昭和49年
年次世界経済報告
世界経済の新しい秩序を求めて
経済企画庁
第1章 1974年の世界経済
以上のようなスタグフレーションと国際収支不均衡という困難に対して,主要国はいかにこれと取組んできたであろうか。
73年秋の石油危機発生前においても,先進諸国の経済政策の重点は概ね物価の安定におかれていたが,物価安定を重視する度合いは,各国の基本的な政策目標や景気循環局面の相違により,国ごとに必ずしも一様でなかった。概していえば,西ドイツが一番早くから最もきびしい金融財政両面にわたる引締め政策をとってきたのに対して,他の欧米諸国では多少とも成長優先的な政策運営の姿勢がみられ,物価抑制については主として金融引締めと広義の所得政策(アメリカ,イギリスは賃金物価規制,その他の国は物価規制)を用いていた。こうした政策スタンスの相違もあって,石油危機直前における景気情勢においても国別の相違がみられ,西ドイツでは景気がかなり鎮静化していたのに対して,他の諸国の景気は住宅建築など一部需要にかげりがみえたものの概ね堅調で,部分的には春以来の物不足基調がまだつづいていた。また国際収支面では,原材料価格の高騰とフロート下の為替レート下落で輸入価格の大幅上昇をみたイギリスとイタリアが多額の経常収支赤字に陥っていたのを除けば,他の諸国は概ね経常収支黒字ないし均衡の状態にあった。
石油危機発生後は,大多数の国がとりあえず緊急的な石油消費規制を実施,したが,同年末から74年初めにかけて石油の量的不足の懸念が薄らぐにつれて次第に撤廃され,74年央までにはほぼ全廃された。
それに代って,石油価格大幅引上げの直接的・間接的影響に対処することが重要な政策課題となった。まずインフレの加速化に対しては,総需要抑制4措置の強化をはかる国が多く,74年夏頃までに金融面または財政面の引締め措置がつぎつぎととられた。他方,西ドイツ,オランダ,スウェーデン,ノルウェーのように,景気が既に鎮静化していたか,または景気回復の初期段階にあって失業の多い国では,石油危機のデフレ効果が懸念されたため,73年末から74年春にかけて従来の財政上の引締め措置の撤廃または新たな刺激措置の採用が行われた。しかし,これらの国においても物価安定が最重点の政策課題であったことに変りはなく,金融引締め政策が堅持または強化された。
また,西ドイツを除いてほとんどすべての国が実施していた物価規制も,石油危機後これを強化する国が多かったが,アメリカは73年中にその弊害が出てきたこともあって10月以降漸次撤廃し,74年4月末には石油製品を除き全廃した。また,73年7月に主要必需品について物価凍結を導入したイタリアでも物価統制が漸次緩和されてきた。
賃金規制については,アメリカが74年4月末,イギリスが74年7月に法的規制を撤廃したが,その後賃上げ圧力が強まりつつある。
このほか,一部の国では独禁法が改正され,またはその運用が強化された。
また,現在のインフレが平時としては異例の二桁に及ぶ高率インフレであり,しかもインフレとの闘いが長期化するとの見通しから,社会的弱者を中心にインフレの被害を中立化しようとする動きがみられたことも,今回の特徴の一つであった。年金引上げや食料補助金の支給などの政策措置が多くの国でとられたほか,物価上昇に自動的にスライドする賃金スライド制が一層広まった。このほか,国債,預金金利,所得税などを含むいわゆるインデクセーションの問題がひろく論議され,一部の国で部分的に実施または近く実施される段階にある(第2章第3節参照)。
