昭和39年
年次世界経済報告
昭和40年1月19日
経済企画庁
第2部 各 論
第2章 西ヨーロッパ
(1)1962~63年における経済情勢の悪化
1)概 況
1959~61年までのイタリア経済は,年平均7.5%という高い成長率(56年代の平均5.9%をしのぐ)を達成しながら,しかも物価の上昇や国際収支の破たんを伴うことがなかった。すなわち,高度成長のおかげで,長い間イタリア経済政策の課題であった失業の解消という目標が,かなりの程度まで達成され,失業者数は100万人を割り,失業率も59年の5.6%から3%台へ引下げることができたし,しかも卸売物価はきわめて安定的で,消費者物価も年率1%足らずの上昇にすぎなかった。また,国際収支も毎年黒字を続け,その結果,公的金外貨準備は58年末から61年末までに約13.5億ドル増加して34.2億ドルに達した。
このように61年までのイタリアでは,いわゆる安定的高度成長が持続したが,当時それが,「イタリアの経済奇蹟」とよばれたのもむべなるかなであった。
ところが62年以降になると,イタリアの経済情勢に急激な変化があらわれ,経済成長率が鈍化する反面で,物価の異常な高騰と国際収支の大幅な逆調が出現した。すなわち,経済成長率(実質)は61年の8.3%から62年の6%,63年の4.8%へと低下し,さらに,64年には3%程度への低下が見込まれている。他方卸売物価は,61年までの安定のあと,62年に3%,63年に5.2%上昇,また消費者物価も62年に4.9%,63年に7.3%という大幅な上昇をみせた。
国際収支も,このようなインフレ的情況を反映して悪化した。農業不作という特殊条件も加わって,輸入の伸びが輸出のそれを大幅に上回り,63年の入超額は61年の3倍以上の17.8億ドルに達した。その結果,商品,サービス取引きは61年の黒字2.4億ドルから62年のゼロ,63年の赤字9.5億ドルへと悪化した。これに加えて民間短資の大量流出があり,その結果,総合国際収支(商業銀行の対外純債務を除く)は61年の黒字5.8億ドルから,62年の黒字0.5億ドル,63年の赤字12.4億ドルへと逆転した。
63年に国際収支がこのような大幅な赤字を出したにもかかわらず,公的金外貨準備高が,62年末の34.4億ドルから63年末の30.6億ドルへと3.8億ドルの減少にとどまった理由は,62年8月から63年8月まで国際収支の赤字が民間銀行の短資取入れによってまかなわれたためであった。
2)物価の高騰
まず物価の動向をみると,1963年におけるイタリアの卸売物価上昇率は前年のそれを上回る5.2%に達し,西欧諸国のなかで最大であった。その内容をみると,前年と同じく農産物の値上りが大きかったが(6.2%高),とくに動物性食料の値上りが11%にも達した。これは,食肉需要の急増と供給不足を反映したものである。さらに鉱工業品価格も,62年にはわずか1.5%の値上りにとどまったのに対して,63年には4.8%も上昇した。これには,加工食品の値上り(7.7%)と建築資材の値上り(10.5%)が大きくひびいているが,その他の製品価格も3~4%の値上りを示した。
消費者物価も62年に約5%上昇のあと,63年には7.3%へと上昇率が高まり,これまた西欧最大の上昇率であった。63年における消費者物価上昇の要因は,①食料品価格が8.7%も上昇して,総合指数の上昇に約半分の寄与をした,②サービス価格の引上げが総合指数上昇へ20~25%の寄与をした,③統制家賃が63年1月に20%も引上げられた,などの事情が主な要因であるが,製造品価格もかなり値上りしており,たとえば衣料品価格は6.6%も上昇した。
3)国際収支の逆調
前述したように,イタリアの国際収支はすでに1962年に悪化したが,それでもわずかながらまだ黒字を記録することができた。ところが63年になると,総合国際収支は約12.5億ドルという巨額の赤字となった。その原因は第2-35表から明らかなように,①輸入急増による貿易収支尻の赤字増大(約9億ドル増)その結果としての経常収支尻の均衡から赤字9.5億ドルへの転落,②資本逃避による民間短資取引の赤字増大(約9.5億ドル増)にあった。
したがって,資本逃避を除けば,国際収支赤字の原因は主として輸入の急増にあったわけである。そこで63年の輸入の内容をみると(第2-36表)農産物および食糧の輸入が約57%増,自動車および部品の輸入が約80%も増加したのが最も目立っているが,その他の品目もおおむね大幅な増加を示した。
