昭和36年
年次世界経済報告
経済企画庁
第2部 各 論
第4章 共産圏
1960~61年の経済動向については本年初頭に開かれた中国共産党第8期中中央委員会第9回全体会議で,工農業生産の概要が報告されたが,経済動向全般についての公式報告は現在までのところ行なわれていない。60年の中国経済の著しい特徴は全耕地面積の50%以上,全作付面積の40%にもおよぶ災害の発生とその対応策として進められてきた人民公社制度の整備とである。
このような特徴に留意しながら,以下60年の主要な経済指標について,公式報告をもとに概観してみよう。
1)工業生産
60年の工業生産は第4-16表にみられるように総生産額では前年にくらべ約19%の増大をみたが,当初予定された29%の伸びを下回り,また58年,59年の年間成長率66.2%,39.3%をかなり下回った。
工業生産の部門別動向をみると生産財では前年に対し26%増,消費財では8%増であったがいずれも当初予定された32%増,24%増の伸びにおよばなかった。とくに消費財の停滞が目立っている。
これは農業災害によって原料供給量が減少し生産の伸びが停滞したためである。
しかし,鉄鋼,石炭,電力,原油,セメント,肥料,工作機械など投資財ならびに生産財の生産はほば順調な伸びを示している。鉄鋼業はとくに基幹産業として従来から重点がおかれている産業だが,59年以降品質の点でとかく問題が多かった土法生産方式を中止して小型炉,転炉の利用に切り換えるなど,大規模工業生産と同時に小規模工業生産も併用して積極的な増産対策がとられた。その結果60年には1,845万トンの鋼塊生産が達成され前年に対し約500万トンの増産をみた。
石炭,電力,原油などエネルギー産業も当初計画をほぼ達成して,石炭4億2,500万トン,電力555億kwh,原油550万トンの生産をみた。60年には農村電化がかなり普及した。
セメント,肥料など化学工業部門では計画の達成はできなかったが,前年に対しかなりな増産となり,セメント1,500万トン,化学肥料190万トンの生産をみた。肥料部門ではこのほか土法生産方式による肥料生産も進められでいる。
機械工業部門では60年においてとくに農業生産に関連をもった農業機械,農器具などの生産に大きな力が払われた。また前年に引きつづいて,合成アンモニア。設備,大型高炉,大型平炉,発動機,精密工作機械など,大型精密機械が生産された。一方,自転車,ラジオ,時計,ミシンなどの消費財工業製品の生産も増大した。
綿紡織工業は原綿不足によっておそらく当初予定された綿糸990万梱,綿布76億メートルの生産達成は不可能だったとみられる。しかし,綿紡織工業は輸出産業としても重要であり,繊維機械の国内自給体制は57年にすでに確立されているので,原綿の手当さえ充分であれば今後大幅な増産がみこまれる。
綿製品の東南アジア進出がとくに問題となった1958年には生産高の約30%が輸出されている。
以上のように中国では近代化の過程で,近代的工業セクターとともに前近代的工業セクターも平行的に利用して生産が進められているが,これは第2次5カ年計画以降の工業政策にみられる特徴である。
前近代的工業では潜在的な労働力を活用して,とくに農業部門の技術改善に関連をもった小規模生産方式による肥料,農具,農薬,鉄鋼などの生産に重点がおかれている。
2)農業生産
60年には前年の災害に引きつづき,ふたたび旱害を中心とする災害にみまわれ,災害耕地面積は6,000万ヘクタールに達した。中国の公式説明によれば,災害規模は100年来かつてみられない大規模なものといわれ,耕地面積の50%以上,作付面積の40%に達するものとみられている。このため60年の食糧生産は,作付面積の増大や米を中心とする穀物生産の増大が進められたにもかかわらず,当初予定されていた10%の増産率を達成することができなかった。
政府当局の説明によれば,60年の食糧生産は59年の生産量2億7,005万トン(原穀ベース)を大きく下回って,約2億トンの水準にとどまり,57年水準を若干上回る程度とみられている。
食糧減産の理由として土地,水利条件を無視して無差別的に進められた米作普及の失敗も指摘されている。食糧減産によって,61年には55年に定められた都市の食糧配給量は引き下げられ,農村人民公社においても実質的な割当削減が行なわれるようになった。
綿花,大豆その他商品作物も穀物生産と同様かなりな減産が見込まれている。
