昭和38年

年次世界経済報告

昭和38年12月13日

経済企画庁


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第2部 各  論

第5章 共産圏

2. 中国(本土)の経済動向と対外経済関係

(1) 1962~63年の経済動向

(a)1962~63年の概況

60年から始まる経済成長のくぼみも,昨年あたりから農業生産を中心としてやや回復の兆しをみせ始め,食糧事情もやや好転し,農産物輸出も増加し始め,香港の人民券相場も上昇を示すなどいくつかの回復を示す指標があらわれ始めた。しかし投資活動の停滞に加えて,ソ連の経済援助の中止など,経済計画の遂行にとって新たな障害も加わってきたので,回復テンポは比較的緩慢である。計画当局は62年9月の党中央委員会(十中全会)に引続き,62年末および63年初頭に全国的会議を開き,農業全般および農業生産のもっとも重要な分野,たとえば米作,綿花栽培を発展させる問題と,農業科学ならびに農業技術を発展させる諸問題について検討を進めている。なお63年より始まる第3次5ヵ年計画(1963~67年)は,策定未了と伝えられている。

以下62~63年の工農業生産,投資および個人消費,貿易の動向と,経済政策の変遷について概観しよう。

(b)農業および工業生産

① 農業生産

62年には農業生産は前年にくらべ若干上昇した。食糧生産について計画当局はほぼ平年作に達したといっており,西側の推計によると,前年の1億6,700万トンから1億8,300万トンに上昇したもようである。また野菜および果実も増収となり,畜産品も若干好転したが,商品作物(綿花,油脂原料,茶など)には目立った好転はなかった(第5-12表参照)。

農業生産の好転は,農村労働力の増強(都市労働力の農村還流),農業金融の促進(農民銀行の設立),農業技術の改善,機械および肥料の増投,灌漑設備の建設,生産隊を中心とする独立採算制の確立,農産物の政府買上げ計画の再検討(個人留保の増加)といった諸政策が続いて実行に移されたためで,天候条件にも比較的恵まれた。

63年の農業生産見通しについては,計画当局の発表による夏季収穫の作物実収高(小麦,早稲)は,昨年同期をやや上回り,また秋季収穫作物も全般的に好転が伝えられている。なお63年には食糧生産と平行してとくに綿花生産に重点がおかれ,作付面積増と品種改良により,前年比20~30%増の生産が見込まれている。

② 工業生産

62年の工業政策は,農業にあらゆる援助をあたえること,軽工業および家内工業の生産を拡大すること,製品の品質を向上し,品種を拡充すること,生産の指導体制をさらに改善することに力点がおかれてきた。このため工業生産は農業関連産業を中心として,農業機械,農器具,化学肥料,農薬,および鉄鋼,石炭,石油,石油製品,林産製品が増産をみた。またプラスチック工業など工業原料に依存する軽工業品もかなり増産となっている。

しかし,非鉄金属,石炭,石油,化学工業品,軽工業品は需要を十分満たすことができず,とくに原材料の不足が目立っている。また軽工業では依然として農産原料が不足した。

設備投資の規模は62年においてさらに縮小し,主として燃料,化学,農業機械部品,木材などの各工業部門に対して重点的な投資が行なわれた。63年においても工業を再編成し,農業の要求に適応させるという工業政策が前年に引続き実行されている。

なお過剰労働力吸収と地方資源開発をねらいとして,第2次5ヵ年計画前半から展開されてきた小企業投資は,経済性という点から反省が加えられ,62年以降にはほとんど取り止めになった模様である。しかし過剰労働力吸収という問題は依然として未解決のままである。

(C)固定投資と個人消費

中国(本土)の場合,唯一の源泉ではないにしても,貯蓄の重要な源泉は政府貯蓄であり,外国貯蓄はソ連の経済援助の縮小により減少し,58年以降はほとんど皆無となった。

政府貯蓄のなかでも,もっとも基本的な源泉は国営企業ないし集団農場の余剰であって,政府貯蓄は,農業集団化の進行によって貯蓄動員体制が強化されるにつれ急上昇してきた。58~59年には,おそらく国内貯蓄率(純物的生産に対する粗貯蓄)は22%近くまで高まったものとみられている(第5-14表参照)。しかし60年に始まる農業生産の減少,これより1年おくれてくぼみに落ちこんだ工業生産の縮小によって,政府貯蓄はかなり減少したようである。

