った賃金制度に移そうという動きがある。職務給を中心にした新賃金制度が教職員・保母では85年1月から,国営企業職員・公務員では7月から適用されるようになった。これにより,賃金の上昇は過去最高になった。85年の都市労働者の平均年収は前年比19%増の1,143元(約394ドル)になると見込まれている(中国国家統計局,9月)。

④ その他の改革の動き

第4に,共産党中央委員会が3月に「科学技術体制改革に関する決定」を,5月に「教育体制改革に関する決定」を出した。科学技術の発展,人材教育等の面から経済体制改革の推進にも何らかの影響があるとみられる。

(中国経済の問題点)

① 社会資本の未整備

中国ではこのように経済面で今までの考え方を大きく変えるような市場メカニズムの導入という方向での改革が進められている。現在は経済改革の成否を左右する過渡期にあるともいえるが,既に多くの問題点が指摘されている。

まず,社会資本の未整備である。これは以前から中国経済の弱点であるとされ,解決にもかなり長期を要するといわれている。経済活動が活発になれば,道路,港湾,通信網の需要も多くなるが,実際の状況はその需要に追いつけず,混雑という形で問題が現われている。エネルギー不足,原材料不足と相まって社会資本の未整備は今後の経済発展に対する制約条件になりかねない。

② 物価上昇の高まり

第2の問題点は物価上昇である。小売物価上昇率は,.固定価格の下で82年前年比1.9%,83年同1.5%と安定していたが,84年は同2.8%となった。これは84年10月に共産党中央委員会が価格体系の改革の方針を打ち出したため等で,84年10~12月期では前年同期に比べ4.2%の上昇となっていた。さらに85年に入り各都市で副食品の統制価格を廃止したため,85年上半期では前年同期に比べ7%の上昇となった。それだけではなく,84年10月~12月期には85年の賃金体系改革の際の査定基準を84年の支給実績とする方針が発表されたため,翌年度の実績をつくるため,企業が駆け込みで,奨励金や諸手当金を支給しさえした。

これによる通貨の膨張は価格体系改革の実施によって,物価を上昇させた。流通機構の未整備によるボトル・ネックもあって価格体系の改革が物価を上昇させやすくしているのではないかとの懸念もある。

③ 基本建設投資の急増と輸入の激増

第3の問題点は,基本建設投資の急増であり,輸入の激増である。

企業の自主権の拡大や税制の改革により,企業は自己資金を投資に用いることができるようになり,銀行も積極的な貸出しでこれに応じた。この背景としては,各銀行が自主的に処理できる融資額の査定基準を84年の貸付実績とする方針が発表されたことがあった。このため基本建設投資は非常に高まり(第1-5-1図),工業生産の高成長を現出した。しかし,投資の急増は,重複投資・過剰投資等非効率となるまでに至ったため,政府は,基本建設プロジェクトの審査等を厳格にする,中国建設銀行の資金管理を強める,投資向けの貸し付け金利を引き上げる等の対処策によって,投資規模の抑制を図っている。しかし,抑制策も急速な効果は必ずしもあらわさず,投資の急増は原材料,資本財等の輸入の急増をもたらし,しかも輸送のひっ迫をももたらすようになった。

一方,84年央以降,輸出の伸び悩みに対し,輸入は急増した。84年4~6月期に125億元であった輸入が,10~12月期には225億85年1~3月期には237億にもなっている。同じ期間輸出はそれぞれ136億元,178億元及び157億元にしかなっていない。その結果84年7~9月期以降貿易収支の赤字幅は拡大を続けている(第1-5-2図)。輸入の最近の特徴は,投資や生産活動に必要な重工業品のウェイトが著しく高いことであり,主たる相手国は日本,ECそれに香港である。香港は,台湾との中継地であり,このところこの中継貿易は著しく増加している。これに対し,輸出は軽工業品と鉱物,燃料が中心であり,仕向け地としては香港,日本それにアメリカのウェイトが大きい。このような貿易収支の赤字幅拡大は,過剰通貨を吸収するため,政府が家庭用電気製品を輸入したことも要因となっているが,投資急増による原材料,資本財の輸入増がおそらく最大の原因であろう。このため,外貨準備高は,84年7月の約170億ドルをピークに減少しており,85年6月には108億ドルとピーク時よりも35.3%も低い水準となっている。このため中国では外貨の管理を強化し,輸出増加を目指す政策を採っている。なお,中国は85年9月1日に国際収支表を初めて公表したが,注目すべき点は84年に資本収支が赤字を計上していることである。これは,83年までの借款を返済し,外国債券を購入したことによるものである。

