昭和53年度
年次世界経済報告
石油ショック後の調整進む世界経済
昭和53年12月15日
経済企画庁
第1章 1978年の世界経済
(1977~78年の生産動向)
1977年から78年にかけて,中国では着実な経済政策の転換とともに,経済発展テンポも高まっている。政策転換は76年10月に華国鋒首相が毛沢東主席逝去後の空席を埋めて,党主席に就任した直後から徐々に開始された。77年7月の中国の共産党第10期中央委員会第3回総会(3中全会)において,とう小平の党副主席,副首相などへの職務復帰が決定された後は,予想を上回る速さで国の重要方針を決める全国会議が相次いで開催され,農業,工業,国防,科学技術の四つの近代化をめざして,現実的な経済重視政策が打ち出され,また対外経済交流の面でも,大きく門戸を開こうとする姿勢がうかがわれるようになった。国民経済の近代化を実現してゆく過程では,国内資金および外貨調達の面で,あるいは企業管理,技術教育等の面でなお多くの問題があり,その実現は容易ではないが,国民経済および国防の近代化を目標とする経済重視の政冶体制は,多くの課題を抱えながらも一応定着した。
77年の実質GNPは,前年が政情不安等に妨げられて低水準に推移したこともあって,9.7%の伸びを示し(ハーバード大学,D.H.パーキンズ教授推計),前年の0.3%増を大きく上回った。
まず工業部門では,77年3月以後生産の回復が本格化し,77年下半期には上半期に比べて13.3%増,年間全体としては前年比14%の増加となった。さらに78年上半期には前年同期に比べて24.6%の著増を示した。明らかに工業生産は78年に入って,60年代央から77年にかけての,すう勢的な上昇テンポを上回って増勢過程に移行したとみることができる(第I-5-1図参照)。
しかし前年同期の水準が低水準であったことを考えると,今後上半期に示されたような大幅な増勢が続くとはかぎらないが,高成長をめざす政府当局の政策展開とも相まって,78年の工業生産は,70~77年の年率8.8%をかなり上回るものと思われる(第I-5-1図参照)。
産業別にみると,ここ数年来政情不安等の影響で停滞していた鉄鋼,輸入プラントが新規に稼働し始めた化学肥料,化合繊等の生産の伸びが著しく,これまでもネック産業として重視されてきたエネルギー部門では,前年同期水準を若干上回る程度で,とくに電力については供給力不足が伝られている。
農業部門では,自然災害の影響で食糧生産は75年から77年にかけて停滞した。その後77年冬から78年春にかけて主要小麦地帯(黄河,淮河,海河流域)が早ばつに見舞われたが,夏季食糧作物は早ばつ対策の効果もあって,前年比10%増以上(500万トン増)の増収となった。夏季油料作物は前年比40%の増加であった。政府当局は農業投資の増加,農業貸付資金の増額,農業用生産財,(肥料,農機具,鋼材,石油)の供給増等の諸対策を積極的に進めているが,本年の秋季作物が大幅増産とならないかぎり,年間生産量は78~85年計画で明示されている年平均1,500万トン前後の増産目標(農林部副部長談話)を下回るおそれがあると指摘している(紀登奎副首相談話)。
78年に入って10月末までの穀物輸入成約量は,アメリカ,カナダ,アルゼンチン等から約1,000万トンであった。
(1977~78年の貿易動向)
73年から75年にかけて,貿易収支の赤字が累積し,赤字削減のため76年から輸入抑制策がとられ,また輸入拡大に反対する「四人組」の貿易政策も影響して,76年の輸入は大幅に減少した。77年には名目値の輸入額は若干増加したが,75年の73.6億ドルには達せず,64.5億ドルにとどまった。一方輸出は75年の70.2億ドルから76年には72.5億ドルヘ,さらに77年には78.4億ドルへと増勢をつづけたため,貿易収支は76年に入って赤字から黒字に転じ,外貨保有高も約30億ドルに達したとみられている(第I-5-2図参照)。