第5-13表 中国(本土)の工業生産

一方,経済開発投資は政府貯蓄の上昇と平行して増大してきた。エカフェの「アジア経済年報」の指摘によれば,純投資は52年の7%から,57年には15%(国連の国民経済計算方式によれば12.5%)まで上昇し,59年にはおそらく21%まで高まったものとみられている。なお人民公社の設立によって,植林や灌漑用ダム建設,道路および鉄道建設などの余剰労働にほとんど,あるいは全く賃金を受けないで動員された無償投資は無視できないものがあるが,上記の計算にはこの無償投資はのぞかれている。しかし,60年以降の国民総生産の伸びの停滞,あるいは縮小によって政府貯蓄は減少し,投資率は大幅に低下したようだが,また無償投資も農民の物的インセンティブを高める意味から,人民公社制度の調整(人民公社の独立採算制の基本計算単位を,従来の生産大隊から末端機構の生産隊に移行する)とともにかなり減少したようだ。

しかし,貯蓄動員休制としての人民公社制度そのものが全面的に否定されたわけではない。過剰労働力を擁し,しかも資本不足の中国(本土)では,食糧不足を解決していくためには,現在でもなお,伝統的な土地集約的農法を,資本節約的な方法で実施していかなければならないという条件下におかれているう計画当局は,人民公社による農業増産の効果について,過度の楽観を抱くことを改め,公社制度の調整,農業技術の改善,農業機械化の段階的発展に努めているが,しかし,人民公社制度そのものを唯一の解決方法とみていることは現在も変わりがない。

次に投資配分については,計画当局は,これまで投資総額中に占める投資財部門への配分率を高めることによって,成長率を引上げる政策を実施してきたが,62年からは,明らかに投資配分の重点を,従来の工業投資から農業へ,重工業投資から農業関連工業,または軽工業に移す政策を明示してきている。63年に入ってからの工業投資の配分は,化学肥料工場,機械部品工場(トラクター部品,オイルポンプ),鉱山(石油,鉄鉱石,石炭,非鉄金属,硫化鉄鉱など),プラスチック工場(農産物原料代替),伐材業などに集中されている。

消費物資の供給は,一般的に消費支出の増大にペースを合わせることができず,計画当局は厳重な物的統制をもってこれに対応してきた。とくに60年に始まる農業生産の減少によって生産と消費支出は著しくアンバランスとなり,食糧および副食品,衣料などの配給量は切り下げられ,靴,紙,自転車など消費財の市場における不足が目立ってきた。計画当局は,自留地(個人所有地)の復活,自由市場の設立,緊急食糧輸入などの措置を応急的に講ずることにより,消費財物資の追加供給を引出すことに努めたが,ある程度効果をおさめ始めている。62年には食糧,綿花収穫は若干前年を上回り,すでに上海その他の地域では食糧供給の割当増加の兆しがみられ,また62年末以来,野菜,果実の出回りも著しく増加している。しかし全般的に個人消費水準は,58年段階には達していないというのが一般的な見解のようである。

(d)貿易および援助

① 1962~63年の貿易

62における対外貿易総額(一部推計を含む)は,61年に対し9.6%の減少を示し,60年以来の貿易規模の縮小傾向が依然続いている(第5-15表参照)。これは主として,60年から始まった中ソ貿易の減少が62年にも継続し,前年に対し,18.4%という大幅な縮小をみたためである。とりわけ中国(本土)の輸入の減少が大きく,輸出は,借款返済のための現物提供という事情もあって,比較的小幅な減少にとどまっている(第5-17表参照)。

中ソ貿易にみられる著しい特徴は(i)機械輸入の激減,とくにプラントの輸入が全くなくなったこと,(ii)従来輸出商品の大宗となっていた食糧品輸出が減少し,とくに大豆,油脂原料,食肉などの輸出が皆無となり繊維品の輸出がほぼ前年並みの水準に止まった点が指摘される。プラント輸入の停止は,一面,中国(本土)の投資活動の停滞を示すものであるが,より直接的な原因としては,おそらく中ソ対立の影響によって,ソ連の経済援助が全面的に見送りになったことを示すものである。

一方東西貿易については,輸出の増大,輸入の減少によって貿易収支はいぜん入超ながらかなり改善された。輸出の増大は,主として食料品および軽工業品を中心に,アジア,アフリカ諸国など低開発国向けが増大し,また先進国に対しても,不均衡是正のための輸出増が行なわれたためである。

