昭和58年
年次世界経済報告
世界に広がる景気回復の輪
昭和58年12月20日
経済企画庁
第1章 1983年の世界経済
共産圏を除く世界貿易(輸出数量)は,世界的な長期不況による需要減退から1981年に前年より0.6%微減したのに続いて,82年は4.3%減少した。輸出が数量ベースで前年より減少したのは,戦後では4回目(52年,58年,75年)であるが,2年連続減少は戦後初めてという最悪の記録である。大幅減の主因は,鉱産物の輸出減,特に,原油,石油製品の輸出量の大幅減によるものである。輸出の大半を原油に依存している産油国の輸出量は,80年15.5%,81年17.6%,82年19.0%の各減と3年連続大幅に減少した。
また,共産圏を含んだ世界貿易数量(ガット報告)は80,81年の2年間微増のあと,82年には前年比2%減少した。これは戦後3回目(58年,75年)で,品目別にみると,鉱物と燃料品の輸出量は81年の12%の大幅減に続き82年も7%減少し,工業製品も1.5%減少した。しかし農産物のみは1%の微増ながら増加している (第1-3-1図)。一方,貿易金額(米ドル表示)をみると,82年は6%減と数量の減少幅を上回って減少し,1.85兆ドルにとどまった。これは米ドルの独歩高によりドル建ての輸出価格が,工業製品で3%,農産物で7%それぞれ低下し,総平均では4%低下したことによるものであった。
世界貿易数量(共産圏を除く)を主要地域別にみると,先進工業国の輸入は長期不況の影響により80年1.7%減,81年2.8%減,82年0.7%減と3年連続減少した。また,非産油発展途上国(以下「非産油途上国」と略す)は,82年(1~9月間)には多くの国で累積債務問題等から輸入制限が実施されたこともあって5.6%と大幅に減少している。産油国の輸入は増加を続けているものの,輸出の大幅減少から財政赤字による開発計画の見直し,延期,縮小等を強いられている。このため81年の20.9%の大幅増から82年は3.6%増と輸入の増勢は鈍化した (第1-3-1表)。
四半期別の世界貿易(共産圏を除く。輸出数量)をみると,80年央から81年央までアメリカを初め多くの先進諸国の景気が一時改善していたこともあって,81年1~3月期から81年7~9月期までの3四半期の輸出はやや増加した。しかし,その後の景気後退が激しく,81年10~12月期以降減少を続けた。
このうち産油国では,石油に対する需要の減少を主因に,輸出数量が79年10~12月期から減少に転じ,83年1~3月期には前期比14.8%と大幅に減少した。この期の水準を減少に転じる前の79年7~9月期と比べると54.3%減と半減している。
先進工業国の輸出数量は,83年に入ると,アメリカ,西ドイツなどで景気が回復したこともあって1~3月期には1.8%増と増加に転じている。
第2次石油危機以降,世界的に景気が停滞し失業率が高まる中で,先進国,発展途上国を問わず保護貿易主義的な動きが目立ってきた。最近景気がやや回復してきているにもかかわらず,保護貿易主義の圧力は衰えていない。
アメリカ・EC・日本の3地域間の貿易収支の動向をOECD統計でみると,アメリカの対日赤字は,81年に171.5億ドルと史上最高を記録したあと82年には154.7億ドルとやや減少したが,83年に入って再び赤字幅が拡大している。また,アメリカの対EC黒字は81年に続き82年も大幅に減少した。一方,ECの対日赤字は高水準のまま推移している (第1-3-2図)。
先進諸国の失業率をみると,アメリカでは83年に入って低下傾向にあるが,81年に比べると依然高水準であり,EC諸国は83年に入ってもなお高い失業率が続き,ほとんど改善がみられない。
このような貿易収支の不均衡,高水準の失業などを背景に,アメリカ,E C諸国では保護貿易主義の傾向が強まっている。
日本・アメリカ間の貿易摩擦は,81年に日本がアメリカ向け乗用車輸出の自主規制を実施したこと等により,一時鎮静化の兆しをみせた。しかし,82年に入って失業率が急上昇したことに加え,対日貿易赤字幅の目立った縮小がみられなかったことから,多数の相互主義法案の提出,ローカルコンテンツ法案の下院での可決など再び貿易制限的な動きが強まった。
83年に入っても,大型オートバイの関税引上げ実施,上院での相互主義法案(ダンフォース法案)可決などの動きが顕著となっている。一方,アメリカは牛肉,オレンジを中心とする農産物については日本の輸入拡大を求めるなど一層の市場開放を求めている。今後,アメリカの景気回復に伴う日本からの輸入増大に加え,84年11月の大統領選挙という政治的要因もあり,日・米間の摩擦は深刻かつ複雑なものとなる可能性が高い。こうした中で,対米乗用車輸出自主規制については,現行自主規制終了直後の84年度において,輸出急増を防止するための経過的措置を実施することとなった(規制枠は185万台)。また,83年末で期限切れとなる日本電信電話公社の資材調達に関する日米政府間取り決めの取扱いについても協議が進められている。
日本・EC間の通商関係をみると,EC諸国が主な工業製品分野で競争力が減退しつつあることに加え,82年には経済の停滞,国際収支の悪化,若年層を中心とする失業問題の深刻化等が重なって・保護貿易主義的圧力が強まった。EC閣僚理事会は,82年3月に日本市場の閉鎖性等を問題としてガット23条第1項に基づき日本との協議を決定し,日本・EC間で協議がもたれたが話し合いがつかず,年末にはガット締約国団に問題を付託して解決を図る第2項に基づく協議へと移行する基本方針を決定した。また,フランスは,日本製小型二輪車(50cc以下)の輸入事前届出制度の導入,VTRの通関手続をポワチェ1カ所に限定するなど,対日貿易制限を強めた。
