昭和42年
年次世界経済報告
世界景気安定への道
昭和42年12月19日
経済企画庁
第1部 1966~67年の世界経済
第2章 海外諸国の経済動向
(1) 1966~67年の経済動向
1) 概 況
1966~67年のイギリス経済はとくにきびしいポンド防衛に終始したが,67年11月18日に致ってついにポンドの切下げを余儀なくされた。
66年7月に打出された公定歩合の危機レートへの引上げや賃金・物価の凍結を含むポンド防衛のための強力な総合緊縮対策によって66年秋には景気悪化の様相を強め,とくに自動車産業に対するデフレの影響は深刻であった。その結果,国内総生産の実質成長率は64年の5.9%をピークとして65年に2.6%と半減したあと66年には1.6%増にとどまった。政府は失業の大幅増加と設備投資の減少という事態に直面して,年末以降慎重なリフレ措置の採用に踏切った。67年に入って景気は緩やかな回復に転じたものの,海外景気の不振による輸出の伸び悩みや中東戦争の影響によって足ぶみ状態を続けた。一方,対外面では貿易収支の改善から66年第4四半期の基礎的国際収支はかなりの黒字を達成したほか,金・外貨準備は大量の短資の還流もあって秋以降増加に転じ,ポンド危機は一時的に回避された。しかし,67年初め頃から貿易収支は急速な悪化をみせ,金・外貨準備も5月から再び減少に転じ,中東戦争で悪化したポンドは海外金利の上昇と相まってかなりの動揺を示し,秋には港湾ストの影響も加わってポンド不信が急速に高まり,ついに11月18日ポンドの切り下げに追い込まれた。
以下では,まず,今回のポンド切下げまでの推移を対内面,対外面に分けてみてみよう。
2) 経済活動の停滞-引締めの浸透-
まず,引締めの影響を国内総生産(実質・季節調整済み)の動きについてみると,66年第1四半期の0.4%増から第2四半期に0.8%の減少を示したあと第3四半期,第4四半期といずれも微増を維持した。強力な引締め措置にもかかわらず,国内総生産に大した落込みがなく,微増にとどまる.ことができたのは,民間需要が減少した半面,政府支出と輸出が増加したからである。すなわち,個人消費が第2四半期0.5%減のあと,第3四半期には1.9%と大幅な減少を示し,第4四半期にも微増にとどまったのに対して,政府支出が同じ時期におおむねこれを上回る増加を続けた。工業生産もほぼ同様な動きを示し,第1四半期をピークとしてその後横ばいに転じ,第4四半期には1.5%の低下を示した。こうした生産の低下は機械,化学,金属,繊維をはじめ多くの部門にわたったが,とりわけ自動車産業では引締めの影響は深刻をきわめ,大企業の操短や工場閉鎖が相次ぎ,ストライキによる打撃と相まって生産は著しく阻害された。
生産の低下傾向を背景としてひっ迫を続けていた労働市場も急速に緩和し始め失業率は7月の1.1%から12月には2.4%へと急上昇し,政府見通し(1.5~2.0%)をはるかに上回った。
物価の動きにも落着きがみられ,原燃料,工業製品とも8月以降横ばいないし微落に転じた。生計費は依然ジリ高を続けたが,66年に入ってーだんと上昇圧力を強めていた賃金は「完全凍結」が実施され8月から12月まで全く横ばいとなり,12月の水準は前年同月比3.3%高にとどまった(65年は4.7%上昇)。
つぎに,引締めの影響を需要面からみてみよう。
まず,製造業の設備投資(実質,季節調整済み)の増加率は64年の13.3%,65年10.2%のあと66年には0.2%と著しい鈍化を示した。これを四半期別にみると,66年第2四半期に5.5%ど大幅に減少したあと,第3四半期にやや回復したものの,その後は減少を続け,この傾向は67年第2四半期にも変っていない。また,住宅を含む総固定投資が公共部門の増加にもかかわらず第4四半期に微減を示したことも民間部門に対するデフレの影響の深刻さの一端を物語るものであろう。
