昭和37年

年次世界経済報告

世界経済の現勢

昭和37年12月18日

経済企画庁


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第2部 各論

第2章 ヨーロッパ

3. 西ドイツ経済―成長鈍化と国際収支の変貌

61年3月はじめに断行されたマルク切上げ(5%)を契機として西ドイツの経済情勢はその後次第に変化し,それまでの過熱景気が鎮静化すると同時に,国際収支も慢性的な黒字基調から赤字に転化した。その意味ではマルク切上げは一応その所期の目的を達したともいえるが,西ドイツ経済において最も基本的なアンバランスすなわち労働力不足は解消されず,そこから生ずるコストインフレ圧力が西ドイツ経済に対して新たな問題を提供しつつある。

(1) 国内景気の鎮静化

まず国内景気の動向であるが,マルク切上げは他の諸要因と相まって輸出の増勢をチェックしたし,また企業の投資意欲減退の一因となることで総需要の増勢を抑制するのに大きな役割を果した。それと同時に切上げは輸入の促進を通じて供給を増加させた。このように,商品およびサービスに関するかぎり,マルク切上げは需要抑制と供給増加の両面を通じて国内需給の不均衡を緩和し,いわゆる過熱景気の鎮静化に役立ったと思われる。

しかしながら,西ドイツ経済における最大のアンバンラス,すなわち労働力不足はその後緩和されるどころかむしろ激化した。その意味ではマルク切上げは国内面における所期の目的を必ずしも達成しなかったといえるかもしれないが,もともと平価切上げは政策手段の一つにすぎないのであって,それに万能薬的効果を期待等ることは無理である。のみならず,マルク切上げ後に労働力不足をむしろ激化させるような諸要因が働いた。第1は労働時間短縮の進行であり,第2は東独難民流入の途絶であった。東独からの難民流入が従来いかに西ドイツの労働力にプラスになっていたかは,1952年10月~1962年6月までの過去10ヵ年間における就業者増加数600万人のうち約25%にあたる150万人が東独難民によって占められていたことからも明らかであろう。

それはともかく,西ドイツ政府は国内景気に関するかぎりマルク切上げ後しばらくの間その効果を注視するという静観的態度を持していたが,過熱景気の鎮静化にもかかわらずコストインフレの進行がとまらぬため,とりわけ労働力不足と物価騰貴のはげしい建築部門の抑制を決意し,62年5月に不急建築の一時停止と連邦政府建設支出の2割削減を実施した。しかしその効果が大してあがらぬところから,住宅建築に対する税制上の優遇措置の停止が10月に決定され,さらに9月に閣議決定をみた63年度予算においても各省の要求を大幅に削減,とくに道路建設,国防関係予算を削減して,全体としての予算規模の膨張を63年の予想成長率(名目6%,実質4%)の範囲内にとどめることにした。西ドイツの連邦予算は国防費を中心に近年著しく膨張しており(62年予算支出は前年比15%増),それが経済拡大の重要な一因となっていたことを考えると,63年度予算の経済拡大効果は従来にくらべて著しく弱まるものとみられる。

以上のような短期的措置のほか,長期的に完全雇用下の安定成長を達するための一方策として目下議題にのぼっているのは,エアハルト経済相がかねてから主張していた学者グループによる独立的な「諮問委員会」の設置である。これはその構成からいえばイギリスのかつてのコーエン委員会に似ているが,その目的においては「国民経済発展審議会」と同様である。

与党キリスト教民主同盟が作成した同委員会設置法草案によると,同委員会は大学教授を含む5名の経済専門家から成り,連邦統計局がその事務局となる。委員会の目的は,物価安定下における適切な経済成長,高雇用および対外均衡の達成を指導理念として,とりわけ所得と物資供給間に生ずべき不均衡の原因を解明することにある。そのために毎年経済動向に関する客観的な報告書を政府に提出する。ただし同委員会は政府に対する政策上の勧告権を持たない。

この専門家委員会の設置については,政府のみならず野党も労組も原則的に賛成しているので,おそらく62年末から63年はじめには実現のはこびとなるものとみられている。果してこのような委員会の設置がコストインフレの抑制にどれだけの効果があるかはともかくとして,インフレなき安定成長を達成しようとする意欲が国民各界に高まってきた点を注目すべきであろう。

