昭和46年

年次世界経済報告

転機に立つブレトンウッズ体制

昭和46年12月14日

経済企画庁


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第4章 変貌する世界貿易

8. 脚光をあびる中国貿易

(1) 米中貿易の再開

アメリカ政府が対中国貿易規制の緩和に動き始めたのは1969年7月である。

そして69年12月,70年4月の措置によって,海外のアメリカ系企業の対中国貿易が認められた。規制緩和をいっきょに直接貿易にまで及ぼす姿勢を示したのは,71年4月14日の対中国貿易ならびに旅行制限緩和に関する5項目の大統領声明である。この大統領声明にもとづいて,5月7日,①中国に対する米ドル使用制限の撤廃,②中国船舶に対する給油の許可,③米国籍船舶による中国産品のアメリカないし第3国向け輸送などに関する制限緩和の実施が発表された。さらに6月10日,アメリカから中国向け輸出について,133品目に及ぶ包括許可(自動承認)品目リストが発表され,また中国産品の輸入は全面的に包括許可に移行した。つづいて8月5日こは,アメリカ議会は北ベトナムを除く共産圏貿易に,輸銀融資の道を開く法案を可決した。

7月16月,中国はアメリカと同時に,ニクソン米大統領の中国訪問を発表して,世界各国を驚かせた。そしてついに,10月25日中国の国連参加が実現した。

いまのところ,米中貿易は間接貿易の域にとどまっているが,中国側がアメリカ側の措置に応じて直接貿易を認めるのも時間の問題であろう。そうなれば,太平洋貿易は従来と様相を異にするであろう。

(2) 中国貿易の戦前,戦後の推移

ここで中国の対外貿易を戦前にさかのぼって眺めてみよう。それはきわめて波乱に富んだものである。 第4-32表 にみるように,1930年代には,日本がその軍事進出を背景に,旧満州,関東州をふくめた中国貿易でトップに立っていた。戦後1940年代後半になると,中国の最大の友邦国となったアメリカの地位が高まり,中国の輸入総額の約50%をアメリカ産品で占めるようになった。しかし,1949年に社会主義体制をとる新中国が成立すると中国貿易に占めるアメリカの地位は急速に低下していった。そして中国の朝鮮戦争介入をみて,アメリカは中国貿易の全面的禁止にふみきった。

アメリカを始めとする自由圏諸国の禁輸措置に直面して,中国の貿易は急速にソ連および東欧諸国に傾斜していった。1950年代には貿易総額の75~80%を社会主義諸国が占め,ソ連一国でも50%を上回るようになった。ところが,56年2月のソ連共産党第20回大会を契機として中ソ間にイデオロギー論争が起こり,60年7月には国家間の対立にまで発展した。ついにソ連は技術者を中国から引揚げるとともに,経済技術援助を停止したため,中ソ貿易は急速に減少した。70年の中ソ貿易は中国の貿易総額の僅か1%程度を占めるにすぎない。

ソ連貿易の振替わりとして,自由圏諸国との貿易が拡大した。50年代後半に長崎国旗事件で,一時後退した日本が60年代に進出し,70年の日中貿易は中国の貿易総額の20%を占めるにいたった。中国の輸入をみると,西ドイツがこれに続いている。他方,中国からの輸出をみると,香港が一貫して最大の市場となっている。

(3) アメリカの対中国貿易規制の強化

アメリカが中国に対する貿易規制にふみきって,米中貿易を中断することになった根拠の第1は,1950年12月3日のアメリカ商務省の措置である。これによって,アメリカ産品の中国向け輸出は直接たると間接たるとを問わず,すべて商務省の事前許可を要することになり,事実上禁止された。第2は,12月17日の財務省による外国資産管理規則の施行である。これによってアメリカは,中国および北朝鮮の居住者の在米資産を封鎖または凍結し,アメリカ人またはアメリカ人の海外子会社が中国,北朝鮮と商業取引することをすべて禁止した。第3に商務省運輸規則は,アメリカ国籍の船舶および航空機が中国の港または地域に寄港すること,中国または中国の支配下にある場所に,いかなる種類にせよ貨物を運搬することを禁止した。

アメリカはさらに,中国向け輸出禁止を国際的に強化するために,米国相互防衛援助統制法(バトル法)を適用するとともに,49年11月に設立されたココム(輸出統制委員会)の輸出統制対象国に,中国をも含めさせることに成功した。52年6月になると,ココムの下に「中国委員会」を設立した。これがチンコムと呼ばれるもので,中国,北朝鮮,北ベトナム向け輸出統制を他の社会主義国向けよりも強化するため,ココム・リストを上回る対中国特別禁輸リスト(いわゆるチンコム・リスト)を作成した。