食糧輸入の増大は,天候不良による食糧不作という偶然的事情が一因となっているが,それと同時に,所得上昇に伴う消費需要の構造変化,つまり,食肉,バターその他高級食品に対する需要が著増し,それに対する国内の食糧生産構造の適応が立ち遅れたことが主要な原因であった。
また,自動車および部品の輸入増加も,やはり所得上昇に伴う消費構造の変化を反映したものであり,イタリアの自動車産業の生産能力を大幅に上回る需要増加が,このような大幅な輸入増加をもたらしたわけである。
その他商品の輸入増加も,結局のところ国内需要の急速な増大を反映したものであるが,同時にまた,EEC域内における自由化の進展もその重要な一因であったとみられている。もともと,イタリアはEEC諸国のなかで,輸入制限および関税率の点で最も保護色が強かった。したがって,輸入制限の全廃と関税率の数次にわたる引下げが一時的に輸入の急増をまねいたとしても不思議ではない。この点は,イタリアの輸入が59~61年期においても,年平均約20%という高い増加率を示したことからうかがわれる。
4)経済情勢悪化の原因
以上のような経済情勢の悪化を招いた原因はどこにあったか。
OECDの診断によると,最も重要な原因は,所得の配分が勤労者に有利なかたちで行なわれたことにある。つまり賃金所得が急激に増加したことが,コストと価格と国際収支に大きな衝撃を与えたというわけである。
実際また,工業労働者の時間あたり粗賃金の動きをみると,1960年に約5%増,61年に7.5%増のあと,62年には15%,63年には約17%も増加した。このような大幅な賃金増加が,生産性の上昇幅を大きく上回ることはいうまでもない。その結果,労働コストの増加から強い価格上昇圧力が生じた。他方,賃金上昇は雇用増と相まって消費需要をふやすことで,コスト増を価格へ転嫁させることを容易にした。それと同時に,所得の増加につれて消費需要のパターンが変化し,とくに食肉や自動車などに対する需要が国内の供給能力を大幅に上回るテンポで増加し,そのことがさらに物価と国際収支に圧力を加えた。このほか62,63年と続いた農業不作が,物価と国際収支に追加的な悪影響をあたえた。また生計費とリンクしたスライディング・スケール制も,物価と賃金の悪循環を促進したとみられる。
62~63年にイタリアの賃金がこのように大幅に上昇したのは,①工業化の進展に伴い,北部イタリアで部分的ながら労働力不足現象があらわれるという労働力需給構造の変化,②それまでイタリアの賃金が生産性の上昇に立ち遅れていたばかりでなぐ,国際的にみても低かったこと,③62年2月に社会党を含む「中道左派」連立政権が成立し,経済成長促進の見地から拡大的な財政・金融政策をとった,などの諸事情に求めることができる。
しかし,このような異常な賃金上昇は物価上昇への圧力として働いただけでなく,企業の利幅を縮小させた。他方,中道左派政府が62年春に電力産業の国営化や「経済計画」の導入を声明したほか,63年はじめから配当源泉課税を実施したことが,投資家および産業界の政治不信を招き,前述した利幅の縮小や資本市場の沈滞と相まって,企業の投資意欲を著しく阻害すると同時に,資本逃避をひきおこすことで国際収支に追加的な圧迫を加えたのである。
このような経済情勢の変化は国民総生産の構成項目にも反映している。
第2-37表のように,59~61年期にくらべた62~63年期の顕著な特徴として,①固定投資の伸び率の著しい鈍化,②輸出の増勢鈍化,③個人消費の著増をあげることができる。つまり,59~61年期には固定投資と輸出を中心に高度成長をとげたイタリア経済が,62~63年には消費中心的な需要構造となったわけである。
(2)引締め政策への転換とその浸透
1)安定政策への転換
いずれにせよ,このような経済情勢の悪化に伴い,それまで成長促進の見地からむしろ金融緩和政策をとっていた通貨当局も,ついに1963年夏に金融引締め政策へ転換し,9月に民間銀行の対外短資借入れを禁止した。
この民間銀行の対外借入れは,それまで国際収支赤字から生ずるデフレ的作用を相殺して銀行の流動性を維持する最も重要な要因であっただけに,その禁止は,銀行流動性を圧迫して経済にデフレ的影響をおよぼすにいたった。
この金融引締めと平行して,イタリア政府は63年9月から64年2月にかけて,①不足物資の輸入促進措置,②流通市場の整備,③財政緊縮,④税制面よりする奢侈的消費の抑制,⑤同じく税制および金融措置による自動車購入の抑制(自動車購入税の賦課,ガソリン税の引上げ,賦払い信用の制限)などのインフレ対策をとる反面において,①企業の設備投資促進,②中小企業に対する特別融資,③庶民住宅の建設促進など,成長維持のための措置,ないし高度成長に伴う社会的ひずみ是正のための措置を採用してきた。
