昭和45年
年次世界経済報告
新たな発展のための条件
昭和45年12月18日
経済企画庁
第2部 新たな発展のための条件
第2章 先進国におけるインフレの高進
先に述べたような先進国に共通する根強いインフレ傾向が1970年代もつづいた場合,どのような影響が生ずるであろうか。とりわけ,前節でもみたように68~69年の世界的なインフレにおいては,国際波及あるいは賃金コストなどの要因が目立ってきており,これが今後とも続くとすれば物価上昇率はしだいに底上げされていく可能性が強い。この意味で物価上昇の影響がますます懸念される情勢にある。まず国内経済面では,とくにコストプツシュ的要素の強いインフレが今後成長,所得分配そして企業活動等にいかなる影響を与えるかということが注目される。さらに国際経済面では,国際通貨体制の問題もからんでインフレの国際収支への影響が大きな問題である。また今後はとくにインフレの国際的な波及もますます重大なものとなる可能性がある。
1)経済成長率への影響
物価上昇の経済成長率に与える影響については二つの全く相対立する見解がみられる。一つは,物価上昇は一方で,①貧困者の犠牲によって富者の所得を増大させることにより貯蓄率を高め,他方で,②利潤の増大を通じて投資を刺激する結果,成長率を高めるという考え方である。これに対し,別の見解は,①物価上昇は貯蓄その他の金融資産の減価をもたらすことによりむしろ貯蓄率を低める。また②貯蓄を投機や宝石類の所有など非生産的経済活動や海外投資などに向かわせるほか,③企業の長期的な見通しを狂わせ事業の拡張を妨げる結果,成長率を低めると主張する。
(a)貯蓄率への影響
まず,経済全体として事後的に実際に実現される貯蓄(実質貯蓄額)がいかにして増えるかを考えてみよう。最初に完全雇用で物価が安定的な状態を想定すれば実質貯蓄額が増えるためには二つの重要な決定が必要である。すなわち一つは消費者が消費する分を減らすという決定であり,それによ.って成長にあてられる資金が確保されなければならない。もう一つは,その消費を節約することによって得られた余裕資金を利用して企業者が生産のための機械設備を建設するという決定を下さなければならない。このように消費者が決定した貯蓄額に企業者が決定した投資額がちょうど見合うときインフレも,デフレも起きないで,消費者の意図した貯蓄額に等しい実質貯蓄が事後的に達成される。前者が後者を上回れば失業が生じ,逆に後者のほうが大きければ,インフレが起きる。
このような分析の枠を前提としたとき,消費者の側の貯蓄の決定については,物価上昇は富者の所得のシエアの増大を通じて貯蓄率を高めるという最初の見解は地歩を失うように思われる。というのは後にみるように景気循環的な分配率の変動を除けば物価上昇が貧者から富者への所得の移転をもたらすという現象は一般的な関係としてはみられないからである。他方,これに対し,物価上昇の結果貯蓄が減価し,それによって貯蓄率が引下げられるという影響は一般にいわれるほど大きいものではいと思われる。なぜなら,貯蓄は物価上昇による減価をまともにうける金融資産だけでなく,減価をあまり受けない実物資産や株式の購入という形をとっても行なわれうるからである。その結果やはり消費額は抑えられ,それによって得られた余剰資金は成長のための資金に回される。したがって物価上昇の結果,金融資産から実物資産あるいは株式へと貯蓄の形態が変わるということは十分考えられるものの,クリーピングインフレ下では貯蓄率はそれほど大きな影響は受けないと思われる。
個人貯蓄の個人可処分所得に対する割合でみた貯蓄率と消費者物価(あるいは消費財デフレーター)の上昇率との関係をみると各国間の比較(第42図)では両者の間にあまりはっきりした関係はみられない。これを各国別の時系列のデーターでみると主要4カ国(アメリカとイタリアを除く)いずれについても1950年代において貯蓄率の高まりがみられる(第42図B-G図)。これは戦中戦後のハイパーインフレーションと破壊を通じて大幅に減少した資産を補充しようとする動きが所得水準の急速な回復を背景に現われてきたことを示すものであろう。このように貯蓄率が高まる過程でイギリスとフランスにおいて朝鮮戦争の影響で世界的なインフレーションにみまわれた1951年に貯蓄率の高まる傾向がわずかに足踏みをみせているのが注目される。アメリカにおいてもこの朝鮮戦争の始まった当初の数カ月において物価が急激な騰勢をみせたのに対して家計が不安をいだき,一時的に買い急ぎの傾向がみられたといわれている。
したがって物価が急激な騰勢をみせ,それが人々の貨幣への信用を失わせるような場合には貯蓄率は低下することになろう。しかしながら,マイルドなインフレで物価上昇があらかじめ十分に予期されている場合には,物価上昇と貯蓄率の間に,一義的な関連はみられないといえよう。
次に企業者の投資決定の面における物価上昇の影響をみてみよう。物価上昇が成長率を高めるという見解の第2の論拠は物価上昇は実際に利潤を増加させることによって,あるいは資本財価格の上昇から設備の償却不足を引起し見せかけの利潤を増大させることによって企業の利潤期待を増大させ投資を刺激するという考え方である。アメリカ,イギリス,日本の3カ国について法人所得と卸売物価の動きとを対比してみると(第43図),1950年代の日本では物価が高騰する時期には法人所得の伸びが高まり,物価が落着く時期には法人所得の伸びが落ちるというある程度パラレルな関係が読み取れる。(しかしながら,これは景気循環的な動きであって,すう勢として物価上昇率が高いほど利潤の伸びが大きく,平均的な成長率が高くなるとは必ずしもいえない。)