このように,東西貿易は横ばいながら,中ソ貿易が大幅に減少したため,貿易総額中に占める社会主義圏の比重は低下を続けている(第5-15表参照)。

② 対外経済援助

中国(本土)における対外経済援助は,1950年における朝鮮動乱勃発後,北朝鮮に供与した無償援助に始まり63年10月に至るまで,援助約束額は米ドルに換算して総額19億6,814万ドルに達する。ただしこの総額には(i)60年に北ベトナムに供与した農業借款,(ii)60年1月および12月に取り決められたラオスの自動車道路建設費,(iii)63年2月に締結されたキューバの延払借款は金額不明のため計上されていない。この援助総額を中国(本土)が50年から57年末にかけて,ソ連から受取った被援助額(軍事借款およびソ連の利権譲渡費を含む)52億9,400万元(21億5,200万ドル)と対比するとかなりの大きさといえる。

なお,経済援助を供与している対手国は,社会主義諸国はもちろん,自由主義低開発諸国を含めて18ヵ国に達し,その構成比率は社会主義諸国81.2%に対し,自由主義諸国が18.8%となっている。しかし,両者のあいだでは,援助供与条件についてはとり立てていうほどの差別は認められない。

援助形態は,無償援助もしくは借款援助と技術援助からなり,無償援助は総額の約46%を占めている。無償援助および借款供与による供与対象は,主として資本財であり,プラントおよび資材を提供し,また技術者の派遣や研修生の受入れなどが行なわれている。

借款の償還条件はおおむね数ヵ年据え置いた後,10~15年間に返済することになっており,利息は無利子,または最高利率2.5%までで,双方の合意した第三国通貨,または商品をもって返済することになっている。なお,50年から63年10月までのあいだに取り決められた総額19億6,800万ドノレの対外経済援助額のうち,現在までに支出された金額は明らかでない。

しかし,61年以降中国(本土)経済が当面した経済困難によって支出テンポは鈍化した。たとえば,62年に改訂されたセイロンに対する無償援助および長期借款の供与期間は,それぞれ4~5年間延長されている。しかしながら,対外経済援助は,政治的考慮にもとづいて国際環境の変化に応じて機動的に進められており,61年以降の経済の困難期にも,キューバ,アルバニア,ビルマ,ネパール,インドネシア,ガーナ,ラオス,シリア,アルジェリアなどの諸国に,援助供与の協定が締結されていることは注目に値する。

第5-16表 中国(本土)の対外経済援助約束額

(2) 中ソ対立の経済的影響

1956年2月のソ連共産党第20回大会を契機に対立が深められた中ソ間のイデオロギー論争は,その後国家関係の対立までに発展してきて,63年7月の中ソ会談の事実上の決裂によって,両国の対立関係は一層深まった。もっとも,60年7月,ソ連技術者の中国(本土)からの全面的な引揚げが行なわれた前後から,両国の経済関係は微妙な変化を示し始めていたようで,中ソ貿易も,59年をピークとして60年から減少し始め,62年には59年の約36%の規模に縮小した。またソ連の経済援助も,60年以降新たに協定が成立したものはなく,わずかに60年の貿易収支で生じた2億8,800万新ルーブル(3億2,000万ドル)の赤字を,65年までの5ヵ年間に分割償還することが認められただけである。このように,60年あたりから,中ソ論争の影響は次第に両国の経済関係にまで波及してきて,中国(本土)は国際的に孤立化の様相を深めてきている。

以下簡単に貿易および援助を中心に,中ソ経済関係の推移を概観することとしよう。

(a)中国(本土)の対ソ貿易および被援助

① 対ソ輸出入

中国(本土)は50年代を通じて,国民所得に対する輸入依存度はおおむね5%の水準を維持してきた%,60年以降になって主として中ソ貿易の縮小によって輸入依存度は低下した。なかでも,機械(とくにプラント),鉄鋼,非鉄金属,化学肥料,石油製品の輸入は,中国の経済開発の遂行にとって重要な役割を占め,55年から60年にかけて,輸入総額の60%から70%をこれらの重要資本財で占めた。1930年代初期のソ連において,GNPに対する輸入依存度が1~2%,非鉄金属,ゴム,綿花,羊毛,鉄鋼および機械などの設備および原材料輸入が,輸入総額の50%を占めていたことと対比すると,同じ工業化初期段階において,中国(本土)の場合,国民所得に対する資本財輸入の比重がソ連に比較してはるがに高く,また50年当初の工業水準が1930年前後のソ連に対比して低水準である中国(本土)にとって,資本財輸入の工業化に対する役割は一層高く評価されるべきであろう。