次に国際収支問題も西ドイツとオランダを除く殆どすべての先進国の経常収支が石油危機により赤字化したため重要な政策課題となり,とりわけイタリア,イギリス,フランス,デンマークなどの大幅赤字国の場合に深刻であった。その対策としては,前述した総需要抑制策のほか,輸出金融強化などによる輸出振興策,輸入預託金の導入(イタリア)や自動車などの輸入品を主たる対象とした間接税引上げ(デンマーク)などによる輸入抑制措置をとった国も一部にはあった。また,フランスは国際収支対策のためEC共同フロートから脱退した。多くの国においては:経常収支の赤字を資本収支で補うため,資本流出阻止策の採用(イギリス,イタリア等),資本流入防止惜置の撤廃(イギリス,フランス,スイス,西ドイツ,ベルギー・ルクセンブルグ等)のほか,ユーロ市場からの大量借入れ,中央銀行間スワップ網の拡大,IMFからの借入れ,政府借款の受入れなどの措置がとられた。また,74年夏以降石油価格の高水準が続き,これが景気の一層の悪化や国際収支の先行きに引続き大きな負担を課すことが明らかになったことから,フランス,アメリカなどを中心に改めて中長期的観点から石油消費を抑制する措置を導入している。
石油危機後の先進国の経済政策にみられる一つの大きな特徴は,国際協力の進展である。これは主として国際収支赤字国に対する協力という形をとり,前記のスワップ網の拡大やIMF石油基金の設置,2国間資金援助(西ドイツの対イタリア援助),EC共同起債案などがそれである。また,OECDと20カ国蔵相会議が一方的な貿易制限措置をしないとの申合せを行ったことも(74年5~6月)輸入制限の動きを萌芽のうちにつみとる効果をもったとみられる。このほか主要消費国による緊急時の石油融通等を目的とする国際エネルギー機関の成立(11月)も注目される。さらに11月にはアメリカが主要消費国に対してオイル・マネーの250億ドル環流構想を提案するとともに,石油消費の10%削減を呼びかけた。
以上のように,先進諸国は過去1年間,石油危機によるインフレ加速化と国際収支悪化の克服のために,きわめて多面的な政策を展開してきたが,なお所期の目的達成にはほど遠いのが現状である。
しかも最近は,引締め政策の影響もあって,多くの国で景気情勢の悪化と失業の増加がめだちはじめており,そのためアメリカ,イギリス,西ドイツなどで引締め政策の部分的手直しをよぎなくされるにいたった。先進諸国は,高率インフレの抑制と失業増大の防止との相反する目的を同時に追究しなければならぬという,かつて経験したことのない困難な局面に直面している。
今後の政策運営は従来にもまして総合的で,しかも,きめこまやかなものでなければならず,また,国際協力の必要性も一層高まったといえよう。
以下においては,主要国についてその経済政策の運営状況を簡単にあとづけてみよう。
71年8月のドルの交換性停止と法的物価賃金規制の導入を背景にした積極的な財政金融政策の展開により,アメリカ経済は72年中物価の比較的安定した中での高成長を達成したが,73年にはいると銀行信用の急膨張,ボトルネックの出現,インフレ圧力の高まりなどのブーム的兆候が出てきたため,金融政策は1月から引締めの方向に転じ,公定歩合が7回にわたって引上げられ(4.5→7.5%)また大口CD増加分の準備率が5月と9月に引上げられた。財政面でも,1月に支出削減が発表されたあと,7月以降も数十億ドルの支出削減措置がとられた。そのほかインフレ対策として食糧増産の促進,政府備蓄物資の放出,一部農産物の輸出規制,輸入促進措置などの供給増加策がとられた。また,所得政策は73年1月から第3段階にはいって,物価賃金の事前申告制が廃止されたが,それが一因となって卸売物価,消費者物価ともに急騰がみられたため,3月から再び規制強化措置をとり,6月には物価再凍結を行った後,8月から第4段階にはいった。
金融引締めで住宅建築が春頃から減少しはじめたのを除けば,内外需要は概して根づよく,一部資材の供給不足の下でインフレ圧力が高まりつつあったというのが,石油危機直前のアメリカ経済情勢であった。
