昭和54年

年次世界経済報告

エネルギー制約とスタグフレーションに挑む世界経済

経済企画庁


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第3章 スタグフレーションと世界経済

第2節 1978~79年のアメリカのインフレ悪化―西ドイツとの対比

1. アメリカ

アメリカのインフレは10年以上前のベトナム戦争拡大による超過需要に端を発している。

1960年代前半のアメリカに,消費者物価の年平均上昇率がわずか1.3%と物価が安定する中で,順調な成長(年平均4.7%)をつづけていた。しかし,60年代後半に入ると65年の1.7%から69年の5.4%5物価上昇率は高まった。

1969年には物価安定を目標に財政金融面からの引締め政策がとられた。その結果景気は後退したがインフレは思ったようには収まらなかった。そこで71年8月にとられたのがニクソン大統領による平時はじめての賃金物価統制であった。これは72年中は一応物価の安定(消費者物価上昇率3.3%)と景気拡大(成長率5.7%,失業率71年の5.9%から5.6%へ)を両立させることに成功した。しかし,統制が資源配分の歪みと所得分配の不公正を拡大するにつれ,73年にはそれを緩和せざるを得なかった。74年春に法律上の行政権限(1970年経済安定法)が期限切れになるのと同時に統制が解除された時は,超過需要,ドル切下げ,世界的農産物不作,第一次石油危機等各種物価急騰要因と重なって,インフレは爆発した。74年の消費者物価上昇は12.2%(年間上昇率とくに断らない限り,以下同じ)と戦後はじめての二桁となった。

その後につづく戦後最大の大不況の中で,食料価格の安定にも助けられて,76年には消費者物価上昇率は4.8%にまで鈍化した。しかしその後インフレは77年6.8%,78年9.0%と再び悪化の一途をたどり,79年は9月までで実に13.2%(年率)と,第一次石油危機当時を上回る急騰となったのである。

以上のようにここ10数年のインフレ動向を見ると,景気循環を重ねるごとに物価上昇率が底上げされて来たのが分る。すなわち各循環の谷の時点の消費者物価上昇率を見ると60年が1.5%,70年が5.5%,75年が7.0%となっている。こうして物価が時とともに下方硬直的になったのは,米国経済の構造が,一端始動したインフレを減衰させにくい形になっていることによるところが大きい。すなわち,長いインフレの間に,個人,企業等のインフレ期待が強まって経済社会の各分野に下方硬直的な仕組みが組み込まれ,需給が弛んでも貨金物価が減衰しにくくなっている。そのため,超過需要や食料,エネルギー価格の高騰,ドル安等それぞれの要因によって始動された各時期のインフレが消滅せずに累積されて来たのである。

(1)特殊要因の影響―食料,ドル安,エネルギー等

78,79年のインフレ悪化には特殊要因の影響もかなりあった。

すなわち78年には食料価格の高騰とドル安が物価上昇率をかなり押し上げた。いま消費者物価を食料,エネルギー,その他に分けてそれぞれの動きをみると,76年に著しく安定していた食料価格が,77年に入って騰勢を高め,それが78年には一層加速したことがわかる(第3-2-1表)。食料は消費者物価指数の2割弱を占めており,この動きが76年の消費者物価の安定と78年の悪化の一つの要因となったことは否定できない。なお,79年に入って急騰したエネルギー価格については,77年にはOPECによる石油価格の微調整からやや上昇率を高めたものの,おしなべて78年まで安定的に推移した。

78年のインフレ悪化のもう一つの要因は,ドル安の影響である。ドルは78年10月までの1年間に実効レート(米国輸入ウエイトによる加重平均)でみて,12.9%下落した。78年のアメリカの輸入(名目額)は総供給(GNP+輸入)の9.3%であるから,直接的輸入価格の引上げだけでこれは供給コストを1.2%引上げることとなる。輸入価格が上昇すると,輸入品と競合する国産品の価格引上げを可能とすることにより,直接効果以上に物価を押し上げる力をもつ。

こうした数字以上に重要なのは,為替レートの下落は,インフレを悪化させることを通じて為替市場における信認をつき崩し,さらに一層の為替レートの下落を招くという悪循環をもたらしやすいということである(これに対して為替レートの上昇はインフレ抑制効果をもつことからさらに一層の為替レートの上昇という物価面での好循環をもたらす。78年の日,独の場合がそうであった)。78年11月に米当局が断固たる決意でインフレ対策,ドル防衛策に踏み切るまでの加速度的なドル安進行は,まさにその典型であった。