新しい中国政権を国際社会のなかから,経済的に孤立させようとするこのような貿易規制は,果たして中国経済に決定的な打撃を与えたのであろうか。ミシガン大学のA・エクスタイン教授は次のような見解を述べている。

「中ソ間の経済関係が緊密であった50年代には,中国は禁輸された物資のほとんどを社会主義諸国から入手できたため,中国経済は重大な打撃をこうむらなかった。また中ソ関係が悪化し始めた60年以降になると,自由圏に属するアメリカの同盟国は,完全禁輸というアメリカの政策に追随することを止めて,ソ連に肩替りして中国の必要とする物資を供給したので,アメリカが意図した禁輸の効果は生じなかった」。

1957年5月,イギリスは中国に対する貿易統制を,対ソ貿易に適用される統制基準(ココム・リスト)にまで引下げると発表し,他のココム参加国もただちにこれに追随して,チンコム・リストは廃止された。こうしてアメリカとその同盟国との間には,輸出規制の方法について,実際問題として大きな差異が生じてしまった。

さらに60年以後になると,自由圏諸国はソ連に代わって,中国の必要とする機械設備および資本財の輸出を増大させ始めた。63年9月,日本は中国との間にビニロン・プラントの輸出契約を締結したが,西欧諸国もこれに追随して,63年から66年にかけてプラント取引が本格化した。しかし,66年以降文革段階に入って設備投資が停滞したため,プラント取引は一時的に停止している。

(4) アメリカの対中国貿易規制の緩和

ココム参加国が本格的に中国貿易に取り組み始めたことによって,中国を国際的に孤立化させようとするアメリカの政策は,ますます経済的に無意味になった。

1969年7月,つづいて12月とアメリカは一転して中国に対する貿易規制の緩和に方向を切り換え,つぎの3点について,貿易・旅行制限緩和に関する国務省発表を行なった。

アメリカの中国貿易・旅行制限の緩和に関するこのような動きは,71年4月14日の大統領声明で決定的となった。大統領声明はアメリカ政府部内の行政区分の関係上,5項目に分けて公表されたが,その内容は次のとおりである。

この大統領の5項目の声明は,アメリカ卓球選手団の訪中とタイミングを合わせて行なわれた。これによって50年12月以来,全面的に禁止されていた米中間の直接貿易が可能となったという点で,画期的なものである。

アメリカ政府はひき続き,この大統領声明にもとづいて,71年5月7日,第1回の実施措置を明らかにした。

まず第1点は,米ドル使用制限撤廃に関する措置である。財務省は50年12月以来,外国資産管理規制にもとづいて設定されていた米ドル使用に関する特別許可制を廃止した。この制限緩和措置に中国側が応ずることになれば,米中貿易のドル決済が実現し,また日中貿易を初め,中国の対自由圏貿易における決済通貨として,英ポンドその他西欧諸国の通貨と並んで,米ドルの使用が可能となるわけである。(ただし,50年12月に凍結された中国資産は解除されていない。資産残高は7,000~7,500万ドルと推定されている)。

第2点は,商務省および運輸省はアメリカの船舶,航空機が,第3空港(たとえば香港,マカオ)まで,中国向け貨物の輸送に従事することを認めた。

なお外国資産管理規制の改正によって,アメリカの海外子会社が,中国と米ドル取引きを行ない,中国船舶に対し燃料補給することも認められた。

アメリカ政府はさらに,最も注目されていた輸出包括許可(自動承認)品目リストを6月10日に発表した。自動承認となった品目は,輸出統制品目リストにもとづいて分類されている1,257品目のうち133品で,これはソ連,東欧向け包括許可品目数の80~90%に相当するとみられている。したがって,ソ連,東欧と比べると中国向け輸出については,まだ包括許可品目の上で差別されていることになる。今回は石油製品,大口径管などソ連・東欧向け輸出では包括許可品目となっているものが含まれていない。アメリカは対ソ関係に気を配っているのであろう。さらに業界が期待していたディーゼル機関車,大型ダンプカーなども除外されている。しかし,これらについては,個別に許可されることもありうるので,今後のアメリカ政府の許可方針が注目される。これによって規制緩和の実質的意義が明らかにされよう。なお,中国産品の輸入は全面的に緩和された上,大部分の共産圏諸国産品の輸入の際に適用されている関税率が適用されることになった。

(5) 中国の貿易政策の基調

米中接近に触発されて,自由圏諸国の間で中国市場に対する関心が高まっているが,国営貿易の中国がどのような反応を示すかが,中国貿易の将来を決定する重要な要素である。そのため,まず中国の貿易政策の基調とその背景を明らかにする必要があろう。それはわれわれが国際政治を拾象して考えている「国際分業」というものを,きびしい国際政治環境のもとにある中国がどのように把握しているかを示している。