78年に入って輸出入は急増し始め,1~8月間の輸出は前年同期比29.8%増,輸入59.2%増となった。輸入を商品別にみると上半期にプラント70%増,発電設備・計器類41%増,工業原料材料の伸びなどが目立った。とくにOECD諸国(アメリカを除く)との貿易は,1~5月間に前年同期比輸出13.4%増,輸入60.6%増となり,米中貿易も農産物の輸入再開によって,年間を通してみると,既往最高水準の10億ドルに達するもようである(米中貿易全米委員会発表)。
なお78年2月26日から3月5日にかけて開催された全国人民代表大会で,「国民経済発展の10か年計画」が発表され,10か年計画の達成と,農業,工業,国防,科学技術の四つの近代化にとって,技術・プラントおよび資材の輸入が緊急課題となってきた。しかも中国側の情況をみると,早急に技術・プラントを輸入しようとする動きがみられる。
2月には,民間ベースによる日中間の長期貿易取決めが調印され,当初78~85年の8年間に日本から100億ドル前後のプラント・機械を輸入し,同額の原油,石炭を見返りとして日本に輸出する構想となっていた。8月12日に日中平和友好条約が調印されて,両国間の経済交流の気運がいっそう高まり,9月には,この長期貿易取決め期間を90年まで延長して双方の輸出額をさらに増大させ,原油,石炭の資源開発のほか,水力発電,非鉄金属の開発にも協力することを検討する,ことで合意した。また78年4月には中国・EC間に貿易協定が調印された。ECが共産圏諸国と結ぶ貿易協定としては,ユーゴに次いで2番目で,期間5年,最恵国待遇方式による包括的貿易協定となっている。
このように,国民経済の近代化にとって必要な技術・プラントの輸入相手国として,また資源開発の協カ国として,日本およびEC諸国,アメリカなど西側先進国に対する依存度が増大しつつあるが,問題は輸入決済に中国がどのように対処するかということである。とりわけ西側諸国との取引が貿易総額の80%以上を占める中国にとって決済問題は深刻である。
78年6月末から7月初にかけて開催された全国財政貿易会議で,余秋里副総理(国家計画委員会主任)は,対外貿易の発展のために,①輸出の強化78年6月末から7月初にかけて開催された全国財貿会義で,余秋里副総理(国家計画委員会主任)は対外貿易の発展のために,①輸出の強化(鉱工業品,とりわけ耐久消費財輸出比重の増大)②委託加工輸出品の増大(繊維品,軽機械類等について原材料を輸入し,製品を輸入する委託加工方式),③補償貿易(生産分与方式=コンペンセーション・デイール」の導入(注1)④輸出商品基地と輸出品専門工場の設置,⑤これまで対外貿易部で一括して取扱っていた外貨割当を地方政府および政府各省にも一定の外貨を割当てて,建設活動の機動的運営をはかる,⑥国際市場調査没強化,⑦輸入の組織計画化(重点的に先進技術を導入し,外貨の重点的計画的配分を行なう)の7項目の貿易政策を提唱している。政策内容をこれまでの硬直的なものと比べると,かなり弾力的な変化が認められ,政府当局の輸出増強に対する積極的な姿勢をよみとることができる。
(注1)補償貿易(コンペンセーション・ディール)方式とは,先進国から技術プラントを輸入し,その見返りに生産された製品もしくは資源の一部を輸入資金に充当させる方式で,現在ソ軍等においてこの方式が採用されている。
中国はこれまで資源開発の面で外国との共同開発方式を否定し,またサブライヤーズ・クレジットは国際慣習方式に則って受け入れるが,借款受け入れは固く避けてきた。しかし中国の貿易政策は徐々に変化し,9月に西ドイツと民間ベースの長期借款導入について大筋合意に達し,また英系銀行からドル預金(期間5年)を受け入れ,日中間でも海底油田の共同開発方式を受け入れ,民間長期借款の受け入れに原則的に同意した。中国側の当面の関心は,円高,ドル安で推移する国際為替市場の変動下にあって,いかに決済条件を有利に解決するかである(注2)。
(注2)主要先進国が中国に対し輸出金融を供与する場合には,先進諸国間で合意された輸出信用ガイドラインを遵守することが義務づけられている。中国については,低所得国として,期間5年以下の場合,最低金利7.25%,5年超の場合,同7.5%,最長信用期間10期間年,最低頭金比率15%の条件が適用される。
