昭和41年
年次世界経済報告
昭和41年12月16日
経済企画庁
第2章 1960年代における先進国の経済成長
それではなぜ,若干の例外を除いて先進諸国の経済成長率が60年代にはいって加速化したのであろうか。
その第1は,需要を刺激する要因が強くはたらいたことである。
国によって事情は一様でないが,アメリカ,イギリスでは60年代初めに財政・金融面での積極的な成長政策がとられたことが,成長率を引き上げる重要な要因となった。これに対して欧大陸では,EECやEFTAなど経済統合の進展による市場の拡大と競争の激化が輸出と投資を刺激した。もちろん,成長政策や経済統合の進展など,いわば政策的,制度的な要因が成果をあげた根底には,技術革新の進行や旺盛な個人消費,とくに耐久消費財に対する大きな潜在需要の存在などが指摘されねばならない。
第2に指摘されねばならないのは,供給側,とくに労働力供給面における要因である,ただしこれは,北米と西欧では経済成長に対して逆の方向にはたらいた。西欧では労働力事情はむしろ成長抑制的な作用をしたが,アメリカでは,60年代初めに労働供給力に余裕があったことが,60年代前半を通じて比較的安定的な高成長の達成を可能にした重要な要因であった。
アメリカでは,57年ごろまでの失業率は4%前後というほぼ完全雇用型であったが,その後の低成長によりしだいに失業者が増大し,61年には失業率も6.7%という高水準に達した。同年始め成立したケネディ政権は,このような高率失業の解消を目的として金融・財政政策による需要の刺激を中心としたいわゆる成長政策を打出した。その結果,62年以降経済成長率が高まり,しかも労働力に余裕があったことが一つの重要な理由となって,インフレなき高成長を達成することができた。
この高成長過程で失業が吸収され,66年にはいって所期の完全雇用をいちおう実現しえたのである。
これに対して,西欧の先進工業国では,概して労働力にあまり余裕がなかったことが成長を制約した。たとえばアメリカと同じように,60年代始めに成長政策をとったイギリスが,間もなくインフレと国際収支難に見舞われ,その結果,アメリカほど成長率を高めることができなかったのも,一つには労働力に制約があったからである。また,西ドイツやオーストリアの成長率が60年代にはいって大幅に鈍化したのも,この両国の労働力不足が60年代に激化したからである。イタリアも60年代にはいって急速に高雇用水準に近づき,そのことがインフレと国際収支難をひき起こすことで成長率を若干低下させた。
以上で,欧米諸国の60年代前半における経済成長要因を需要面と供給面から概観したが,国別の差や特殊事情も少なくないので,つぎに主要国ごとにそれを掘り下げてみよう。
(1) アメリカ
1960年代前半のアメリカ経済の成長を特徴づけるものは,需要刺激的な成長政策(投資減税,減価償却期間短縮,所得税減税などの財政政策と低金利政策)を背景とした設備投資の大福な増加と,個人消費,とくに自動車など耐久消費財購入のいちじるしい増加である。民間設備投資は60~65年に年平均6,4%も増加したが,これは50年代後半の伸び(1.4%)を大きく上回るものであった(第9表参照)。その結果,65年の設備投資率(国民総生産に対する比率)も10.6%となり,50年代の投資ブームの年であった56年のそれと同じ高さまで上昇した。
このような民間設備投資の盛りあがりのなかで注目されるのは,建物に対する投資よりも機械,設備に対する投資がいっそう増加したことである。すなわち,前者の年平均4.5%増に対して,後者は7.8%も増加した。これはおそらく技術革新の進行を物語るものであろう。
第2の特徴である耐久消費財,とりわけ自動車購入の増加は,所得税減税などの成長政策による所得増加のほか,若年層の急激な増加といった人口動態的要因に助けられたものである。耐久消費財購入は60~65年間に年平均8.1%の伸びを示し(50年代後半は0.8%),その結果国民総生産に占める耐久消費財の比率も,50年代の自動車ブームの年(55年)の9.9%を抜いて,65年には10.8に達した(第10表)。