これに対しアメリカでは両者の関係はほとんど不規則であり,イギリスでは両者の間にはむしろ逆相関がみられる。このように,日本とアメリカ,イギリスとの間で物価と法人所得の関係に違いがみられるのは,物価上昇の要因の差異によるものと思われる。すなわち,需要インフレの場合は法人所得の伸びは高いがコストプッシュ的要素の強いインフレの場合は法人所得の伸びはむしろ低下すると考えられるからである。たとえば50年代の日本は比較的需要インフレ的な様相が強かったのに対し,それに比べればとくにイギリスでは相対的に賃金コストの圧力が強かったと考えられる。アメリカにおいても56~57年のインフレ,そして今回のインフレ(68~69年)は前節でもみたようにコストインフレ的様相が強いものである。日本の場合も60年代にはいると両者の関係はややくずれてくる。このように国により,時期によって物価上昇の原因は異なり,物価上昇と利潤は一義的に結びつけられない。そえゆえ物価上昇の投資に与える影響も各国,各時期によって異なると考えられる。ここで注目されるのはイギリスの場合で,第43-B図でみると,物価上昇が強まるときは法人所得が低下するという逆相関がかなりはっきりと読みとれる。したがって,イギリスのような経済の場合,物価上昇は利潤を減少させ,その面からはむしろ成長率を低くめる要因となっているのではないかと考えられる。
1958年から63年,63年から68年のそれぞれ5年間について消費者物価上昇率と一人当り実質国民総生産の伸び率の関係を比較してみると( 第44-A,B図 ),いずれの5年間についても両者の関係は非常なバラツキを持ってひろがっており,明確な関連はみられない。ただ消費者物価上昇率が非常に高い国(たとえば,63~68年の場合,アルゼンチン(16.1%),チリ(28.2%),コロンビア(10.8%),インドネシア(256.7%)などで⑧印で枠の右端のライン上に印してある)については他の国々よりも若干成長率が低目である。ただし,これらの国はいずれも発展途上国であるので,第44-A,B図から発展途上国だけをとりだして物価上昇率と成長率との関係をみるとやはり同様の傾向がうかがえる(第44-C,D図を参照)。
したがって,上記の発展途上国におけるように非常に激しいインフレの場合は成長に害を与えるのではないかということがある程度うかがえる。これに対してクリーピングインフレの場合は,成長率を規制するいくつかの要因の中で物価上昇率は少なくとも支配的な影響は持っていないようにみえる。
他方,逆に現在のように完全な市場機構は存在せず,賃金に下方硬直性がみられる経済において経済成長に必要な高雇用水準を維持するような政策をとればゆるやかに物価が上昇していくことはほとんど避け難いことのように思われる。第44-A,B図は,ほとんどすべての国が58~68年の間に成長とともに物価がゆるやかに上っていくという経験をしていることを示している。しかしながら,成長率と物価上昇率の関係は一義的ではなく,技術革新のテンポ,遊休資源の大きさ,あるいは市場構造など各種の制度的要因の差異に応じて国によって異なり,同じ国においても時期によって異なることが注目されねばならない。
この物価上昇率と成長率の関係を前項でとりあげたアメリカ,イギリス,日本の3カ国について時系列で調べてみると(第44-E-G図),アメリカと日本の場合,両者の間に明瞭な関係はみられない。ところがイギリスの場合は物価上昇率が大きいときは成長率は低いという逆相関がある程度現われており投資率への影響の項でえられた結論と一致する。これはイギリスのように賃金コスト圧力の強い経済では物価上昇要因としてコストプッシュ的要素が強く働いており,同時にそれが利潤の圧迫を通じて成長に対してもマイナス要因として働くほか,コストプッシュ的なインフレが進行する結果,国際収支が悪化し,それに対処して引締め措置をとらざるをえないというーいわゆるストップアントゴー政策一関連を示しているものと考えられる(この点は企業活動へ影響の項でも触れる)。
2)所得分配への影響
インフレは,①所得の適応の遅いもの(年金生活者,利子所得者,賃金所得者)から速いもの(企業,農民等)へ,②債権者(一般に家計)から債務者(一般に企業,政府)へ実質購買力の移転。をもたらすといわれている。いま,この点を明らかにするために主要国について物価安定期とインフレ高進期に分けて,賃金,金融資産,実質資産等への影響をみてみよう。
まず賃金についてはフランスとイタリアの場合が注目される。フランスでは1957~58年に朝鮮戦争のあった1951年につぐ急激な物価上昇の高まりがみられた(第45図参照)。第52表でフランスのこの時期を含むインフレ高進期(1957~60年)をみると,実質賃金の伸びはさすがにマイナスになっている。日本(59~65年),アメリカ,西ドイツについてもインフレ高進期のほうが実質賃金の伸びはやや低くなっている。これに対して,イタリアの61~65年のインフレ高進期には,実質賃金の伸びは逆に高まっている。これは,イタリアでは63年から64年にかけて賃金の爆発的な上昇がみられ,それが原因となってインフレを招いたことによると考えられる。これらのことから,とくに物価上昇が急激な場合には賃金上昇のラグがあること,しかしながらラインフレの原因が賃金コストプツシュによる場合はむしろ実質賃金の伸びが高まるということがあるていどうかがえる。この点をさらに明らにするために雇用者所得と法人所得の相対的なシエア関係をみてみよう。
