昭和56年
年次世界経済報告
世界経済の再活性化と拡大均衡を求めて
昭和56年12月15日
経済企画庁
第2章 世界的高金利の出現とその影響
一方西欧経済もアメリカと同様に高金利状態となった。その原因を西ドイツを中心てみよう。
西ドイツでは景気が低迷しているにもかかわらず,かつてない高金利がっづいている。すなわち公定歩合が80年5月以降戦後最高水準の7.5%に据え置かれているほか,81年2月にはロンバート貸付(債券担保貸付,当時金利9%)に代って特別ロンバート貸付(日々,金利と貸付の実行,停止が決定され,通常のロンバート貸付に比べ弾力的が運用が可能なもの,10月初まで金利12%)が導入され,現在も高金利水準で゛続けられている。
これは,基本的に金融政策がインフレ抑制最優先で運営されているからにほかならない。過去に激しいインフレを経験Lた西ドイツでは通貨価値の安定こそ経済成長と国民生活の向上に不可欠であるとのコンセンサスがあり,金融政策を主管する連銀はマルクの対内,対外価値の安定を最優先の任務としている。
今回の金利上昇期についてみると,第2-3-1図にみるように短期金利はすでに78年秋に上昇の兆しをみせている。この時期は,原油価格や工業用原材料価格の上昇から西ドイツ国内の物価が上昇し始め,最低準備率の引き上げなど引締め政策が導入されだした時期であった。78年末連銀は79年の中央銀行通貨量の目標増加率(79年10~12月期の前年同期比)を6~9%にすると公表し,さらに79年1月にはロンバート・レートを3.5%から4%へ引き上げ実質的な引締めへと転じていった。
その後中央銀行通貨の増加率は着実に低下したにもかかわらず,景気拡大を反映して民間の資金需要は根強い伸びを続け,物価も原油価格上昇や付加価値税引上げなどから上昇率が一段と加速した。このため連銀は相ついで金利を引き上げ80年5月には公定歩合が7.5%,ロンバート・レートが9.5%と両者とも戦後最高水準に引上げられた。市中金利もこれにつれて上昇を続けた。
また西ドイツでは,製品輸入の比率が高いため,マルク相場が下落して輸入物価が上昇すると,国内の物価上昇に敏惑にハネ返ってくる。このためマルク相場の安定が物価安定の観点からも重視されている。78年末から80年初にかけての輸入物価の急騰は原油や原材料価格の高騰によるところが大きいが,81年に入ってからはマルク相場の急落が国内物価上昇の主因となっている。前述の81年2月末の特別ロンバート制度の導入も,マルク相場の急落に歯止めをかけることを狙った緊急避難的なものであった。同制度導入後マルク相場は一時持直したものの,その後再び下落に転じ,国内物価もますます騰勢を強めたため,特別ロンバート・レートは12%の水準が約7か月間も続けられた。10月初には11%へ引下げられたがなお高水準である。
他の西ヨーロッパ諸国をみると,イギリスでは,サッチャー政権成立(79年5月)以来,「現在のインフレ抑制なくして,将来のイギリスの繁栄はありえない」という信念のもとに不況が深刻化するなかで厳しい金融引締め策を堅持してきた。特に通貨供給量のコントロールを通じたインフレ抑制が重視され,ポンド建てM3の目標増加率(第2-3-1表)は,名目GDP成長率をかなり下回る水準に設定されてきたが,コントロールは目標どうりにはいかなかった。このため,79年11月に一挙に3%引き上げられて史上最高の17%となった最低貸出金利は80年7月まで高水準のまま据え置かれた。
フランスでも,ジスカールデスタン政権下においてインフレ抑制を最重視した金融政策がとられてきた。このためインフレ率が高まりだした79年以降引締めが強化され,マネーサプライ(M2)の目標増加率も名目GDP成長率を下回るものに設定される一方,フラン価値の維持を主眼に市場金利の引上げを誘導する措置がとられてきた。また,ミッテラン新大統領誕生(81年5月)を機にフランの売圧力が強まったため,フランス銀行はフラン防衛のため市場介入金利を大幅に引上げ,この結果市中金利も急騰した。
イタリアでもインフレ抑制,リラ防衛の観点から79年秋以降,公定歩合の引上げや量的貸出規制の強化により引締めが強化されていった。81年3月には公定歩合が一挙に2.5%引上げられ19%となり既往最高を平新した。
その他の西ヨーロッパ諸国でも為替レートの低下が物価に及ぼす悪影響を回避するため為替レートの安定をはかった国が多かった。ベルギー,オランダなど政権の安定度が高くない国やスイスでも通貨防衛を理由に公定歩合が引上げられた。
次に西ヨーロッパにおける高金利のもうひとつの国内的要因として政府の財政赤字の拡大が挙げられる。