また,住宅建設需要も低金利政策に助けられて比較的長い間高水準を続けてきたが,一時的な需給の飽和と低金利政策の漸次的破綻により60年代前半の末期には減少に転じた。このように住宅建築は60年代前半の成長に対してあまり寄与したとはいえないが,半面では50年代にみられたように景気上昇の足を大きくひっぱることもなかった。
在庫投資については,在庫管理技術の進歩により60年代にはいって安定性を増したことが特徴であり,50年代のように大きな変動がなかった。この点は,60年代前半におけるアメリカ経済の安定的成長に大きく寄与したといえよう。
さいごに,政府の財およびサービスの購入であるが,これは61~62年に著増して,60~61年の景気後退からの回復に大きな役割を果したものの,その後の伸びは国民総生産の伸びを下回っており,国民総生産に対する比率も62年の20.3%をピークにして低下を続け,65年には18.5%となった。ただし,これは65年までの数字であって,同年秋以降のベトナム軍需については国防支出の急増と軍需発注の激増が強力な景気刺激効果をもちつつあるものと考えられる。いずれにせよ,60年代前半における財政の役割は,財およびサービスの購入よりもむしろ減税の形でアメリカ経済の成長促進に大きく寄与したといってよいであろう。
(2) イギリス
イギリスの経済成長率は1950年代から60年代初めにかけて先進諸国のなかではもっとも低かった。その原因としては,戦後早くから完全雇用状態にあり,年々の新規労働力の追加も少なかったことのほか,農業部門が相対的に小さく,他の西欧諸国のように農業部門からの労働力移動という構造変化を通じて経済全体の成長率を高める余地が少なかったことなどがあげられる。しかしなんといっても,国際収支に構造的脆弱性があったこと,その対外債務に比較して金・外貨準備が少なかったことが,もっとも重要な要因であつた。この対外面の制約が,しばしばドラスチックな引締め政策の採用を余儀なくさせ,それが設備投資を抑制して,長期的な経済拡大の基礎づくりと対外競争力の強化を阻んできたのである。
このような経済成長の低さから脱却するために,イギリス政府は61年のポンド危機がおさまったあと,積極的な成長政策を打ち出した。60~65年の平均成長率が50年代のそれを上回ったことは,政府の成長政策に負うところが大きかったといえよう。その内容は,金融財政面から需要刺激措置のほか,所得政策の導入や経済計画の採用,さらにEEC加盟申し込みなどイギリス経済の体質改善政策から成るものであったが,体質改善策が成果をあげないうちに需要刺激だけが効果を発揮したため,64年末には早くもインフレと国際収支難からポンド危機に見舞われ,またもや引締め政策の採用を余儀なくされ,66年以降再び停滞期にはいった。
需要面から60年代前半の経済成長を分析すると(第11表),まず,固定投資の著増が目立っているが(55~60年の年平均5.8%増に対して60~65年は6.2%増),その内容をみると住宅建設が大幅にふえた半面で,生産的投資(住宅以外の投資)の伸びはむしろ,50年代後半より低下している。しかも生産的投資のうち政府投資は著増したが,民間投資の増加率は,50年代後半の年平均7.4%増から60年代前半の4.7%増へと低下した(第12表)。とりわけ,製造業の投資は50年代後半の5.1%増に対して60年代前半は僅か3.7%増にとどまった。この点にも,イギリスの国際競争力の相対的な弱さの原因があるように思われる。
50年代後半と異なる第2の特徴は,50年代後半に減少気味であった政府支出が60年代前半にかなり増加したことである。ただしその増加率は国内総生産の増加率を下回っており,国内総生産に対する比率としてはむしろ低下している。
輸出は60~65年に年平均3.2%増加し,50年代の増加率を上回り,イギリスとしてはいちおう良好な成績をおさめた。これは,EFTAの進行やEECに対する接近努力の現われとみるべきであろう。
他方,個人消費のなかでは,やはり経済成長に対して戦略的重要性をもつ耐久消費財,とくに自動車類に対する需要がいちじるしく伸びたことが目立っている。
(3) EEC
