昭和36年
年次世界経済報告
経済企画庁
第2部 各 論
第1章 アメリカ
1960~61年のアメリカ経済は戦後第4回の景気循環を経験し,その間に金流出という重大な問題を発生,そのために採用された防衛措置は,世界的にかなりの反響をよんだ。またこの間に大統領の更迭があり,安定政策から高度成長政策への大旋回が行なわれようとしている。
以上の点を節を追ってつぎに説明しよう。
1)概 観
1960年のアメリカ経済は,半兆ドル経済への突入という黄金の60年代の開幕を飾るにふさわしい好況で始まった。
60年1月の工業生産指数はピークを記録し,その他経済指標も大部分が第1四半期に記録を更新した。
しかし,一部の先行指標は1月初旬から下降しはじめ,時とともにその速度を早めた。まず,株式市場が1月初旬から軟化をみせ,2月には短期金利が下落を始めた。製造業新規受注高も59年6月の水準に回復することなく60年3月から減少傾向に変わった。在庫投資は60年第1四半期中なお前期の約2倍の速度でふえていたが,先行き警戒煮が高まるとともに第2四半期には大幅に減少したため,国民総生産の伸びは鈍化した。製造業の受注は早くも59年末に売上高を割り,在庫はむしろ滞荷となる傾向さえあったため,第2四半期中の工業生産はほぼ横ばいに終わった。
このようにして60年第2四半期にはすでに停滞の徴候が明らかになっていたが,はたして60年第3四半期には明らかに景気局面が転換し,事業売上げならびに在庫は7月から減少に変わり,工業生産指数も5月の109.8(1957=100)をピーク(鉄鋼スト終結後という特殊な事情のあった60年1月の111.0を別として)として6月以降下降に転じ,こうして戦後第4回の景気後退が始まった。
後退幅を国民総生産で示すと,60年第2四半期の年率5,064億ドルから61年第1四半期の年率5,008億ドルヘ56億ドル(1.1%)減少,実質国民総生産では2.3%減となった。また工業生産指数でみると,後退前のピーク(60年5月)から後退の底(61年2月)までに7.1ポイント低下した。失業率は60年5月の5.1%(季節差調整済み)から61年2月の6.8%まで増大した。
この間に新旧大統領の更迭があり,経済界に新風を送り込むと同時に景気対策もききはじめて,製造業新規受注,同売上げ,民間住宅着工件数のような重要指標は61年2月,個人消費動向を示す小売売上げは3月に回復に転じ,工業生産も3月には回復のきざしが現われた。景気後退の主因であった在庫は早くも4月増加に転じ,それに政府支出の刺激が加わって,生産は急速に回復し,工業生産指数では6月に後退前の水準に戻り,8月には早くも新しいピークに達した。一方国民総生産では61年第2四半期に年率5,161億ドルとなって,景気の底であった前期よりも年率153億ドル(3%)増大したばかりでなく,国民総生産は名目でも実質でも後退前のピーク(60年第2四半期)を上回った。
こうして,今回の回復は,大きな失業問題をかかえながらも,生産面でみる限り,年央までに終わり,7月から新たな経済拡大期にはいったといえる。
戦後4回の景気後退の内で,60~61年後退の後退幅は総生産,工業生産とも最も小幅であり,回復期間は前3回のいずれよりも短かかった。
2)後退要因
つぎに後退要因を国民総生産でみると,第1には在庫の動きがあげられる。
在庫は60年第1四半期の年率109億ドル増から,第2四半期の54億ドル,第3四半期の24億ドルへと蓄積額を減じ,第4四半期と61年第1四半期にはそれぞれ19億ドル,40億ドルの削減となって,国民総生産減少の主要因となった。60年上期中の売上げの停滞と景気見通しの暗さから,企業の在庫政策も慎重化し,すでに69年第2四半期には,在庫蓄積速度も衰えていたが,60年6月に至って,ついに卸売業の在庫が削減に変わり,7月には製造業,8月には小売業の在庫が減少した。このような在庫動向は景気見通しの悪化と相まって製造工業の新規受注減となって現われ,生産の低下をもたらした。