中国(本土)の地域別貿易構成をみると,戦後新たに社会主義圏ブロックが形成されたため,第1次5ヵ年計画期から第2次5ヵ年計画前半期(1953~59年)にかけて,著しく社会主義圏内に対する貿易依存度を高めつつ貿易額が増大してきた。社会主義圏のなかでも,ソ連の比重がもっとも大きく,52年から60年にかけて,平均して貿易総額の50%以上を占め,55年のピーク時には57.5%に達した。

しかしながら,中ソ貿易の増大は,主として政治的要因に強く支配されて増大したという経緯をたどっている。戦前において中国(本土)の対外貿易総額に占めるソ連の比重は,1928年に5,5%,1930年に3.4%を占めるに過ぎなかった。これに対し,自由主義諸国の占める比重は,1927~30年間に平均9.3%という圧倒的に大きな比重を占め,なかでも,アメリカ,イギリス香港,日本が66%を占めた。終戦直後から49年までの内戦段階においては,当然のことながら貿易規模は縮小したが,地域別構成でみても,自由主義諸国の比重が大きく,47年には輸出の65%,輸入の60.5%を前記の4ヵ国で占め,ソ連はわずかに輸出の1.5%,輸入の0.3%を占めたに過ぎない。なお,49年に新政権が成立し,中国(本土)は社会主義諸国の仲間入り,中ソの政治経済関係は著しく緊密さを加えることになったが,しかし,ソ連圏は貿易総額の26%を占めたに過ぎなかった。ところで朝鮮動乱の勃発は,中ソ経済関係に対して決定的な変化をもたらした。中ソ経済関係は,動乱勃発を契機として,両国が同じ社会主義陣営に属するという一般的な政治環境のほかに,(i)中国(本土)の経済開発に対するソ連の積極的な援助(ii)動乱を契機とする西側の禁輸措置(ココム・チンコムリストの設定)という事実を通して,中国(本土)の対外貿易に占めるソ連圏の比重は,51年以降急速に高まり,また,57年末までに,総額52億9,400万元(約21億5,200万ドル),の経済および軍事援助が提供されるきっかけをつくった。そして経済援助の提供によって,比較的輸出余力の乏しい第1次5ヵ年計画期中に,大福な入超を示しながら対ソ貿易は拡大を続けることができた。借款返済は56年に始まる(第5-17表参照)。

しかし,朝鮮動乱を出発点として緊密さを加えてきた中ソ経済関係が,その動機が主として政治的要因によるものだけに,60年以降にみられるような中ソ間のイデオロギー論争が,両国の国家利益の対立というところまで進展してくると,その影響は経済的局面にも波及してきた。60年7月の,ソ連技術者の中国(本土)からの全面的な引揚げ,中ソ貿易の縮小についてはすでに述べたが,とくに対ソ輸出額は,借款返済のため比較的小幅な減少に止っているのに対し,対ソ輸入額は61年,62年と大幅な減少を続けている点が注目される。

このため,対外貿易総額に占めるソ連の比重も従来の50%以上の水準を下回り,61年には45%,62年には40%となった(第5-15表参照)。

なお中ソ貿易の増大が主として政治的要因によって増減しているという論点の指摘と関連して,中ソの交易条件を自由主義低開発諸国の対ソ交易条件と比較した場合,むしろ中国(本土)が相対的に不利であるという点を指摘したものもみられる。

② ソ連の経済援助

つぎに,ソ連の経済援助総額について,中国(本土)が,57年末までに実際に受取った借款額として公表したものは,52億9,400万元(約21億5,200万ドル)で,このなかには朝鮮動乱および内戦で受取った軍事借款と,54年と55年に中国(本土)に移譲された中ソ合弁会社のソ連持株分が含まれている。したがって,純粋に経済援助といえるものは,約13億ドルとみられている。このうち現金借款供与として公表されたものは4億3,000万ドルで,残余は輸出商品について信用供与が行なわれているとみられているものである。

以上の経済援助によって,中国(本土)は54年10月までに,156単位の企業建設または復旧についてソ連から援助をうけることになった。これらの企業単位は新規企業単位はもとより,戦後ソ連が東北(旧満州)を占領していた当時接収した多くの企業単位も含んでいた。