前述したように,1950年代の高成長国であった西ドイツ,フランス,イタリアのうち,西ドイツは60年代にはいって,成長率がいちじるしく低下し,イタリアのそれもやや低下したのに対して,フランスの成長率はやや上昇した。西ドイツ,イタリアの成長率が60年代にはいって低下したのは,この両国の成長条件が変化したからである。EECの進展という成長刺激要因が,50年代後半から60年代前半にかけてはたらいていたことは3国とも共通しているが,労働力供給などの面で国別にかなりの相違がみられた。すなわち,西ドイツは50年代末ごろから極端な労働力不足に悩み,イタリアは60年代前半に急速に高雇用状態に近づいたのであって,この労働力の限界が生産拡大の物的制約となると同時に,賃金引上げの圧力を生み出し,そのことが物価上昇と国際収支難をひき起こすことで引締め政策の採用を余儀なくさせたのである。とりわけ西ドイツにおいては,63年を僅かな例外として常にインフレ圧力に悩まされ60年代前半の経済政策の第一の目標も物価の安定に置かれていた。インフレ抑制策の一環として,61年春にマルク切上げが断行されたことも,西ドイツの輸出競争力を相対的に弱めた。
イタリアでは,62年ごろまで50年代に引き続いて高い経済成長をみせていたが,その後は労働力予備の減少と大幅な賃上げや所得上昇に伴う消費構造の変化などから物価上昇と国際収支悪化が生じ,その結果引締め政策の採用をよぎなくされ,64年に戦後最大の景気後退を経験した。
労働力供給面からみると,西ドイツ,イタリアでは60年代に悪化したのに対して,フランスは60年代にむしろ好転したといえる。西ドイツ,イタリアと異なってフランスは戦後早くから完全雇用状態にあり,その点は60年代も変わらなかったが,62~63年にアルジェリアから大量の帰還者があったために労働力の増加率が高まったことと,50年代末ごろに(58年末)にフラン切下げと一連の経済改革を実施することで対外競争力を強め,その成果が60年代前半に実ったのである。しかし,アルジェリアからの大量帰還と大幅賃上げによる消費需要の行き過ぎからインフレをひき起こし,63年秋以降広汎な「安定計画」が実施され,その結果,一時的な停滞局面が生じた。その後,インフレ圧力の緩和に伴い,再び慎重ながらも拡大政策に転じている。
以上のように,西ドイツ,イタリアとフランスとでは,60年代にはいってからの成長条件が逆の方向へ変化したことが,前二者における成長率の低下と後者における成長率の高まりという相反する結果を生み出してものど思われる。この点は,需要の推移にも現われている(第13表,第14表,第15表)。
たとえば,輸出をみると,西ドイツの60年代前半における輸出の伸びはわずか年平均6.6%で,50年代前半の21.3%はもちろんのこと,後半の10.2%に比べ大幅な鈍化ぶりを示したが,これはマルク切上げや賃金コストのいちじるしい上昇などにより,輸出競争力が相対的に弱まったためであろう(第16表参照)。イタリアの輸出の伸びも50年代後半の年平均14.6%から60年代前半の13.5%へとやや低下しているが,イタリアの場合は単位賃金コストの上昇が西ドイツほどでなかったことのほか,65年がたまたま景気回復期でまだ設備面で余力があり,かなり輸出圧力が働いていたことも考慮する必要があろう。これに対して,フランスの輸出の伸びは50年代後半の年平均5.5%から60年代前半の7.0%へと逆に高まりをみせた。
輸出以外の需要をみても西ドイツでは,その伸びが政府支出を除いて,いずれも50年代後半より低下しているのに対して,フランスでは政府支出と在庫投資を例外として,他の需要は軒並みに増加率の上昇をみせた。また,イタリアの需要の動きで特徴的なのは,固定投資の伸びが極度に鈍化したことである(50年代後半の年平均8.7%に対して,60年代前半の2.8%)。実際また,固定投資の水準は63年をピークとしてその後減少に転じた(63~65年に約15%減)。さらに固定投資の内訳をみると,住宅建設は60~65年に年平均6.4%増とかなりの増加ぶりを示したが,生産的投資はむしろ減少を示しており,60年代前半に生産的投資の盛行をみた他のほとんどすべての先進国のなかで唯一の例外となった。その原因は,62~63年のブームと労働需給のひっ迫化で大幅な賃上げが行なわれ,その結果企業の利幅が縮小したのに加えて,64年以降の金融引締め,当時の中道左派政権の産業国有化政策に対する不信感などが重なったことにあった。