60年第2四半期のピークから61年第1四半期の底までに国民総生産は年率56億ドル減少したが,この変動に在庫が与えた金額は94億ドルに達し国民総生産の減少額を大幅に上回った。不変価格でみると,国民総生産減少の80%近くは在庫変動によるものであった(第1-2表参照)。
第2の景気後退要因は,耐久消費財と生産者耐久設備(設備投資)に対する需要減である。この両者の合計額が国民総生産の減少に寄与した割合は80%強と在庫のそれに匹敵する。
まず個人の耐久消費購入をみると,景気後退中に実質額で11.5%減少したが,このうち4分の3は乗用車購入額の減少であった。乗用車の購入額減少原因は,第1に,コンパクトカーの大量進出がさらに進んで,総購入台数に占める割合が60年央の4分の1強から61年には3分の1以上に増加したこと。
第2に,60年央の消費者賦払信用残高が418億ドルと月間個人所得の123%に達し,その返済金が月間個人所得の11.6%(季節差調整済み)の高率にのぼり,他方では賦払信用金利が騰貴したため,乗用車の賦払購入が困難となり,購入額では60年第2四半期の1カ月当り15億7,730万ドル(季節差調整済み)から61年第1四半期の12億3,900万ドルに減少したこと。第3に,個人所得の先行き不安が増大したこと,などのためである。
つぎに機械設備投資は実質額で15%減少した。この原因は生産の停滞ないし減少から過剰設備圧力がさらに強まり,また,売上げ不振から利潤率が低下し,売上げ見通しも悪化したため企業の設備投資意欲が減退したことに求められる。
第3の景気後退要因は住宅建築支出の減少である。元来,住宅建築は抵当債利回りの変動に大きく左右される性質をもっている。今回も抵当債利回りの騰貴から59年第2四半期をピークに減少傾向を持続した。
第4にこのような需要減退の背後には,金融引締めがある。1958年第2四半期から1959年第2四半期へかけての急速な景気回復段階で採用された金融引締め政策は,59年の鉄鋼スト中から,「黄金の60年」と甘い夢にうかされた59年末にかけて強化され,60年初めまでつづいた。もちろん,そのねらいはインフレの防止であったが,その反動が景気上昇のハズミを狂わせる結果となった。にもかかわらず引締め策は60年6月までほとんど変わるところがなかった。
以上は景気後退要因のあらましであったが,つぎに,今回の景気後退に不況抵抗力を示したものをその大きさから列挙すれば,個人サービス支出,政府購入,純輸出の順序である。個人サービス支出の増加は従来の趨勢を維持したわけだし,政府購入も1953~54年を別とすれば,景気後退期に増大した。
1957~58年の景気後退段階で,輸出は1957年第2四半期の51億5,000万ドル(季節差調整済み)から1958年第1四半期の45億ドルヘ落ち込んだが,今回は60年第2四半期の50億5,000万ドルから61年第1四半期の51億ドルへと,わずかとはいえふえている。これがアメリカの国民総生産に寄与したのはいうまでもないが,輸入もまた前回の景気後退期とり違った動きをみせた。すなわち前回は景気後退中であったにもかかわらず,国内の畜産品出回りの不足,小型乗用車輸入増という特殊要因が働いて,輸入は後退期間中も微減にとどまり,1957年第2四半期の31億9,000万ドルから58年第2四半期の31億2,000万ドルとなったにすぎなかった。ところが今回は後退期中に激減し,60年第2四半期の38億2,000万ドルから61年第1四半期の33億7,000万ドルと入なった。つまり今回の輸入の動きは前回以上に,アメリカ国内の生産減退を消極的に食い止めることとなった。
なお,ビルト・イン・スタビライザーとよばれる制度も,個人・法人所得の減少速度を緩和し,また失業保険手当の支給額を高めて,景気後退の阻止要因となった。
3)回復要因