建国以来中国の貿易政策は,一貫して工業化の急速な発展に奉仕することに重点がおかれてきた。

中国のように工業が未発達な段階にある国では,急速な工業化のためには,どうしても近代的なプラント,機械,技術などを先進工業国から大量に系統的に入手することが必要である。また工業化の推進に当たっては,工業原材料を発展途上国から輸入する必要もあろう。対外貿易における輸入の任務はこれらの物資をできるだけ効率的に入手することであるし,輸出は輸入のための支払手段を獲得するためのものである。こうして中国の貿易政策の基調は,「自己完結的な重工業を中心とする工業体系の形成」に奉仕するという理念によってみちびかれてきた。

ところで,ソ連,東欧諸国では,1955~56年前後から,スターリンのいわゆる「二つの世界市場論」に示されるアウタルキー傾向を批判する風潮がおこってきた。すなわち,貿易政策の面では,社会主義諸国間の国際分業と生産の専門化を強調し,貿易の採算性と経済効率を重視する傾向が支配的となってきた。コメコン(経済相互援助会議)もまた,加盟各国の生産の専門化の問題をとりあげるようになった。社会主義諸国間の以上のような国際分業原理の重視はさらにその適用範囲を広げて,資本主義諸国との貿易関係,つまり東西貿易についても当てはめようとする傾向が強まってきた。

このような情勢に対して中国は,56年9月の第8回党大会(8全大会)において,「戦前のソ連の一国社会主義の段階とは違って,国際環境はきわめて有利となっているが,しかし,人口が多く資源がかなり豊富で国内需要も非常に大きい中国では,やはり自己完結的な工業体系を打ち立てる必要がある」,として,ソ連,東欧諸国において支配的となってきた国際分業と生産の専門化を強調する理論と政策に対して,いち早く拒否する態度に出てきた。

中国における貿易政策の基調は,その後ますます明確に大国支配のもとでの一面的な「社会主義国際分業論」批判の方向に進んでいる。そして,69年に結成されたコメコンにも,当初専門委員会などにオブザーバーの資格で参加したが,ソ連との対立が表面化するにつれて離脱していった。

このような中国の貿易政策の基調は,さらに60年初期に初まった中ソ間の公開論争を通じて,ますますはっきりしてきた。「自力更生を主として,国際協力を従とする」理論として定式化された中国側の主張は,63年6月14日の中国共産党中央委員会からソ連共産党中央委員会にあたて「国際共産主義運動の総路線についての提案」第21項に最も端的に示されている。「社会主義国の建設事業は,主として自力更生に頼らなければならない。それぞれの社会主義は,まず自国の具体的な状況に応じ,自国人民の勤勉な労働と知恵に頼って,自国の利用できるあらゆる資源を計画的にあますところなく利用し,自国の社会主義建設のあらゆる潜在力を掘りおこさなければならない。

社会主義国が経済の面で相互に協力し,有無相通ずることはまったく必要なことである。この種の経済協力は,完全な平等,互恵,同志的な相互援助という原則にもとづいてうち立てられなければならない。もし,これらの基本原則を否定し,「国際分業」とか「専門化」とかの名目で,自己の意志を他人におしつけ,他の兄弟国の独立と主権を損なうなら,それこそ大国主義にほかならない」。

自力更生にもとづく中国の貿易政策は,対外経済政策一般の基調でもある。そして,社会主義国間における「国際的分業」と「専門化」はソ連の大国主義的支配のもとに進められているとする批判は,チェコ事件後の68年11月に,プレジネフによって「いずれかの社会主義国において反革命の危険が生じた場合,軍事介入もあり得る」とする,いわゆるブレジネフ・ドクトリン,すなわち「制限主権論」が発表されたためにますます強くなっている。

しかしながら,中国は「国際的分業」を批判する一方で,自力更生にもとづく中国の貿易政策の基調は必ずしも一画的なアウタルキーまたは封鎖経済を意味するものではなく,国際貿易の利益も十分受入れるということを明らかにしている。その場合,自力更生にもとづく国内建設を進めるために平和互恵の原則にもとづいて受入れることを強調している。

要するに,国内資源あるいは国内市場という観点からみれば,大国,中国はさして輸入依存度を高める必要はないが,先進国との技術格差あるいは国内商品需給という観点に立てば,工業化のためには技術格差を縮小し,また資本蓄積不足のもとでの商品需給ギャップを埋めるために資材,設備および技術を導入する必要があるし,延払い輸入の可能性もあると判断しているのであろう。