なお,輸出と投資のほかに注目されるのは,個人消費がフランスとイタリアで著増したことであるが,フランスの場合はアルジェリアからの大量帰還,イタリアの場合は労働需給のひっ迫に伴う大幅な賃金上昇といった要因がはたらいていた。しかし,その点を除いても,個人消費とりわけ耐久消費財に対する需要の急増が50年代と同様,60年代前半の経済成長の一要因となつていたことは見逃せない。
たとえば,代表的な耐久消費財である自動車の国内需要(新規登録台数)をみると,60~65年間に西ドイツでは年平均10%,フランスでは10.5%,イタリアでは18.4%増加している。
以上では,欧米5大国の経済成長を主として需要面から分析してきた。そこで明らかとなった第1の特徴は,イタリアを除いて設備投資の波の大きな高まりがみられたことである。その結果,国民総生産に対する固定投資の比率はほとんどすべての国で上昇した(第34図参照)。その根底に技術革新の進行があったことはいうまでもないが,技術革新を現実化させた要因としてはアメリカ,イギリスでは主として成長政策をあげることができる。他方,西ドイツ,フランスなど欧大陸諸国ではEECを中心とする貿易自由化(関税引下げを含む)の進展や,アメリカおよび日本の進出(アメリカは対欧企業進出,日本は商品輸出の形で)などによる競争の激化を背景とする近代化投資,労働力不足に対処するための労働節約的投資などにむしろ特色があったようである。もちろんアメリカにおいても競争の激化が投資拡大の一因であったことは疑いないが,主な要因は成長政策による総需要の拡大に求めるべきであろう。
第2の特徴は,耐久消費財とくに自動車の需要がどの国でも顕著な増加を統け,これが直接的に経済成長に寄与したばかりでなく,設備投資を誘発する契機ともなったことである。
第3の特徴は,輸出の増加率が高まり,それが経済成長に大きく寄与したことである。西ドイツのように,50年代に輸出を異常に伸ばした若干の諸国を例外とすると,どの国の輸出も60年代には50年代後半を上回る伸びをみせた。西欧諸国のように,輸出依存度の高い諸国では,輸出の増加が総需要の増加に大きな寄与を果たすのである。60年代前半に欧米諸国の輸出の伸びが高まった理由は,EECやEFTAなど西欧内部における経済統合の進展による関税等貿易障壁の削減がなんといっても最大の要因であるが,そのほかに所得上昇に伴う消費の多様化,国際分業の進展などをあげることができよう。
第4の特徴は,労働力供給面にみられる国別の相違である。冒頭に述べたように,アメリカでは60年代始めに大量の失業を抱えていたことが,成長政策導入の契機となったと同時に,比較的長期にわたる安定的な高度成長の達成を可能にする物的基盤となった。しかも,戦後のベビーブームが開花して,60年代にはいってから生産年齢人口の伸びが高まっている。また,労働力人口の増加と並んで,生産性の伸びも大きく,経済成長率の上昇に貢献した。
これに対して,西欧では労働力不足が一般にみられ,それが経済成長を多かれ少なかれ制約した。
第17表 主要国における生産年齢人口,労働力人口および就業者数の増加率
これに加えて,50年代後半から始まった労働時間短縮傾向が労働力不足に拍車をかけた。その結果,実質的な労働投入量は就業者数よりもいっそう増勢の鈍化を示した。とくに西ドイツでは,年々の若干の変動を除くと60年代前半中,労働力投入量は全く増加せず,生産の増加はもっぱら生産性の上昇によって達成されたのである。
このような労働力不足を緩和する手段として,西ドイツ,フランス,スイスなどでは,イタリアなどから大量の外国人労働者を移入していたが,イタリア自身が高雇用に近づいた現状においては,今後イタリアに期待することはしだいに困難となりつつあり,ギリシア,トルコ,スペインなど比較的後進的な西欧諸国から労働力を移入するほかないことになる。加えて,外国人労働者の移入は経済的,社会的に問題が生じやすく,スイスのようにすでに外国人労働者の移入を制限する政策をとった国もある。
いずれにせよ,欧米諸国とも完全雇用を達成したからには,今後の経済成長は従来にもまして生産性の上昇と低生産性部門から高生産性部門への労働力移動に頼らねばならぬであろう。