雇用者所得の分配率と需給ギャツプ率の動きを対比してみると,需給ギャツプが縮小する時期は分配率が下り,拡大するときは上るという関係がみられる。これは,法人所得は,景気変動にともなって伸びが大幅に変動するのに対し,雇用者所得は景気に対して比較的非感応的であることを示している。したがって景気上昇局面では物価は上昇し,法人所得が好調な伸びを示すのに対し,雇用者所得の伸びは短期的にはやや遅れるといえよう。逆に不況期には法人所得は急速に伸びが低下するため,雇用者所得の分配率は上昇し,好況期に遅れた分を取戻している。しかしながら,これらの分配率の動きは景気循環的なあるいは短期的な性格が強いものである。したがって,それら動きを除いて長期すう勢的な分配率の動きをみれば,1950年代の日本を除いてほとんどの国で横ばいないし上昇気味である。
他方,インフレの性格によっても所得分配への影響は異なることが注意を要しよう。イタリアでは先にもみたように1963~64年にかけて賃金が大幅な上昇をみせ,インフレを招来したが,この場合も雇用者所得は急激な高まりをみせている。また,56~57年のアメリカや今回(69年)のアメリカ,イギリスのインフレは前節でもみたようにコストインフレ的性格が強いものである。第45図でみると,これらの時期は需給ギャツプは拡大傾向にあるのに物価上昇率が高まっており,その結果,やはり分配率は上昇している。
以上要するに,インフレの賃金への影響についてはインフレの持続期間やその性格によっても異なると考えられる。しかしながら,インフレによって労働者から企業へ所得の移転が起きるという関係は長期的,一般的な関係としては戦後のいわゆるクリーピングインフレ下ではみられないといえよう。
雇用者の中でもインフレによって,利益を受ける人と損失をこうむる人が存在し,それらが互いに効果を打消し合うことによって雇用者所得全体としてはそれらの動きが出てこないという可能性はある。しかしながら,アメリカ,西ヨーロッパ,そしてラテンアメリカ等で戦後の期間について機能別,あるいは所得階層別の所得分配の動きについて調査がなされたが,所得分配は変化していても,それらは物価上昇と必ずしも相関した動きを示していない。そして特に物価上昇の結果,所得分配の不公平が増大したという結論はみられない。これは通常抱かれている観念と矛盾するようであるが,インフレによって労働者が不利益を受けるという考え方は戦前のたとえば1922年~23年のドイツや1946年のハンガリーのインフレーションのようなハイパーインフレーションの過程で起きる影響を一般的に押し拡げることに根ざしているものではないかと思われる。
一方,物価上昇の影響を受けやすいグループのなかで重要なのは,社会保障給付や年金に依存して生活している人々である。過去においては物価上昇に対して給付額の引上げがかなり遅れ,相当のラグの後その遅れを取りもどすために給付額が大幅に引上げられるということが何度かみられた。
第46~第50図は,各国における種々の社会保障給付額を消費者物価でデフレートし,それぞれの基準年次の水準を100とする指数で表わしたものである(これらの線の傾きが負になっているところは給付額の引上げが物価上昇に遅れていることを示す)。これに対して,一般的な生活水準を表わすものとして,1人当り実質可処分所得を実線で示してある。これらの図からみると,長期的にみた場合,アメリカの一般扶助(第46図)やドイツの年金(第49図)を除けば,概して給付額は一人当り可処分所得の伸びによく追いついているが,短期的には給付額の引上げが物価上昇に遅れるということが何度かみられる。たとえばアメリカの一般扶助,イギリスの退職年金,日本の厚生年金(60~64年と65~68年)などが重要な例であるが,そのほかにもアメリカの老令者に対する扶助及び子供を含む家族への扶助では1950~51年,そしてフランスの老令年金では57~58年がその例である。また,種類によっては,物価上昇に対しては遅れていなくとも,一般的な生活水準(一人当り可処分所得)の上昇に対して遅れているものもみられる。とくにアメリカの諸種の扶助(①②⑦)や失業保険は60年代に代って高成長を背景に1人当り可処分所得の伸びが急速に高まったこともあって最近やや遅れがみられる。(第46図,第47図,第48図,第49図,第50図)
このように物価上昇あるいは,一般生活水準の上昇に対して社会保障給付額の引上げが遅れる傾向に対処するため,国によっては,物価あるいは賃金を指標とする半自働スライド制が採用されている例もみられる。たとえば,本年度の厚生白書によれば主な先進国のうちで,物価スライド制が採用されている国はデンマーク,フインランド,スウェーデン,ベルギー等の国で,国によって基準は異なるが物価上昇率が2~3%を起えた場合には,原則として物価上昇と同じ比率の給付改善が行なわれている。
また,物価上昇の影響を大きく受けながら見落されがちなのは,精神病院,刑務所,孤児院など政府その他の公共施設の患者や収容者たちである。
これらの人々については,特にその要求を反映させるルートが限られていることが非常な困難に陥る原因の一つとなっている。他方,賃金所得のうちでも様々な要因からその額が硬直的なものは物価上昇の影響を受けやすいことを注意しておかなければならないであろう。
次に資産に対するインフレの影響をみよう。インフレによる所得の再分配効果は資産の実質価値(すなわち購買力としての価値)の移転を通じても考えられる。このような実質資産価値の移転には二つのメカニズムが考えられる。一つは金融資産を通じる移転であり,他の一つは実物資産や株式を通じる移転である。