石油危機発生後,政府は石油消費規制を行ったが,従来からの住宅建築不振に加えて自動車需要の急減など景気の先行きに懸念が出てきたため,金融・財政政策は最初のうちむしろ緩和気味に運営された。年頭の経済報告書でも,景気は上期停滞ないし下降のあと下期回復との予想の下で,上期の低下幅を緩和し下期の回復を促進する(ただし急激な回復は避ける)との方針が明らかにされた。同時に発表された74~75年度予算案もやや刺激的な中立予算となり,また必要とあれば追加的な支出を行う意向が示された。金融政策も73年12月頃からやや緩和的に運営され,大口CD増加分に対する準備率も引下げられた。
他方,73年中の国際収支の改善を背景に,同年末から74年はじめにかけて資本流出規制が撤廃された。
しかし,74年3月ごろになると,石油危機による物価上昇の加速化,銀行貸出しの増加などがみられるようになったため金融政策は再び引締めの方向に転じ(4月公定歩合引上げ),財政面でも5月に約50億ドルの支出削減の方針が発表された。
他方,賃金物価規制は,73年10月より徐々に解除されはじめ,74年4月末に石油製品を除いて全面解除されたが,これは物価統制の弊害面が73年中に次第に表面化したためである。
この間,景気情勢は,住宅建築と自動車を中心とする個人消費の一層の不振に加えて在庫投資の減少などから悪化し失業率も5月以降再び上昇しはじめ,期待された下期回復も難しくなってきたたため,8月に成立したフォード新政権はインフレ克服を最重要の課題としながらも,失業の防止にも配慮しなければならなくなった。フォード政権は,9月に今後数年間約200億ドルの支出計画繰延べを議会に要請したあと,10月8日に一連の新経済政策を発表したが,その内容は次のとおりである。(1)中高所得者及び企業の所得に対する1年間の付加税の導入(5%,47億ドル),(2)75年度歳出の3,000億ドル以下への抑制,(3)企業の投資税額控除率の引上げ(7→10%),(4)住宅金融の強化(最低30億ドル,10万戸建設),(5)失業率が6%を超えた場合に発動される公共事業計画(6%の場合5億ドル,6.5%の場合7.5億ドル,7%の場合10億ドル,計22.5億ドル),(6)失業保険給付の強化,(7)低所得層に対する16億ドル減税案(下院歳入委員会による)に賛成,(8)独禁法違反に対する罰則の強化等競争の促進,(9)貯蓄金融機関への助成,などであり,このほか食糧増産と石油輸入削減(節約及び増産により75年末までに1日100万バーレル節約)の計画が発表された。食糧増産と石油輸入削減を別にすれば,フォード政権の新経済政策の重点は総需要抑制によるインフレ対策を堅持しながらも企業投資と住宅建築の刺激及び公共事業による雇用対策を加味し,あわせて弱者救済を図ろうとしたものである。
金融面でも9月はじめに期間4カ月以上の大口CDの増加準備率を停止するなど緩和措置が進められ,11月央には各種預金などの準備率がほぼ全面的に引下げられた。
イギリスは2年半におよぶ経済停滞と大量失業に悩んだため,72年春から積極的な財政・金融政策で景気を刺激するとともに,予想される経常収支悪化に対してはポンド・フロートで対処し(72年6月),また,インフレに対しては法的所得政策の導入(72年11月)で対処するというポリシー・ミックスを展開した。積極的な財政・金融政策は,世界的な好況と相まって,景気の 急速な上昇をもたらすことに成功したが(72年の実質成長率1.4%に対して73年は5.7%),反面では次第に設備と労働力にボトルネックが発生,国際窟品価格高騰とポンド相場低落による輸入価格の上昇と相まってインフレ圧力をつよめた。また,経常収支も次第に赤字化し,しかもその赤字幅が73年中に急速に拡大した。 こうした事態の下で,金融政策は73年秋頃から次第に引締め気味となり,とくに73年央以降は金融引締めが強化され,また,財政面でも5月に支出削減計画が発表された。 他方,所得政策は第1段階(72年11月~73年3,4月)の凍結から物価,賃金,配当の上昇を規制する第2段階(73年4,5月~10月末)をへて若千の規制手直しと賃金ステイド制を導入した第3段階(73年11月以降)へと規制措置が漸次緩められてきた。