以上のような諸措置にもかかわらず,国際収支の悪化からリラ平価切下げの思惑が発生し,リラの為替相場が低迷を続ける一方であったので,ついにイタリア政府は,64年3月中旬につぎのような国際的借入操作を実施した。
すなわち,①IMFからゴールド・トランシェ2.25億ドルを引出したほか,②米財務省および欧州諸国中央銀行との間に5.5億ドルのスワップ取り決め,米輸出入銀行からのスタンド・バイ借入れ2億ドル,アメリカ商品信用公社から借款2.5億ドル,合計して約10億ドルを確保した。このほか,③世銀から南部開発金庫に対して3~35億ドルの融資が約束された。
他方,EEC委員会はイタリアのインフレ対策がまだ不十分であると判断して,6月中旬につぎのような政策上の勧告をイタリア政府に対して行なった。
① 公共支出の削減と歳入の増加-1964年下期の公共支出の10%削減,所得税の増税,公共料金(郵便と鉄道運賃)の引上げ,政府の管理下にある諸機関の投資計画の削減。
② 金融措置一銀行貸出の増加抑制,貯蓄増強のため銀行預金利子の引上げ。
③ 適正な所得政策の採用一このEEC委員会の勧告は,イタリアの経済困難の原因を主として超過需要によるインフレーヨンにありとし,金融・財政政策により需要を抑制すべきだという考え方に貫かれている。
しかし,EECの委員会の勧告が出さたれ頃には,後述のようにイタリアの経済情勢にかなり大きな変化が生じつつあった。すなわち,イタリア政府や中央銀行がそれまでにとってきた各種の引締め措置が,国際収支の改善と物価上昇テンポの鈍化というかたちで効果をあらわしはじめていた反面で,一部の産業とりわけ建設業界や自動車工業などでは,需要の減少からリセッション的色彩がただよいはじめていた。
したがって,需要の抑制を主眼としたEEC委員会の勧告が,果たしてこの時点において適切であるか否か疑問ですらあった。
たま,たま,EECの勧告が出された直後に,モロ内閣が与党内部の対立により崩壊し,約1カ月の空白後に第2次モロ内閣が成立,加えてセニ大統領の急病や国会の夏季休暇ということもあって,新内閣の正式の経済対策の発表は8月末の議会再開まで延期された。
その間にイタリアの国際収支の改善がいちだんと進むと同時に,経済のリセッション的様相がいっそう濃化したため,8月末に発表された新経済政策はインフレ対策としての一面をもつと同時に,リセッション対策を多くとりいれたものといえよう。その内容はつぎのとおりである。
① 取引高税の税率を現行3.3%から4%へ引上げる(食料品,農業肥料,農業機械,セメント,ガソリンなどを除く)。
② 高額所得層について所得税を引上げる。
③ 奢侈的別荘その他建物に対する特別税の賦課。
④ 企業の社会保険拠出金の一部国庫負担。
⑤ 中小企業金融のための特別基金の設置(1,000億リラ)。
⑥ 投資信託の設立許可。
⑦ 学校および住宅建築に対する100億リラの政府支出。
これらは,一方では増税によって奢侈的消費を抑制するとともに,他方では増税による増収分で企業の社会保障負担を軽減して自己資金力を強化するほか,資本市場の育成や中小企業金融の強化によって企業の設備投資意欲の回復を目的としたものであり,さらに特殊的なものとしては,従来の金融引締めによってとくに打撃を受けた建設産業に対して,財政資金の投入により活を入れようとするものである。
2)引締め効果の浸透
前述した各種のインフレ対策のうち,金融引締めと自動車に対する購入税の導入,および賦払信用の制限などが意外に早く効果をあらわして,国際収支は1964年4月から黒字基調に転化し,また物価の上,昇テンポも鈍化してきた。
まず貿易についてみると,64年3月までは相変らず輸入の増加率が輸出,のそれを上回り,その結果第1・四半期の入超額も前年同期の3.2億リラを上回る4.7億リラに達した。しかし,4月以降になると情勢が変って,輸出の伸びが高まる反面で,輸入は増勢鈍化から減少へと転じ,ついに月には輸出が前年同期比27%増,輸入が18%減となって,戦後はじめて貿易尻が黒字となり,8月もやはり出超となった。
その結果,1~8月間の貿易は,輸出17%増に対して輸入はわずか2.6%増となり,入超額も前年同期の約10億リラを大きく下回る7.4億リラヘ縮少した。
このような貿易収支の改善は,64年が豊作であって食糧輸入が減少したほか,63年の輸入膨張の一因となった自動車輸入が激減したこと,また輸出面では,やはり豊作による農作物輸出の増加と国内デフレにより輸出ドライブがかかったことに原因しているようである。