78年2月の第5期全国人民代表大会第1回会議において,76年から85年にかけての「国民経済発展の10か年計画」が発表され,10か年計画の目標を達成することが中国経済を20世紀末までに世界の前列に立たせる重要な決め手であることが強調されている。
「計画」の概要をみると第I-5-2表のとおりである。つまり78~85年の工業,農業生産の年平均成長率をそれぞれ10%以上,4~5%と定めて,最終年次の85年に到着する食糧生産を4億トン(77年実績,286百万トン,大豆を含む),粗鋼生産を6,000万トン(77年実績2,100万トン),石炭生産を10億トン(77年実績,約5億トン)と想定している(第I-5-2表参照)。
この10か年計画の目標達成のために,政府当局は,①80年の全国農業の主要作業過程における機械化比率を85%以上とし,②120項目の大型ブロジェクトを新たに建設する。③農業副産物の輸出増とともに,輸出総額に占める鉱工業製品の割合いを高める。④78~85年の8年間の経済建設に要する財政収入と基本建設投資(固定投資)の累計額は,新中国成立以来77年までの28年間の累計額と同規模程度の大きさになるなど,現状から判断するかぎり,きわめて意欲的な構想ともいえるし,また計画規模をさらに拡大する意向も伝えられている。それだけにその達成も大きな努力が必要とされよう。
政府当局は以上の政策課題の達成に当たって,①農業機械化のための資金,資材調達,②プラント導入と平行する技術者教育,③技術習得のための海外留学生の派遣,④労働生産性向上のための賃金引上げおよび奨励金制度の復活等について,抜本的な対策を検討中であり,すでに一部は実行に移している。
ソ連・東欧経済は着実に拡大しているものの,そのテンポはこのところ鈍っている。ソ連・東欧諸国全体の国民所得成長率をみると,多くの国で農業が振わなかった1975年に目立って鈍化した後,山積した諸問題が容易に解決されないこともあって,それ以降5%台の成長に止まっている。これには,石油危機にともなう国際経済環境の急激な変化も少なからず影響しているとみられる。以下では,まずソ連・東欧諸国の経済動向を概観し,次いでこれら諸国が石油危機でどのような影響を受けているかを検討しよう。
ソ連の国民所得成長率(支出ベース)は1976年に続いて77年も計画目標を下回った。この結果,第10次5か年計画(1976~80年)の最初の2年間の平均成長率は4.2%で同計画目標(年平均4.7%)を大きく下回った。
1977年の経済実績をみると,全般に控え目な目標設定がなされていたにもかかわらず,工業を除くほとんどの重要指標で計画が未達成となった(第1-5-3表)。
工業生産は,労働生産性が予定されたほどの向上をみなかったものの,前年比5.7%増と76年の同4.8%増を上回り,計画を超過達成した。増産テンポの加速化には,食品工業の回復や耐久消費財など消費財生産の好調が大きく寄与した。しかし,農業生産は,前年比3%の増加と期待された程の大幅な増産は達成できなかった。76年が記録的豊作であったのに対して,77年は天候不順のため穀物生産を中心に耕種部門が不調であったためである。もっとも,畜産部門は76年の停滞状態を脱して目ざましい回復をみせ,農業生産拡大の一因となった。建設活動も全般に低調であったとみられる。総投資高は計画の3.6%に対して前年比3%の増加と戦後最低の増加率に止まった。
国民生活も計画通り向上しなかった。国民1人当りの実質所得は,前年比3.5%増と計画の3.8%を僅かに下回った。また個人消費の中心指標である小売売上高(国営・協同組合商業)も前年比4.4%増と計画の4.8%を下回った。政府は,国民生活の向上を重点政策として掲げて耐久消費財や食料品の増産に最大限の努力を払っているが,国民の消費需要を十分に満たすまでには到っていない。
1978年経済計画は,成長目標が4年連続して未達成となったこともあって,一層慎重な目標設定がなされた。工業生産は前年比4.5%と76年に次ぐ低い目標となっており,貨物取扱高,総投資高,国民1人当りの実質所得,小売売上高などいずれもが控え目とみられた77年計画をさらに下回る増加率である(第1-5-3表)。ただ,農業生産だけは,政府の強い期待を反映して,大幅な増産目標(1971~75年平均生産高比16%増)となっている。この結果,国民所得成長率は前年比4%と計画としては史上最低の伸び率となった。