73年10月以降の石油危機,電力・炭坑争議の発生などに直面して,政府は11月に非常事態宣言を発表するとともに最低貸出金利の大幅引上げ(11.25%→13%)と特別預入率引上げの措置をとり,さらに12月にぱ特別準備預金制度の導入,賦払信用規制の復活などの金融措置のほか,財政面でも公共支出削減(74年度12億ポンド),付加価値税増税(10%),土地建物など開発利益に対する課税などの引締め強化措置を発表した。 74年1月からの週3日操業制の実施により経済活動は一時大きく低下したあと労働党内閣成立で3月央に炭坑ストが解決して週3日制が廃止されてからは次第に回復に向ったが,政府は週3日制解除後の国内需要の急上昇と過熱の再燃,経常収支の赤字の膨張によるポンド不安を懸念して3月末に抑制型の74年度予算案を発表した。同予算は年金の増加,食料補助金の拡充など福祉政策を推進する一方で,所得税,法人税増税と法人税前払い,付加価値税の対象範囲拡大,各種消費税の増税,公共料金の大幅引上げ,法人社会保険料の引上げなどの抑制措置をとり,そのデフレ効果は74年末までにGDPの約0.3%と推定された。ただし,過度の引締めによる景気回復のおくれ-を懸念して,金融政策では特別預入率と最低貸出金利を数回引下げるなど若干の手直しが行われた。
その後夏ごろまでに景気の回復が予想よりも弱く,失業率も6月以降再上昇しはじめ,景気後退の懸念すら出てきたため,政府は7月に政策を転換して一連のリフレ措置を盛込んだ補正予算を発表した。その内容は,付加価値税と地方税の引下げ,開発地域向け補助金の増額,配当規制の緩和などであり,これより消費者物価の上昇幅を約2.5%抑制するとともに,74年末までIに約2億ポンド(GDPの約0.5%)のリフレ効果を狙ったものであった。
その後8月に高失業地域に対する追加的措置がとられ,さらに11月の補正予算で新しいリフレ措置がとられた。その主な内容は,(1)価格規制の緩和,(2)在庫再評価益課税の特別軽減,(3)建物期初償却の引上げなどであり,これにより企業の税負担を約15億ポンド軽減して失業増の防止と投資の振興をはかる。この他,エネルギー節約のために,ガソリン付加価値税の大幅引上げ(8→25%),電力,ガスなど国有産業補助金の撤廃,産業用建物の保温設備投資の全額控除制などの措置がとられ,さらに弱者救済のため,社会保障給付の改善が行われた。
このように,景気政策では最近失業防止のための刺激措置をとる反面,賃金については7月末に法的賃金規制を廃止して,いわゆる「社会契約」による自発的な賃金自粛に頼るという方針をとっている。
72年秋以降,輸出の大幅増加に誘発された投資の盛上りで西ドイツの経済活動は急速に上昇したが,政府は早すぎる経済拡大が物価の安定を脅かすおそれありとして,早くも73年2月以降きびしい金融引締め政策をとり,財政面でも2月から5月にかけて一連の総需要抑制策を打出した。その主たる内容は,(1)民間設備投資の抑制(投資税の一時的導入と定率償却制の一時停止),(2)住宅建築の抑制(特別償却制の廃止),(3)民間購買力の吸収(安定国債発行と安定付加税の一時的導入),(4)公共投資の繰延べなどで,74年央までに国内需要を150~170億マルク(GNPの約2%)削減することを目的とするものであった。また5月以降も金融政策面で相つぐ公定歩合引上げ,預金準備率引上げ,債券担保貸付の停止,再割枠削減,公開市場操作強化などを通じて,銀行貸出しと,通貨膨張の抑制につとめた。また3月のEC共同フロート発足と同時にマルクを3%切上げ,さらに6月末5.5%切上げた結果,マルクの実質切上げ幅は7月末に(予72年末比22%にも達した。この共同フロートは金融政策の自主性を回復させると同時に,企業の投資意欲を抑制,また輸入価格の抑制を~通じ-て物価安定に役立った。 こうして秋ごろまでには景気は急速に冷え込み,物価面でもやや鎮静化の兆候があらわれはじめていた。