貿易収支の改善に加えて,資本勘定も好転したため,総合国際収支は4月以降黒字基調となり,5月1.6億ドル,5月1.5億ドル,7月1.4億ドル,8月1.2億ドルの黒字を出した。その結果,1~9月でみても国際収支黒字額は2.4億ドル(前年同期は8億ドルの赤字)に達した。イタリアの公的外貨準備も5月以降増加し,5~9月間の増加期は約億ドルに達し,9月末現在の金外貨保有高は約31億ドルに達した。このように,公的準備増加額が国際収支黒字額より少なかったのは,この間に民間銀行の対外債務の返済が引き続き行なわれたからである。
また物価の動きをみても,63年に5.2%も上昇した卸売物価指数は64年はじめ以来上昇をやめ,年央には弱含みとさえなった。これには豊作による農産物価格の低落が一因となっているが,工業製品価格もほぼ安定的となった。
消費者物価は,64年になってもジリ高を続けているが,上昇テンポはやや鈍化している。
以上のように,引締め政策は国際収支や物価面の改善に寄与したけれども賃金の過大上昇の抑制には役立たなかった。賃金は64年にはいっても,前年と変わらぬ年率15%程度の上昇を示している。EECの勧告や7月に発表されたOECDのイタリア経済年次報告書は,いずれもイタリアにおいて所得政策採用の必要性を強調しており,モロ首相自身も所得政策を実施したい意向のようであるが,社会党を閣内にかかえた連立政権のもとでは,効果的な所得政策は容易に実行しない。とくに,イタリア最大の共産系労組CGIL(イタリア労働総同盟)は,所得政策に反対している状態である。
3)経済活動の停滞化
以上のように,国際収支や物価面では改善のあと著しいものがあるが,その反面で生産活動は停滞的となり,とくに建築産業や鉄鋼業,機械工業および自動車工業などは不況色を強めている。すなわち,住宅建設許可数は,64年上期には前年同期を約23%を下回り,また1964年1~8月間の粗鋼生産は前年同期を8%下回った。さらに乗用車の生産台数も,63年に26%増,64年第1・四半期に前年同期比14%増のあと,第2・四半期には前年同期を7%下回った。繊維産業の生産も,64年第2・四半期には前年同期を約5%下回るにいたった。その結果,工業生産総合指数も昨年第4・四半期をピークとして,本年にはいってから低下しはじめた。すなわち58年を100とする季節調整ずみ指数は,63年第4・四半期の176から64年第1・四半期の175へと微減したあと第2・四半期には170となり,63年第4・四半期にくらべて約3%低下,しかも月別にみれば4月の173,5月171,6月166というように毎月低下している。
(3)経済見通し
以上のように,これまでとられた各種の引締め政策は国際収支の改善に一応成功し,また,物価騰貴のある程度の抑制にも役立ったけれども,反面では生産停滞ないしは景気後退という代償を支払わねばならなかった。
1964年8月末に発表された対策のなかには,消費をさらに抑制しようとする意図が盛りこまれているが,反面では,若干の投資刺激措置が含まれている。さらにその後,建設産業や国有企業に対する銀行貸出制限の緩和なども実施された。
このような政府のリフレ政策からみて,イタリア経済の不振はおそらく現在が底で,65年は景気回復の年となると思われるが,肝心の民間設備投資が急には回復しそうもないため,景気回復も緩慢なものとなろう。政府の推定では65年の成長率は3~4%とされており,64年の推定成長率3%よりやや高めになっているにすぎない。
イタリア経済は50年代の高度成長によって,次第に他の先進西欧諸国と同様な問題に直面するにいたっている。すなわち部分的労働力不足とそれに伴うコスト・インフレの問題が生じており,さらに,人口の都市集中に伴う住宅その他社会資本の充実,消費需要の高度化に対する生産・流通構造の適応などの問題も発生している。しかし他方では,南北の二重構造は解消されておらず,南部開発のためには依然として尨大な投資が必要である。
このように現在のイタリア経済は,古くからある南北二重構造の解消と,高度成長そのものから発生した新しい各種のひずみ解消の問題に直面しており,イタリア政府はそのための手段として「経済計画化」をとりあげ,すでに65~69年を対象とした5カ年計画草案が,第1次モロ内閣の末期に作成された。しかし,連立政権の弱みで,この草案についてはまだ与党各派の意見の一致をみるにいたっていない。
この経済計画のみならず,経済政策の全般にわたって連立政権の足並みの乱れが,従来とかく行動力の不足となって露呈されてきた。インフレ対策が遅きに失したこともやはり同じ原因に求められる。このようにみてくると,イタリア経済の動向も,今後の政治的要因に左右されるところが大きいと思われる。