78年に入っての経済実績は,全体としてはほぼ計画にそった推移を示している。工業生産は1~9月期に前年同期比4.8%増と年次計画を上回る勢いにあるものの77年に比べて伸び悩み傾向は顕著となっている。この間,労働生産性は,3.5%の上昇と年次計画の3.8%を大きく下回った。一方,農業生産は,耕種部門で穀物生産が政府目標を上回る230百万トン以上の史上最高を記録すると予想されている。畜産も75年ピーク時を上回る増産となっており,全体として明るさを増している。建設面では,1~6月期の国家投資(総投資高の9割近くを占める)が前年同期比4%の増加となって76年同期より増加テンポを高めている。また,あらたに稼動した固定フォンド(建造物,機械,設備等)は,前年同期比11%増と著しく高い伸び率となった。
民生面では,1~6月期の賃金収入が計画を上回る増加となっているほか,小売売上高や生活サービス供与高もほぼ年次計画水準の増加テンポとなっている。
ところで,国民の増大する食品需要を十分に賄うべく,新たな農業振興策が78年7月初の党中央委員会総会で公表された。ソ連では,国民の需要を十分に満たし,かつ農業生産を自給体制に導くためには国民1人当り約1トンの穀物生産が必要であると言われるが,この新農業政策においては,大幅な農業投資によって農業の集約化と生産基盤の強化をはかるという従来からの党路線を確認するとともに,農産物買上げ価格の引き上げ等を含めた振興策をとることによって,1990年までにはその必要穀物生産量を達成するという意欲的な計画が明らかにされた。
対外面をみると,最近になって,貿易基調に変化のきざしがみられる。1976,77年と輸出は輸入を上回るテンポで増加した。このため,77年の貿易収支は32億ルーブルの大幅黒字を記録した。78年1~6月期の輸出は前年同期比4.7%増と77年同期の21.3%増から目立って鈍化する一方,輸入は同9.9%増と77年同期の6.1%増からやや加速化している。このため,貿易収支は同期間に7.9億ルーブルの赤字となった(第1-5-4表)。78年に入って輸出が伸び悩んでいるのは,西側向け輸出が緩慢な景気回復を反映して前年同期に比べて減少しているためである。他方,輸入は,対社会主義国輸入が77年に引き続いて順調に増加しているほか,77年に穀物輸入の減少や資本財の輸入抑制の結果減少していた対先進工業国輸入が再び増加しているため,全体としては増加テンポを高めている。
東欧諸国では,1975,76年と多くの国で農業生産が停滞した。このため国民所得成長計画が未達成となるケースが多くみられた。そこで,1977年の経済計画策定にあたっては,農業の生産目標を高目に置くかたわら,工業生産目標を低目に設定することで経済の均衡回復をはかろうとする国が多くみられた(第I-5-5表)。
しかし,77年実績をみると,かならずしも所期の成果が達成できたとい言い難い。農業生産は,77年にも天候不順や地震(ルーマニア,ブルガリア)の影響のため,多くの国で減産や停滞を余儀なくされた。一方,工業生産は計画目標が比較的低目に設定されていたこともあって,ブルガリアを除いて計画目標を超過達成し,おおむね順調であったと言える。とくにルーマニアでは,77年3月の大地震の被害を克服して前年比二桁の増産を達成したことは注目されよう。
国民所得成長率をみると,76年に比べて成長率が高まったのは東ドイツ,チェコスロバキア,ハンガリーであった。更に,成長計画を超過達成したのは,農・工・建設のいずれの部門も好調であったハンガリーだけであった。77年においても,農業生産の好不調が国民経済全体の動向を大きく決定した。