以上のほか社会保障税や最低賃金の引上げも78年のインフレを加速させた。

さて,79年に入っても上半期の間,食料価格の高騰が続いた。それに加えて,OPECの石油価格引上げによってエネルギー価格が急騰し,インフレは一段と悪化した。78年と79年9月の対前年同月比の物価上昇寄与度を第3-2-1表でみると,78年には0.6%ポイントにすぎなかったエネルギーのそれが79年9月には3.0ポイントと大幅に高まっている。エネルギーの場合,直接消費者物価に占めるウエイトは1割弱と小さいが,エネルギー価格の上昇は広汎に工業製品価格に波及していくので,全体的なインパクトはより大きなものになると考えられる。

(2)基本的要因一労働コスト

78年以来のアメリカのインフレ悪化のより重要な点はこうした特殊要因を除いたいわゆる物価の基調(便宜的に食料とエネルギーを除いた消費者物価指数でみる)が一段と悪化したところにある。すなわち,76年,77年には6.1%,6.4%だった物価の基調は,78年には8.5%,79年9月には前年同月比で9.9%上昇した。

物価の基調は単位労働コストとかなり密接に関連している。単位労働コスト上昇率は76年に5.7%まで低下した後上昇を続け,79年7~9月期には前年同期比10.6%にまで高まった。こうした単位労働コストの急騰は,賃金上昇率の高まりと生産性の伸び悩みの両面からもたらされているが,78年と79年ではその動きに若干の相違が認められる。すなわち78年の単位労働コストの上昇は,賃金上昇率の加速と生産性上昇率の鈍化の両面からもたらされたが,79年のそれは賃金上昇率がやや下落しているにもかかわらず,生産性の伸びがマイナスになったことによるものであった(生産性についての分析は次節)。

(3)労働需給のひっ迫

78年以降の賃金上昇率の加速は,労働需給のひっ迫と関係がある。78年の労働需給を失業率の推移でみると77年央の7%前後から78年初の6%強へ急速に低下し,この間の就業者数の伸びは年率4.8%(78年3~4月÷77年9~10月の年率)にものぼった。こうした急速な労働需給のひっ迫に労働市場の対応が遅れ,それがこの間の賃金上昇率に拍車をかけた。

賃金上昇の姿を組合員賃金と非組合員賃金に分けてみるとこの間の事情がよりはっきりする。76,77年には組合員賃金上昇率は非組合員を1%ポイント以上上回っていたが,78年には差が縮小した。非組合員の賃金は組合員の賃金より需給感応的であるため,労働需給のひっ迫とともに上昇率がより急速に高まったのである。79年に入ると再び両者の格差が開いているが,これはエスカレーター条項に守られた組合員の賃金上昇率がインフレ悪化とともに高まるのに対して,非組合員の賃金は政府のガイドライン政策に抑えられて伸び悩んだものと思われる。

第3-2-2表 アメリカの賃金上昇率

78年夏以降失業率は6%をやや割り込んだ水準で前後している。これは,69年(3.5%),73年(4.9%)等過去の景気のピーク年と比べるとなお高い水準であるが,後述するように,各種構造変化のために6%弱という78年後半の失業率水準は60年代の4%に相当する完全雇用水準であるとみられており,この水準で高い賃金上昇率が維持されているのは自然であろう。

79年に入ってからの賃金上昇率は微減しているが,インフレ悪化から大手労働組合の賃金協約改訂交渉は,カーター政権のガイドラインにもかかわらず,実質的にかなりの高率で妥結しており,このままインフレが収まらない場合には全体としての賃金上昇率も再び加速に転ずる危険性も否定できない。

(4)生産物市場

賃金コストの上昇を価格に転嫁するためには,生産物市場での需給ひっ迫がなければならない。そこで生産物市場の需給を製造業の稼働率でみると,77年10~12月期に82.6%であったのが78年中かなりのテンポで上昇して78年10~12月期には86.4%,79年1~3月期には86.7%となった。これは60年代央(66年4~6月期91.6%)のピークと比べるとまだやや低いが,需給のひっ迫した73年(7~9月期87.8%)のピークにはかなり近い水準にまで高まっている。またCEA(大統領経済諮問委員会)が潜在成長力算定に使用した設備の完全雇用水準のメドは稼働率86~87%であり,すでに78年10~12月期はその範囲に入っている。最近ではエネルギー価格高騰等による経済的陳腐化から現実の生産能力は統計上のそれを割引いて考えなければなうないとの説もあり(たとえば,有力な民間予測機関であるデータ・リソーシズ社は,設備の完全雇用稼働率は83%に下っていると分析している),78年10~12月期,79年1~3月期は生産物市場も過熱状態であったとみられる。事実,79年1~3月期には企業によるインフレ・ヘッジ的な在庫補充のための買い急ぎ現象がみられた。