消費需要は依然根強さをみせていたが,66年7月に実施された賦払信用規制強化が浸透するにつれて全般的金融引締めと相まってかなり増勢が鈍化してきた。小売売上高が耐久消費財や衣料の売上げ不振から第3四半期に減少したほか,自動車などの新規信用取引の停滞が目立ち,新車登録台数(季節調整済み)や賦払信用残高も年央頃から減少に転じた。
このように66年秋から年末にかけてのデフレの影響は予想外に厳しいものであった。とりわけ,長期的経済戦略からこうした設備投資の不振や自動車産業の停滞は,たとえポンド防衛のためとはいえ労働党政府にとって耐えがたいことであった。
3) 国際収支の改善
総合緊急対策の効果は,国際収支の改善,ポンドの堅調,金・外貨準備の増加など対外面にもみられる。すなわち,基礎的国際収支は66年第4四半期には前期の148百万ポンドの赤字から136百万ポンドという59年以来最大の黒字を達成した。その結果,66年全体の赤字は175百万ポンドと65年(342百万ポンド)に比べてほぼ半減するという大幅な改善となった(64年の赤字は761百万ポンド)。このような国際収支の著しい改善は,主として第4四半期の貿易収支が,輸出の好調と輸入の大幅減少によって第3四半期の115百万ポンドの赤字から152百万ポンドの大幅黒字となったためである。
金・外貨準備も9月から増加に転じ,多額の債務返済にもかかわらず,この傾向は67年4月まで続いた(12月を除く)。66年5月央から始まった海員ストを契機として急速に悪化したポンドも強力な国際的支援措置や国際収支の改善などを背景として9月央から立直りをみせ,67年に入ってもおおむね堅調を維持した。海外金利の低下傾向などポンドを取巻く環境に恵まれたこともあって,4月初めには一時的にではあるが2.80ドルの平価を上回るほどであった。
4) 慎重なリフレ措置の実施
以上のように,イギリス経済は66年秋頃からデフレの影響が急速に強まってきた半面で,対外面ではかなりの改善をみた。政府は66年11月22日「価格・所得凍結一きびしい抑制期間」と題する白書を発表し,67年上期にも「凍結」を原則的に続けることを明らかにしたが,同時に失業の増大や設備投資の不振に対処するため,66年12月以降慎重ながらも若干のリフレ措置の実施に踏切った。その第1弾は12月1日に発表された投資特別補助金の一時的増額と輸出リベートの拡大(年間560万ポンド)であった。67年に入って1月26日には公定歩合を危機レートから半年振りで引下げた(7%→6.5%)が,3月16白にもさらに引下げを行なった(6.5→6%)。 こうした引締め緩和の効果もあって,67年初め頃からようやく景気は回復に転じたものの,その足どりはきわめて緩慢であった。しかし賃金・物価の凍結が終わる下期に予想される賃金の上昇圧力の高まりなどの対外面への影響を考慮して,4月の新予算は「中立的なもの」となったが,若干の刺激措置を提案した。すなわち,①福祉給付の小幅な増額,②自動車などに対する賦払信用規制の一部緩和,③銀行貸出しの増加枠の撤廃と特別預金制度の積極的利用および,④サービス業のパートタイマーに対する選択的雇用税の還付などである。
さらに,5月4日の公定歩合の再々引下げ(6%→5.5%)につづいて,中東戦争終結直後の6月7日には乗用車の賦払信用規制を緩和したほか夏から秋にかけて製造業に対する地域雇用補償金制度の導入,投資特別補助金の支払期限の短縮および年金の全面的増額などの措置を打出すことを明らかにした。これらのねらいはどちらかというと長期構造対策にあるが,その景気刺激効果も無視できない。
また,8月末には大幅な内閣改造を断行するとともに,再び自動車など多くの耐久消費財に対する賦払信用規制の緩和を実施亡た。
このように政府は66年12月以降慎重な引締め緩和へと徐々に政策の転換を行なっていったのである。
5) 緩やかな回復
