昭和46年
年次世界経済報告
転機に立つブレトンウッズ体制
昭和46年12月14日
経済企画庁
第1章 1971年の世界経済
1960年代後半期に入ってしだいに不安定の度を増していた国際通貨情勢は,70年中は比較的小康のうちに推移した。それには少くとも2つの要因があづかって力があったと思われる。第1は,67年から69年にかけてヨーロッパ主要通貨の平価が変更され,ヨーロッパに関する限り,平価の不均衡が大幅に是正されたことである。そして第2の要因は,アメリカの景気後退とヨーロッパの拡大持続という米欧間の景気局面の差が,アメリカの基礎収支にとって有利な方向に働いたことである。
しかし,この小康は見せかけのものにすぎなかった。それはアメリカの基礎収支の赤字が一向に改善されなかっからである。すなわち,アメリカの基礎収支の赤字幅は,60年代前半には年平均7億ドル程度であったが,べトナム戦争の本格化した65年にはいっきょに18億ドルに増大し,98年には一時的に13億ドルにやや減少したものの,69年には再び29億ドくレに拡大,70年にも30億Kルの規模を記録したのである。このように長期にわたるアメリかの基礎収支赤字は,ドルの信認の低下を通じて現行国際通貨体制を揺るがす根因となっていたのである。アメリカの基礎収支赤字は71年に入ると第1四半期52億ドル,第2四半期126億ドル(いずれも年率)と爆発的に拡大した( 第1-2図 )。これには,長期資本収支の赤字幅拡大と貿易収支の赤字転落という2つの大きな原因がある。すなわち,第1四半期には貿易収支は年率11億ドルの黒字を保ったものの,長期資本収支は,政府関係のそれが70年の20億ドルの赤字から年率27億ドルの赤字へ,また民間部門のそれが70年代の1.5億ドルの赤字から年率40億ドルの赤字へ,それぞれ大幅な悪化を示した。第2四半期には,政府長期資本収支の赤字幅は年率25億ドルとほぼ前期の水準に止まったが,民間長期資本収支の赤字幅は年率66億ドルという未曽有の水準にはね上り,同時に貿易収支がいっきょに年率42億ドルの赤字へ転落した。
以上のうち,民間長期資本収支の悪化は,共和党が民主党に代って政権の座についた69年以来加速化してきたものである。これは,自由主義的思想に立つ共和党政権が,民主党政権時代のドル防衛措置の一つである海外直接投資規制計画を69年,70年と2度にわたって緩和したのが第1の原因である。
加えて70年の景気後退は多国籍企業の投資対象とトて海外先進国の魅力を相対的に増大させた。
71年に入って,民間長期資本収支の悪化はいっそう加速化された。民間長期資本の動きは(季節調整値で見ても)上期に活発になる傾向があるが,それを考慮してもその加速ぶりは甚だしい。これは70年同様直接投資の純流出が激化した上に,ドル不安の高まりから70年までは純流入であった間接投資(株式,社債など)が第2四半期には純流出に転じたためである。
一方貿易収支の悪化は,長期的な価格競争力の低下,景気局面の差,鉄鋼ストや港湾ストの影響など,長期トレンド的要因,短期循環的要因,および一時的偶発的要因が,71年第2四半期にいっきよに重なって現われたために外ならない。すなわち,65年以降の持続的インフレは,アメリカの価格競争力を弱め,68年,69年には,貿易収支の黒字は6億ドル台の低水準に落ち込んだが,景気後退期の70年には,21億ドルにまで回復した。しかし,71年に入って景気が回復に向うと同時に,主に輸入の増大のために,黒字幅は縮小しはじめ,鉄鋼ストに備えての備蓄買い輸入など特殊要因も加わって,第2四半期に大幅な赤字が記録されるに至ったのである。
米欧間の景気局面のすれ違いは,米欧各国とも景気をコントロールするに当って金融政策に大きく依存せざるをえなかったために,貿易面よりも国際的短資移動に対してより重大な影響を及ぼした。
アメリカが引締めに転じた69年を通じて,低利の資金を求めて米銀はユーロダラーを借り漁り,同年中にユーロダラーのアメリカへの純流入額は約70億ドルに上った。その結果ユーロダラーの金利は69年の下半期には11%前後という異常な高水準にはね上り,資本流出を恐れたヨーロッパ各国は,国内事情にかかわりなく,いっせいに公定歩合を引き上げざるを得なかった。