東欧諸国の78年経済計画は,高度成長路線を堅持しているルーマニアと安定成長路線に復帰したハンガリーを除いて,77年実績並の成長目標を掲げている(第I-5-5表)。すなわち,国民所得成長率と工業生産増加率でみれば,ルーマニアを例外として,いずれの国も5~6%台の控え目な目標が設定されている。一方,農業生産は不振状態を脱すべく,多くの国で意欲的な増産目標が掲げられている。
78年1~6月期の実績をみると,工業生産は前年同期比で年次計画を下回る増産テンポとなっている国が多い。農業は,畜産部門が全般に順調であるものの,耕種部門で天候不順のために作柄が懸念されている国もある。
対外面に目を転ずると,1977年の東欧諸国全体の貿易高(輸出入合計)は前年比約10%増と,76年並の増加となった(76年は前年比11%増)。しかし,78年に入って増加テンポは鈍化しているとみられる。
各国とも対先進工業国貿易での累積赤字問題を抱えているほか,原燃料価格の急速な上昇にともなって対ソ貿易の不均衡も顕在化するようになった。対先進工業国貿易についてみれば,ポーランド,東ドイツ,チェコスロバキアが77年の同貿易赤字を76年に比べて目立って縮小させたのに対して,ハンガリー,ルーマニアは赤字幅を著しく拡大させた(後出第I-5-6表)。この結果,東欧諸国全体の対先進工業国貿易赤字は,76年の36.1億ドルから77年には30.9億ドルへと,やや縮小したものの,依然大幅なものであった。対ソ貿易についてみれば,ルーマニアを除いて各国とも貿易赤字を累積させており,78年に入ってもこの傾向は変っていない。ソ連・東欧諸国相互間の貿易取引は清算勘定方式の決済形態をとっているため,対ソ貿易の均衡化は西側先進工業国の貿易において求められるほど急務ではないが,いずれ大きな問題となることが予想される。
石油危機にともなう国際経済環境の急速な変化は,ソ連・東欧経済に対しても大きな影響を及ぼした。西側諸国において見られたような景気変動はみとめられなかったものの,多方面にわたって,今日に至る迄その影響が継続しているものと考えられる。
以下では,石油危機にともなう国際経済環境の急激な変化が,ソ連・東欧経済に及ぼした影響を幾つかの項目に分けて分析し,ソ連・東欧諸国がそれらに対してどのように対応しているのかをみよう。
石油危機にともなう一次産品価格の急騰が,直ちに,対西側先進国貿易収支の赤字急拡大を招いたわけではない。世界市場価格で先進工業国に大量の一次産品を供給しているソ連についてみれば,一次産品価格の急騰は,短期的には対西側先進国貿易における交易条件の改善を促して,1974年の同貿易収支黒字化の原動力となった(第I-5-3図)。しかし,石炭や一部鉱物資源以外にこれといった天然資源を持たない東欧諸国にとっては,一次産品価格の急騰で得るところはあまり大きくなかったと言える。もしろ,東欧諸国の対西側先進国貿易収支は石油危機以降悪化の一途を辿った(第I-5-6表)。
ソ連・東欧諸国の対西側先進国貿易は,西側先進技術依存の急速な深まりを反映して,1970年代に入って赤字基調にあった。貿易赤字が1975年に急拡大した理由としては,①一次産品価格の上昇分が急速に工業製品価格に転嫁された結果,輸入額は予想外に増加した,②西側諸国は,同時的不況による過剰在庫のはけ口をソ連・東欧市場に求めて積極的輸出策を採った,③重工業優先による工業化の下で,相対的に農業や消費財生産が遅れていたが,さらに天候条件が悪く不作となったこともかさなり),それを補うため,西側先進国から大量の食糧や消費財の輸入を余儀なくされた,④西側諸国の深刻な不況によって原材料・半製品を主体としたソ連・東欧諸国の対先進国輸出が低迷した,などが主なものとしてあげられる。
OECD資料によれば,ソ連・東欧諸国の交換可能外貨建て貿易(対西側先進国貿易)における累積赤字は,1971~76年間に267億ドルにのぼり,その大半は1975~76年の赤字で占められた。