西ドイツでは公共部門の巨額の資金需要から,長期金利は短期金利に先立って上昇しており,また短期金利がごく緩やかながら下降に転じた81年3月以降9月初まで上昇を続はた。
西ドイツの財政赤字は74~75年の不況期に景気刺激策が採られてから急速に拡大し,その後景気拡大に転じてからも高水準のまま残っている(第2-3-2図)。75年における中央(連邦),地方(州,市町村,市町村連合),その他公共部門全体の純借入れ額は536億マルクにものぼった(GNPの5.2%)。このような公共部門による巨額の資金調達は民間資金需要と競合し,インフレ再燃をもたらす危険があるとして76年度(1~12月)の連邦政府予算案の策定に当っては歳出削減と増税を盛り込んだ「租税改革法」「財政構造改善法」が策定され,財政不均衡を漸次解消していくことが決定された。その後も付加価値税や一部消費税の引上げにより税収増が図られた。
しかし一方ではインフラストラクチャーの整備をめざした「未来投資計画」(77~80年に総額200億マルクを発注する計画)の策定や,諸外国からの経常収支黒字国に対する内需拡大の要請に応じた刺激策の採用(77年秋),ボン・サミット後の財政政策の決定(78年秋)などにより,財政再建は中断された。財政面からの景気刺激策は,結果的には民間設備投資を中jらに景気が拡大した78~79年にもとられ,その結果財政赤字の縮小は果されなかったのである。
また80,81年をみると,予算の段階では歳出の伸びを抑え,財政赤字縮小を意図していても,予想外の物価の上昇,人件費や失業手当の増加,金利上昇による利払い費の増加などから歳出が膨らみ,景気鈍化から歳入も減少して財政赤字が拡大するという結果になっている。81年の連邦政府の純借入れ額は予算案の段階では,274億マルクであったが,予算成立段階では338億マルクとなり,81年11月現在でさらに30~40億マルクの増大が見込まれ,75年の299億マルクを大きく上回る既往最高となっている。もっとも歳出額対比では75年の19.1%に対し81年は16%程度と試算される。なお,82年については財政健全化を最優先課題とする予算案が策定され,純借入れ額は265億マルクに削減されている。
他の西ヨーロッパ諸国の財政収支をみても,70年代に入って悪化の兆しがみられ始めた。特に第1次石油危機後は財政支出の拡大による景気浮揚策の採用と不況による税収減が重なって各国の財政収支赤字は大幅に拡大した(第2-3-3図)。イギリスではその後赤字幅がやや小幅化したが,78年度には大幅減税が行われたこともあり,再び赤字幅が拡大した。サッチャー政権移行後は財政面でも引締め基調とされているが,景気後退深刻化による税収の伸び悩みや失業対策費急増などから,歳出額に占める財政赤字額の比率は縮小しているものの,赤字額は高水準のまま横ばいの状態にある。
フランスでは,76年秋のバール・プラン以来総合的な景気浮揚策は採用しないとの方針がとられてきた。このため他国と比べて財政赤字比率は小さいが,景気低迷を映じた税収不足から77年以降再び赤字幅が拡大し,その後も縮小していない。
イタリアでは73~74年の税制改正による課税権の中央への集中化にともなって地方への移転支出が急増し,とれが財政赤字拡大の原因となっている。
特に78年には赤字幅が急拡大した。
西ドイツの高金利の要因のひとつとして79年5月以降赤字に転じた経常収支の存在がある。79年の経常収支は65年以来14年ぶりに96億マルクの赤字となり,80年には298億マルクへと赤字幅が3倍化し,81年も各機関によれば約250億マルク程度の赤字が見込まれている。こうした大幅な経常収支赤字を削減するためにも,またそれを資本流入によってファイナンスするためにも,金融引締め強化によるインフレ抑制等ファンダメンタルズの改善が必要とされたのである。また,金利引上はにより資本流入を促すという意図もあった。
ここで最近の経常収支赤字拡大の原因をみてみよう。
西ドイツの経常収支動向を長期的にみると(第2-3-4図),まず移転収支が恒常的に赤字を続けてきたことがわかる。これは外国人労働者による本国への送金,ユダヤ人に対する損害賠償,ECその他国際機関への拠出金等によるものである。50年代までは,これを貿易収支と貿易外収支の黒字で相殺し,経常収支の黒字を生み出していた。しかし,貿易外収支の黒字は60年代に入って旅行収支赤字の拡大などにより縮小しさらに赤字へと変化した。このため貿易収支黒字が著しく縮小した年(62,65年)には経常収支は赤字となった。
その後移転収支,貿易外収支の赤字は拡大傾向をたどったが,EC関税同盟の完成(68年),ECとEFTAの貿易協定締結(72年),9か国ECの発足(73年)などを背景に貿易収支黒字が拡大したため,経常収支黒字も拡大した。
