昭和38年

年次世界経済報告

昭和38年12月13日

経済企画庁


[次節] [目次] [年次リスト]

第1部 総  論

第2章 成長過程にあらわれた諸問題

1. 欧米諸国における物価問題

第1章で示しておいたように,西欧諸国では近年概してつよい物価上昇傾向がつづいている。かかる物価上昇の実態とその要因を分析するとともに,各国の物価対策の特色をつぎに示すことにしたい。

(1) 戦後における欧米諸国の物価動向の特色

最初にまず,戦後における欧米諸国の物価動向を1953~62年の期間について概観してみよう。

第10図および第11図から明らかなように,53~62年間における欧米諸国の物価動向にはつぎのような特色が看取される。

(a)卸売物価,消費者物価ともだいたいにおいて景気循環局面に照応して変動しているが,両者の動きにはかなりの相違があり,消費者物価はほとんどつねに上昇趨勢を示しているのに対し,卸売物価は好況期にもあまりあがらずその結果消費者物価の上昇幅は,概ね卸売物価のそれの2~3倍に達している。主要な例外は最高の騰貴率を示したフランスで,フランスの卸売物価の上昇率は消費者物価のそれと大差ない。また1961年以降のイクリアにおいても卸売物価が消費者物価とともに大幅に騰貴している。

(b)物価の動向を国別に比較したばあい,まず第一に指摘されることは,欧州とアメリカとで著しい対照がみられることである。すなわち,1957年頃までは欧米ともだいたいにおいて似たような動きを示していたが,1959年以降においては欧州の物価が上昇的であるのに対してアメリ力の物価はほとんど全く安定的であった。つぎに欧州諸国についてみると,物価上昇率が比較的低かった諸国(西ドイツ,スイス,イタリア等)と比較的高かった諸国(フランス,イギリス,スウェーデン等)に大別できるが,このような差はだいたいにおいて労働力の需給関係の差に対応したものといえよう。最近の特徴として,前者のグル一ブに属するイタリアの物価が62年以降急速な上昇傾向をみせているが,これは主として最近におけるイタリアの労働力需給の変化を反映したものである。

(2) 消費者物価上昇の内容

欧米の消費者物価が,趨勢的につねに上昇傾向にあったことは前述したとおりであるが,このような消費者物価の趨勢的上昇は何に原因しているのであろうか。

それを知るため手掛りとして,消費者物価を構成する主要費目についてそれぞれの上昇率と総合指数上昇に対する寄与率を示したものが第8表および第9表である

これらの表からつぎの諸点が明らかとなる。

(a)食糧価格の上昇率はおおむね総合指数の上昇率と一致している。食糧(飲料,煙草を含む)は生計費のなかで40~50%のウエイトをもっており,したがって総合指数の上昇に対する食糧の寄与率も40~50役という大きさとなる(例外はアメリカ,デンマークであって,これら諸国では食糧の寄与率が20~30%)。

(b)家賃の上昇率はもっとも高く,また家賃以外の諸サービス価格の上昇率も平均以上であり,その結果,家賃を含む諸サービス価格の総合指数上昇に対する寄与率はおおむね40~50%に達している。

(c)衣料や家具類など非食糧品は上昇率も概して低く,寄与率も10%前後にすぎない。以上のようにみてくると,戦後における欧米諸国の消費者物価上昇の主たる内容は,食糧と家賃および諸サービス価格の上昇にあったということができよう。

(3) 消費者物価上昇の要因

ところで,消費者物価上昇の主因をなす食糧,家賃および諸サービス価格の上昇はなぜおこったか。

まず食糧についていうと,欧米諸国はおおむね農民の所得を他部門の所得と均衡させるという方針のもとに価格支持制を含む各種の農業保護政策をとっている。したがって,他部門の所得が急速に上昇する時期には農民の所得引上げのために支持価格の引上げが行なわれやすい。この農業保護政策による農産物生産者価格の上昇が食糧小売価格上昇の主因であったとみられる。

また,食糧価格は天候に左右されやすく,不作の年には食糧価格の大幅な騰貴がおこるが,食糧価格の大幅上昇は賃金引上げをまねくから,いったん上昇した食糧価格は食糧不足が解消してもそれほど下らないという事情がある。

つぎは家賃であるが,戦後家賃の上昇率がきわめて高かったのは,一般的な住宅不足を背景にした住宅需要の根強さもさることながら,家賃統制の緩和による値上りが大きい。つまり,家賃は戦時中と戦後期を通じておおむね統制下にあって人為的に低く抑えられてきたため,他の諸物価に比して著しく立遅れていたのである。だから,たとえば戦前の水準と比較すると,現在なお家賃の上昇率は他の諸物価より低いのであって,このような相対的なおくれをとり戻す過程はまだつづくものと思われる。