貯蓄,債券などの各種の金融資産は,その表面価格が固定されているため,物価が上昇したとき,そのような金融資産を保有している債権者は物価上昇分だけ実質的な資産価値の減少をこうむる。他方,債務者は負債額が実質的に減少するため利益を受ける。したがって所有している純資産額が大きい人ほどインフレによる損失は大きく,純負債額が大きい人ほど利益は大きい。もし,インフレが債権者と債務者の間で事前に完全に予期されているなら,金利はインフレによる再分配を相殺するに十分なだけ上昇するであろう。そうすれば債権者の損失も債務者の利潤も生じない。ところが通常は物価上昇による資産価値の移転は金利上昇によって完全には相殺されない。 52表 にかえって金融資産の項の貯蓄の利率をみると,ほとんどの国で,インフレの高進期には実質の利息収入はむしろ減少している。また債権の実質価値もインフレ高進期にはかなりの低下をみせている。
物価上昇による資産価値の移転をもたらすもう一つの重要なルートは固定された表面価格をもたない耐久消費財,家,土地などの実物資産や株式,出資金その他の実物資産に対する請求権である。これらの資産の価格が総合的な物価水準より以上に上昇するかどうかにかかって物価上昇による資産を通じる再分配効果は大きく異なってくる。 第52表 でみると,ほとんどの国のインフレ高進期で,株式は実質価格でも上昇をみせていることから一般に主張されるように,株式は他の金融資産に比べてインフレに強いといえそうである。(しかしながら,株式もインフレ高進期のほうが実質価格の伸びが低いし,低下をみせている期間もある。したがって株式もインフレヘッジは完全とはいえない。)他方,土地はインフレ高進期でも実質価値はかなりの上昇をみせており,一般にいわれているように実物資産はインフレに強いということがうかがえる。
そこで次に問題になるのは,このような実物資産,株式などを除く資産一すなわち金融資産について誰れが債権者か債務者かということである。1969年末のアメリカと日本の各経済主体別の金融資産残高から負債残高を引いたネットの債権債務ポジションを調べてみると,アメリカと日本では,きわだった対象がみられる(第53表)。すなわち,アメリカでは家計が債権者で政府と企業がともに大きな債務者になっているのに対し,日本では国債の発行残高が少ないことから政府は逆に債権者となっており,債務者は主として企業である。したがって,このことからいえるのは,インフレによる債務者利潤を受けているのは,アメリカでは政府と企業であり,日本では主として企業である。問題はこうした債務者利潤の家計に対する配分のあり方である。これは分析上把握することが非常に難かしいが,各家計間の配分のあり方いかんによっては大きな格差を生じることは否めない。
次に所得階層別の金融資産価値に対するインフレの影響をみると(第54一A表),アメリカでは,特に年収3,000ドル以下の低所得階層で資産額に対する負債額の保有割合が低く,しかも純資産額の年間所得に対する比率が高いことからうかがえるように純資産に大きく依存しているため,特にインフレの影響は大きいとみられる。日本について同じように年間収入の5分位階級別に,平均資産額のかわりに平均貯蓄額(アメリカの場合に比して通貨保有量と年金分だけ平均資産額が小さくなる。)をとって資産に対するインフレの影響をみると(第54-B表),日本の場合,平均資産額が定義上アメリカよりも小さいにもかかわらず一般に負債の保有率が低く,アメリカと同様に特に第1分位(年収61万9,000円以下)の階層では他の階層よりやや低いものの,アメリカほど所得階層による差は顕著ではない。しかしながら同様に負債の保有率を世帯主の年令階層別に調べてみると,高年令層ほど,負債の保有率が低く,資産に対する依存度が高いため,インフレの影響は大きいと考えられる。時期は古いがアメリカについても55歳以上の人や退職者の資産にインフレが大きな影響を与えているという調査がある。世帯主の職業別にみると,勤労世帯の負債の保有率が相対的に低いのが注目される。
以上のように,ゆるやかなインフレであっても資産や負債の保有形態によって非常に多数の人々の資産が影響を受けていることは明らかである。したがって厳しい予期できないようなインフレが起きれば多くの人の貯蓄に,さらに深刻な打撃を与えることになろう。
主要国について需給ギャップの動きを検討すると(第51~第53図),需給ギャップが需給の均衡ラインを中心に,あるいはほぼ均衡ラインの近傍で変動しているイギリス,フランス,西ドイツのような経済(以下これを「イギリス型」と呼ぶ第51図)と,需給ギャップ率の依然大きい,もしくはその変動幅の大きい日本,イタリアのような経済(以下,これを「非イギリス型」と呼ぶ。第52図)とに分けられるようである。「イギリス型」の経済はすでに完全に雇用に達した経済であり,賃金コストの動きをみると,高雇用水準を背景にほぼ一貫して上昇傾向にある。これに対して「非イギリス型1の経済はまだ潜在的な失業も存在しないという厳密な意味での完全雇用に達しておらず,賃金コストの上昇傾向は必ずしも一貫していない。( 第51図 , 第52図 , 第53図 )
他方,アメリカ経済については,1960年代の前半から後半にかけて「非イギリス型」から「イギリス型」への移行がかなりはっきりと読みとれる(第53図)。この移行に伴い賃金コストの上昇傾向が現われてきている。一方,いったん完全雇用水準に達すると,再び失業増大という犠牲を払って雇用水準を引き下げるという政策は政治的,社会的に取りにくくなるという関係がある。したがって,今後,その意味でこのような完全雇用水準を維持するような政策運営がとられることになれば,需給の逼迫気味の基調を背景に賃金コストの上昇傾向が強まる可能性が強い。