(2) 国際収支の変貌

マルク切上げの国内面における成果にやや問題があるとしても,対外面に関するかぎり,マルク切上げはほぼ所期の目標を達成したといえるだろう。

第2-21表 西ドイツの国際収支

平価切上げは商品の輸出入に影響するばかりでなく,サービス取引とりわけ観光支出にも影響をあたえる。つまり経常勘定全体に対して影響するものと考えられる。いま西ドイツの経常取引尻をみると,60年の黒字45.5億DMに対して61年は30億DMの黒字であって,黒字額は減少しているものの,この数字だけではマルク切上げ効果も大したことはなかったようにみえる。しかし61年の黒字額の大部分は上期に達成されたもので,下期の黒字額はわずか2.5億DM(上期は27.5億DM)にすぎず,さらに62年上期には3.7億DMの赤字を出した。かかる経常勘定の悪化は商品貿易の黒字減少とサービス取引の赤字化によるものである。すなわち輸出の増勢が61年上期の13%(前年同期比)から下期の9%,62年上期の3%へと衰えたのに対して輸入の増勢は同期間に7%から9%,13%へ高まったことが,出超額の減少をもたらした。もちろんかかる輸出の増勢鈍化と輸入増勢の高まりはマルク切上げだけでもたらされたもけではなく,たとえば輸出面では西ドイツ輸出の主力をなす資本財工業の納期が60年中に異常に延びたことや,欧州の投資ブームの一巡により外国の資本財需要が減少したこと,あるいは西ドイツのコストインフレ圧力による競争力の相対的弱化などの諸要因が働いたとみられるし,また輸入面では61年と62年春の食糧不作による食糧輸入の急増などの要因もあった。しかしマルク切上げが有力な一因であったことは輸出入単価指数の動きからも察せられよう。すなわちマルク建ての輸出単価は61年3月以降全く不変であったから,外国通貨建て単価は切上げ分の5%だけ上昇したことになるし,また輸入単価指数は切上げ後1ヵ年間に4%ほど低下している。

サービス取引の黒字から赤字への転化は主としてドイツの外国観光支出の増加,利子配当支払いの増加によるものであり,前者については切上げによるマルクの対外購買力の増加が一つの刺激要因どなったと考えられる。

いずれにせよ,西ドイツの対外経常勘定が62年にはいってから赤字基調に転じたことは,それが一時的なものか構造的変化であるか否かはいま直ちに断定しがたいとしても,1951年以来つづいた慢性的な黒字基調の逆転であるという意味で注目に値しよう(1950年代に西ドイツの総合対外収支が赤字化した年は59年だけであるが,当時は経常収支は45億DMもの黒字で,資本勘定の赤字が総合収支を赤字化させた)。

つぎに長期資本の動きをみると,60年のほぼ均衡に対して61年は42億DMという大幅な赤字を出した。その原因は政府資金の大量流出(51億DM)にあり,これはIMFや世銀など国際機関に対する融資増加に起因する。低開発国援助は約束額こそ約60億DMに達したものの支払いベースでは2億DM増の9億DMにとどまった。

以上総合して基礎収支尻は60年の黒字43億DMから61年の赤字12.3億DMへ転化した。

(3) 西ドイツ経済の奇蹟はおわったか

前述したような国際収支基調の変化,経済成長の鈍化,コストインフレ圧力の高まりなどから,西ドイツ経済の「奇蹟」はおわったという見解が多い。「奇蹟」という言葉の意味は必ずしも明らかでないが,もしそれが50年代にみられたような高成長(年平均7.4%)の持続を意味するならば,「奇蹟」はたしかにおわったであろう。戦後の西ドイツは54年頃まで構造的とさえいわれていたほどの失業者を抱え,また東独からの難民流入も多かった。

このような労働力供給面における特殊性が50年代における西ドイツの高成長の一つの重要な要因であったことは一般に認められている。ところが現在は国内にほとんど労働予備がなく,有力な労働力供給源であった難民の流入も61年8月以来とだえており,残るところは年々の新規労働力の追加と外国人労働者の移入(在独外国人労働者数は現在70万人)に頼るほかはないが,他方労働時間の短縮傾向は今後もつづくであろうから,労働力の実質的な増加に大きな期待をかけることは困難であり,生産の増加は主として生産性の上昇に頼るほかはない。このような情勢の下で西ドイツの経済成長率が鈍化するのは当然であろう。

問題は単に労働力不足が西ドイツ経済の成長率を制約しているばかりでなく,労働力不足を背景とするコストインフレ圧力が西ドイツ産業の対外競争力を弱め,輸出減少-国際収支-悪化国内需要抑制-投資の減退-低成長という,これまでイギリスがたどってきたよう.な過程を西ドイツがたどるか否かという点であろう。すでにブレッシング連邦銀行総裁は西ドイン経済が「イギリス的病弊」に陥ったことを嘆いているが,現実の輸出や物価の動向からみるとまだ西ドイツ産業の競争力が決定的に弱化した証拠は乏しいようである。


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