(第7次5か年計画大綱採択)

中国共産党全国代表会議は,85年9月23日に,「第7次国民経済・社会発展5か年計画策定に関する党中央の提案」を採択し,かねて策定作業が進められていた第7次5か年計画(計画期間86~90年)の大網が明らかとなった。それによれば,計画期間に,国民総生産年平均7%,工農業生産総額同7%(農業同6%,工業同7%)の成長を達成することにより,90年には,国民総生産を1兆1,000億元,工農業生産総額を1兆6,000億元(それぞれ80年の2倍以上の水準)とすることとしている。第6次計画期間中,全国工農業生産総額は年平均10%以上成長したとみられており,第7次計画中はこれを逐次引き下げて,大綱にあるような妥当な成長速度を確保し,製品の質の向上と経済効率を一層重視することとしている。

なお,この大綱に基づき,国務院は第7次5か年計画の草案を策定し,86年春に開かれる第6期共産党全国人民代表大会第4回会議に上程し,その審議と承認を経て,これを公布・実施することとしている。

第1-5-3図 中国の貿易相手国(地域)・品目構成

第1-5-3表 中国の国際収支

2. ソ連・東欧 減速したソ連・東欧経済

(ソ連・東欧経済の現況)

ソ連・東欧経済は,5か年計画(ポーランドは経済調整のため3が年計画)最終年を迎かえたが,その成果ははかばかしくなく東ドイツ,ブルガリア,ポーランドを除いて計画の達成は困難視されている。60年,70年代の高い成長と70年代後半からの落ち込みを経てソ連・東欧経済は,80年代に入り多くの問題が表面化してきたといえ,その混迷の度合は深まってきていた。ソ連・東欧経済は,83,84年と活性化が図られやや持ち直してはいるものの,その先き行きの不透明感はぬぐえない。

(1984年の経済情勢)

ソ連・東欧経済は,70年代後半から低迷していたが,83年後半から立ち直りをみせ,84年にはやや改善を示している(第1-5-4表)。

ソ連では,84年の国民所得(NMP(物的純生産),支出ベース)は前年比2.6%増と年計画(同3.1%増)を下回った。工業総生産は年計画(同3.8%増)を前年に引き続き上回り,7,810億ルーブル,同4.2%増と改善した。その内訳をみると,生産財生産は同4.1%増,消費財生産は同4.3%増で,81年以降消費財生産に力が注れており4年連続生産財生産の伸びを上回っている(第1-5-4図)。生産における両者のウェイトは生産財75に対し消費財25である。工業における労働生産性の上昇は,前年比3.7%の上昇であった(年計画同3.4%の上昇)。これに対し農業総生産は,1,350億ルーブル(73年価格)前年比0.1%減と年計画(同6.4%増)を大幅に下回った。特に穀物生産は天候要因により6年連続の不作となり,84年度の生産は1億7千万トン程度(5か年計画目標平均2億3,900万トン)と推定されている(米農務省推計)。

このように84年のソ連経済は,工業ではやや回復を示したものの,農業では不振であった。その結果,計画は未達成に終ったものといえよう。

なお,原油生産は史上初めて前年生産を下回り6億1,300万トン(前年比0.6%減)となった。

東欧コメコン諸国(東ドイツ,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア)では,累積債務等の問題を抱えつつも,各国とも良効なパフォーマンスを示した(第1-5-4表,第1-5-5図)。