賃金コストの上昇は,①利潤を圧迫することによって雇用者所所のシエアの上昇をもたらすか,②価格に転嫁されることによって物価上昇につながるかである。それゆえ,今後,賃金コストの上昇傾向が強まることが確かであれば最近のようなコストプッシュ的要素を含むインフレが続く可能性が強いと思われる。しかも,物価上昇自体が賃金上昇を加速化させる傾向をもっているため,その面からも,ますます賃金コストプッシュが強まるおそれがある。
このようなコストプッシュ的要素を含むインフレは,賃金コストの増大による利潤の圧迫を通じて,投資活動を抑制する方向に働くのであろうか。それとも労働節約的投資を刺激する作用のほうが大きいのであろうか。この点が今後,インフレが経済成長に与える影響という観点からも注目されるところである。アメリカ,イギリス,日本の3か国について民間設備投資(実質)と法人所得(税引後名目)の動きをみると,日本は1966年以降の景気拡大に伴ない,法人所得も民間設備投資も相当急速なテンポで伸び続けている(第56図を参照)。これに対してアメリカにおいては1967年以降,イギリスにおいては,1965年以降,法人所得は停滞気味である(第54,55図)。このような法人所得の動きを背景に民間設備投資も期を同じくしてやや停滞的な傾向をみせている。これは両国における最近数年の賃金コストの上昇傾向と無関係ではないと思われる。すなわち,最近において,両国では雇用者所得のシエアの上昇がみられるが,これが法人所得の伸びを圧迫し設備投資に対してかなり抑制的に働いてきたのではないかと思われる。この点をさらに明確にするために,雇用者所得のシエアの上昇が(それはとりも直さず法人所得のシエアの減少であるが)民間設備投資に対してどれ位抑制的に働いたかを推計してみると,第55表のようになる。これは両者のシエアの変化に伴う支出の変化等の2次的な影響を考慮していないので非常に大まかな数字であるが賃金コストの上昇による利潤の圧迫が設備投資に対してどれ位抑制的に働いたかをあるていど見当をつけるのには役立つであろう。
他方,賃金コストの上昇傾向は,労働代替投資をどの程度刺激してきているであろうか。第56表は,アメリカ,イギリス,日本の3カ国について設備投資額にしめる労働代替投資の割合を推計したものである。先に分析したようにすでに完全雇用状態にあるイギリスでは労働代替投資の割合が非常に高い。他方,「非イギリス型」経済でまだ賃金コストの上昇傾向がそれほど強くない日本経済や60年代に「非イギリス型」から「イギリス型」への移行がみられたアメリカ経済においてはその割合は低い。先にかかげた第54~56図でうかがえるように日本やアメリカでは設備投資は法人所得の動きに対して感応的であるのに対し,イギリスでは設備投資は,税引後の法人所得の動きに対して非感応的であり,法人所得が下っているにもかかわらず,設備投資はほとんど減少しない。これは労働代替投資の割合が高いことと関連があるかもしれない。すなわち,賃金コストの圧力がかなり恒常的な経済において利潤のシエアを維持していくためには,労働代替によって生産性の向上をはかる投資が利潤動向いかんにかかわりなく常に必要である。その結果,投資がかなり長期的,計画的な性格を強めざるをえないのではないかということが考えられる。(第54図,第55図,第56図)
以上の分析は,かなり限界をもったものである。雇用者所得のシエアの上昇がなかった場合,設備投資をどの程度引上げるかという分析にしても,所得分配が変ったことが,他の支出にどのような影響を与え,さらにそれがどのようにして法人所得にハネかえってくるかという分析とともに,もっと重要なのは設備投資の増加自体が法人所得をかなり増大させるという関係を検討しなければならない。ここでは,これらはすべて無視したが,以上の分析から少くとも賃金コストの上昇は通常考えられるように利潤の圧迫を通じて投資を抑える面とともにかなり,労働代替投資を刺激する面も大きいということはある程度明らかであろう。
5)社会的,心理的影響
先にみたように物価上昇は年金生活者の給付金や,低所得階層や老人階層の資産にはかなり重大な影響を与えてきた。しかしながら,1960年代において物価上昇によって全体の所得分配がそれほど大きくゆがめられてきたとはみられない。その結果,一部には,成長と物価のトレードオフ関係(それはとりも直さず,家計からみれば所得水準の上昇か物価安定かの選択の問題となる。)から考えて小幅の物価上昇はやむをえないとする考え方もみられるようになった。
とはいえ,物価上昇による所得再分配という問題を離れても,物価上昇は一律的な強制徴税という形をとるため,それが国民にもたらす心理的な圧迫や不満が非常に大きなものになっていること自体は見落せない。そこに,まさに物価上昇が政治問題化するゆえんがあり,そのことが問題を複雑化させている面があると思われる。
他方,長期的にみて社会的にも無視しえない影響をもつと思われるのは賃金コストの上昇傾向である。賃金コストの上昇傾向は賃金上昇の加速化に対し,生産性上昇が追いつかなくなったことから生じているのであるが,物価上昇は,賃金上昇を加速化させる面をもっため賃金コストの上昇傾向を強める可能性をもっている。前項でみたように,経済が完全雇用水準に達すれば,需給のひっ迫傾向を背景に賃金コストの上昇傾向が現われてくることがうかがわれる。賃金コスト上昇の帰結は,①企業の利潤を減少させるか,②物価転嫁によるコストインフレをもたらすかであった。このことは社会的にも重大な影響をもたらす可能性がある。すなわち,賃金コストの上昇は利潤を圧迫するという面では労使の抗争を激化させる可能性をもっからである。その結果,所得政策の導入に関する労使の対立も高まろう。他方,価格に転嫁されることになれば,ますますインフレ傾向を激化させ,現在の物価上昇率がその分だけ底上げされるという可能性を含んでいる。