ソ連・東欧諸国は,これらの多額の赤字を補填するため,景気後退で資金がだぶつき気味であった西側金融市場において積極的な外貨取り入れを行った。この結果,西側諸国との経済交流の進展にともなって増大する傾向にあった対西側債務は著増した。西側諸国に対する純債務残高は,1974年末の推計180億ドル弱から1976年末には400億ドル近くへと2倍以上に急拡した(第I-5-7表)。しかも,半分以上が西側民間金融機関に対するものであった。このような対外債務の急増はソ連・東欧諸国の統計情報が不備であることも手伝って,各種の憶測を生み,このため西側諸国はこれら諸国に対する信用供与を手控えるようになった。これに対して,ソ連・東欧諸国では,対西側先進国貿易の均衡化を重点課題としてとりあげ,短期的には輸入抑制と輸出拡大によって貿易赤字を削減する一方,長期的には西側諸国からの資本財の導入にあたってその生産物で代金を支払うという取引方式(生産分与方式)の拡大に努力を傾注して,債務圧力の軽減をはかろうとした。
西側先進国への輸出拡大努力は,西側諸国の不況長期化のため,目立った成果をあげていない。他方,輸入の増勢は,外貨不足による厳しい選択輸入策の実施や食糧輸入の減少の結果,目立って鈍化した。この結果,対先進国貿易赤字は77年には縮小したものの,なお多額であった( 第I-5-6表 )。
この間,対西側債務も増加して,77年末には460億ドル余へとふくらんだとみられる。対先進国貿易は縮小均衡に向う形となっているが,西側先進国から輸入する資本財が国内経済で果たす役割は非常に大きいため,今後とも輸入抑制による縮小均衡となるのかどうかは微妙な段階に来ている。現に,78年に入ってソ連・東欧諸国の対西側収支は,輸入の増大から再び悪化する兆しをみせている。
西側市場における一次産品価格の急騰は,ソ連・東欧域内貿易における取引価格の改訂と価格決定方式の変更を促した。その結果,東欧諸国の対ソ貿易は,ほとんどの国で1975年以降急速に悪化している(第I-5-8表)。
ソ連・東欧諸国相互間の取引価格は,貿易が国家独占となっている国どうしの取引であるため,需給関係によってのみ決定されるのではなく,世界市場価格を考慮しつつも政策的に決定される。しかも,計画経済の円滑な運営に支障とならないよう,五か年計画期間中は中途変更されないのが建て前となっていた。例えば,石油・石油製品の輸出価格をみると,ソ連から東欧諸国への輸出価格は,1971~73年までトン当り16ルーブル内外で不変であった。また74年にはトン当たり約18ルーブルとやや上昇したが,これは一部東欧諸国への輸出価格が微調整された影響と考えられ,74年についても輸出価格は概ね変らなかったと言える(第I-5-4図)。その他のエネルギー価格や一次産品価格についてもほぼ同様のことが言える。しかし,世界市場での一次産品価格の急騰,中でもエネルギー価格の高位定着による取引条件の急激な変化は,東欧諸国への原燃料資源供給の大半を担っているソ連が,取引価格の改訂に踏み切る重要な原因となった。同時にソ連の原燃料生産コストが上昇していることも価格改訂を促す背景となっていた。ソ連では,原燃料生産の中心が開発条件の悪い東部地域へ急速に移行した結果,生産コストの上昇が不可避なものとなっていた。こうして,1975年初めには,価格改訂の予定期限より一年も早く,域内取引価格が全面的に改訂された。しかも,以後毎年,過去5か年間の世界市場価格を基にして取引価格が改訂されるようになった。
東欧諸国とソ連の貿易商品構成をみると,ソ連から東欧諸国への輸出商品の大半は,一次産品や工業半製品などの低加工度の商品で占められ,他方,東欧諸国からソ連への輸出商品の大部分は,機械・設備,輸送機器,消費財によって占められている。域内取引価格の全面改訂によって,一次産品,中でもエネルギー資源価格が著しく引き上げられた結果,機械・設備や消費財などの完成財価格が相対的に低い伸びに止められた。このため,東欧諸国の対ソ交易条件はそれ以後悪化の方向を辿った(第I-5-3図)。ソ連統計によれば,東欧諸国の対ソ貿易は,1972,73年と,どの国も黒字であったが,74年以降赤字に転化し始め,全面価格改訂の行なわれた75年以降は,ソ連から石油・石油製品の供給を受けていないルーマニアを除いて,大幅な赤字傾向を続けて今日に至っている(第I-5-8表)。