各国の国民所得の動向をみると,東欧6か国とも84年には計画を上回る伸びを示した。これは工業総生産が世界経済の回復もあって堅調な伸びを示したこと,各国とも天候に恵まれ穀物生産を中心として農業生産が大幅な増産となったこと等による。しかし,ポーランド等においては累積債務問題を抱え,輸出促進・輸入制限的措置を採っているため,設備の更新や新技術の導入が困難となっている。こうした先行きについての不安感が持たれている国はあるものの,東欧諸国の経済は,83年,84年の回復により総じて混迷の時期を脱したものとみられる。

第1-5-5表 ソ連の主要経済指標

(寒波により落ち込んだ85年上期の経済)

85年に入ってソ連・東欧経済は,寒波により83年,84年に比べ回復のテンポを遅らせている。

ソ連では,工業総生産が年初の寒波等により1-3月期大幅な落ち込みをみせた。4-6月期には回復に転じたものの,1-7月前年同期比3.5%増と年計画(前年比3.9%増)を下回っている。工業における年初の落ち込みは,寒波に影響を受け,流通面で問題が生じ工場間の輸送が十分にはいかず,いわば連鎖的に生産の伸び悩みがみられたとみられる。農業では,大量の飼料用穀物の輸入によって畜産部門で堅調に生産を拡大しており,穀物生産は84年の不作(1億7,000万トン台)に比べ本年は1億9,000万トン台(米農務省9月発表)と83年並みに回復すると見込まれている。しかしながら計画の2億3,900万トンには遠く及ばず7年連続の不作となる見込みである。

東欧諸国では,ソ連と同様に年初の寒波により各国とも大きな影響を受け,84年に比べ上昇テンポがやや低下している。

各国の1-6月期の工業総生産は,東ドイツで前年同期比4.4%増と年計画(前年比4.3%増)を上回っているものの,他の諸国では年計画を下回っている。

特に寒波及びかんばつの影響を大きく受けたルーマニアでは,石油の厳しい輸入削減もあリエネルギー,燃料の一層の消費抑制政策が採られるなど厳しい状況にある。また,ブルガリアにおいても厳寒,かんばつにより深刻な電力・水不足に直面している。一方,農業では寒波の影響は穀物生産にみられ,総じて豊作であった前年を下回るものと見込まれている。また,畜産部門もやや停滞気味とみられている。

第1-5-6表 ソ連・東欧の総・純債務額

(最近のソ連の対米,対西欧関係)

85年3月のゴルバチョフ政権誕生以降,ゴルバチョフ書記長は内政同様,外交面も重視する姿勢を示しており,従来のソ連指導者に比べ早い時期に外交に取り組んでいるといえよう。ヨーロッパ首脳との会談に加え,85年11月には6年振りの米ソ会談が開催されるなど対外的環境の改善を進めている。こうした背景としては,経済の活性化のためには現在負担の大きい国防費の削減を目指すといった一面も考えられる。

(低い伸びにとどまった東西貿易)

東西貿易(ソ連・東欧諸国とOECD諸国の貿易)は,81年に大幅に減少した後82年,83年とやや持ち直してきてはいるものの,84年も低い伸びにとどまった。

ソ連・東欧諸国の対OECD輸出は,83年前年比1.2%減の後,84年には同7.3%増と回復した。一方輸入は83年前年比3.5%減,84年1.4%減と減少を続けている。これは,東欧諸国における輸入制限政策によるところが大きい。この結果貿易収支はソ連・東欧諸国とも近年黒字を続けている。東欧諸国の貿易収支黒字は81年以降4年連続となった(第1-5-6図)。なお,ソ連の85年1-9月のOECD諸国との貿易収支は大幅な赤字となっているが,これは,年初の寒波の影響を受け,石油輸出が輸送面等から輸出できなかったことが大きな要因となっているとみられる。