景気後退は61年第1四半期に終わり,第2四半期には大方の予想に反して急速な回復をみたのであるが,この起動力の第1は在庫であった。今までの回復期には,工業生産が底入れしてから数カ月後まで在庫削減はテンポを落しながらもつづいた。しかし,今回は工業生産の底入れとほぼ同時に削減を終え,蓄積に変わった。このような早目の在庫蓄積への転換の原因は,後退前の在庫水準が相対的に低く(57年8月の事業在庫は売上げの1.60カ月,60年5月のそれは1.51カ月分),かつ,削減速度も比較的急速であったこともあるが,景気後退が軽微に終る見通しが明らかににり,ケネディ大統領の積極的成長政策に期待する心理効果が大きく影響したためでもあろう。すなわち61年3月以降の在庫の動きをみると製造業原料在庫は,なおしばらく減少したものの製造業仕掛品在庫および完成品在庫,卸小売業在庫は増加した。
原因は,業者が主として将来の売上増を予想して蓄積方針をとったためとみられる。
61年第1四半期から第2四半期へかけての景気転換期に,在庫蓄積が国民総生産に寄与した割合は68億ドルで国民総生産の増加分中半分以上を占めている。不変価格でも増加のほとんど半分は在庫であった。
第2の起動力は個人消費支出であった。すなわち景気後退中も衰えをみせなかったサービス支出が,第2四半期にも増加し,他方,耐久消費財支出は減りすぎた反動として伸び,非耐久財もふえて,この四半期に合計54億ドル(年率)増となって,在庫変動に次ぐ大きな回復要因となった。
第3に政府購入は失業手当増額,軍需購入,公共建設等を中心に年率23億ドルふえて,これまた主要な回復要因となった。
4)今回の景気循環の特色
(イ)インベントリー・リセッション
以上の説明から明らかなように,今回の景気循環は,国民総生産の変動要因からみて,インベントリー・リセッションであった。これは戦後第1,第2回の景気循環とは同一類型に属するけれども,前回(57~58年)の設備投資の反動による循環とは区別さるべきものである。
(ロ)短期的かつ小幅な景気循環
かつまた,今回の循環期間は,国民総生産でみれば,4四半期で終わったが,前3回の循環には5ないし7四半期を要した。工業生産が後退直前のピークに回復するまでの期間は,13カ月で,これまた前3回の18カ月ないし21カ月にくらべ,著しく短かい。
また国民総生産ならびに工業生産の低落幅からみても,今回は最も小幅に終わった(第1-3表,第1-4表参照)。
(ハ)物価の下落
景気循環に随伴する物価動向(農産物,食糧を除く商品の卸売物価指数)は戦後第1,第2回の循環の後退局面では下落したが,第3回(57~58年)には後退初期の局面でも物価騰貴がつづき,やや異例の動きをみせた。ところが,今回は後退,回復の両局面で,物価は微落傾向をたどり前回の微騰傾向に反して著しく安定している。
この原因は次のように考えられる。
まず57~58年の後退局面での微騰は,管理価格によって,物価の下落が防がれたとみられるに反し,60~61年にはとくに回復局面において競争の激化から中小企業の製品が大企業の製品市場に食い込んで,大企業の値下げを余儀なくし,また大企業同志の間にも,アルミの値下げが競合金属である鉄鋼や銅の値上げを抑制するなどのこともあった。
また輸入品の圧力やケネディ大統領島の反独占態度や労務対策(後述)もその一因であろう。
いま一つの要因と見られるのは,労働生産性の向上である。(第1-2図)に示したように,労働生産性は56~58年の比較的鈍い上昇率(2%)から59年5.9%,60年3.2%,61年上半期4%(民間非農業,推定)と比較的急速に上昇し,製造業では61年上期6%(推定)にも達した。このような急速な上昇がコスト騰貴を防いだと思われる。
(ニ)金利政策