以上は製造業に関する指標についてであるが,経済全体としても78年10~12月期のGNPギャップは1.8%にまで縮小していたと分析されている(CEA)。

79年4~6月期には実質GNPが低下したことから,稼働率も85.9%へ低下し,さらに7~9月期には85.3%となった。景気が頭打ちになるとともに需給はゆるんでいるが,その価格面への影響はまだ現れていないようにみえる。

(5)需給ひっ迫をもたらした要因

こうした需給ひっ迫が発生したのは,設備投資の出遅れや生産性の伸び悩みで供給力の伸びが鈍化していたにもかかわらず,引締め政策への転換が連れたことがひびいている。

1)財政政策

いま1977年10月から始まった1978年度連邦予算を見ると,失業削減のための景気刺激がその主目的とされていた。それは総額約170億ドルに上る(大統領提案の原案では約310億ドル)1977年度と一括した経済刺激計画として設計され,個人所得税の減税,州地方政府への補助金,訓練・雇用計画,地方公共事業等より成っている。1978年度予算全体(大統領提案段階)としては歳出4,594億ドル,歳入4,016億ドル,赤字577億ドルと77年度(提案430億ドル,実績450億ドル)を大幅に上回る赤字となっている(実績赤字は488億ドル)。

またCEA推計の完全雇用予算の推移で見ても,赤字幅は78年に入って縮小しているものの,なお,78年全体でGNPの0.6%に相当する赤字が残っており,78年を通じて連邦財政が依然景気刺激的に働いたことが示されている。本完全雇用予算は完全雇用失業率として5.1%という低すぎる水準を採用していることを考えると,78年における完全雇用赤字幅は実際にはもうと大きく,連邦財政の景気刺激度はもっと強かったものと考えられる。

こうした政策目標の設定は,1978年度予算が計画された1976年末には失業率はまだ7.8%の高水準にあったことからすると,自然であった。しかし問題は本予算を策定するに当って生産性上昇率を楽観的に見すぎたとみられることである。そのため雇用の改善は見通し以上に進んだもののインフレ悪化という高価な代償を払わなければならなかったのである(第3-2-4表)。

1979年度予算も,インフレ問題を重視し,所得政策の強化等を灯ち出しながら,当初は250億ドルの減税をかかげてやはり経済拡大も重視したものとなっていた。現実にインフレ悪化が進行する中で,政府は減税規模の縮小を提案するなどインフレ対策5の傾斜を強め,1978年9月に決定された1979年度予算は歳出4,934億ドル(前年度比9.4増),歳入4,56例意ドル(同13.4%増),赤字374ドル(同23.4減)とかなり大幅な赤字の縮小を図ったが,エネルギー価格の急騰もあってインフレはさらに一段と悪化した(数字は1978年1月の改訂見積りによる)。

2)金融政策

金融政策はかなり早くから引締め基調に転じた。すなわち連銀の公開市場介入点を示すフェデラル・ファンド・レートは77年初頭から反騰に転じ,公定歩合も同年8月には0.5%引き上げられて5.75%となり,76年11月以来の今回復期における最低水準を離脱した。その後78年10月までの一年間にインフレが高進しドル安が進行する中で,公定歩合は計7回累計2.75%引き上げられた。そして78年11月のドル防衛策により更に一挙に1%引上げられて9.5%の高水準に達した。

この間マネー・サプライ目標(向う後1年間の長期目標)も第3-2-5表)に示すように77年夏ごろからつぎつぎに引き下げられて来た。

78年中の一マネー・サプライの伸びを見るとM1が7.2%,M2が8.4%と,M2は目標内に収まったもののM1は上限を越えた。

79年に入ってからの金融政策を見ると,78年11月の公定歩合引上げが大幅なものであり,かつ78年10~12月期,79年1~3月期とマネー・サプライの伸びが大幅に鈍化(Mlは79年1~3月期には減少)し実体経済も急速に冷え込んで来たためもあって,夏まで公定歩合は据えおかれた。しかしインフレは,第二次石油危機の影響もあって更に一段と高進し4~6月期からマネー・サプライが再び増大テンポを早め,また夏に入ってドルが弱まるに至って,7,8,9月と再び公定歩合が大幅に引上げられることとなった。