東欧諸国の輸出構造の推移(第1-5-7図)をみると,商品別では総じて燃料のウェイトを増大させているのがわかる。特に,80年以降では各国の貿易に占めるウェイトが大幅に増加している国が多く,それも石油,天然ガス輸出の増大が目立っている。これは,累積債務問題以降,国際市場では輸出競争力の弱い東欧諸国が外貨を得るため,ソ連からの輸入による石油,天然ガスを再輸出へと向かわせた結果であるともみられる(ただし,ポーランド,ルーマニアは除く)。また,産業構造の高度化に伴い各国とも総じて食料輸出のウェイトを低下(ハンガリーではむしろ政策的に特化させている)させているが,その輸出競争力の低下から輸出促進策にもかかわらず東ドイツを除き各国とも停滞している。

(ソ連の原油減産)

84年に史上初めて減少を示したソ連の原油生産は,85年に入っても不振を続け1-9月前年同期比で4%減となった。原油生産は83年10月以降前年同月の生産を割り込んでいる(第1-5-8図)が,こうした原油生産の不振は,①西シベリアでの生産の主力であるチュメニ油田の不振,②インフラ・ストラクチャーの未整備,等によっている。更に生産拠点が遠方になったための輸送費用の増大が問題となっている。また,ソ連の原油生産は,生産の60%以上を占める西シベリア地方の気象条件により生産が制約されると伴に生産コストも急上昇している。国際競争力を持つ輸出商品は原油,天然ガスといった燃料類に片寄っていることから,今後とも原油生産の改善に努めると伴に,国内で進められている省エネ努力も更に促進されることがソ連の対外ポジションの維持には不可欠といえよう。

(累積債務問題の現状)

東欧における累積債務問題は,ポーランドを除いてほぼ鎮静化したとみられる。東欧諸国の総・純債務の状況(第1-5-7表)をみると,84年末で純債務は約500憶ドルとなっており81年末の約600億ドルからは急速に改善しているが,ポーランドにおいては改善は遅れているとみられる。

東欧諸国の累積債務の問題は,他の累積債務問題を抱える諸国(例えば中南米の諸国)に比べると,改善の速度は急である。これは,中央集権的体制の下に各国とも輸出促進,輸入抑制策を強力に押し進めた結果によるものであるが,こうした政策の継続は,資本財の輸入を抑制し,資本財の更新を遅らせることにより将来の成長に問題を残す可能性もある。しかし,こうした急速な改善もあって,西側の資本供給側にとっては東欧諸国への信頼感を高めており,西側による資金供給は債務問題派生直後に比べ大幅に改善されている。

なお,BIS報告銀行に対する負債状況(第1-5-7表)をみると,85年3月末で東欧各国がその金融状況を改善しているのに対し,ソ連はかなり悪化しているが,これは石油輸出不振(年初の厳冬の影響等)によるハードカレンシー不足によるものとみられる。

(ゴルバチョフの「経済改革」)

82年11月ブレジネフ元書記長の死去以降,ソ連指導者の死去に伴う交替が85年3月誕生したゴルバチョフ現書記長までわずか2年4か月に3回もなされた。アンドロポフ元書記長,チェルネンコ前書記長とも就任時から健康面で不安視されていたと同時に高齢であったため,各々15か月,13か月という短かさであった。また,ブレジネフ元書記長の在任後半以降大幅な異動がされていなかった政治局員メンバーも高齢化が問題となっていたが,今回のゴルバチョフ政権の誕生によって,18年に渡るブレジネフ体制からの脱却がもたらされる可能性がある。現書記長による新たな「経済改革」の内容については,3,4,10月の党中央委員会総会,6月の科学技術会議における「ゴルバチョフ演説」,10~11月にかけて発表された党綱領草案,党規約改正案及び「86-90年及び2000年基本方向」案で明らかにされたところによると,科学技術の抜本的導入による生産増大を目ざすというものである。また,既存の中央集権管理システムの能率を高め,強化すると同時に現場企業レベルの自主性拡大による活性化を図るというものである。しかし,これらの「経済改革」の内容は従来の「経済改革」の枠を越えたものではなく,全体的には故アンドロポフ元書記長の目ざした路線に沿っており,党の指導力強化を最重要視している。

