昭和46年
年次世界経済報告
転機に立つブレトンウッズ体制
昭和46年12月14日
経済企画庁
第2章 揺れ動く国際通貨体制
1944年7月,ブレトンウッズの「連合国通貨金融会議」において合意をみたIMF協定は,45年12月に35ケ国の正式調印をもって成立した。その志向するところは第1条に掲げられている。すなわち,冒頭で通貨に関する国際協力の促進を唱い,ついで,「国際貿易の拡大および均衡のとれた増大を助長,もって経済政策の第一義的目標たる全加盟国の高水準の雇用および実質所得の促進および維持ならびに生産資源の開発に寄与すること」を挙げている。
このような国際協力促進と国際貿易拡大の理念の表明は1930年代の事態に対する深い反省に基づくものであった。第1次大戦後復活した金本位制は,29年のアメリカ金融恐慌に端を発する世界恐慌の前に崩れ去った。各国は競って貿易,為替の直接的管理に走り,この防壁の下で国内的に拡大政策を採用しようとした。一国の管理の強化は連鎖的に他国の管理を強化させる。管理網は,世界的に広範かつ精緻なものへと発展していった。為替市場は崩壊し競争的平価切下げを招いた。双務主義,ブロック主義が横行した。国益の主張から出た政策が自らに還元されたときそれは一層己れの崩壊を促すものでしかなかった。近隣窮乏化政策は世界貿易を著しく縮小させ,不況を逆に深刻化させていたのである。
したがって戦後に予想される国際通貨体制は,何よりもまずこのような双務主義,直接的制限措置の打破を目指したものでなければならなかった。1943年3月に発表されたイギリスのケインズ案(国際清算同盟案)も同7月に公表されたアメリカのホワイト案(連合国国際安定基金案予備草案)もこの点では同一の認識に立っていた。しかし,両案の基本的相違はケインズ案が信用創造の機能を内包していたのに対し,ホワイト案が基金原則に立っていたという点にある。すなわち,ケインズ案は,世界中央銀行的性格を持つ清算同盟に加盟国がバンコール勘定を設けて,各国間の決済はその相互振替によって行ない,パンコール残高が不足の場合は当座貸越で処理するという形を考えていた。これに対し,ホワイト案は各国からの資金の拠出によって,基金が必要資金を貸し付けるといういわば既存の国際流動性の円滑な利用をねらいとしていた。またケインズ案が赤字国のみならず黒字国の責任をも左右対称的に追求しうるものとしていたのに対し,ホワイト案は稀少通貨条項を備えていたものの赤字国の責任をはるかに重視していた。さらに,平価についてもケインズ案はより弾力的であって,適宜管理的に変更さるべきものとしていたのに対し,ホワイト案はその変動を厳しく制限し,強い固定平価主義をとっていた。
IMF体制を問い直すとき,ケインズ案を想起し,それと対照することによって,現行の枠組みの特徴を浮きぼりにすることができるのである。ケインズ案が原則において拡張的であったのに対し,ホワイト案はより安定的であった。このことは戦後経営に望むイギリスとアメリカの立場の相異によっていた。二度の大戦の戦場となったイギリスは何をおいてもその疲弊した経済の建直しをはからねばならなかったため,必然的に拡張的な構想を打ち出さざるをえなかった。他方,アメリカは二度の大戦においても戦禍を免れ,最大の債権国となっていた。戦後世界を再建するリーダーとして,従来の孤立主義の伝統を180度転換させねばならなかった。そのリーダーシップを完全に発揮するためには,差別主義の撤廃と為替の安定がより重要であった。
豊富な経済力に裏付けられた発言力は自由な世界市場の下で初めて重きをなしえたからである。
この両案についての討議がくり返された。しかしいずれの国も程度の差こそあれ,戦後復興をアメリカの協力にあおがざるを得なかった以上,アメリカ案に近いところでの妥協しかありえなかった。こうしてホワイト案を骨子として修正を受けてでき上ったのがIMF協定であった。
IMF協定では,世界貿易の拡大という面から雇用の促進と所得の増大に寄与するという理念を具現するために,
① 為替相場安定の促進と競争的為替切下げの回避
② 多角的支払制度の確立と外国為替制限の除去
③ 基金の資金の加盟国による利用
を挙げている。