相次ぐ金利引上げにも拘らず,こうして資金需要が根強く,マネー・サプライが十分鈍化しないのは,インフレ高進によって実質金利が抑制されているためと思われる。いま,フェデラル・ファンド・レートについて名目値と実質値との動きを対比すると第3-2-6図のようになる。これによると77年4月から11月まで,及び78年10月から12月までは引締めが実質的に強化されたが,77年12月~78年10月及び79年1~6月の間は引締めの程度は実質的には不変だったことが分る。

また,78年6月にMMC(第1章第2節参照)が導入されたことも,金融引締めの影響が住宅投資に集中的にかぶさることを緩和するのに成功した反面,それだけ金融引締めの効果を弱めることとなったのは前述したとおりである。

以上を要するに金融政策は意識としてはかなり早くから引締めに転じたものの,実質的な締め効果は79年夏までは不十分であったと考えられる。

(6)78年10月のインフレ対策強化

インフレの果てしない高進に対処するためカーター大統領は78年10月24日インフレ対策の強化を発表した。

これは,78年1月の経済報告で打ち出され,同4月の大統領声明で再確認されたインフレ対策を更に強化したもので,①財政面からの引締め強化,②政府規制の再検討,及び③賃金・物価に関する自主抑制基準(いわゆるガイドライン)の設定の3本柱から成っている。

まず財政面からの引締め強化については,1980年度予算において連邦支出のGNPに占めるシェアを21%程度に引き下げるとともに,その赤字幅を300億ドルまたはそれ以下に抑えるというものである。このほか,連邦公務員の雇用の削減,同給与の抑制等が図られた。

政府規制の再検討についてば規制担当省庁より成る規制会議の創設,主要規制の統合予定表の作成,時限見直し,トラック・鉄道輸送の規制緩和等が考えられた。

本インフレ対策強化の一つのポイントは,第三の賃金・物価に関するガイドラインの設定にある。賃金・物価については,すでに1月の経済報告において,過去2年間の平均上昇率を下回るよう自主的に抑制するという「減速計画」が打ち出されていたが,それを明確に数値で示したのである。すなわちその主要点は,賃金については契約期間平均の賃上げ率が7%を超えない)こと,また物価については各企業の本計画初年度(1978年10月~79年9月)の製品の平均価格上昇率が76年と77年の平均値を0.5ポイント以上下回ることというものである。また企業の手でコントロールできない要因でコストが上がったため物価基準を守らない企業は物価基準の適用を免除されて,よりゆるやかな売上高利潤率基準を適用されることとされた。このガイドラインが遵守されれば適用除外分があるにしても79年の物価上昇率は6~61/2に低下するものとされた。

こうしたガイドラインの導入と合わせて,ガイドラインを遵守しない企業に対する政府契約の禁止,ガイドラインを守った労働者に対する実質賃金保障制度というインセンティブ・システムの導入を図っている。ことに後者は賃金基準を守ることを表明した労働者グループに対し,消費者物価上昇率が7%を超え実質賃金が減少した場合には,一定限度内でその分を税額還付または控除するというものであるが,これは議会で否決された。

以上のように強化されたインフレ対策の発表に対して強力なドル防衛を期待していた海外は失望し,ドル安が加速した。そのため新たなドル対策が必要となったのは既述のとおりである。

本インフレ対策の成果を計画初年度について見ると,第二次石油危機という不幸な事件があったためもあるが,79年1~9月の消費者物価上昇率は13.2%(年率)と目標の約2倍となり,また賃金上昇率(7~9月の前年同期比)も8.8%と7%を上回った。

とくに79年中に多発した主要労組の賃金改定交渉の結果は,政府はガイドラインの範囲内と判定したが実際は年平均10%前後に上ったものが多かったと見られている。これは政府が生計費エスカレーター条項(次節参照)の寄与分を向う3か年の物価上昇率を年平均6%と低く計算しているためである。