アンドロポフ元書記長の実施した「経済改革」の柱の1つは,83年8月の「社会主義的労働規律の強化に関する活動の強化に関する決定」と,「労働規律を強化するための補足措置に関する決定」である。これらの決定は,①無断欠勤の内容の変更(3時間以上職場を離れた場合は欠勤とする),②労働規律を乱した者についての罰則規定の強化等を内容としたものである。現在,ゴルバチョフ政権の実施している「アルコール追放運動」もこの延長線上にあると考えられる。

第2には,84年1月から5工業省の下で開始された「経済実験」である。85年1月には新たに20の全連邦,連邦・共和国,共和国工業省の企業合同及び企業へと拡大され,その参加企業数は,約2,300に上り,工業生産に占めるウエイトは12%に達している。この「経済実験」は,「計画化と経済活動における工業企業合同(企業)の権限拡大と作業結果に対するその責任の強化に関する追加措置」(83年7月党・政府決定)に基づいている。内容としては,企業の自主権を高めることを主張とし,①生産計画策定段階での企業の役割を高める,②各種の生産目標指標の数を減らす,③労働者の賃金やボーナスのためのフォンド(資金)を各企業の業績によって決定する,等である。

こうした「経済改革」の背景としては,ソ連が工業化の初期段階で追求した粗放的・外延的な経済発展が行き詰ったこと,替って新たに追求された集約的・内包的経済発展も容易に進展せず,70年代後半からの経済困難が更に深まっているなどという事実がある。83年,84年と成長がやや高まり,経済効率がやや改善を示したのは,「経済改革」の下での労働規律強化等によるものとみられるが,こうした点はソ連経済の持つ問題がむしろ根深いことの例証ともいえよう。

しかしながら若い世代の代表ともいえるゴルバチョフ政権の誕生により,ソ連経済の再活性化がより強力に図られる可能性もある。1つには,ゴルバチョフ書記長自身の行動力である。例えばソ連経済は85年初の寒波により1-3月期大幅にその伸びを低下させていたが,ゴルバチョフ書記長は,工場視察,民衆への呼びかけ等により各自の責任を高める方策を採っており,4-6月期の生産などの回復にはこうした点も影響している面があるとみられている。書記長就任後に採られた中央,地方における人事異動は過去にみられなかった程急速かつ大規模なものであった。若返り化を中心としたこうした人事も今後の同政権の行う「経済改革」には不可欠といえよう。

また,今後の「経済改革」の方向は,先に指摘したとおり,企業や組織の自主性と責任体制の拡大を図ることを考慮するものとなろうが,中央の計画や指導を同時に強化していこうとしていることも否定できない。ソ連の経済機構そのものに着手し,一層の自由化を推進することは既得権益層からの根強い抵抗が存在することからみても当面は考えられないものとみられる。

なお,10月15日のソ連共産党中央委員会総会で,新党綱領,第12次5か年計画の方針について報告された。これによると,第22回共産党大会で採択された現党綱領をソ連の現状に沿った現実的なものとするとされている。経済発展計画については,生産,労働両面における質的向上を目標とし,具体的には2000年までに国民所得を現在の約2倍にすることを計画している。そのためには工業総生産を約2倍,労働生産性を2.3~2.5倍上昇させることを目標としている。

新技術の導入,効率を高めることによりこれらの目標は達成可能であるとしている。また,第11次5か年計画時において打ち出された消費財生産の優先度は,更に高められる見込みである。同綱領は86年2月の第27回共産党大会に向ってより具体的に調整される予定である。

ソ連・東欧諸国の「経済改革」の成否は現在の不安定な東西関係の改善に依存する面もある。こうしたことから,ソ連・東欧諸国は今後とも国際環境の変化に柔軟な姿勢を示すことがより一層必要となろう。