今回の景気後退はアメリカからの金流出という重大な危機(後述)に直面したため,西欧,とくにイギリスとの金利差を念頭におかねばならなかった。このため景気対策として,前3回の景気後退中ほどの低金利政策をとれなかった。すなわち前3回では1.5%ないし,1.75%まで公定歩合を引き下げたのであったが,今回は3%以下に引き下げるわけにはゆかなかった。こうして金利は,60年6月と8月に合計1%引き下げられたにとどまった。これが今回の景気後退局面での大きな特色であるが,また反面,景気上昇段階で,いち早く金利を引き上げることがなかったのも,前3回の経験にはみられなかったところである(第1-11表参照)。
1)ドル防衛の成功
1960~61年のアメリカ経済は戦後第4回目の景気循環を経験したほか,景気後退開始の時期とほぼ同じ時期に金(きん)の流出が始まって,60年下半期にはドル防衛や国際収支の問題を大きく浮かび上がらせた。
1960年第3四半期に始まった巨額の金流出は同年11月のアイゼンハワー大統領のドル防衛対策を生み,国防省の域外調達の縮小,在外公務員・軍人の外国品購入制限,海外駐留軍人家族の一部引き揚げ,対外援助物資の国内買付け等を中心に,61年中に約10億ドルの海外支出を節約することとなり,一部措置は60年中に実施された。この大統領指令はアメリカが金価格を引き上げないで,国際収支の均衡回復に努力する意欲の表明として,広く世界から重視され,金投機熱を冷却させる一服の鎮静薬となった。それ以来約1カ月,ロンドンの金相場は下落したが,ケネディ大統領の就任式が迫るとともに,相場は微騰を開始し,とくに61年1月初め以来根強い騰貴を継続するに及んで1月14日,第2回目のドル防衛策が発表された。今回はアメリカ人の海外における金買い入れを非合法化し,これによって,西欧の金投機熱を冷却すると同時に,アメリカ人または法人が海外に保有する金を6月1日まで強制売却させ,ロンドン市場における金の供給をふやして,金相場の高騰を抑制しようとした。当時アメリカ人の私的保有額がどれほどであったか,的確な資料はない。その推定額も1億ドル,あるいは10億ドルとかなり相違する。この指定期限までに売られた金額も明らかではない。だが,新たに金を買おうとする人々には,精神的な拘束を与えたであろう。そのような漠然たる効果よりも,もっと大きな影響は,アメリカがいぜんとして,金価格を変更しないという固い決意を内外に表明したことであった。もともとアメリカの金流出は国際収支の大幅赤字によるものではあったが,金価格引上げの風説は,ケネディ大統領の下で,これが実現するとの憶測によるものであったから,今回の措置が大統領就任式の直前に発表されたことは,金投機者に反省の余地を与えることになった。つまり退任間際のアイゼンハワー前大統領が後任のケネディ氏と事前に打ち合わせずにこのような指令を発するとは考えられなかった。そこから,当然新大統領は前任者のドル防衛策を引継ぐと考えられた。
はたして新大統領は,1月30日の一般教書において,国際収支の悪化は認めつつも,ドル防衛は「絶望視すべきことで゛はない」必要とあれば,ドル価値を維持するため,全面的に利用できる金はなおかなりあり,アメリカの在外資産は対外支払に十分見合っており,輸出は大幅に輸入を上回っている。
したがってドルの平価引下げ,為替管理,貿易制限に訴える必要もなければ,その意図もないことを明らかにし,つづく2月6日の国際収支教書では,重ねて金価格引上げを否定し,数項目から成るドル防衛策を発表した。まず短期的にドルや金の需要を緩和する措置として,
1.国際金融機構の改善(IMFの強化)。
2.外国政府手持ちドルをアメリカに預金する時には特別の利子をつけ,対米短期債権が金(きん)にかえられることを防ぐ。
3.必要な場合IMFからの引出し権を行使する。
以上のほかアイゼンハワー時代の輸出振興,国産品優先買付けや輸出保証の強化などのドル防衛策1よほぼ踏襲された。