たとえば,文化大革命の遂行過程で投資活動が鈍り,生産が縮小して,貿易の伸びが停滞したことは事実だが,しかし,こうした経済後退の中にあっても,鉄鋼,非鉄金属,化学品など主要資材の輸入は減少しなかったばかりか,イギリス(亜鉛溶解プラント,カーボンブラック製造プラント),イタリア(芳香族化学プラント),フィンランド(パルププラント)からプラント輸入が行なわれた。

文革の収束とともに,69年から経済は上向きに転じ順調な生産上昇が続いているが,今後投資活動の再開とともに,資材,設備,技術の導入の必要性はいちだんと高まる傾向にある。中国をめぐる国際環境が好転さえすれば,中国が西側諸国から輸出信用(延払輸出)を受入れる可能性は十分考えられる。

ここで見落してならないことは,これまで中国が封じ込め政策のもとで国際的に孤立せられてきたという現実から,技術格差縮小のための輸入が制約されてきたという事実である。米中接近を契機とした最近の中国をめぐる国際政治環境は,中国の国連参加問題などにみられるように,たしかに以上のような障害是正に役立つ方向に向かっている。先進国だけでなく,フィリピン,タイなど東南アジア諸国も程度の差はあれ中国産品に輸入規制を課していたが,このような差別措置ははずされていこう。そうなれば今後中国は輸出商品を一次産品から加工輸出へと多様化し,輸出競争力を高めていくことができる。こうしたことから,中国がしだいに貿易政策の上でアウタルキー的性格を緩和させ,国際分業的要素を取り入れてくることも十分予想される。

(6) アメリカの貿易規制緩和後の各国動向

貿易規制緩和についてのアメリカ側の提案に対して中国側は現在までのところなんら反応を示していない。71年秋の広州交易会参加を期待して香港で待ちかまえていたアメリカのビジネスマンはついに招待されなかった。しかし,すでに中国産品はアメリカに上陸している。香港,スイス経由ではあるが50年12月以来22年ぶりに食料品や生糸が輸入された。他方,アメリカのメーカーは,大型トラック,ダンプカー,航空機,化学肥料などの輸出に積極的であるし,また航空業界,海運業界も中国進出に深い関心を示している。71年における米中間の間接貿易は5,000万ドルに達するであろうとするChina Trade Association(アメリカで100以上の企業によって組織されている協会)の予測がある。

こうした米中接近の動きに刺戟されて,西欧諸国でも中国市場に対する関心をいっそう強めてきている。イギリスでは,7月に中国産品の輸入規制を緩和してソ連産品並みに取扱うこととし,食肉かん詰および一部の繊維品に個別的な自由許可方式を適用することになった。また,このほどホーカー・シドレー社は,トライデント2E・ジェット機の転出契約を締結した。イタリア,マレーシア,アルジェリアも中国との間に貿易協定を締結し,さらに,イギリス,フランス,イタリア,カナダ,オーストラリア,日本,マレーシア,シンガポール,トルコ,イランは,相ついで貿易使節団を中国に派遣している。中国もヨーロッパ,南米,マレーシアにそれぞれ貿易使節団を派遣した。各国とも最近の輸出環境の悪化から中国市場に関心を高めてきているが,中国市場における輸出競争は一段と高まる傾向にある。なお,世界企業による間接貿易の役割を無視することはできない。70年には,イタリアのロベルト・ペルリニー社によってGMのトラック用エンジンが輸出され,そのほか71年に入って,アメリカのゼロックス社の海外子会社との商談に中国が応じたというニュースもある。

貿易は環境条件が好転したからといって直ちに伸びるものではない。中国貿易が大きく飛躍するには,1,2年の地固め期間を必要としよう。しかし,中国経済が最近の好調ぶりから推して,将来輸出市場としてはきわめて有望になるが,米中貿易()が本格化すれば,中国市場での競争は激化することになるし,一方,日本の対米・対アジア貿易も中国の追上げを受けていちだんときびしいものになろう。

中国は今後,正常な国交のもとに自由圏諸国との貿易を推進することになるが,国際貿易に関する現行の制度にどのような影響が及ぶだろうか。まず第1に,人口規模はもちろん,GNP規模でも,発展途上国グループの第1位にある中国が国連などの場で発言することは,発展途上国グループの経済的要求に格段の重みをつけることになろう。

次に,繊維貿易である。中国はこの面ですぐれた輸出競争力をもっているが,現在すでに綿製品については,ガットの場で長期取極めが結ばれていて,そのもとで制限的な貿易が行なわれている。化合繊についても,アメリカは,日本,香港,台湾,韓国と政府間協定について合意に達した。今後の繊維貿易は中国を抜きにしては論ぜられないであろう。

第4-33表 1980年における米中間直接貿易の潜在的収支表


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