最近の経常収支赤字大幅化の原因を明らかにするため,第1次石油危機後の経常収支動向と比較してみよう。第1次石油危機後は,第2次とは全く逆に経常収支は大幅黒字を示した。2つの石油危機において経常収支動向に何故このような大きな差が生じたのであろうか。
まず,第2-3-2表をみると,第1次石油危機に際しては72年から74年の2年間に石油収支赤字が約200億マルク悪化したが,石油以外の貿易収支黒字が約500億マルクと大幅に増加したため,経常収支黒字は拡大しているのがわかる。これに対して第2次石油危機に際しては,78年から80年の2年間に石油収支の赤字が約290億マルク増大したのに対して,石油以外の貿易収支の黒字も35億マルク減少したため,石油収支及び貿易外,移転収支赤字の拡大を相殺できず,経常収支は大幅赤字に陥ったのである。貿易外,移転収支赤字の拡大幅も第1次に比べ第2次の方が大きくなってはいるが,経常収支動向が様変りになった主因はやはり石油以外の貿易収支の悪化であるといえよう。
次に貿易収支の動向を輸入と輸出の両面からみてみることにする。
まず,第2-3-3表をみると,2つの石油危機に際して輸入金額は,第1次,第2次とも2年間に約40%の増加と,同様な伸びだったのがわかる。内訳をみると,石油及び石油製品の輸入金額が第1次では2年間に約3倍となった(この間数量の減少はわずか0.6%)のに対し,第2次では約2倍にとどまった(数量は6%の減少),一方,石油及び石油製品以外の輸入金額は,第1次が2年間に25%の増加,うち鉱工業品の増加が27%であるのに対し,第2次では石油及び石油製品以外の輸入が31%,また鉱工業品が2年間に36%も増加している。特に,最終製品の増加は32%と第1次のほぼ倍のテンポで増加した。
輸入金額全体に対する寄与率も第1次の場合は42%が石油及び石油製品の増加であったが,第2次の場合は,石油及び石油製品の増加と最終製品の増加がほぼ3分の1ずつとなっている。
第1次,第2次の石油危機に際し,輸入金額の増加は両者とも同程度であったが,輸出金額をみると(第2-3-4表),第1次では2年間に55%伸びたのに対し,第2次では23%と輸入の伸びを下回る低い伸びにとどまっている。
これを地域別にみると,第1次においては,OPEC諸国向けが2年間に倍以上の伸びをみせたほか,非産油途上国や日本向けも平均以上の高い伸びとなった。他方,第2次においては,OPEC諸国向けがマイナスに転じたうえ上記の国々やアメリカ向けがいずれも低い伸びにとどまった。
第2次石油危機に際してOPEC諸国への輸出が伸び悩んだのは,イラン革命の影響等が挙げられるが,その他の諸国に対しては,西ドイツとの成長率格差によるところが大きい。71年から75年までは西ドイツよりも主要輸出相手国の成長率が高かったのに対し,76年以降は西ドイツの成長率の方が高かった。
石油以外の貿易収支黒字が第2次石油危機に際して減少したのには,上述の成長率格差とともに76年以降の長期にわたるマルク相場の実質上昇によって競争力が低下したのも響いているとみられる。
マルクの実質実効レートの動きをみると(第2-3-5図),76年から79年まで上昇を続けている。この時期は第1次石油危機後の西ドイツ経済のパフォーマンスの良さからマルクの信認が高まった時期であった。マルクは投資通貨,準備通貨として買い進まれ,インフレ格差以上に上昇した。このため西ドイツの価格競争力は低下し,OECD諸国の輸出に占める西ドイツの輸出の割合も79年以降再び低下している。
連銀も第2次石油危機の経常収支に及ぼした影響を分析した中で(81年4月月報)石油価格高騰による景気悪化等その間接的影響をも含めて考えると,石油価格高騰による経常収支悪化分は全体の3割程度,また貿易外,移転収支の赤字幅のすう勢的拡大によるものが3割程度で,残りは74年から78年末にかけてのマルクの実質レートの大幅上昇による西ドイツの競争力低下に伴う貿易収支の悪化にあるとしている。
以上のように,79年以降の西ドイツにおける経常収支の赤字転化の原因は,石油価格高騰による石油収支の悪化および貿易外,移転収支赤字のすう勢的拡大を非石油貿易収支黒字によってカバーできなかったことにある。非石油貿易収支黒字は西ドイツと外国との成長率格差及びマルクの実質レート上昇による価格競争力低下によって今回はむしろ縮小傾向にあった。しかし,80年には西ドイツの景気が後退に向い,マルクの実質レートも低下したため,81年春以降経常収支赤字幅は縮小に転じており,今後も各機関によれば赤字幅は縮小していくものと見込まれている。