以上要するに,物価上昇に対する国民の不満も物価上昇をめぐる労使の対立の激化の問題も,いずれも所得分配の問題と深くからんでおり,その面からは,成長の成果をいかに分配するかという問題について,社会の諸グループ間の合意をつくり上げてゆくことが,物価問題の解決にかなりの重要性をもっているといえよう。
1)国際収支への影響
インフレの国際的影響の最も大きなものとして各国の国際収支への影響が考えられる。すなわち,インフレの激しい国は貿易収支を中心として国際収支の悪化を招き,それが現行のIMF体制下の固定相場制度と結びついて,強い通貨,弱い通貨の出現や為替投機を呼び起すが,特にそれが基軸通貨国の場合には,国際通貨体制そのものをもゆるがしかねないような問題を生じている。
(a)物価上昇と国際収支
こうした関係をまず各国におけるタイム・シリーズで見てみよう。第57図から第60図に示されているように,総じて各国の卸売物価上昇率(前年同期比)と貿易収支(通関ベース)との間には明瞭な対照がみられ,インフレの高進する時期には貿易収支も大幅に悪化しており,さらに一定のタイム・ラグを置いて金外貨準備が減少するという関係が認められる。こうした関係はイタリアにおいて顕著であって,賃金上昇率と卸売物価上昇率との間には63年以降最近までほぼ2四半期のラグが観察され,それと同時に貿易収支が悪化しているが,さらに若干のラグを置いて金外貨準備も減少をきたしており,特に63・4年の大幅賃上げに伴うコスト・プッシュ的インフレの時期には著しい(第57図)。(第57図,第58図,第59図,第60図)
もとよりイタリアの場合は大規模なストライキによる生産の停滞が輸入の急増をもたらしていることも無視できず,このようなことから,最近もリラ不安の再燃が問題となったのであるが,ここでは例を1968年の5月危機以降のフランスにとって,数字的に後づけてみよう(第58図)。66年後半からしばらく景気停滞を経験したフランス経済は,その回復過程で大規模なストライキに遭遇した。このストライキは,失業の増大や実質可処分所得の減少という経済的要因のみならず,種々の社会的問題を背景としていたが,この結果経済は大きな損失をこうむり,一方で鉱工業生産の激減(5,6月には前年同期比20%減)という打撃を受けるとともに,他方では年率15%をも越える大幅賃上げを余儀なくされ急激なインフレーションをひきおこした。これに伴って輸出は鈍化ないし減少,輸入は大幅増大の傾向をたどったため,輸出入カバー率は均衡点と云われる93%を大きく割り込んで,69年第2四半期には83.3%,第3四半期には82.4%へと低下し,貿易収支は著しい赤字を示した。その上厳しい為替管理をくぐりぬけて資本の流出が続いたため,金,外貨準備高はピーク時の67年第4四半期69.4億ドルから69年第2四半期にはその半分に近い36.1億ドルにまで減少した。この間,度々フラン切下げを予想されながらそのつどかたくなに拒んできたフランス政府も,時期を同じくして起ったマルク投機の思わくに走る金外貨の大量流出には抗しきれず,遂に69年8月,フラン切下げを余儀なくされたのである。
こうした関係は国際通貨体制のもとで,基軸通貨国としてその通貨の信認には他国以上に大きな意味をもつアメリカの場合も例外ではない。もともとアメリカはその世界政策から派生するドルの流出に悩み,早くからドル防衛の施策を色々講じてきたわけであるが,一向にその効果は上らず,かえって65年から66年にかけてのインフレによってドルの流出は一層加速化されることになった(第59図)。このアメリカにおける65年から66年にかけてのインフレは,60年代初めからとられてきた高雇用,高成長政策の進展を背景としていた。すなわちこうした政策がピークに達して失業率が完全雇用水準とされる4%を割ると共に,製造業の操業率も高まり(66年第1四半期には90.6%),景気の過熱状態を現出させた。こうした需給のひっ迫は輸入の急増を招き,その上,ベトナム大戦争の拡大から海外軍事支出の増加を招いた。
この間,貿易収支(通関ベース)の黒字は1966年の第1四半期から第3四半期にかけて,それぞれ4.13億ドル,4.00億ドル,3.27億ドルと悪化の一途をたどった。その後ミニ・リセツションによって67年の貿易収支はやや好転したものの,ポンド切下げと結びついてドル切下げの臆測が高まり,ドルからマルク等の強い通貨や金に対する乗換えがおこった。そして67年末から68年初にかけて3度にわたるゴールド・ラツシュを惹起して,ついに金の二重価格制採用に至ったのである。
こうしたインフレの高進を経験した諸国とは対照的に60年代を通じてほぼ安定した物価水準を保ち続けて来た西ドイツは,その価格競争カの優位性から,65年の一時期を除いて一貫して貿易収支の黒字基調を続け,特に67年以降はますます黒字幅を拡大させたのであるが,これに対して,短資が怒濤のように押し寄せ,一時は僅か一週間に10億ドルもの流入があってマルク切上げに追い込まれた(第60図)。しかしながら,従来から国際的にも強力な経済構造を持つと云われた西ドイツでも65年のインフレ期に国際収支のかなりの悪化が見られることは,インフレと国際収支悪化との強固な結びつきを物語る象徴的な事例であろう。
以上のように,一国における時系列で見ると,インフレの高進する時期にはほとんど貿易収支を中心とする国際収支の悪化が認められるが,これを主要国についてクロス・セクションで見ても輸出の変化を中心に,物価上昇の激しかった国とそれ程でもなかった国との間には差異が見出される。