また61年においても59年,60年に引きつづき広範な地域にわたって自然災害が発生した。このため夏季作物はかなり減産となったが,秋季作物は前年にくらべ微増の見込みである。
農業生産の減産は主として自然災害など気象条件に負うところが大きかったが,また人民公社制度における政策上の部分的な行過ぎも影響した。すなわち人民公社の組織過程で農村の実態を無視して過度の集中や平均化が進められ,あるいは篤農家の経験を無視して,画一的な農村技術の導入が行なわれたりした結果,農民の勤労意欲と生産の低下をみた。政府当局は政策面の行過ぎ調整策としてまず所有制の面では従来の公社の単一所有権を公社から漸次末端機構の生産大隊に移し,いわゆる単一公社所有制を改めて,公社,生産大隊,生産隊間の「三級所有制」を確立した。「三級所有制」は基本的には集団所有制である。「三級所有制」への移行はすでに59年8月に行なわれたが,その内容にはその後しばしば変遷があり,60年12月に生産隊を基礎とする新たな決定が行なわれた。61年にはいっても運営主の若干の修正が行なわれている。
また所有制の修正と同時に分配面においても各生産隊および,各個人間の格差を認め,農民の勤労意欲の向上がはかられた。個人所有地(自留地)島復活,自由市場(農村集市)の復活,奨励給(三包一奨制)の実施などもすべて以上のような目的のもとに実施されるようになったものである。
3)貿 易
(イ)1960~61年の貿易動向
60年における対外貿易総額(一部推計を含む)は59年に対し9.5%の減少をみたが,これは主として中ソ貿易の減少によるものであった。中ソ貿易は第4-19表にみられるように60年には前年にくらべ中国の輸出23%,中国の輸入14%の減少をみている。
中ソ貿易の減少は60年災害の影響によって食料および農産原料輸出が減少したもので輸入も縮小したがそれ以上に輸出の減少幅が大きかった。60年の援助返済分を除く商品取引で新たに生じた2億8,800万新ルーブル(3億2,000万ドル)の対ソ債務は62~65年に無利子で分割償還されることになっている。
59年に大幅に減少した東西貿易は60年の年間総額としてはわずかに増大した模様で,国連の『世界経済年報』の示すところでは第4-20表に示されるとおり前年に対し中国の輸出10.2%,中国の輸入1.8%の増大となった。東西貿易の場合,農業災害の影響は後述するようにタイムラグがあって,下半期以降から現われはじめている。
東西貿易を地域別にみると,西欧諸国では中国の輸出17.5%の増大に対し,中国の輸入は6.7%の減少となり,輸入は58年を頂点として引き続き減少している。その他諸国では,中国の輸出6.3%,中国の輸入14.7%の増大となっている。60年後期にはいって一時中断されていた日本の対中国貿易も再開された。
しかし60年における東西貿易のわずかな増大も,四半期別の推移をみると,第4-3図に示されるように第1四半期をピークとして下降し始め,第3四半期以降には対前年同期比でみても減少し,この傾向は61年もつづいている。
中国の対外貿易の季節変動をみると,農産物および農産物加工品を中心とする伝統的輸出商品の占める比重が大きいところから従来は下半期にはいって輸出入の増大がみられるのが普通であった。
60年下半期に縮小化傾向にはいった東西貿易は,61年にもいぜん低下傾向をつづけているが,これは明らかに60年の農業災害によるものであろう。
中国の東西貿易の主要対手国は西欧諸国ではイギリス,西ドイツ,フラン,イタリア,ベルギー,ルクセンブルグ,オランダ,その他諸国ではホンコン,インドネシア,マラヤ,シンガポール,セイロン,オーストラリア,インド,日本等の諸国である。これら自由世界諸国にとって輸出入総額に占める対中国貿易の比重は,第4-21表にみる通り東南アジア各国ではかなりな比重を占めているが,西ドイツ,フランス,イタリアなど西欧諸国では輸出で1%前後,輸入で0.5%強といった程度でそれほど大きくはない。しかしソビエト,東欧を含めた東西貿易総額としては輸出入ともそれぞれ5%前後を占めており,この点日本の比重をかなり大きく上回っている。
(ロ)輸出入商品構成の変化
中国の輸出入商品構成の変化をみると第4-4図にみられるとおり輸入商品構成では55年以降ほぼ安定した構成を示している。