ただ組織されていない労働者の賃金上昇率はすでにみたごとく79年1~3月期の対前年同期比で7.5%と鈍化した。また物価上昇率も,半ネルギー,食料,金利等ガイドライン適用除外分を除いてガイドラインの対象部分にしぼると,79年1~9月で7.3%となる。しかしこうした効果がガイドラインによるものか,それとも景気低迷で需給ひっ迫が解消に向ったものかは確定できない。また,この間エスカレーター条項を持つ労働者とそれを持たない労働者との間の賃金格差の拡大等の問題も生じている。

政府は79年10月に始まる第2年度も本ガイドライン計画を継続しようとしている。この際とりあえず,上記不公正問題に対処するため,初年度ガイドラインを遵守したエスカレーター条項を持たない労働者は第2年度は8%まで賃上げを認める等の調整を決定した。また労働側の協力を確保するため,労使及び一般の三者構成による賃金委員会を設けてガイドラインの変更に関する勧告を策定させることとしている。

2. 西ドイツ

    (1)次にアメリカと対照的な西ドイツの物価情勢をみてみよう。

    西ドイツの物価は75年の不況期以来78年まで鎮静化傾向が続いに。消費者物価上昇率でみると,75年の前年比6.0%から77年には3.9%へと鈍化した。さらに78年には,マルク相場の上昇による輸入物価の下落や,異例の豊作による食料品の大幅な値下りなどから夏から秋にかけて前月比マイナスが続き,78年平均でも前年比2.6%の上昇と,政府目標(3.5%)を大きく下回った。

    (2)このように安定していた西ドイツの物価も78年11月以降は,徐々に上昇率が高まり始め,79年に入るとさらに騰勢が強まった。しかしその原因は,①マルク相場の上げ止まりや,原油価格急騰,工業用原材料の値上りなどによる輸入物価の上昇,②厳冬の影響による季節商品の値上り,⑧79年初よりの公共料金の引き上げ,④79年7月1日からの付加価値税率の引き上げ(標準税率12→13%,軽減税率6→6.5%)など特殊要因によるところが大きい。

    これら特殊要因の物価押し上げ効果を西ドイツの研究機関等の分析で見るとつぎのとおりである。まず,①についてはドイツ経済研究所(ケルン)によれば,消費者物価(前年同月比)は1月の2.9%から6月の3.9%まで加速したが,その内,海外要因は1月マイナス0.1%ポイント,6月2.0%ポイントでそれを除くと消費者物価はむしろ1月の3.0%から6月の1.9%へ落着いたことになるという。⑧については同研究所が79年の消費者物価押し上げ効果を0.5%ポイントと分析している。また④については経済省は7月の消費者物価上昇率(前年同月比)4.6%のうち0.7%ポイントはそれによるとしている。

    以上を合計すると年央時点で,②を除いても特殊要因の影響は約3%にも上り,物価上昇の%を占めていることになる。

    (3)需給,賃金コスト等物価の基調を決定する要因はどうであろうか。まず需給状況を製造業の稼働率で見ると,76年以降78年央まで一貫して80~81%の水準にあり,全般的な需給ひっ迫は見られなかった。79年に入ると成長テンポの加速から3月83.6%,6月84.9%,9月84.5%と上昇に転じたが,この水準もなお70年のピーク92.0%,73年のピーク,87.4%を下回っている。ただ78年以降の建設ブームで建設熟練工や建材等が不足したため,一般物価の安定する中で建設価格だけは上昇をつづけた。79年に入ってからも建設価格はさらに騰勢を強めている。これは政府による中期公共投資計画(未来投資計画)の推進や,住宅建策促進策,低金利などから建設需要が増加したためである。

    つぎに賃金コストの動向を見ると,第一次石油危機後の74年,75年には景気後退に起因する生産性の鈍化により賃金コストが高まったが,76年以降は賃金の伸びと生産性の伸びがほぼバランスを回復して賃金コストの伸びは2~4%の範囲に収まっている。これは生産性が77年,78年と鈍化して3~2.5%となったが賃金上昇率も物価が安定するのに従って77年6.6%,78年5.1%と伸びを低めたためである。

    (4)こうして西ドイツの賃金決定がモデレートだったのは,賃金決定メカニズムが次のような特徴をもっているためと思われる。①賃金をはじめ貨幣負債契約に対する物価スライド制は1948年通貨法によって原則として禁止されている。また賃金のスライド制はむしろ物価上昇を促進するとの考え方が一般に強い上,労働者側も賃金の物価スライド制は賃金自主権という基本的権利を労働者の手から奪うものであるという意識が強い。⑧西ドイツの労組は比較的穏健であり,ブーム期には賃上げ要求が膨張するが,景気が停滞すると賃上げよりも職場の確保に重点が移り,賃上げ要求を手控える傾向がある。