このような決意は輸出の好調,諸外国のドル防衛協力などのおかげで金投機熱をさまし,やがてアメリカの金流出は2月をもって停止し,3月以降6月まで,金保有高は微増に転じた。金相場もこの間ほぼ安定をとり戻したが,まだ公定の1オンス35ドルを数セント上回っていた。7月以来再び金買い運動の再発からロンドンの金相場は微騰,アメリカからはわずかな金が流出するに至ったが,これはドル不安や金投機によるというよりも,むしろベルン危機に端を発する私的退蔵需要,あるいはバーゼル協定による債務をイギリスが西欧中央銀行に支払ったため,一部中央銀行がニューヨークで金を買ったことがその最大要因である。
だから,現状とすれば,一応ドル防衛策はその効果をあげたとみられるものであるが,しかし今後ドル危機の再発は絶無とはいえない。現在ロンドンの高金利はかなりのホットマネー吸引力となっており,先物カバーなしにロンドンに流入できる情勢がかもし出されるならば,加速的な短資流出をよび起こし,それが再びドル不安の一因となるかもしれない。しかし,こんどは前回とは違って,アメリカ財務省が外国の為替市場に介入してドルを支持するための外貨をかなり留保してあるし,62年にはIMF機構の改革によって,ドル防衛の基盤も拡大するだろう。国際協力も去る3月のポンド危機で,かなりの力を発揮することが確認されているから,さし当たり前回ほどのドル危機はないとみてよかろう。
2)国際収支対策とその影響
ドル防衛は一応の成果を収めたが,しかし,これで問題が根本的に解決したわけではない。そこでケネディ大統領は61年2月,国際収支教書を発表して,その長期対策を明らかにした。
その方法として,
1. 国際協力……OECDの機構内での経済協力,金融,通貨などの問題を協調的に解決し,同時に低開発国の開発もこの枠内で調整,促進する。
2. 輸出振興……政府が率先して輸出市場の開拓に乗り出し,民間企業には輸出努力の強化を要請する。通商使節団,貿易センターを増強,輸出金融,輸出保証を強化する。
3. コスト・物価の安定……オートメーションを促進し,労働生産性を引き上げ,また官民の委員会を設けて,物価の安定に努力する。
4. 外国資本,観光客の誘致……PRの強化,対米資本移動制限法の緩和,入国手続の簡素化。
5. 農産物輸出の増強……商業的に輸出できる農産物の新市場開柘。
6. 国産品買い付けの奨励……経済贈与,開発借款基金による援助には,なるべく国産品を買い付けるようにする。
7. 対米差別待遇の廃止要求……現在なお残されているアメリカ品輸入制限措置の撤廃,アメリカ農産物に対して工業国がいまなお継続中の輸入割当の廃止ないしは緩和を要請する。
8. 海外投資課税の再検討……税負担の軽い国に民間資本が流出し,獲得された利潤が,現地で再投下されて,アメリカに帰らないような悪弊を是正する。
9. 諸外国の低開発国援助,共同防衛負担の引上げ……国際収支のよい国にこの負担を引上げてもらうよう要請する。なおアメリカの対外援助については対外援助教書で,贈与よりも借款をふやす方向を明らかにした。
10. 米人海外旅行者の支出削減。
11. 海外ドル支出の集中的検討……各省所管の対外支出費目を集中的に再検討する。
12. 海外軍事支出の抑制……観光目的の海外支出を抑制し,耐久消費財の購入を制限する。
以上の構想はアイゼンハワー大統領のドル防衛策をさらに一段と強化し国際収支の長期的な均衡を目ざしたものである。このように2代の大統領によって意図された国際収支の均衡化対策が,どのような効果を生んだが,これを統計的に捕捉するのは,現状では困難ではあるが,大体次のようにいうことはできよう。
a 域外買付けにバイ・アメリカン・アクト(米商品優先購入法)の適用
60年秋のアイク指令で実施され,今日まで継続されているが,現在入手される統計によると,ICAの購入する商品のうち米商品の占める割合は60年下半期の37%から61年第1四半期の41%に高まってはきたが,前年同期にも39%から43%へ同じ4ポイント高まっており,まだ効果ははっきりしていない。おそらく機械類のごときは受注から引渡しまでの期間が長いため,ドル防衛措置の効果が,この四半期にはまだはっきり現われなかったものであろう。しかし61年下期になるとバイ・アメリカン法の適用からわが国の東南ア輸出は圧迫され,また被援助国では,比較的高いものを買わされるという声が聞かれるに至った。