以上156企業単位の計画は第5-18表に示されるとおり,ほとんど全部が重工業部門に関連するものである(第1次5ヵ年計画期間166単位)。その後第2次5ヵ年計画期間にも,125企業単位の建設に必要な資材および設備が提供されることになった。その詳細な内容ははっきりしないが,ともかく,62年末までに291単位の企業建設について,援助が行なわれることになったわけである。そのうち,60年初頃までに全部あるいは一部完成して操業を開始した企業は130単位に達している。ソ連の文献によると,60年末現在,ソ連が社会主義諸国に援助を約束した企業単位は668単位となっており,中国(本土)に提供を約束したのは全体の約44%弱という圧倒的な比重を占めていることがわかる。

エカフェの調査によると,50年から57年にかけて,中国(本土)がソ連から受取った借款総額は,予算支出額の約3%,全投資額の8%を占め,とくに50年~52年の経済復興期には全投資額の28%を占めたといわれる。1930年代初期のソ連では,粗固定投資額の2.7%に相当する対外信用が供与されただけだといわれているので,この面でも,中国(本土)はソ連の場合と比較してかなり好条件にめぐまれて5カ年計画に着手することができたといえよう。

しかし,中ソ対立の影響によって,60年以降には援助物資の提供も中断されたので,291単位の企業建設に要する設備および資材が全額提供されたわけではない。たとえば三門峡ダムや,洛陽トラクター工場など,プラント輸入が停止されたために建設が中止されたものもあらわれた。このような事例は,ナイロン工場,ベアリング工場など工業投資の各分野にも多くみられた。

(b)中国(本土)の対ソ輸出入商品構成

つぎに対ソ輸出入商品構成をみると,中国側は一次産品および軽工業品輸出,資本財および原材料輸入,ソ連側は逆に資本財輸出,一次産品輸入という,両国のあいだは先進国対低開発国間の易貿パターンが示されている。そして,この傾向は,すくなくとも60年までは持続されてきた。しかし61年に入って,輸出商品構成のなかで食料品および繊維原料の比重が大幅に減少し,輸入商品構成では機械および設備(とくにプラント),鉄鋼の比重が減少するという構成変化が示され62年に至っている。

ここで,中国(木土)における経済開発の進行にとって,もっと必要な機械(プラントを含む),鉄鋼,石油および石油製品,化学肥料の四項目の商品グループを取上げて輸入の推移をみると,つぎのような特徴が示されている。

第一に地域別輸入構成の上でもっとも著しい特徴は,対共産圏輸入が圧倒的に機械とくにプラントの輸入に重点がおかれているのに対し,対自由主義圏工業国の場合は,鉄鋼,化学肥料などの原材料に重点がおかれ,機械輸入の場合も,主として単体機械が輸入されていることである。ただ原材料のなかでも,石油および石油製品は例外で,前者の比重が圧倒的に大きい( 第5-2図参照)。

単体で輸入される主要な機械類の内訳をみると,機種によっては自由主義圏に依存する割合いが,共産圏に依存する割合をすでに上回っているものがある。たとえば,金属加工機械,電気機械,鉄道車輛などがそれである(第5-19表参照)。

中国(本土)の輸入商品構成の上で,以上のような地域別の明確な特徴が示される理由は,いうまでもなく,朝鮮動乱を契機とする,(i)ソ連の中国(本土)経済開発に対する積極的な援助,(ii)西側の禁輸措置を反映するものである。つまり西側の禁輸措置が機械および設備に対して厳しく,鉄鋼など原材料に対して比較的に緩やかであることを示している。

第二に輸入の推移をみると,機械および設備,鉄鋼は,それぞれ58年ないし59年をピークにその後減少に転じ,61年から大幅に減少しているが,化学肥料,原油および石油製品の場合は,それほど顕著な減少は示されていない。おそらくこれは,60年以降の中国(本土)経済の停滞に際し,投資活動がほとんど見送りになったことを示しているが,より直接的な原因としては,中ソ対立の影響によってソ連の経済援助が全面的に停止し,機械および設備,なかんずくプラントの輸入が大幅に減少したことによるものである(第5-3図参照)。

なお機械と鉄鋼の輸入の推移にはそれほど一致した傾向は示されない。機械の場合は中ソ貿易の増減と一致してかなり大幅な振幅がみられるのに対し,鉄鋼の場合は輸入地域構成でみて自由主義圏の比重が大きいこと,特定品種を除いてはすでに,自給化による輸入代替が行なわれているという理由によって輸入のカーブは比較的緩やかである(第5-3,4図参照)。