    このように西ドイツにおいて,労使関係が協調的に保たれているのは,労働者の経営参加,政・労・使による「協調行動」懇談会,勤労者財産形成などの諸制度が古くから作り上げられてきたことと関係があろう。こうした社会面での支えのために労働組合も賃金要求をより広い国民経済全体の中に客観的に位置づける素地をもつようになっていると言うことができよう。

    たとえば,77年以降の賃金交渉についてみると,77年には,平均約6.5%アップ(基本賃金率)という比較的高い水準で妥結したが,78年には景気が予想を裏切って停滞し,企業利潤が減少すると平均約5%アップに低下した。しかし実質雇用者所得は物価の安定により77年並みの伸びを維持した。79年の賃金改定交渉においては,依然として厳しい雇用情勢が続く中で雇用の確保が第一となったことや,西ドイツの賃金が世界的にみても高水準であることが指摘され,企業側も政府も節度ある賃上げを呼びかけた。組合側も78年より要求を低下させる一方で,雇用確保のために週35労働時間制の導入を争点として闘った。このため,79年の賃上げは平均4~4.5%と78年よりさらに低い水準で収まった。

    (5)一方労働生産性についても西ドイツは第一次石油危機以降も諸外国と比較して(日本を除いて)高い伸びを維持している。また第一次石油危機以前と比較しても西ドイツの相対的な鈍化度は比較的わずかにとどまっている。いま国民経済全体の労働生産性(GNP/雇用)の動きをみると73~79年について日本が3.3%,西ドイツが3.1%,フランスが2.7%,イタリアが1.5%,カナダ,イギリスが0.5%,アメリカが0.1%となっている。第一次石油危機以前(63~73年平均)からの低下率を見ると,米が95%,英が83%,加が79%,伊が72%,日が61%,仏が41%に対して独は33%と最低となっている。

    以上を要するに78年末から79年にかけて西ドイツで見られたインフレの加速は,各種特殊要因によるどころが大きく,物価の基調自体が悪化したものとは見られない。

    (6)しかしながら原因が何であれ,物価上昇が勢いづくことは生計費を押し上げて賃金上昇の加速化をひき起すおそれが大きい。現に組合の末端には79年の賃上げを低すぎるとして不満が残ったうえ,物価上昇の加速が実質賃金をマイナスにするおそれもあるとして,夏には一部地域で追加賃上げを要求する動きもあった。また西ドイツ最大の労組である金属労組は物価の上昇,企業利潤の増加を背景に80年は9%の大幅賃上げを要求する方針を決定した。

    政府は78年央以降マネー・サプライが上昇率を高め出したのを契機に78年秋以降金融引締めに転じ,財政面でも80年度予算案を緊縮型とするなど,早目に引締め政策に転じている。これは輸入インフレが国内物価に波及し,ひいてはそれが賃金加速をもたらすことにより内部化することを初期の段階でできるだけ阻止したいという政策意図の現われと見ることができよう。

    西ドイツの物価が他国と比較して著しく安定しているのは,先に述べた賃金,生産性のバランスと合わせて,政策当局がこうして物価重視の慎重な総需要管理政策を堅持し景気刺激に転じた場合にも物価の動向に細心の注意を払って刺激が行きすぎぬよう早目早目に手を打って来たことによるところも大きい。

    またこうした物価重視の政策運営の結果の物価安定が経常収支の黒字とあいまってマルクを強くし,それがさらに物価を安定させるという効果も大きかった。

    (7)以上のようにアメリカと西ドイツを比較すると,西ドイツが賃金と生産性のバランスを基礎に物価重視の慎重な政策運営を守って石油危機によるインフレ悪化を改善して来たのに対して,米国は賃金物価の悪循環が強まる中で雇用重視の景気拡大を図り第一次石油危機時を上回るインフレに陥った。もっともこの間,とくに1974~75年の世界的な大不況からの脱出期において米国が世界景気の維持,石油赤字の負担に果たした貢献は正当に評価されなければならない。

第3-2-7図 西ドイツの物価動向

第3-2-8表 西ドイツの生産性・賃金・賃金コスト