石油危機に対処して政府は日曜下ライブ禁止や速度制限など石油消費規制を導入する一方,石油危機がすでに冷えていた景気情勢をさらに悪化させることを懸念して,12月に財政上の引締め措置をほぼ撤廃(安定付加税のみは存続させたが,これも74年6月末に予定どおり廃止),また,74年2月には不況地域向け公共投資計画(約10億マルク)を発表するな,財政はむしろ刺最大の政策課題である物価安定については,もっぱら金融政策で対処することとなり,従来の引締め基調が堅持されたが同時にそれを弾力的に運営して,市場要因による金利低下を阻止しないとの方針がとられた。そのため,73年12月はじめ以来のドル高を背景とした資本流出による銀行流動性の減少に対しては,74年1月に預金準備率引下げ,2月に現金預託率引示げ(50→20%),資本流入規制撤廃などの諸措置がとられ,また3月末から5月央にかけての資本流入による銀行流動性の増加に対しては再割枠の使用制限措置(5月末)がとられた。その後6月末のヘルシュタット銀行倒産の余波とアメリカの金利上昇を主因として資本流出がつづき,また季節的にも財政繰越など通貨収縮要因が加わったため,7月に再割枠使用制限の撤廃,債券担保貸付の復活,8月と9月には預金準備率引下げを実施した。このほか中小企業と中小金融機関向け融資強化措置をとるなど,金融政策は引締め堅持の基調の下でかなり弾力的に運用されてきた。
この間,景気情勢は74年初に一時回復の気配をみせたものの,春以降建設,自動車,繊維などを中心に再び悪化し,企業倒産の増加(74年上期は前年同期比43%増),失業率の急増(季調済で74年初の1.6%から10月の3.6%へ)など不況色がめだってきた。そこで政府は,9月に不況地域向け公共投資計画(9.5億マルク)を発表,10月には公定歩合を引下げる(7→6.5%)など,再び景気対策にも配慮しはじめており,さらに12月には公共投資増額と民間投資振興措置がとられた。 なお,75年予算は歳入面で140億マルクの大幅減税(中低所得層を対象)をする一方,歳出規模は8.5%増に抑えられることになった。また,74年末から75年はじめにかけての主要労組の賃金交渉を直前にして,9月末の「協調のとれた行動」で指針資料を発表,75年の賃金上昇率を9.5%にすることが望ましいとの見解を示した。
以上のように西ドイツは早めにきびしい総需要抑制策をとったため,先進国のなかで物価上昇率が最も低く(7%台),また,経常収支も大幅黒字(1~9月間に約65億ドル)を示しているが,その反面で失業率が67年不況時を上回る高さとなり,また工業投資が実質で4年連続減少して将来の成長力を弱めるなど,かなりきびしい代価を払っていることも見逃せない。
69年夏のフラン切下げ以来,輸出主導型の高成長をめざしてきたフランス経済は,72年前半までは高成長,国際収支均衡,物価の相対的安定を実現してきたが,72年後半から次第にインフレ圧力が高まったので,金融政策も引締め気味となり,物価規制も強化された。72年末には付加価値税引下げ,73年はじめには長期国債発行による国内流動性の吸収策など物価抑制措置がとられた。また,73年3月にはEC共同フロートに参加した。しかし海外物価の高騰や国内の労働力,設備不足から消費者物価上昇率は次第に高まり,73年初の前年同月比6.6%から10月には8.1%高となった。他方,貿易収支は輸出の好調から4年連続黒字をつづけてきた。