つぎに諸サービス価格の上昇についてみると,これは所得の上昇につれて消費者需要のますます大きな部分がサービス支出に向けられるという需要面での堅調さに加えて,サービス産業の生産性の伸びが低いために賃金コストの上昇を吸収し切れず,その結果サービス価格の上昇を招いたとみられる。

以上のように,消費者物価上昇の主因をなす食糧,家賃および諸サービス価格はそれぞれ農業保護政策,家賃統制の緩和およびサービス産業の生産性の低さという特殊性をもっており,そしてこれらの特殊性を媒介として2次,産業における所得とりわけ賃金・俸給の上昇がこれら部門に波及してその価格上昇を招いたということができよう。そのばあい,一方ではコスト増を価格に転稼させることを可能にする旺盛な需要があり,しかもこれら部門が外国からの競争に比較的さらされない部門であることも,コスト増の価格への転稼を容易にしたとみるべきであろう。

(4) 物価騰貴と賃金コスト圧力

もちろん物価上昇の要因にはコスト面からの上昇圧力だけではなく,需要が強すぎること(超過需要)から生ずる物価上昇圧力もある。かかる需要圧力(デマンド・プIV)とコスト圧力(コスト・プッシュ)とは理論上一応区別されているが,実際にはこの両者の区分はそれほど明確でなく,むしろ両者が共存して作用するばあいが多いようである。

このほか物価上昇要因として管理価格の存在が指摘されてい乙し,さらに天候不良や各種の行政的措置(間接税の引上げ,補助金の廃止,価格統制の緩和など)などの特殊的,一時的な物価上昇要因もある。

このように物価騰貴の要因は複雑であるし,実際にも欧米諸国の物価上昇にはこれらの諸要因がからみ合っていたわけである。とりわけ1955~57年や1960~62年のようなブーム期には当然ながらデマンド・プル的色彩がつよかったとみられているし,また,1950年代のアメリ力の物価上昇には管理価格がかなり働いたといわれている。しかしながら,近年の欧米諸国でとくに重視されるようになってきたのは,過大な賃上げによる価格上昇,いわゆるコスト・プッシュである。周知のように,欧米では強力な労働組合を背景とする賃上げ圧力がつよいうえに,賃金決定が産業別に行なわれることや(西欧諸国のばあい)伝統的に産業間の賃金格差を拡大させまいとする傾向があることから,主要産業における賃上げが全産業に波及しやすい。しかも西欧には56年以降の投資ブームの過程で激しくなった構造的な労働力不足がこの傾向をさらに助長している。また,一部諸国におけるエスカレーター制度の存在も賃上げ圧力をつよくする要因である。

その結果,製造工業という生産性上昇率の比較的高い産業においてさえ,欧米工業国では賃金の上昇率が趨勢的に生産性の上昇率を上回っているのである(第12図参照)。例外はイタリアと59年以降のアメリカだけであったが,そのイタリアでも近年は急速な経済成長にともない北部工業地帯で熟練労働者の不足がおこったため生産性上昇率を上回る賃金の上昇が生じており,そのことが最近の物価騰貴の主因となっている。アメリカでは逆に1959年以降生産性の上昇率が賃金の上昇率を上回っており,そのことが卸売物価安定の原因となっているが,これは1959年以降アメリカの成長率が低く,大量の遊休労働力と過剰設備を抱えているためである。

(5) 最近における欧米諸国の物価対策の特色

以上のように,国により若干の差違はあるが,現在の欧米諸国は労働力の需給関係からみても,制度的な要因からみても,過大な賃金上昇から物価騰貴をまねく可能性を顕在的,潜在的に内包している。

しかも他方では,いわゆる貿易為替の自由化が世界的にすすんで国際間の交流が高まり,さらに世界的に供給力が増加したことから国際競争が激しくなった結果,一国の物価の相対的上昇がその国の国際収支に対して従来以上に敏感に悪影響をあたえるようになった,という国際環境の変化がある。

このような事情を背景として物価騰貴の抑制が欧米諸国にとって緊急の課題となってきたところから,現実.に物価高に悩まされている諸国はもちろんのこと,現在インフレ圧力に見舞われていない国においてさえ,何らかのかたちで物価騰貴を抑制または未然に防止するための政策措置が近年追求されつつある。