第61図はOECD主要15ケ国について1963-69年の間における輸出数量と輸出価格の年平均上昇率の関係を見たものであるが,これによると輸出価格上昇率の低い日本やイタリアなどでは高い輸出増加率が記されており,逆に,価格上昇率が年平均3%を上まわっているイギリス,アイルランドでは,輸出数量の増加率も5~8%にとどまっている。この関係をすう勢の推定式でみると,価格弾性値は1.76と高く,価格競争で遅れをとると,急速に世界市場における地位の後退がおこることを示している。しかも,卸売物価と輸出価格の間には密接な関係があることは知られており,こうしたことからインフレは価格競争力の減退により輸出の伸びを押し下げるという形をとって,直接的に貿易収支に作用しているものと思われる。
次にこの関係をさらに詳しく検討する為に,主要国における輸出関数を試算してみた。
この輸出関数について,世界の輸入需要に対する弾性値を見ると,日本が1.86とずば抜けて高く,輸出商品構成の高度化を進めることに成功したことを示していると共に,イタリアをはじめ,西ドイツ,フランスとも1を越える値を示しており,EEC域内貿易の活発化によりこれらの諸国貿易が上昇したことを推測させる。逆にアメリカやイギリスは,世界需要に対する弾性値が1より低く,世界市場における地位の後退を物語っている。
次に価格弾性値を見ると,イタリアが1.70と最も高く,優位な価格競争力と相まって輸出を好調に伸ばしたことを示しており,日本も1.19と高く世界輸入に対する弾性値の高い輸出構造とともに,輸出の増大を続けてきたことを物語っている。
すなわち1962年から69年の測定期間についてみると,この両国の相対価格(その国の輸出価格指数と,世界全体の平均輸出価格指数との比率)が常に1を大きく下まわり,その結果高い価格弾性値が有効に作用して輸出の著増を成し遂げている。これに対し,アメリカも,1.16と価格弾性値は1を上回っており,価格の影響の大きいことを示しているが,この測定期間にはイギリスとともに同国の相対価格はほとんどlを上まわって逆に輸出を減少させるものとして作用している。
こうした関係を図示したのが第62図である。これによると,アメリカでは63年後半から64年前半にかけて価格競争が相対的に強まり輸出の著増を示しているほか,67年後半から景気回復と共に顕著になった物価上昇により価格競争力の後退を招き,世界需要Ω増勢にもかかわらず逆に輸出数量の伸び率を引き下げていることが認められる。また,イギリスでは67年まで一貫して価格競争力の低下が見られ,世界需要の変化によって説明される輸出数量のすう勢からのかい離が見られる。ポンド切り下げ後は価格競争力の改善がうかがわれるものの,国内物価の騰勢により予想されたほどの効果は現われていないようである。
西ドイツ,フランスでは相対価格が殆んど1の附近で上下しているため,価格による影響は余り明瞭に現われていないが,西ドイツにおいて67年の不況の頃から若干の価格競争力の強化が見られ,その分だけ輸出数量を押し上げているのが認められる。
イタリア及び日本はこの期間一貫して優位な価格競争力を誇っているが,両国ともに63年にボトムがあり,特にイタリアのそれは著しく,64年いっぱい尾を引いている。この結果両国の輸出は世界需要の上昇期にありながら伸び悩みを示しているが,その後物価の鎮静化に伴ない大きな価格弾力性が有効に作用して輸出数量の伸びを好調に引きあげてきており,両国の世界市場におけるシエアの著増に貢献している。
一般に輸入動向は鉱工業生産の変化と密接な関係を持つが,クロス・セクションで見ても,日本,オーストリア等の例外はあるものの,かなりの相関が認められる(第63図)。これを物価と関連させて需給ギャツプの面から見たのが第64図である。これによると,需給ひっ迫の時期には各国共輸入の著増が見られるが,アメリカの66年,68年,イギリスの64年,68年,西ドイツの65年等何れもこれ迄見たように物価上昇の激しい時期であり,こうしたことから,インフレ期にはその不利な輸入価格にもかかわらず,国内需給のひっ迫から輸入数量が大幅に増大することがうかがい知れよう。特に68年のアメリカは一年を通して高い伸びを示し,第3四半期には前年同期比31%増とかつて無かった程の水準に達しているが,このことがアメリカの国際収支を大幅に悪化させたのみならず,すでに見たように今回の世界的インフレの淵源ともなっていることを考えるとき,その持つ意味は一層重大になって来よう。
(d)インフレ高進期のズレによる効果
このようにインフレの高進は,先ず貿易収支を輸出入両面から圧迫し,ひいては国際収支の均衡を危くしているが,ここで重要なことは,これ迄みてきた各国のインフレ高進期がほとんど全て時期的に互いにズレを持っており,僅かに今回のインフレのみ同時的であるにすぎないということである。
第65図は,主要国の卸売物価上昇率と貿易収支(通関ベース)の動きを比較したものだが,これによると物価の安定していた60年代前半のアメリカは多額の貿易収支黒字を記録していた。これに対し,ヨーロッパ諸国では物価の動揺が見られ,貿易収支の悪化をきたしており,特にイギリス,イタリアでは通貨不安がおこっている。こうした様相は66年のアメリカのインフレを境に一変した。すなわち,アメリカでは66年以降物価の騰貴が続き,貿易収支は悪化の一途をたどったが,これに代って西ドイツ及び日本が,卸売物価の安定を背景に貿易収支の大幅黒字を続けている。また,イギリス,フランスでも物価の騰勢のために,貿易赤字を増大させている。これは,各国のインフレ高進期が時期的にズレているためにそのつど物価の安定している国との間に価格競争力という相対的な力に差異を生じ,また同じインフレ期にあってもその程度の強弱によって差異を生じて,価格弾力性の高い今日の世界貿易構造の中で急速なシエアの変化をきたすためである。しかもこうした結果,各国間で強い通貨,弱い通貨というすぐれて相対的な概念ができあがる為に,固定相場制のもとでは平価変更の思わくを招きやすく,投機的な資金の一方通行が生じて,当初の国際収支不均衡を相乗的に拡大させることになるわけである。他方では,BISによれば69年には375億ドルにも達すると推定されるユーロ・ダラーを中心に総額450億ドルにも及ぶユーロ・カレンシーという巨額の短資市場が現存しており,短資の移動は従来にもまして加速的にならざるを得ない。