1967年初めから緩やかな回復に転じたものの,第2四半期以降やや中だるみとなった。このため政府は前述のように,賦払信用規制緩和や公定歩合の引下げなど引締め緩和措置を相次いで実施した。その結果,「凍結」解除と相まって個人消費や機械受注の増加をもたらし,ようやく景気立直りのきざしがみえてきた。こうした段階で11月18日,平価切下げ,公定歩合の大幅引上げを含む一連のきびしい総合緊縮対策が打出され,イギリス経済は再び対外面から大きな制約を受けることとなったのである。つぎに,今回のポンド切り下げにいたった経済的背景を国内経済の動きからみてみよう。
国内総生産は67年第1四半期にも微増を続けたあと,第2四半期にはわずかながら低下を示し,工業生産もデフレの影響を強く受けた66年第1四半期の低い水準で,年央まで横ばいに推移した。製造業だけをみると,第2四半期には微減となり,とりわけ,食料,繊維の停滞が目立った。しかし,その後やや回復をみせ,6~8月(月平均)の指数(1958=100)はそれ以前の3ヵ月と比べて総合で1ポイント,製造業で2ポイントの上昇となり,これは景気の先行きにやや明るさを示すものであった。
一方,労働市場は依然緩和傾向を続けており,これを,季節調整済みの完全失業者(新規学卒者,一時的失業を除く)でみると,9月には56.3万人と63年初め以来の高水準に達し,年初からの増加は約11万人となった。こうした失業の急増傾向から68年2月頃には70~80万人に達するとの見方が強まっていた。
物価の動きをみると,生計費は凍結期間中にもジリ高を続け,66年7月からの12ヵ月に2.2%上昇した。これは主として間接税の引上げと選択的雇用税の影響によるものであった。 卸売物価は原燃料,工業製品とも引続き落着いた動きをみせていたが,5月に発表された電力料金の引上げ(10%)をきっかけとして,その後広範囲にわたる品目のほか,国内航空料金や公立学校の授業料などサービス料金の引上げが発表された。こうした物価値上げの動きは,中東戦争の影響ですでに引上げられていた石油製品と相まって今回の平価切下げによる食料など輸入価格の上昇が今後の物価,とりわけ生計費に与える影響が懸念される。
6月末で「きびしい抑制期間」が終ったため,賃金の上昇圧力は急速に強まってきた。完全凍結が実施された66年央から全く横ばいに推移していた賃金率指数(1956年1月=100は,67年に入って「凍結」がやや緩和されたこともあって微騰に転じたが,凍結が解除された7月以降騰勢を強めており,8月の水準は前年同月比3.7%高となった(第1四半期2.8%,第2四半期2.6%高)。これは「凍結」で延期されていた賃上げ(約6百万人)が実施されはじめたからである。鉄道(39万人),教員(32万人),銀行(18万人)など大手の労組がいずれも大幅な賃金要求を提出中と伝えられており(政府の推計では750万人),こうした労組の賃上げ圧力は失業の増大や生計費の上昇という背景の中で次第に激化する情勢にある。
つぎに,引締め緩和の影響を需要面についてみよう。
まず,総固定投資(季節調整済み,実質)は公共部門に支えられておおむね増加を続けているが,とりわけ,67年第2四半期には5.6%と急増を示した。
また,産業固定投資(製造業,卸売,小売業およびサービス業)をみても,66年第4四半期(前期比3.3%減)を底として67年第1四半期1.8%増,第2四半期3.7%増と顕著な回復を示している。これは主として海運業の投資の急増によるものである。しかし製造業の設備投資だけは依然減少傾向を続け第2四半期にも1%の減少を示した。ただ先行指標である機械工業の新規国内受注(季節調整済み)が第2四半期にかなり増加してほぼ前年同期の水準まで回復したことや最近発表された商務省の投資動向調査(10月)による67年の減少見通しが前回の8~9%から6%に改訂されたことから投資の先行きにもやや明るさがみえてきた。今回の緊縮措置がどのような影響を与えるか,こんごの成行きが注目される。