1970年に入ってアメリカが拡大政策へ転換するとこのような米欧間の短資の流れは一挙に逆転した。すなわち,アメリカが景気回復をねらって急激な金融緩和政策を推進したのに対して,ヨーロッパでは概して景気過熱を防止するために引締め政策が維持されていたが,その結果,40億ドルに上る大量(SDR配分額を除く)のユーロダラーがアメリカからヨーロッパヘ還流した。
ヨーロッパに還流した大量のドルは為替市場を通じて各国の中央銀行にもちこまれて,各国の外貨準備を大幅に増加させた。一方,その対価として中央銀行から支払われた各国通貨は,それぞれの国内金融市場に出まわって,引締めの効果を阻害した。
各国当局は,外貨準備を運用するに当って,約30億ドルを国際決済銀行(BIS)を通じてユーロダラー市場に放出したが,それが再び各国の外貨準備に吸いあげられてその総額をふくらました。
外貨準備の過剰な増加と国内金融の過剰な緩和という国際均衡,国内均衡両面での支障をもっとも強く受けたのは,ヨーロッパで相対的にもっとも強い通貨をもつ西ドイツであった。西ドイツには70年中に実に純額65億ドルの短資が流入した。その結果70年を通じて基礎収支はほぼ均衡していたにもかかわらず,西ドイツの国際収支は60億ドルの黒字を記録し,外貨準備は69年末の71億ドルから70年末の136億ドルヘ65億ドルの増加を示した。西ドイツ当局は支払準備率の引上げや売りオペなどによって,流入外貨が国内流動性を増大させるのを防止するのに努めたが,70年の通貨供給量の増加率は60年代の平均を上回る8.8%に上った。その内約7割が外貨要因と見られている。
71年に入っても西ドイツへのドル流入は一向に収まらず,第1四半期だけで年率50億ドルに上った。
このように大規模なアメリカからのドル流出が続き,アメリカの対外短期債務と準備資産との差が拡大するにつれ,60年代を通じて傾向的に低下していたドルの信認が急速に揺らぎだした。ヨーロッパ諸国は大量のドル流入を防止するため71年初めから公定歩合を下げ始めたが,すでに手遅れだったのである。
金利差をねらっていた短資の移動は,1971年の春頃から投機的色彩を帯びて来た。折しも71年4月末に発表された報告書で西ドイツ民間経済研究所が合同して,「国際的なインフレの高進から漸進的に離脱するために」流入するドルの無際限の買い支えを止めて変動相場制に移ることを勧告し,これを政府当局が支持するような発言をしたことから,投機は頂点に達した。西ドイツに流入した短期資金は5月4~5日の2日間だけでも20億ドルに達したといわれている。西ドイツは5月5日ついに為替市場を閉鎖し,同10日市場再開とともに変動相場制に移行することになった。西ドイツに対する経済依存度の高い欧州の小国の中で,オランダは変動制に追随し,スイスとオーストリアは平価をそれぞれ7.07%,5.05%切り上げてこの事態に対処した。こうして国際通貨問題は新たな局面に突入したのである。
このように大規模な短資の逆流が,拡大する基礎収支赤字の上に重なって,アメリカの国際収支は破滅的に悪化した。すなわち,基礎収支の赤字は,前述の通り,69年29億ドル,70年30億ドルとほとんど変化しなかったものの,短期資本収支が69年の56億ドルの黒字から70年の68億ドルの赤字へ逆転したために,総合収支(公的決済ベース)は69年の27億ドルの黒字から70年の98億ドルの赤字へ大幅に悪化することになった(SPR配分額を除くと107億ドルの赤字)。
71年に入るとドル不安の高まりからアメリカからの短資流出はいっそう激化し,短期資本収支の赤字は年率で第1四半期169億ドル,第2四半期103億ドルにも上った。これが基礎収支の悪化とあいまって,総合収支の赤字幅は年率で第1四半期223億ドル(SDR配分額を除くと229億ドル),第2四半期228億ドル(同235億ドル)と破滅的な規模に達したのである。
70年以降のアメリカの国際収支の大幅悪化は世界中に過剰ドルをまきちらすことになった。68年3月にフランスを除く主要10カ国とアメリカの間で合意に達した金の二重価格制で,アメリカ以外の主要国はアメリカからの金購入を自主的にさしひかえることになっていたため,これらの過剰ドルはほとんどそのまま,国際流動性として積み増された。そのために,アメリカ以外の主要国は70年にはそろって,国際収支の黒字幅を拡大した。
過剰ドルの余波は発展途上国にも及び,発展途上国全体で経常収支の赤字幅が拡大したにもかかわらず,総合収支では30億ドルの黒字を記録した。この傾向は71年に入ってもいぜん続いている。