注目される石油・石油製品価格を見ると,ソ連から東欧諸国に供給される石油・石油製品価格は,価格の全面改訂が行なわれた1975年には50~125%も引き上げられた。そして,翌76年には6~14%,さらに77年についても2割前後引き上げられたとみられる。しかしそれでも,世界市場での取引価格に比べると3~4割方安い価格水準にあり,今後とも国際価格への「サヤ寄せ」現象が継続するであろう。
このような石油価格の長期間にわたる上昇は,重工業を中心とした工業化を強力に推進して来た東欧諸国にとって,大きな痛手である。東欧諸国の一次エネルギー消費に占める石油の割合は,西欧諸国に比べるとはるかに低いが,それでも経済の高度化にともなって急速に石油依存度を高めていた(第I-5-9表)。それは,各国の消費需要に見合う量の石油が,ソ連から安定供給されるという前提条件があったからにほかならない。しかし,石油価格が急速に上昇しつづけ,それに対する東欧諸国の経済負担が著しく増大することは,東欧諸国のエネルギー消費構造の急速な転換に歯止めをかけるととともに,経済体質の変化に少なからぬ影響を及ぼすであろう。
いずれにしても,東欧諸国は,対ソ貿易赤字の累積に対して,対ソ輸出を加速化する必要に迫られているが,現在迄のところ東欧諸国のソ連向けの輸出は目立った増加を示していない。
石油危機にともなう世界市場での異常なインフレ現象は,東西貿易や域内取引の拡大を通じて,ソ連・東欧経済にインフレ圧力をもたらした。しかし,ソ連・東欧諸国の国内取引価格は,計画経済の運営に支障とならないよう,対外取引価格の変動からほとんど隔絶されており,西側諸国のインフレが国内インフレを直接的に惹起することはなかった。すなわち,大部分の輸入商品については,輸入価格が上昇すれば,上昇分は国庫からの財政支出で補給し,企業や消費者が直接負担することはなかった。したがって西側市場での異常なインフレはソ連・東欧諸国の交易条件を悪化させることで国庫補助金支出の増加に拍車をかけた。また,東欧諸国の場合は,ソ連から輸入する石油など一次産品価格の急速な上昇のため,その事情は一段と深刻であったと考えられる。
ソ連・東欧諸国の多くでは,基礎食料品価格や生活サービス価格を長期間にわたって低水準で凍結する政策をとっているため,不断の賃金上昇や設備の近代化,さらにはサービス内容の多様化によるコスト上昇を小売価格に容易に転稼できないでいる。コスト上昇による企業経営の悪化に対しては,生産刺激やサービス内容改善の見地から,国家買上げ価格や企業卸売価格など生産者価格の引上げを逐次行って経営改善を促している。このため,生産者価格が消費者価格を上回るという。いわゆる〃逆ザヤ〃現象も多くみられ,これらは国庫負担で賄われている。この補助金支出も莫大な額に上ると言われ,ソ連では畜産品に対する補助金支出だけでも公表国防支出を上回ると説明されている。この状況は,抜本的に改善されないままに年々悪化し,財政硬直化の一因となっている(第I-5-10表)。
歳入の中心となる取引税や企業利潤納付金がコスト上昇や全般的成長鈍化で伸び悩むなかで,これら国庫補助金支出の増大は財源を圧迫して,投資の増勢鈍化を招いている。貿易不均衡や債務累積が問題化している状況では,国内の投資資金不足を対外借り入れで補うことも容易ではない。
1976~80年計画では,そのような事情を考慮してほとんどの国で投資の増勢が鈍化する内容となった。1976~77年の投資実績をみると,それを裏付けるように,投資の拡大テンポが目立って鈍った。各国とも,新規建設投資を極力抑制することで投資を既存設備の拡張や更新,建設中のプロジェクトの早期完成に集中して未完成設備の稼働をはかり,投資効率を引き上げる政策をとっているが,それがどの程度の効果をあげているか注目される。
石油危機に端を発した国際経済環境の急激な変化は,以上みてきたようにソ連・東欧経済にもかなりの影響を及ぼした。とは言え,ソ連・東欧諸国では,計画経済体制をとっているために,西側諸国でみられたような景気変動に直面することはなかった。成長率の鈍化をみながらも経済は着実に拡大している。ただ,経済環境の急激な変化に対して,柔軟に対応することができず,問題の悪化や長期化を招いているのである。