また,引締めの影響を大きく受けた消費需要は67年初めにやや回復したあと弱含みに推移していたが,賦払信用規制が緩和された年央頃からようやく上向きに転じ始めた。小売売上はいまのところ食料,耐久消費財にやや回復の兆しがみえる程度であるが,,自動車の新規信用取引は,6月初めに実施された賦払信用規制の緩和もあってかなりの増加を示した(8月には前年同月比88%増)。また,第33図に示されるように,新車登録台数(季節調整済み)も4月(7.6万台)を底に増加に転じ8月には11.3万台に達した(66年10月は6.1万台)。こうした自動車を中心とした信用取引の回復は,長い間減少を続けていた賦払信用残高が7月以降僅かながら増加を示し始めたことにも現われている。さらに8月末には乗用車をはじめ多くの耐久消費財の規制を緩和した(乗用車については頭金30→25%,最長返済期30→36ヵ月,耐久消費財については頭金33香1/3→25%,期間24→30ヵ月)が,この新たな措置によって家具を除く大部分の耐久消費財に対する規制は66年7月の総合緊縮対策実施以前よりも緩和されることとなった。
以上のように,政府は引締め基調を堅持しながらも,66年12月以降,慎重なリフレ措置を実施してきたが,これは失業の増大をくいとめ,財政演説で明らかにした3%の成長目標達成のために経済にマイルドは刺激を与えることをねらったものであった。その結果,年央頃から景気立直りを示すいくつかのきざしがみえてきたが,その半面で,対外面での悪化が急速に進み,ついに今回のポンド切り下げに追い込まれたのである。
6) ポンド危機の再燃一平価切下げの背景
引締めの浸透とともに66年秋から67年春にかけて対外面での改善は急速に達成され,5月下旬にはIMFなどの債務の一部を期限前に返済したほどであった。ところが中東戦争をきっかけとして,情勢は逆転し,貿易収支の悪化,金・外資準備の減少を背景として,ポソド不安が再燃し,とりわけ,9月下旬からの港湾スト以降ポンド不信が急速に高まり,海外金利の上昇と相まって短資の大量流出を招いた。10月,11月の公定歩合引上げにもかかわらず,ポンドに対するスペキュレーションが急速に強まり,ついに政府は11月18日,ポンドの14.3%の平価切下げに踏み切ったのである。
今回の危機の背景をさぐるために,まず基礎的国際収支をみると,66年第4四半期に大幅黒字を達成したあと,67年第1四半期には14百万ポンドの赤字となり,第2四半期には43百万ポンドと赤字幅はさらに拡大した。悪化の主因は,輸入の急増と輸出の伸み悩みによる貿易収支の赤字拡大であった。そこで貿易収支(通関ベース,季節調整済み)の動向を第34図によって四半期別にみてみよう。その赤字幅は66年第4四半期の9百万ポンドから第1四半期59百万ポンド,第2四半期にはさらに86百万ポンドへと急速な拡大をみせたあと,第3四半期にも80百万ポンドと大幅であった(月平均)。これは輸出が第2四半期以降減少に転じた(第2四半期3.6%,第3四半期2%)のに対して,輸入は依然高水準を維持したためで,1~9月では前年同期比4.1%増となった(66年平均は2.O%増)。とりわけ,9月には輸出の急減と輸入の増加によって赤字幅は拡大したが,港湾ストの打撃を大きく受けた10月にはさらに悪化して(前年同月比では輸出22.6%減,輸入8.4%増)162百万ポンドという大幅赤字を記録した。
イギリスの国際収支にとって季節的に有利である上期に基礎収支で57百万ポンドもの赤字を示したことやその後中東戦争処理の長期化や港湾ストの影響による貿易収支の急速な悪化から67年に大幅黒字を達成するとの政府見通しは後退を余儀なくされ,10月の貿易収支悪化が発表されるに及んで67年の基礎収支の赤字は3億ポンドにも達するだろうとの見方が強まってきた。
そのわずか2~3ヵ月前にはイギリス国民経済社会研究所(NIESR)が35百万ポンドの黒字,悲観的な見方をしていたイングランド銀行でさえ「小幅な赤字の可能性」という程度であったことを考えると,この間の国際収支の悪化がいかに急速であったかがわかるであろう。