83年に入って,日本は2月にVTR等10品目の対EC輸出について輸出見通し等を表明した。日本製VTRに対するダンピング提訴は3月に取り下げられ,4月にはフランスの上記規制も解除されたが,VTRの輸入にも事前申告制度が導入された。なお,EC委員会は上記10品目を対日輸入監視制度の対象としている。更に11月に,日本は84年の特定品目の対EC輸出の対応に関し,VTRについては①完成品等の輸出は395万台となる見通しであること②産業協力に役立つ半製品は輸出見通しの対象外とすること等を表明した。また,その他の品目については83年と同様に対応することとなった。なお,3月からDAD(デジタル・オーディオ・ディスク)の対ヨーロッパ向け輸出が開始されたが,EC外相理事会は11月に,同製品の関税引上げ(84年1月から実施)を決定した。
アメリカ・EC間においても,80年代に入って農産品,鉄鋼等で貿易摩擦が激化している。アメリカはECの共通農業政策による小麦粉などへの輸出補助金をガット16条違反として,補助金コードに基づき調停を要請する一方,82年10月に農産物輸出混合信用制度を創設しECに対抗している。鉄鋼については,82年にアメリカの鉄鋼業界がEC等のメーカーを相手に相殺関税,アンチ・ダンピング提訴を行ったが,その後ECが対米輸出自主規制することで提訴は取り下げられた。また,83年7月のアメリカの特殊鋼輸入規制について,ECはガットに提訴し補償を要求しており,交渉が続けられている。更に航空機においても,政府の助成策についてアメリカ・EC間で対立がある。
以上のように,アメリカ・EC・日本間の貿易摩擦が激化する中で,83年9月にアメリカ,カナダ,EC,日本の間で第6回四極貿易大臣会合が開かれた。会合では,貿易の拡大が景気回復に果たし得る重要な役割を認識し,保護主義に歯止めをかけること及び景気回復の進行に伴い貿易障壁を撤廃していくことにより保護主義を巻き返すこと等の貿易分野におけるウィリアムズバーグ宣言のコミットメントの再確認を行った。また,今後の課題として①貿易障壁を撤廃するとのコミットメントを実行するということについて確証を与える方途を見い出すべく努力すること,②発展途上国の貿易を支援するための方法を探求すること,③セーフガードに関する包括的了解のために努力すること,④セーフガードとの関連において,ガット枠外措置(灰色措置)のガットへの情報提供を行うこと等について合意をみた。
先進諸国で景気後退が長期化するなかで,先進国の原材料輸入が減少すると同時に,保護貿易主義的傾向の影響から発展途上国の対先進国向け輸出は停滞が続いた。また,国際収支の悪化等から発展途上国が保護貿易主義的措置をとる動きも出てきている。
先進国・発展途上国間の貿易摩擦は,繊維製品輸出に典型的にみられる。発展途上国から先進国への繊維製品の輸出急増に対応して1974年に先進国と中進工業国との間で多角的繊維取極め(MFA)が締結された。これは,製品輸入による市場かく乱の回避と,輸入国による無秩序な制限措置の撤廃による秩序回復等を目的としたものである。しかし,現実にはMFAに反するような輸入抑制的二国間取極めがみられる。MFAはその後78年,82年と延長されて現在に至っている。このほか,途上国が比較優位を有する労働集約度の高い工業製品に対する高関税や自主規制協定,セーフガードなど種々の非関税障壁の増加によって,途上国の対先進国向け輸出の拡大が阻まれている。81年に国連が発表した「世界経済調査報告」によると,先進諸国が発展途上国からの輸入に対して何らかの非関税障壁を設けた割合(注)は,74年の54%から79年には62%へ(同じく先進国からの輸入に対しては15%から24%へ)と増大している。
一方,発展途上国の中にも保護貿易主義的措置によって国際収支の改善を図る動きが強まっている。82年に入って,インドネシアは政府プロジェクト調達の応礼条件として自国製品の買い付けを義務付けるカウンター・パーチェス制度を適用し,タイは2月より0.5%の,10月より10%の輸入課徴金を実施した(前者については,83年1月に廃止)。また,累積債務問題に苦慮しているブラジル等では,輸入禁止品目を拡大するなど輸入制限措置を強化している。
このように保護貿易主義的圧力の高まるなかで,ガットは82年11月に9年振りに閣僚会議を開催し,ガットに合致しない新たな保護主義的措置をとること及び既存の保護主義的措置を維持することを慎むこと等をうたった政治宣言の合意を達成した。更に83年9月に発表した「国際貿易の展望」では,①保護主義の防止には景気回復を待つだけでなく政策的な努力が必要であること,②保護主義的政策で経常収支赤字の改善を図ることは誤りであることなどを指摘した。また,国際貿易条件の安定化を図るために,①仮に国内産業保護を行う場合には禁止的でない長期安定的,漸減的なMFN関税によること,②数量制限,輸出補助金等により正常な競争が阻害されないことを条件とした「リベラルな貿易」を提唱している。
日本は貿易の拡大均衡を目指し,かねてより関税の引下げや輸入検査手続等の改善,市場開放問題苦情処理推進本部(0.T.O.)の設置など,一連の市場開放対策を実施しできた。
また,83年1月の経済対策閣僚会議において,対外経済対策として新たな関税率の引下げ,輸入制限の緩和,基準・認証制度の改善等を行う旨決定し,その実施に努めてきた。更に,10月の同会議において,総合経済対策として内需の拡大による景気振興とともに,関税率の引下げ等による市場の一層の開放,輸入金融制度の整備等による積極的な輸入の促進等を図ることとした。