いかなる経済制度もその出発点においては,その当時の実体経済の基本的構造を反映したものとなる。そういった意味では,IMF体制は,200億ドルの金に裏付けられたドルを軸にして構成されたといえる。そして,実際の運営は,各国の国益の調整の中から生まれてくる。それは超国家的な力を具備しない国際機構の限界であるともいえるが,IMF自体が協議の場,協調の場として機能することによって,その限界を克服しなければならない仕組みになっている。
IMF体制が金為替本位制とされるのは,協定が明示的にそれを唱えているからではなく,すでに機能していた国際的な金為替本位制,いい換えれば国際的な金ドル本位制を前提として,その上に自らを置いてきたからであった。
協定は第4条第1項において,加盟国の通貨の平価を「金または1944年7月1日現在の量目および純分を有する合衆国ドル」により表示すべきことを規定している。しかし,これは各国の平価設定時の基準尺度を定めたものにすぎない。また,同第2項では金の買入れに際しての条件を述べ,第4項では金の売買と平価維持義務の結び付きを述べている。しかし,これらはいずれも金とドルの交換を積極的に保証しているものではない。事実としては,アメリカ政府は国際取引の決済のために事実上自由に金を売買する旨の約束が,IMF成立後間もなく,アメリカの時の財務長官スナイダーよりIMF専務理事にあてた49年5月20日付けの書簡の中で明確にされたのである。
アメリカにおける金とドルの交換の法律的な淵源は1934年金準備法にまでさかのぼらなければならない。そこでは,外国通貨当局から,その保有するドルについての金交換請求があった場合に,アメリカは財務長官の権限でこれに応じうるとされている。そして同法に基づく34年の大統領宣言によって,金1オンスが35ドルと決定されたのである。もとよりアメリカも,国内的には1933年以来金本位制を停止している。名目的に残っていた法定金準備の規定も68年には廃止された。また対外的にも,金準備法では財務長官の判断で全売買をいつでも停止できることとされており,現実に71年8月にこの措置がとられたのであった。
このようにドルの金価値自体は必ずしも絶対的なものではなかったが,I MF成立以前から世界の金準備の大半を有したアメリカが,なんの支障もなく外国公的機関保有のドルに対して金交換に応じていたために,この限りでドルは唯一の金為替とされ,また準備通貨の地位が与えられていた。
四半世紀の歴史をかえりみるとき,IMFの成果は輝かしいものではあるが,その歩んできた道はけっして平担ではなかった。1947年の業務開始後,61年,西欧主要国の8条国移行までの15年間は,為替制限の撤廃に関し留保のつけられた時期であったし,その後の10年間はIMFの前提としている金ドル本位制そのものが揺らぎ出した時期であった。
1)為替制限の存続
協定第8条によれば,為替制限の撤廃等に関し加盟国には3つの義務が課せられている。すなわち,①経常支払いにたいする制限の撤廃,②差別的通貨措置等の撤廃,③外国保有残高の交換性である。これらの義務を受諾した国が8条国であるが,協定は同時にその第14条で「戦後の過渡期」に関する例外の規定を設けている。西欧,日本など戦争により壊滅的な打撃を打けた諸国は14条の適用により為替管理の存続が認められた。しかし,この過渡期間は予想外に長期化した。60年末までに8条国となった国は, 第2-1表 にみるように,わずかに米州の9ヶ国のみであった。一方,西欧諸国は1950年,EPC(ヨーロッパ決済同盟)を結成して,まず域内の為替制限を撤廃するといった順をふんだのであった。
2)揺れ出した金ドル本位制
1958年西欧主要通貨はいっせいに交換性回復に踏み切り,61年には8条国移行が行なわれた。しかしこの時すでに,基軸通貨の信認は揺らぎ出していた。
アメリカの国際収支(流通性ベース)は30億ドルを越える赤字を出し,60年にはついに対外流動債務が金準備を上回るにいたった( 第2-1図 )。金投機が発生し,自由市場の金価格は1オンス40.6ドルまで高騰した。アメリカ政府は現行金価格維持の声明を発するとともに,一連の国際収支改善策を発表した。国際的にも61年秋金プール機構が結成された。準備通貨としての信認が問われ始めたとはいえ,ドルはいぜん世界的な流通通貨であり,介入通貨であった。その価値を維持することはまた,各国の利益にも合致していた。スワップ協定,ローザボンド,IMF一般借入れ取極(GAB)など国際協力による為替市場安定化の合意が次々になされていった。