(総額,機械,鉄鋼)

(C)対ソ輸入商品の輸入地域転換

対ソ輸入に大きく依存する商品は機械とくにプラントおよび石油・石油製品のグループに限定され,中ソ貿易の減少,ソ連の経済援助の中断によって機械とくにプラントの輸入は大幅に減少したが,石油および石油製品の輸入はそれほど顕著な減少がなかった。

なお機械のなかでも金属加工機械,電気機械,鉄道車輛など単体機械については,すでに対自由主義圏工業国に依存する割合が相対的に高まっている機種もみられる(第5-19表参照)。

鉄鋼については1958年を境に,増大する新規需要はすべて自由主義圏に依存するようになり,とくに特殊鋼を始め,薄板,珪素鋼板,冷延鋼板,ブリキ板,亜鉛鉄板など比較的高級品種は自由主義圏に依存する割合いが高く,珪素板,線材などいくつかの特定品種は自由主義圏にのみ依存しているものもみられる。ソ連からの輸入割合が比較的高いものは,もっぱら型鋼,厚板,鋼管,外輪などであって,ソ連の鉄鋼消費構造の低さを示すものである。

また非鉄金属のうち銅(銅製品を含む)の輸入も大きく自由主義圏に依存している。非鉄金属類は西側の禁輸制限がとくに厳しい品目であったが,ココムの制限緩和につれて58年あたりから増大し始めたものである。しかし0.9ミリメートルを超える通信ケーブル,遠距離通信用の銅軸ケーブル,軍事用の銅線は依然禁輸リストから解除されていない。

このようにみてくると,中国(本土)の工業化にとってもっとも必要な主要輸入商品のうち,過去においてかなりの部分が自由主義圏に切換えられていることがわかる。そして,このような地域転換が積極的に進められたのは,たいたい58年を転換期とするもののようである。この時期は国内的には農業生産の好転を背景に,「総路線,大躍進,人民公社」という政策が強く前面におし出された年であり,対外的には西側の禁輸措置が緩和され,また中国(本土)の東南アジア向け輸出増大が大きな問題として取上げられた年でもあった。

第5-20表 ソ連圏および自由圏からの品種別鋼材輸入割合

現在対ソ輸入に大きく依存する重要輸入商品のなかで,プラントの輸入減少はすでに明瞭だが,単体機械,機械部品,石油および石油製品の動向については現在のところその予測が難しい。

かりに中ソ経済関係が現状のまま推移するか,あるいは現在以上悪化するものとした場合,これらの対ソ輸入額はさらに減少するだろう。その場合,入資地域転換の可能性を中国(本土)経済の内部条件に即してみると,主として外貨保有高ならびに輸出余力の動向にかかっているといえる。

現在中国(本土)の保有する外貨保有高は約3億ドルといわれている。しかも乏しいこの外貨保有を一層制約しているのは,経済困難にともなう輸出余力の減退と,緊急食料輸入という問題である。緊急食料輸入は61年から開始され,60~61食糧会計年度(7月~6月)に265万トン,61~62食糧会計年度578万トン,62~62食糧会計年度505万トン(ただし契約高)が輸入され,なお65年あたりまでの長期契約が結ばれている。

一方,農業減産にともなって一次産品の輸出余力は大幅に減退したが,最近これにかわって工業品輸出増大の懸念がおこっている。とくに日本の東南アジア輸出と競合する商品分野について,注目が集まっているが,この問題はかって,58年に,中国工業品の東南アジア市場進出として大きく取上げられた問題であり,現在再び中国(本土)の外貨取得対策として関心を呼んでいるものである。

しかし中国(本土)にとって,もっとも輸出シェアの大きい香港,シンガポール,ビルマ市場についてみる限り,少なくとも62年までは,工業品輸出の目立った増加はみられない。

主要商品グループ別にみると,61年から62年にかけて,繊維製品,鉄鋼,セメント,金属製品,軽機械などが微増を示しているが,ただ中国(本土)の工業生産が大きく後退した同期間に,わずかながらも工業品の輸出増大が示された点は注目される(第5-21,22表参照)。

また機械製品の輸出も輸出金額は少ないが,機種別にみて,自転車,ミシン,ラジオ,扇風機を始め,工作機械,鉱山機械,土木機械,繊維機械,製紙機械,木工機械,事務用機械など広範にわたって輸出されている点は特徴的である。