こうした関係は例えば先に見た68・9年のフランスの例に端的に現われていよう。急激なインフレに遭遇したフランスと,物価の安定していた西ドイツとの間で,フランからマルクへの大量の乗り換えが起った事例である。
すでに述べたように,今後は世界的インフレの可能性が強まっていくであろうと思われるが,こうした中にあっても各国の通貨価値がその正当な評価を反映していないと見られる状態では,固定相場制下にあってなお平価変更の思わくを招きやすく,わずかの間隙を見つけては大量の短資移動が生ずるおそれもあると思われる。従って,現在小康を保っている国際通貨情勢も,まだまだ波乱の生ずることも予想され,これに対し各国が調和ある成長をはかることの重要性は今後一層強まっていくであろう。
2)インフレーションの国際的波及
インフレの国際収支への影響とならんで,国際的影響の大きなものとしては,インフレそのものの国際的な波及現象があげられる。
1960年代の国際経済取引は,各国経済の成長率をはるかに上まわる拡大を示したが,その中で各国の依存関係の高進は,相互の潜在的成長能力を加速的に引き出し,世界全体としての高成長をもたらしたのである。反面このメカニズムを通じて,インフレもまた輸出され,各国において輸入されたインフレーションが大きな問題となっていることは,前に原因の項で見た通りであって,その形態も,主要なものだけでもすでに多岐にわたっている。すなわち,輸入価格が直接国内物価を押し上げる現象がそれである。また輸出需要の増大する圧力が国内需給をひっ迫させたり,輸出超過や短資の流入が国内通貨供給量を増大させる等の現象がそれである。この他にも,資本や労働の国際交流の活発化を通じて,国際企業による物価上昇の直接的な搬入や,賃金上昇が近隣諸国へ伝播する等,様々なルートをとって国際的に波及している。しかも,波及して行く相手国がすでにインフレ要因を内在していたり,またインフレ的様相を呈している場合には,その国内インフレ要因に加重されて物価上昇をさらに大幅なものとしているのである。
こうしたプロセスはすでに今回のインフレにおけるアメリカの及ぼした影響について述べたがヨーロッパ諸国の間にも,EECやEFTAなどで加盟国相互間の交流が活発化されるにつれ,インフレの波及が見られる。そのうち,ここでは特異な形態として,賃金上昇の波及にふれておこう。近年になって各国共通の課題となった労働力需給のひっ迫から,国際的な労働力の移動に対する要請はますます高まっているが,ヨーロッパでは地理的な有利さや,域内交流の活発化に伴い,比較的スムーズに行なわれている。この結果ヨーロッパにおける経済大国とその近隣諸国の間には,賃金上昇が,あるタイム・ラグを置いて波及していくという関係が見られる(第66図)。しかもそのタイム・ラグは60年代前半の2年から60年代半ばには1年半,最近では1年を割るといった具合に,徐々に短縮されてきており,上述の事情をよく反映していると思われる。このような賃金の上昇は,コスト・プッシュ的な様相を強めている最近の世界経済にあって,インフレの波及をもたらしやすくしているのである。
以上のように,60年代を通して進行して来た経済の国際化,世界化の大きなうねりの中で,インフレもまたもはや一国内にとどまらず他国に波及していくことが認められるが,最近のように各国の貿易に対する依存度が高まり,為替や貿易に関する種々の制限が撤廃されて行くに従い,この傾向は一層助長されるものと思われる。
こうした中で,準備通貨としてのドルが,1950年代来以降アメリカの一貫した拡張政策によって大量に世界各国に流出を続けたことも無視できない。
各国は,このアメリカの国際収支の赤字によって,対外準備としてのドルの保有を増加させた。しかも,各国ともこの対外準備を背景に,60年代を通じて高成長政策をとったため,世界的に通貨の供給量は増大した。さらに,この数年間急増を続けたユーロ・ダラーという巨大な国際金融市場のために,各国の通貨当局による独自の通貨量の適正なコントロールは著しく困難になってきており,たとえば昨年もアメリカでとられた引締め政策の効力を減殺している。
こうした結果経済の国際化とともに各国の金融政策もかなり密接に連動するようになってきているが,世界的な通貨の増大という事実にもかかわらず,各国ともそれに対する適正なコントロール手段を欠くため,この面から世界的インフレが生じやすくなっていると思われるのである。第67図は主要6ケ国の総通貨供給量(現金通貨+要求払預金)の増加率と,これらの国の卸売物価上昇率(各国の卸売物価上昇率をGNPでウエイトづけして総合したもの)との関係を見たものであるが,これによると各国経済の高成長が一応ピークに達し,国際化もかなり進展したと見られる60年代央以降,両者の間には一定のラグをもった相関関係が観察され,世界物価と世界通貨供給量の間の結び付きを現わしているように思われ,上述の事実を反映していよう。
したがってこうしたことに留意するなら,国際機関による調整とともに,基軸通貨国をはじめとして各国ともインフレの発生を招かぬような慎重な政策決定が今後ますます必要となってこよう。