だが,これらの措置にも限界があった。いずれの措置も国際流動性の量の側面からする協力であった。このような流動性アプローチは,その資金利用を許している間に,被供与国が自国の国際収支不均衡を改善することを目的とする。しかしアメリカの場合,国際収支はむしろ悪化の方向へ進んだのであった。西欧諸国は金交換請求を手控え気味にしてはいたが,アメリカの金流出は止まらなかった。
IMF制度の補強が検討されるようになったがそれも主に流動性増強という観点から把えられていた。63年以来4年間の討議を経て67年のIMF総会で承認の運びとなったのがSDR(IMF特別引出し権)である。この間,国際収支調整過程については,OECDが中心となって検討したが,各国の経済政策の調和を呼びかけたにとどまった。
67年,アメリカの金準備は対外公的債務をも下回った。大規模な金投機の前に,68年3月,金の二重市場制が採用され,金プール機構は解体した。これは金の事実上の交換停止であった。この決定を行なったワシントン会議のコミュニケは,「アメリカの国際収支の大幅な改善が高い優先度を持つ目的」であり,「全ての諸国が国際収支の均衡に向かうのに役立つような条件に寄与する財政金融政策を進める意向である」ことを強調している。しかし,その後の事態はほぼ逆の方向に動いていった。そして,IMF成立の基盤がアメリカの卓越した経済力と豊富な金準備に裏付けられたドルの信認にあった以上,大前提が崩れかけている前では,その外縁での国際協力の果たす役割には限界があった。
3)為替相場の安定
国際通貨体制の戦後四半世紀の歴史は,また1930年代に比し,相対的に為替相場の安定していた時期でもあった。
協定第4条では加盟画は自国通貨の平価を設定することとされている。固定平価の原則である。こうして設定された平価を基準として,加盟国通貨相互間の為替相場は,直物為替取引の場合にはその上下1%の範囲内に維特さるべきものとされている。しかし,この平価も絶対的なものではなく,「自国経済の基礎的不均衡を是正するため必要な場合」には,変更を行ない得ることとされている。
この規定により各加盟国は加盟と同時に自国平価をIMFに届け出たのであるが,多くは戦前よりそのまま引き継がれたもので,戦中,戦後の激しいインフレを考えれば,当然に変更されるはずのものであった。戦後復興もようやく一段落し,為替相場の機能も現われ始めた49年,第一次平価の不適切さがさらけ出された。スターリング・ポンドを初めとして,25ヶ国がいっせいに平価変更に踏み切った。その幅も,例えば,スターリング・ポンドにみるように,30.5%と大幅なものであった。
しかしその後は,このような大幅な変更もなく,また戦前に見られたような平価の競争的切下げも回避されている( 第2-2図 )。
これは,戦後各国で採用された完全雇用,高成長政策が各国経済に定着したこととともに,固定平価主義があずかって力あったと判断してよかろう。とくにこの固定平価の原則が,IMFによる資金供与と相まって,一時的要因による為替変動を回避させたことは大きな成果である。このような為替の安定が,他方で経常取引に関する為替制限の除去とともに,戦後世界貿易の著しい拡大に貢献したことは正当に評価すべきであろう( 第2-3図 )。
以上のように戦後の国際通貨体制は金ドル本位制と固定為替相場制度を二つの柱として展開してきた。しかしこの間,アメリカの地位の相対的低下と世界的なインフレーションの進行は体制そのものをゆるがすにいたっている。シュバイツァーIMF専務理事のいうように,「国際通貨体制の現在の危機的状態は,かなりの期間にわたって積み重ねられてきたひずみと欠点が破局に達したもの」である。1970年と71年前半における爆発的な流動性の増大はついに金ドル本位制そのものを破滅に導き,また固定為替相場制を一時的にもせよ停止させてしまった。こうした現在の混迷に際して,これまでの国際通貨体制のもっていた矛盾やその運用面における問題点を探ってみることは,来るべき国際通貨体制の再建策を展望する上でも有用なことであろう。
以下では,まずアメリカの国際収支悪化の原因とこれに伴う流動性急増,ドルの信認低下を述べ,ついで固定為替相場制度が現在のような混乱に陥った背景をさぐり,併せて将来への改革の動きにふれることとする。