b 対外経済援助の質的転換
ケネディ大統領は対外経済援助の重点を贈与から借款に移すことを年頭に明らかにしたが,62財政年度の対外経済援助は,ケネディ大統領の贈与削減,借款増加の方針にしたがって,大きく変ぼうした。つまり重い軍事負担に耐えがたい低開発国向けの防衛支持援助(贈与)は半減され,低開発国に開発借款を供与する開発借款基金(DLF)予算は倍近くなった。
c 国際協調の推進
① 新旧大統領ともに国際協調によって欧米金利差の拡大防止に努力し,とくに米英の金利操作には協調の実績があがっている。
② なお,今後のドル危機を予防するため,IMFを改組,スタンド・バイ方式を採用して,IMFの資金を増強する工作が進捗している。
③ アメリカ以外の国にも低開発国援助をふやしてもらうため,DAG
④ NATOの軍事負担を一部の国に引き上げるよう折衝,一部実現し
た。
d 貿易の自由化を呼びかける一方では,ケネディ政府になって,対米投資規制を行なっている国に制限の緩和を要請した(西欧の対米直接投資は61年上期にふえている。ただしこの要請の結果であるか,どうかは確認できない)。
e 輸出促進措置
輸出入銀行の短期輸出信用保険を拡充し,貿易使節団を増強,ロンドン常設貿易センターを開設した。近くバンコックにも完成され,62年半ばまでになお3カ所追加の予定。なお設備投資促進策や繊維工業の設備耐用年数の短縮も,アメリカ商品の競争力増強に役立つであろう。
3)1960~61年の貿易・国際収支動向
次に現実の貿易,国際収支動向をみよう。まずアメリカの商品輸出は,59年上半期に停滞したのち同年第3四半期からふえはじめて,季節差調整済み月別金額では60年7月,四半期別では60年第4四半期にピークに達し,その後は横ばいから減少に変わっている。たが過去1年余にわたって,アメリカの輸出が高水準を維持したのは,国内の不況やドル防衛による輸出努力の強化という要因のほか,西欧,日本の繁栄による輸入増加という外的な要因にもよるものである。一方,輸入は60年第2四半期から年末まで漸減し,60年12月を底に回復するにみえたが,その後61年5月まで停滞,決定的な回復歩調に変わったのは6月であった。つまり輸入は工業生産品回復よりも1~2四半期遅れて,ふえはじめるという過去の形を追っているわけである。
輸出の漸増,輸入の漸減によって出超幅は60年中毎四半期ごとに増大したが,61年にはいり漸減しはじめた。
つぎに国際収支をみると総合尻は59~60年に37億ドルないし39億ドルの支払超過となったのち,本年第1四半期の年率14億400万ドルの赤字から第2四半期の9億9,600万ドル(いずれも季節差調整済み年率)の黒字に転換し,かなりの好転をみせた。
上期の収支とすれば年率4億500万ドルの赤字ですんだが,上期好転要因を分析してみれば,第1に最大の好転理由は60年下期に激減した外国長期資本の輸入が逆転して急増し,第2に政府の贈与および資本輸出(純額)が61年第2四半期に激減したこと。
第3に民間資本輸出が激減したことが,第1-7表から明らかである。
第4に貿易およびサービスのいわゆる経常収支の黒字もふえたが,前3者ほど大きな役割をはたさなかった。
ところが,上期好転要因を細かく分析すると次のような特殊要因が作用していることがわかる。すなわち61年第2四半期における政府資本輸出(純額)の激減は西独その他からの巨額な債務償還(6億5,000万ドル)によるものであり,一回限りのものであって永続的なものではない。したがって,この要因を除去してみると第2四半期は逆に16億ドル(年率)の赤字となり,上期とすれば15億ドル(年率)赤字となった。しかしこの金額は58,59年の37億,39億ドルにくらべればかなり小さい。この要因として前記の4項目があげられるのであるが,ドル防衛もなにがしかの効果があったと思われる。