中国は当初主としてソビエトの援助によって鉄鋼製品,機械および輸送機械などの資本財を輸入して第1次5カ年計画に着手したが,その後東西貿易の拡大によって,西欧諸国および日本など工業国からの資本財輸入も増大し,輸入商品構成では一貫して資本財の占める比率が高くなっている。これに対し輸出商品構成では現在でも食糧および農産原料などの伝統的輸出商品の比重が高いが,工業化の進展につれて繊維品を中心とする工業製品の輸出が近年増大してきているのが目立っている。しかし農業災害により,60年には食糧および農産加工品の輸出が減少し,また60年末から緊急食糧輸入が始まって,食糧輸入国に転じたため,60年以降の輸出入商品構成にはかなりの変化が予想される。現在までに契約をみた緊急食糧輸入量は精米,小麦粉,小麦合計1,047.4万トン(約6億1,690万ドル)その内61年中に予定されている輸入量は米麦合わせて550万トン(約3億ドル)で,これは59年における自由世界からの輸入総額の約50%に相当する膨大なものである。外貨保有量の乏しい中国では緊急食糧輸入のための銀売却が増加した。中国は戦前食糧輸入国であったが,戦前最高輸入量は187万トン(1935年)にすぎなかった。戦後は食糧輸出国に転じ戦後最高の食糧純輸出量は160万トン(1959年)に達していた(第4-22表参照)。
1)経済成長の実態と特徴
60年の農業災害は,災害規模が大きかっただけに,農業生産や工業生産の成長率を低下させ,国民経済全般におよぼす影響は無視できないものがある。
ここで災害による影響が経済発展にとって一時的要因に終わるものであるか,あるいはかなり長期的にわたるものであるかをみきわめるために,中国が第1次5カ年計画の実施にはいった1953年以降の長期的経済成長趨勢の中で,60年の成長率のスローダウンを位置づけてみたいと思う。
53年以降の国民所得,工業生産,農業生産の成長テンポを,中国公表統計にもとづいて1表にとりまとめてみると第4-23表に示すとおりである。この表によってここ10年来の中国の経済成長の推移をみると,①中国では急速に持続的高度成長の過程がはじまりつつあること,②趨勢的な成長過程において,短期的には成長テンポにかなりの変動がみられること,③経済構造の高度化,つまり,成長過程における工業の農業に対する優位性,工業内部における生産財工業の地位の相対的上昇(第4-5図参照)といった特徴がみられる。
中国経済において持続的成長過程がすでにはじまっているが,主要な成長要因の一つとして以下貯蓄並びに投資と投資配分の動向をあとづけてみよう。
一般的に社会主義経済は制度的にみて,貯蓄ならびに投資配分を中央集権的かつ計画当局の選択による決定を容易ならしめる性質を持っている。
では具体的に中国の場合いかなるプロセスをとっただろうか。まず貯蓄率および投資率の推移をみると,52年以降相対的に高い貯蓄率と投資率が維持されており,しかも傾向的に上昇傾向をたどっている。貯蓄率および投資率の推計基礎についてはかなり問題があるが,ここでは第4-24表および第4-25表の算定に従った。これでみると純国内物資生産にたいする国内貯蓄の比率は各年20~22%の水準であり,また粗固定投資率の推移をみても1953年の10.8%から,58年,59年にはそれぞれ22.4%,21.2%と急テンポをもって上昇している。1956~59年の各年の粗固定投資率をソビエトの1928年の12.6%,1937年の12.4%とくらべてみても中国の場合かなり高水準といえるようだ。
以上のような平均貯蓄率の高水準が維持されたのは,社会主義制度そのものに関連した貯蓄動員体制によることはいうまでもない。
つまり社会主義体制の下では労働分配所得は原則的にすべて消費に向かい,また低開発国では家計費支出に占める食品支出の割合が高いところから,国民消費水準の大きさは食糧消費の大きさによって決定されたという前提に立つものである。
サンプル調査の示すところでは中国のエンゲル系数の大きさは都市労働者世帯で55%,農民世帯で70~80%に達している。
また食糧需要の大きさは人口の増加率と1人当たり実質国民所得の増加率および食糧需要の所得弾性値によって決定されるが,これまでのところ,食料需要の増加は人口増加に見合って増加するにとどまり,食糧割当制の実施(1955年に都市住民に対する食糧割当が実施された)によって1人当たり食糧需要量は実質所得の上昇とは無関係に固定することに一応成功している。