対外面での悪化は,第35図から明らかなように,金・外貨準備が5月以降減少に転じたことにも現われている。9月末には976百万ポンドとほぼ2年来の低水準に落込んだが,この間の減少額は約2.4億ポンドにも達した。5月の減少にはIMFとスイスへの債務1.75億ポンドの期限前返済が含まれていたとはいえ,スワップ協定による外国中央銀行からの多額の借入を考慮すると,実質的減少額はかなりこれを上回ると推定されている。
ポンドは海外金利の低下傾向や多額の債務返済などを好感して,67年に入っておおむね堅調を維持し,5月4日には公定歩合の再々引下げ(6→5.5%)が実施された。しかしその後,貿易収支の悪化に加えてドゴール大統領のEEC加盟についての記者会見などからポンド相場は動揺し,6月の中東戦争をきっかけとして急速に悪化,7月下旬にはその直物相場は2.7857ドルと64年11月のポンド危機以来の安値に落込んだ。その後も下落を続け,9月の貿易収支悪化が発表された10月12日には2.7825ドルとさらに安値を更新,ポンド不安は一段と高まった。そのため,政府は10月19日と11月9日の2回にわたって0.5%づつ公定歩合の引上げに踏切った(5.5→6.5%)が,これは直接的にはアメリカなど海外金利の上昇によってロンドンから短資が流出するのを防止することをねらったものである。しかしその底流には,アメリカ,西ドイツの不況,中東戦争によるスエズ運河閉鎖,タンカー運賃の値上がりのほか港湾ストなどによる国際収支の急速な悪化という事実があった。とりわけ,中東戦争の国際収支=ポンドに与える影響は深刻であり,第16表で明らかなように,NIESRでは,スエズ運河が67年中再開されない場合,68年末までに1.3億ポンド(67年下期0.5億ポンド,68年0.8億ポンド)のマイナス,また,イングランド銀行では67年下期だけで1億ポンドのマイナスを予想した。
イギリスにとって悩みの種であった67年12月初めに返済期限のくるIMF借款(約0.9億ポンド)はBIS(国際決済銀行)を通じた先進各国中央銀行による肩代り借款の取付けに成功したにもかかわらず,その発表が遅れたため,かえってポンド不信を高め,10月の貿易収支悪化が発表された11月14日以降,ポンドに対するスペキュレーションが激化し,ついに18日,政府は戦後2回目のポンドの平価切下げを断行,同時に公定歩合の大幅引上げを含むきびしい緊縮政策を発表し,あわせて巨額の対外借款を要請するにいたったのである。
今回の危機の根因も,これまでと同様,巨額の対外債務に比べて金・外貨準備がきわめて少ないという対外ポジションの弱さにある。また,その直接的契機となったのは,国際収支,とりわけ貿易収支の急速な悪化であった。それを加速した要因としては欧米景気の不振,中東戦争とスエズ運河閉鎖,ロンドン,リバプールでの港湾ストがあげられるが,それに加えて,アメリカなど海外金利の上昇による金利差の縮小や,EEC加盟問題の低迷などの悪材料が重なってポンド不信が急速に高まり大量の短資流出を招いたことである。
今回の危機対策の特徴は,第1に平価切下げ,公定歩合の大幅引上げ,財政・金融面からのきびしい引締め,巨額の対外借款ときわめて多角的であること,第2に平価切下げが各国の追随を回避するため小幅にとどまったとはいえ,それを巨額の対外借款によって補強するという形で国際協力が行なわれたことである。その第3は,「経済成長と完全雇用と両立する国際収支の継続的かつ大幅な改善を達成する」ため,個人消費や政府支出の削減によって資源を輸出部門や民間製造業設備投資へ転換するというこれまでの労働党政府の基本的立場が堅持されていることである。
