昭和47年
年次世界経済報告
福祉志向強まる世界経済
昭和47年12月5日
経済企画庁
第1部 通貨調整後の世界経済
第1章 適正な為替レート水準を求めて
1971年は国際通貨危機の年であったし,それを乗りこえるために通貨調整が積極的に行なわれた年であった。まず,5月,西ドイツ・マルクとオランダ・ギルダーが変動相場制に移行し,スイス・フランとオーストリア・シリングが切上げられた。ついで8月,アメリカがドルの交換性(金,SDR,外国為替との)を停止したあと,それまで固定相場制を維持していた主要国は,ほとんどいっせいに変動相場制に移行した(フランスはベルギーが従来からとってきた二重相場制を採用した)。これらの通貨がその後,ジリジリと相場の水準を高めていく一方,新しい固定相場体系を見出すための会議がいくたびか開かれたが,結局,12月17,18の両日,ワシントンのスミソニアン博物館で開かれた10ヵ国蔵相・総裁会議で金に対してドルは7.89%の切下げ,英ポンド,フランス・フランは不変,イタリア・リラは若干の切下げ,日本円,西ドイツ・マルク,オランダ・ギルダー,ベルギー・フランは切上げることになった。
主要な点は次のとおりである。
① 70年5月に変動相場制を採用したカナダ・ドルを除き,71年8月央以来約4ヵ月つづいた主要国通貨の変動相場制に終止符を打ち,安定した為替相場体系へ復帰する。アメリカはドルの平価切下げを約束し,他の8ヵ国は対ドル基準レートをそれぞれ合意された幅だけ切上げる(多角的調整)。
② 許容される為替相場変動幅は従来の上下各々1%から2.25%へ拡大する(ワイダーバンド)。
③ アメリカは8月15日発表の新経済政策で採用した輸入課徴金制度と設備投資減税のバイアメリカン条項を撤廃する。
変動相場制の実施されていた間,企業は採算をはじく基準を失ない,経営に気迷いがみられたが,スミソニアン合意の成立によって,通貨問題の見通し難からきていた不確実性が一応軽減し,全般的に気分的な明るさをとりもとした。また,アメリカが輸入課徴金の早期撤廃を行なったことで,心配された保護主義的措置の連鎖的波及は幸い未然に防ぐことができた。
スミソニアン会議に出席しなかった国々も,あいついで調整を実施した。
結局,IMF加盟120ヵ国のうち32ヵ国が暫定平価ともいうべきセントラル・レートを設定した(表示する単位は,金,SOR,ドルなど加盟国通貨でもよいことになっていたが,実際には大部分ドルで表示された。その後,一部の通貨は新平価に切換えられている。)このほか24ヵ国は金平価を継続,20カ国が対ドル・レートを,そして18ヵ国が対ポンド,対フランあるいは対スペイン・ペセタ・レートを不変のままに維持,10ヵ国が金平価を切下げた。また,カナダなど数ヵ国は変動相場制を続けた。結局,多角的調整によって,対ドル・レートを切上げた国の数は約60ヵ国にのぼった。
1971年は調整の年であったと述べたが,先進国にとっては対ドル・レート切上げの年であったといい直してもよかろう。これまで,各国通貨当局は通貨調整を渋りすぎるといわれてきたが,1年間にこれだけの国が通貨調整を行なったという経験は各国通貨当局の今後の政策態度に影響を与えずにはおかないであろう。
ここ数年来,IMFが検討をすすめていた為替弾力化の具体策は,①平価の迅速な調整,②平価遵守義務からの一時的離脱,③変動幅の小幅拡大であったが,71年を通じてみると,これら3点については,かなり具体的な動きがみられた。まず第1の点についていえば,1971年にヨーロッパ諸国が通貨危機に対処してとった行動は,遅れがちというよりも迅速であったというべきである。第2の点についていえば,1969年9月,西ドイツはその平価切上げ(10月24日)に先立って約1ヵ月間,変動相場制を実施したが,71年の場合もまた,その口火をきり,8月以降は多数の国がこれに追随したのであろ。第3の点についていえば,暫定的ということになっているが,スミソニアン会議で変動幅は,上下各々2.25%に拡がった。