つぎに投資配分率の決定については,中国の計画当局としては投資総額中に占める投資財部門への配分率をできるだけ大きくすることによって成長率を引き上げようとする政策を明示してきた。そして第1次5カ年計画(1953~57年)および第2次5カ年計画(1958~62年)の遂行過程でこの目的は一応満足されたとみてよいだろう。
投資財部門への投資配分率の値を,粗固定投資総額のなかに占める工業(ソビエト概念に従って鉱業,電力を含む)と,運輸,通信向け投資合計額の割合でみると,第4-26表に示されたとおりである。この割合を東欧諸国と比較しても中国の方が相対的に高いようだ。
また工業内部における投資配分率をみても第4-27表にみられるように生産財工業の占める割合が高く,1925~32,1933~37年各平均のソビエトの場合と比較して大差なく,むしろ中国の場合相対的に大きくなっている。
以上にみられるような高い貯蓄率と投資率,ならびに投資総額に占める投資財部門の高い投資割合によって持績的高度成長の過程がはじまったわけだが,今後同じテンポが持続されるかどうかという見通しに対しては,さきに指摘したような食糧需給の動向を見守る必要があろう。また食糧需要の動向にとってポイントとなるのはやはり人口増加の問題である。中国の人口増加率については1953年に実施されたサンプル調査の結査では,年間自然増加率2.3%であったが,その後インド人口問題研究所長チャンドラ・セカール氏の現地調査結果によると,1957年に2.3%という増加率が示されている。年間約1,500万人の人口が増加しているわけで,生産力としてのプラス面と同時に蓄積にとってのマイナス効果も大きい。
2)経済成長と農業災害
1953年以降の成長過程をみると第4-23表にみられるとおり年間成長率にはかなり大幅な短期変動が示されている。そしてこの短期変動は主として農業生産の豊凶と結びついて変動している点に特徴がみられる。
中国では生産国民所得の中で農業部門の占める比重は第4-6図にみられろように57年において49.2%でまだかなり高い。しかも中国では,農業は単に食料生産ばかりではなく,同時に工業原料生産部門あるという点で国民経済に対する農業生産の役割りは日本の農業などとは比較にならない重要性を持っている。各経済部門に占める農業部門の比重の大きさについて,葛致達の論文をみると,①工業生産額のうち農産物を原料とするもの約50%,②軽工業原料のうち農産物を原料とするもの約80%,③財政収入源として農業部門に直接間接関連するもの約50%,④輸出商品総額のなかで農産物および農産加工品に依存するもの約70%以上,⑤国内市場に供給される商品総額のうち農産加工品が約85%を占めると述べられている。
したがって,農業生産の豊凶の差は直ちに国民経済各部門に対し直接間接的に影響をおよぼし,第4-28表に示されるように豊作の次年度には財政収入,固定投資の増加と農産物原料の供給増加とによって工業生産が増大し,逆に凶作の翌年には全般的な経済発展テンポの縮小がもたらされるということになる。
52年以降の災害耕地面積の大きさをみると,60年の災害耕地面積は6,000万ヘクタールに達し,凶作年度であった54年の1,060万ヘクタール,56年の1,530万ヘクタール,59年の4,330万ヘクタールとは比較にならない大きさであった。したがって60年の災害の影響は当然従来までにみられぬ深刻なものであろうと予想される。
災害の影響をまず貿易についてみると,中国は食糧不足を補うために60年10月から61年6月にかけて緊急食糧輸入契約を行なったが,その数量は1,047.4万トン,輸入金額は6億1,600万ドルに達した。
また,工業生産,および財政収入に対する影響については,60年度の実績報告および61年度の構想が現在までのところ明らかにされていないので具体的なところはわからないが,55年および57年の実績と照らし合わせてみてかなりの財政収入および固定投資規模の縮小と工業生産の上昇テンポの鈍化がもたらされることは必至である。また経済成長の停滞期間もまたここ2~3年間継続するだろうという見通しが強い。
本年初頭に開かれた中国共産党第8期中央委員会第9回全体会議でも粗固定投資額の縮小と成長テンポの調整方針が打ち出され,また緊急食糧輸入についても61年12月から63年12月に至る長期契約が結ばれるなど,中国の計画当局にも災害対策についての長期的対策が講ぜられつつあるのがうかがえる。