昭和33年
年次世界経済報告
世界経済の現勢
経済企画庁
第三章 停滞をつづける英国経済
英国経済は,朝鮮戦争によつて一時抑制された消費需要の増大とこれに誘発された投資需要の急増を背景として,一九五三年以来目ざましい活況を示し,一九五四年から五五年にかけて未曽有のブームを現出した。しかし経済活動の急激な上昇は,一方において国内のインフレ圧力を強めるとともに,対外経済面においても輸入の急増を通じて国際収支の悪化をもたらし,一九五五年はじめ以後いわゆるディス・インフレ政策による引締めを余儀なくされるに至つた。
引締め政策展開のあとをたどってみると,まず五五年一月二七日イングランド銀行の公定割引歩合が,それまでの三%から三・五%へ引上げられ,さらに二月二四日には四・五%へと再度の引上げが行われ,これと同時に,消費の抑制を目的として一九五四年七月以降廃止されていた賦払信用に対する制限が復活された。
ついで同年七月二五日には,インフレ抑制の見地から,賦払信用に対する制限を強化するとともに(頭金支払率を一五%から三三1/3%へ引上げ)。銀行貸出の積極的削減,国有産業および地方自治体による資本支出の削減等の方針が打ち出された。
さらにつづいて一〇月二六日には,過度の投資をおさえるとともに増税による購買力吸収をもり込んだ補正予算による緊縮政策が発表された。これによつて,地方自治体による公共事業融資局からの自動的資金借入れの抑制,電話料金および小包郵便料の値上げ,物品税の二九%引上げ,配当課税の五%引上げ等の措置がとられた。
このようにバーラー蔵相のもとで次々に強化された引締め政策は,一九五六年忙おいてもマクミラン蔵相の手でさらに強化された。すなわち,同年二月一六日には,公定割引歩合が四・五%から五・五%の高率に引上げられたのにつづいて,(1)賦払信用に対ずる制限をさらに強化し,テレビ等の頭金支払率は三三1/3%から五〇%へ引上げ,(2)パン,牛乳に対する補助金の削減,(3)民間投資抑制策として,補助金的性格をもつたinvestment allowanceを廃止し,繰上げ償却を認めるにすぎないinitial allowanceの採用,(4)国有産業並びに地方自治体の資本計画および政府の直接投資の削減等の新たな措置がとられることになつた。
五六年四月になって,郵政・運輸料金の値上げにつづいて発表された一九五六年予算は,地方自治体融資の削減など多分に緊縮政策をおりこんだものであつた。
このように,一九五五年初め以降つぎつぎにとられてきたディス・インフレ政策は,後述するように一九五六年にはようやく効果をあらわし,とくに経常国際収支では,五五年における六九百万ポンドの赤字から,五六年には二六六百万ポンドの黒字に転ずるという顕著な改善をみた。
ところが同年下期から五七年上期にかけて,スエズをめぐる紛争が,安定化に向いつつあった英国経済に対しかなりの攪乱要因として作用した。たとえば金・ドル準備の動きをみると,五六年一月以降毎月増加をつづけて七月には二四億ドルにたつしていたが,八月以後は九月のトリニダッド石油会社売却による一時的な増加を別とすれば大幅な減少に転じ,一一月には一九億ドル台におちこんでいた。英国政府がIMFからの借入れ,米国輸出入銀行からの借款などによつて,からくもこの危機を克服しえたことは周知のとおりである。しかし,スエズ紛争の影響は,少なくとも英国の国内経済についてみるかぎり,比較的短期間におさまり,大きな混乱をひき起すことなくおわつたといえる。スエズ問題は,それが英国経済に与えた直接的影響よりもむしろ間接的な側面,つまり一九五六年第四・四半期から一九五七年第三・四半期へかけて再び表面化した世界的なドル不足の傾向に拍車をかけ,ひいては西欧における為替不安とスペキュレーションを誘発した点を重視すべきであろう。
一九五七年八月フランの実質的二割引下げが行われたのをきつかけとして,西ドイツ・マルクの平価切上げ,英ポンドの平価切下げの噂が広まつていたが,このため西欧各地で為替投機が行われ,西ドイツへの金・ドル流入が激増した反面,英国の金・ドル準備は激減しポンドの自由相場は大幅に下落した。こうした情勢を前にして,同年九月一八日西ドイツ連邦銀行が公定歩合の四・六%から四%への引下げを発表したのに呼応するかのように,イングランド銀行の公定歩合が,それまでの五%から一挙七%へと大幅に引上げられ,同時に銀行貸出の制限,資本発行審査の強化,公共部門の投資制限等一連の引締強化政策がとられたことはいまだわれわれの記憶に新しい。公定歩合引上げと同時に,ソーニ-クロフト蔵相は「一ポンド対二ドル八〇セントの現行為替レートを維持する決意」を表明したが,こういつた経済非常対策がとられるにおよんで為替不安も解消し,一〇月からは金・ドル準備も増加に転じた。
西欧の為替不安をめぐるこのような目まぐるしい動きと並行して,周知のように,米国における経済活動が五七年秋以来急激な下向にむかい,西欧経済の拡大テンポも著しく鈍化した。エコノミスト誌が,一九五八年の年頭において,「今年の英国経済の動向は,戦後のいかなる時期よりも英国経済内部の事情によって左右されることが少なく,英国としては手の下しようのない外部の環境によって左右されることの方が大きい」と述べているとおり(同誌一月四日号),世界景気の動向とくに米国景気の後退が,国内的要因以上に大きな力となつて英国経済に迫りつつあるのが現状である。こういつた情勢のなかで,七%という異常な高金利の維持が困難であることはいうまでもないが,果せるかなイングランド銀行は,本年に入り三月二〇日七%から六%へ,さらに五月二二日には五・五%へと,二回にわたつて公定歩合の引下げを行うに至つたのである。
以上,一九五五年初め以降におけるディス・インフレ政策の展開とその後における情勢変化の概略をみてきたが,この間英国経済の現実はどのような発展を示したか,以下これについて具体的に検討してみよう。