石油危機発生後のフランスは,アラブ諸国から友好国扱いにされていた関係もあって,当初は石油消費規制をさして行わず,政策の重点は石油価格高騰によるインフレ激化と国際収支悪化に対する対策におかれていた。各種の総需要抑制措置のほか物価規制を強化し,また外貨準備防衛のために74年1月にEC共同フロートから離脱し,ユーロ市場から大量の借入れを行った。
総需要抑制策としては,73年12月に公共支出の繰延べ,所得税・法人税の前納期間繰上げなど若干の財政引締め措置と銀行貸出し規制による金融引締めの強化が行われた。さらに,74年3月には所得税・法人税の前払い率引上げなどの措置がとられた。しかしインフレの加速化,とりわけ国際収支の大幅な悪化がつづいたため,ついに政府は6月に一連のきびしい安定化政策を発表した。その主な内容は,(1)財政措置としては低所得者を除く所得税の一時的増税(所得階層別に5%,12%,15%,20%の増税,75年6月末まで),法人税の一時的増税(73年度税額の18%),土地利益に対する特別課税(10%),償却率の引下げ,自然増収の不胎化,政府支出の節約(10億フラン),景気調整税(注)の新設,(2)金融措置としては,貸出規制の堅持,罰則金利の引上げ,公定歩合引上げ等である。このほかエネルギー価格の引上げと官庁の石油消費削減(15%),家庭用灯油の配給削減など石油消費規制が発表された。石油の量的不足のためではなく,国際収支改善のために石油消費規制に乗り出したわけであるが,さらに9月になると,75年の石油輸入額の枠設定(510億フラン)という思い切った石油節約措置を打ち出した(これは73年の石油輸入量の90%に現在の石油価格を乗じて算出された)。
このほか国際収支対策の一環として,輸出金融の強化などの輸出促進策やユーロ市場からの資本取入れなどが行われた。
また物価の直接規制を強化し,73年11月に小売マージンの凍結,12月には家賃(74年6月末まで)と一部公共料金の凍結(74年第1四半期)が実施され,配当についても規制されるようになった。さらに74年3月に工業品の価格規制「年間価格管理計画」が向う6カ月間延長されて,許容される価格転嫁要因が主として一次産品とエネルギーに限定されることになり,また6月には小売マージンの自発的縮小が要求された。さらに10月からは従来の年間価格管理計画を価格上昇規制に改めて向う1年間実施し,年間の価格引上げ幅を平均8%に抑えることになったほか,一部工業品の価格を原材料価格の低落に応じて2 ~10%引下げることになった。この他小売価格引下げ運動(5%引下げ)が9月から11月までの間展開された。 以上のような総需要抑制策,価格直接規制,国際収支対策などにより,フランス政府は,(1)消費者物価上昇率を74年6月ごろの月平均1.6%から1年後に0.5~0.6%へ引下げる,(2)貿易収支赤字(74年は250億フラン赤字の予想)を75年末までに均衡させる,(3)74年の実質成長率を4.5%に維持する,ことを目標としている。 また,9月に閣議決定をみた75年度予算は,歳出13.8%増と,名目GDPの予想成長率14.3%(実質成長率は4.2%予想)を下回る伸びに抑え,また予算収支もわずかながら黒字とするなど緊縮予算の性格がつよい。 なお,こうした総需要抑制政策の漸次的浸透で,最近は生産の頭打ち,失業増加などの傾向が出てきたため,10月に失業者対策として失業者の賃金を最大1年間社会保険料等を含む粗賃金の90%保証する措置を発表した。