もちろん実際にとられた対策は,その国の物価上昇圧力の程度や景気局面,国際収支の状況,あるいは制度的事情その他の相違により必ずしも一様でなかったが,それでも比較的各国に共通してみられるいくっかの特徴を指摘することができよう。

(a)第一は各種の需要抑制策が程度の差はあれ,とられたことであるが,そのばあいでも,近年における成長意識の高まりと国際収支面に比較的余裕があったことから,なるべく経済成長を大きく阻害しないような配慮が行なわれており,とくに民間設備投資についてはこれを抑制するよりもむしろ資本市場の育成,強化策を通じて促進する方向が打出されている。

(b)需要抑制策と並んで近年とくに重視されるようにんったのは,供給増加による物価環境の改善である。前述したように民間設備投資の抑制策があまりとられなかったことも,長期的な供給増加と生産性向上を主眼としたからである。このほか供給増加策としてあげるべきは,第一に輸入障壁の緩和を通ずる商品供給の増加策であって,関税引下げを物価対策として利用する国がふえてきた。第二の供給増加対策は,もっとも不足する労働力の増加措置であった。すなわち,西ドイツなど労働力不足の緊迫した諸国は外国人労働者の移入に努力したほか,多くの国で職業再訓練や労働力移動の促進などに努力された。

(c)以上のように需要の抑制や供給の増加という間接的手段ばかりでなく,物価そのものを凍結する直接統制措置も一部の国で実施されたが,これは,あくまで緊急的,一時的措置とみるべきであろう。

(d)しかしながら,最近の欧米先進諸国において目前の物価対策であると同時に,もっと長期的な安定成長政策のもっとも重要な一環としてますます重視されるようになってきたのは,いわゆる所得政策であろう。

前述したように賃金の過大な上昇がコストインフレ圧力の主因であるとすれば,賃金の過大な上昇を未然に防止することが物価安定のための重要な前提条件となる。のみならず国際競争の激化によりコスト増が直接価格引上げに結びつかないばあいでも,コスト増は利幅の縮小を通じて企業投資を阻害する。そこでコスト増そのものを未然に防止することが重要となってくる。

このような観点から賃金形成を労働者側と使用者側との団体交渉だけにまかせずに,これをなんらかのかたちで規制しなければならぬという考え方が戦後次第につよくなってきた。しかし従来はどちらかというと,政府が労組に賃金自粛を訴えるという道義的説得のかたちで賃金政策が実施されてきたが,たんなる自粛要請だけではあまり説得力がなく,したがって効果も薄かった。

そこで最近は許容される賃金引上げの規準を数字的に政府または公的機関が明示するという方法が採用されるようになった。いわゆるガイド・ラインと呼ばれるものがそれで,おおむね最近年における国民経済全体としての労働生産性(就業者1人当り生産高)の平均伸び率または当該年に予想される労働生産性の上昇率がガイド・ラインとして採用されている。そのばあいガイド・ラインは賃金俸給ばかりでなく,あらゆる所得についても適用されることが原則とされており,さればこそそれは単なる賃金政策ではなく所得政策と呼ばれてているのである。

かかるガイド・ラインに客観性をもたせると同時に,国民大衆に周知せしめて積極的にそれに協力させるために,労使双方および政府からなる委員会または学者からなる専門家委員会を設置して,ガイド・ラインの作成と啓蒙活動に専念させたり,あるいはガイド・ラインの推進機関として所得委員会を設置する動きが最近,英,米,独その他諸国においてみられる。

所得政策は各種の所得とりわけ賃金所得の増大を生産性上昇の範囲内におさえようとするものであり,原則としては比較的簡単なものであるが,その実施については各種の問題がある。たとえば国民経済全体の平均的な労働生産性の上昇率をガイド・ラインとするといっても各産業の賃上げ率をそれに一律に合せるのかどうか,もし産業別に差を認めるとすればそれをどのような基準で決定するのか,サービス産業など生産性上昇率が平均以下の産業における不可避的な価格上昇を平均以上の高生産性産業の価格引下げで相殺するといっても価格引下げがそう容易に実現できるか否か,利潤の規正をどうするか,などといった諸問題がそれである。このように所得政策はその実施の過程で各種の問題があり,またその成果についてもこれまでのところ評価はまちまちであり,ある程度成功をおさめたとみられる国もあれば,かならずしもうまくいっていない国もあるようである。この問題については所得政策が現在まだ十分に確立されていないという事情のほかに,各国の景気局面や制度的要因と関連もあるので,いちがいにいい難い面がある。

しかしいずれにしてもわれわれは,欧米諸国が安定的成長政策の重要な一環として所得政策を重視しつつあることに注目する必要があろう。