ところで今回の措置を列記してみよう。まず,直接的国際収支対策としては,①ポンド平価の14.3%切下げ(2.80→2.40ドル,前回は1949年9月30.4%切下げ),②公定歩合の危機レートを上回る大幅引上げ(6.5-8%,戦後最高),③30億ドルにのぼる巨額の対外借款の要請(IMFから14億ドル,先進各国中央銀行から16億ドル)が発表された。さらに国内需要抑制策としては,財政面では政府支出の大幅削減(年間4.5億ポンド),その内訳は④断有産業を含む公共投資削減(年間1億ポンド,ただし開発地域を除く),⑤輸出払戻し制の廃止(来年4月以降1億ポンド),⑥製造業に対する選択的雇用税にもとづくプレミアムの廃止(1億ポンド),⑦法人税の引上げ(40→42.5%,来年度予算で提案)と,配当のきびしい監視,⑧国防支出の削減(来年度1億ポンド)となっている。また,金融措置としては,⑨輸出など優先部門を除く銀行貸出の規制,⑩自動車の賦払信用規制強化(最低頭金25→331/3%,最長返済期間36→27ヵ月)が実施された6同時に,⑪新情勢に対処するため,価格・所得政策の運営について労使代表と協議することが提案されている。
(2) 長期構造対策の展開
「新しいイギリス」をめざして,ウイルソン労働党政権が登場したのは,まさに戦後で最も深刻といわれる1964年秋のポンド危機の真只中であった。 66年央には再び危機に見舞われ,周知のように賃金・物価の凍結を含むきびしい総合緊縮対策が実施された。こうした強力な国際協力によるポンド支援ときびしいデフレ措置にもかかわらず国際収支の改善がおくれ,さらにアメリカの金利上昇,中東戦争とスエズ運河の閉鎖,EEC加盟問題のゆきずまり,ロンドン,リバプールでの港湾ストなどの悪材料がかさなって,再び危機を招くにいたったことは前述のとおりである。労働党政権はこれまでも当面の危機に対処する短期対策と同時に所得政策の推進や産業の近代化,合理化による国際競争力の強化のための長期構造対策を打出してきた。不幸にしてその効果が十分現われないうちに,再び危機を招いてしまったが,今回の平価切下げを含む強力な措置の成否はまさに構造対策をどれだけ推進できるかにかかっているといえよう。
こうした観点から1966~67年に実施ないし発表された選択的雇用税(66年9月実施),投資特別補助金制度(66年1月発表),企業の合併促進のための産業再編成公社(67年1月発足),鉄鋼産業の国有化および地域雇用補償金制度などのうち,新たに導入された地域雇用補償金制度,投資特別補助金制度の強化および新たな段階を迎えた価格・所得政策などについてみてみよう。
1)地域雇用補償金制度(Regional Employment Premium)の導入
この構想は67年4月初め(予算案提出の直前)に「青書」として発表されたものである。政府は,CBI(英産業連盟),TUC(英労働組合会議),NEDC(国民経済発展審議会)および商工会議所などと検討をかさねていたが,9月5日から実施されたその内容の骨子は,開発地域の失業問題に対処するため,とくに同地域の製造業については選択的雇用税(Selective Employment Tax)による雇用還付金を引上げるというものである。これによる年間支出増加額は約1億ポンドが見込まれている。
2)投資特別補助金制度(Cash Grants for new Investment)の強化
この制度は法人税の新設に伴って廃止された投資控除制(Investment allowance),に代わる投資刺激措置で,この構想は66年1月16日に発表され,66年度から実施されている。その特色はサービス業などが適用除外され,製造業および鉱業にかぎられていることである。当初は新規投資額の20%(開発地域は40%)の補助金が支払われることになっていたが,66年12月1日以降,67年,68年の投資にかぎり補助率がそれぞれ5%引上げられた(これによる補助金増加額は1.2億ポンド)。さらに67年に入って,3月と6月の2回にわたって強化されたが,この場合は補助率の引上げではなく,設備や機械の発注時点から補助金を受取るまでの期間を短縮するという方法がとられた(旧投資控除制のもとではこのタイムラグは平均18ヵ月であったが,この措置で12ヵ月となる)。