イタリア経済は約3年にわたる停滞のあと,72年後半から政府の強力な景気刺激策もあって回復に向いはじめた。73年初のストによる一時的な中断があったものの,その後は生産の急上昇と失業の大幅な減少がみられ,73年の実質成長率は5.4%と近年にない高成長を示した。だが急速な経済拡大で輸入が急増し,また,リラ不安から資本逃避がつづいて国際収支が悪化したため,政府は各種の資本逃避防止措置をとり,73年2月にはリラをフロートさせた。 金融面では,海外の金利高に追随して公定歩合引上げなどの措置がとられたが,投機的な資金需要を除けば銀行貸出を抑制する措置はとられなかった。失業水準が低下したとはいえまだ比較的高かったので,政府に景気抑制の意図はなかったのである。
他方,物価は72年末から急騰,リラ・フロートによる実質切下げがそれに拍車をかけた。そのため政府は73年7月に主要生活物資と大企業製品の価格凍結措置を導入した。
石油依存度の高いイタリアは,石油危機後広汎な石油消費規制(産業用を除く)を実施する一方,石油価格引上げによるインフレ加速化と国際収支悪化の懸念から,経済政策の重点を従来の成長促進から引締めの方向へ転換させた。まず金融面では,74年3~4月に公定歩合と高率適用率の大幅引上げ,銀行貸出規制の強化(75年3月までに15%増の枠)などのきびしい措置がとられた。また5月に基礎的原材料と資本財を除く輸入品に50%の輸入預託金制度を導入したが,これは輸入抑制策であると同時に国内流動性吸収策でもあった(その後EC諸国からの抗議と,国際収支赤字がやや縮小したこともあって8月に農産物が除外され,また牛肉の預託率が25%へ引き下げられた)。
他方,財政面からの引締め措置はかなりおくれ,一連の財政措置がとられ,たのはようやく74年7月になってからであった。73年夏に決定された74年度予算案が歳出大幅増(19.7%),赤字幅拡大(73年度の5兆9,758億リラから74年度の8兆6,061億リラヘ)など拡大予算となっていたのに対して,7月の財政措置では,奢侈品の付加価税引上げ,ガソリン税引上げ,特別自動車税,持家住宅の特別課税,電力,ガス,都市交通料金の引上げなど,思い切った増税措置がとられた。これらの措置により,今後1年内にGNPの約3%に相当する3兆リラの購買力を吸収し,経常収支赤字(74年の予想赤字は約7兆リラ)を75年末までに3兆リラ(石油価格上昇による赤字分)へ減らすことが目標とされた。
また7月末に閣議決定をみた75年度予算案も,歳出の伸びを19.7%(74年度は21.3%),歳入の伸びを27.9%(74年度は10.4%)と歳出入の伸びを逆]転させ,赤字額を前年並みに抑えたインフレ抑制と国際収支改善のための予算とされている。
他方,物価規制については,73年11月以降それまでの凍結をやめて値上げ許可制に改め,さらに74年8月以降は要許可品目をパン,めん類,肉,油,牛乳,洗剤,砂糖など7品目に限定することになった。
このほか国際収支赤字の緊急穴埋め対策として,73年に引続きユーロ市場からの大量借入れを行うほか,3月に中央銀行間スワップ網の拡大,4月1MFからスタンドバイ・クレジット12億ドル,9月に西ドイッから20億ドル借款とりつけなどを行ってきた。
以上のような政策努力により,国際収支面では貿易赤字が74年2~4月の平均7,600億リラから5~9月平均の5,700億リラへとかなりの改善をみせるなど政策効果が徐々にあらわれはじめているが,赤字規模はまだ大きく1~9月累計で5.65兆リラ(前年同期は2.3兆リラ)に達している。また物価も-卸売物価は9月の前年同月比43.7%,同じく消費者物価は23.0%上昇で,欧米主要国のなかで最高であり,イタリア政府の直面する政策課題の深刻さがうかがわれる。
しかも,前記7月の財政措置に対しては左派政党や労組の抵抗がつよく,政情不安,ストのひん発などがみられることも,イタリアの経済危機の克服を一層困難なものにしている。