これによって67年10月1日には66年下期の分についての補助金の支払いが開始される予定である。
3)価格・所得法(Prices&Incomes Act)の改正-「凍結」の解除-
イギリスの価格・所得政策は,66年末までの「完全凍結」に続く「きびしい抑制期間」が67年6月末でおわったほか,価格・所得法第4部の「凍結条項」も8月11日に失効したことによって新たな段階に入ったといえる。 すでに政府は「凍結条項」の失効に対処するため第2部の「事前通告条項」の強化を骨子とする「価格・所得法」の改正案を労使双方と協議していた。 これは「事前通告条項」によって賃金,物価の引上げを延期できる期間を現行の最高4ヵ月から7ヵ月(当初案は12ヵヵ月)へさらに延長するというものである(68年央までの時限立法)。
すでにみたように,「凍結」が解除された7月以降賃金,物価の上昇圧力ぱ急速に強まってきたが,大幅な賃金引上げを要求する労組の動きも次第にはげしさを加えている。9月18日に始まった港湾ストは長期化の様相をみせているほか,鉄道ストは非常事態宣言を発するとの警告によって短期間で中止されたとはいえ,これらの動きは平価切下げの物価への影響と相まって,「凍結権限」が失効して新たな段階を迎えた所得政策の前途が多難であることを示すものであろう。
4)EEC加盟問題
政府は67年5月2日,再びEECへの加盟を決定し,11日EEC理事会に対して正式に申請手続をとった。イギリスのEEC加盟交渉は63年1月にドゴール・フランス大統領の拒否権によって中断されていた。しかし10月下旬のEEC理事会でフランスが加盟交渉の条件として「国際収支の均衡とポンドの国際通貨としての役割の放棄」を主張したことや平価切下げ後のEEC理事会,ドゴール大統領の記者会見の経過からみても,ウイルソン首相の期待する早期加盟交渉の実現はきわめて困難なようである。
(3) 当面の見通し
前述のように,イギリス経済の回復は,世界貿易の伸びの鈍化や中東戦争の影響などによっておくれたため,政府は慎重ながらも公定歩合の引下げや投資特別補助金の強化,地域雇用補償金制度の新設,賦払信用規制の緩和などのリフレ措置を実施したほか7月からは賃金・物価の「凍結」を解除した。 こうした刺激措置の効果がしだいに現われてくることが期待されていた段階で,またもやポンド危機を招き,そしてついに切り下げに追い込まれてしまったのである。
政府は,今回の緊縮措置によって「国内需要の抑制と相まって輸出の増大,輸入の減少から比較的短期間に5億ポンドの国際収支の改善が期待できる」としているほか,向う1年以内に国内総生産の4~5%上昇,失業率(季節調整済み)の1.7~1.8%への低下(10月は2.3%),生計費の3%以下の上昇という政策目標を発表している。平価切下げが短期的には輸出増大と輸入抑制にかなりの効果があることは,1949年の経験からも明らかであり,第17表でみられるように金・外貨準備の急増はその一端は物語るものである。しかし当時とは海外環境が相違していること,今回の切下げ幅が前回のほぼ半分の14.3%と小幅であることなどに留意する必要があろう。また,平価切下げと同時に発表された法人税の引上げ,輸出払戻し制の廃止,製造業に対する選択的雇用税にもとづくプレミアムの廃止や輸入価格上昇のコストへのはね返りなどから,その輸出促進効果は半減するとの見方もある。
いずれにせよ,平価切下げによる短期的な輸出増大効果を長期的対外競争力強化に結びつけるためには,構造対策の推進が大前提であり,こうした意味で,賃金・物価の「凍結」が解除され,その上昇圧力が高まっているときだけに,新たな段階を迎えた所得政策の運営にどれだけ労使の協力が得られるか,今後の成行きが注目される。
今回の緊縮措置がイギリス経済の体質改善にどれだけ有効に作用するであろうか。海外景気,中東問題,さらには海外金利の動向などを考えると,その前途は多難といえよう。