昭和61年

年次経済報告

国際的調和をめざす日本経済

昭和61年8月15日

経済企画庁


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第3章 ストック充実の課題

第3節 人的能力の蓄積

  ストックの蓄積は,必ずしもハード面に限られない。ソフト化の時代にあっては,ソフト面の蓄積がますます重要なものになってくる。具体的には,企業などに蓄積されるソフトウェア,技術知識ストック,企業経営ノーハウ,労働者に体化された技術力などの経済的ソフトの蓄積,あるいはより文化的な面での蓄積などである。こうした分野での蓄積は統計土投資には分類されず,個人消費,政府消費,あるいは企業の中間投入コストとして扱われているが,本来は将来のための投資として考えられるべきものである。このうち技術知識ストックやソフトウェアについては「昭和60年度年次経済報告」で扱った。ここでは,主として労働者に蓄積される人的能力を中心に,その重要性,今後の課題等を検討する。

  人的能力の蓄積は,まず第1に経済活力の維持という観点から重要である。

  技術革新の激しい時代であっては,労働者や企業組織など,企業の人的側面に体化された技術力,創造力こそが真に力を発揮するのではないだろうか。また,第2章で述べたような現在進展しつつある産業構造変化の中で,人的要素に依存する度合いの大きい分野が相対的に拡大している。第2に,個人の側からみても,長寿化の進展や今後予想される従来の雇用慣行の変化の中で,応用可能な職業能力を身につける方が有利であるし,老後生活の充実のための生きがい,趣味なども灌養し蓄積しておかなければならない。

  このような人的能力の開発・蓄積についても,他のストックの蓄積と同様,比較的人口構成が若く,人的能力開発の余力がある時期から将来に備えて計画的に蓄積するという視点が重要であろう。

  こうした広汎な意味での人的能力の開発・蓄積のためにも,生涯学習の場の整備,労働時間短縮等による労働者の自己啓発の機会の拡大,職業能力評価システムの整備が重要である。

1. 経済成長と人的資本

  (技術革新・構造変化と人的資本の役割)

  将来の経済活力,成長力,競争力を維持し,経済社会環境の変化に対応していくためには,人的資本として人間に体化された技術力や創造力が蓄積されることが重要であり,企業にとって最も貴重な資産となりつつある。

  そのメリットの第1は,不断の技術革新の波への対応力,そして技術革新を創り出していく創造力である。創造力は人間からのみ生まれるものである。また,技術は機械設備に体化されるとともに人間に体化されるが,設備に体化された技術は環境変化が起こった場合の応用が効きにくい。また,技術革新が加速化する中で,設備に体化された技術の陳腐化も早まろう。このため人間に体化された技術力を不断に更新し,また環境変化に迅速に対応していくことができるようにすることが一層重要になってくる。本当の意味での技術の蓄積とは,無形の資本たる人的資本の形をとることによって実現されると考えられる。具体的にも,技術革新に伴って大幅に不足すると予測される職種は多い。例えば,システム・エンジニア,プログラマー等の不足は60年現在,推計約7万人(不足率26%)(労働省「技能労働者需給状況調査」(60年6月調査))となっており,将来ともこの不足は拡大すると見込まれており,場合によっては将来の経済成長の制約要因とすらなり得よう。

  第2のメリットは,産業構造変化への対応力である。第2章第3節に述べたように,現在進展しつつある産業構造変化の中で,人的要素への依存の相対的に大きい分野が相対的に拡大しつつある。その典型的な例を挙げると,技術革新の進展に伴って,新技術・新製品の開発を主体とした一群のベンチャービジネスが台頭してきているが,こうしたベンチャービジネスは研究開発型で技術者,設計者などを中心とした人的資本集約型性格が強くなっている。また,円高が進展している中で,輸出産業が競争力を維持していくためにも,専門的,技術管理的労働の投入を増やしていくことに優位性を求める必要があろう。とくに,サービス経済化は,提供されるサービスの増大を意味するが,サービスの提供は人間の労働そのものである場合が多いため,提供されるサービスの質は労働の質すなわち労働者の職業能力によって直接的に規定される。

  人的資本は,必ずしも個々の労働者にのみ体化されると考えるべきではなく,企業組織全体にもまた体化されるものである。そのーつの例は,QCサークルにみられるような,労働者の公式・非公式のチームによって発揮される技術力や創造力であり,我が国産業に様々なレベルでのプロセス・イノベーションをもたらした。ふたつは,企業の経営能力である。技術革新や環境変化の激しく進展する中で,企業組織を適応力あるものにしておくためにも,企業の経営能力が更に厳しく問われることになろう。

  こうして人的資本の産業における重要性が高まる中で,国際競争力のある輸出産業も,従来の資本集約的産業から,労働集約的産業(ここでいう労働集約的産業は,高度な技術・知識を基盤におく産業をいう)ヘシフトしてきていると言われている。アメリカの競争力のある産業が相対的に労働集約的である点については,レオンチェフにより,早くから指摘されている。レオンチェフはアメリカ経済について競争輸入の輸出に対する相対的資本集約度を計測しているが,これによれば,1947年におけるこの値は1.30,すなわちアメリカは相対的にみて輸出よりも1.3倍資本集約度の高い輸入を行っていたことになる。資本が豊富だった当時のアメリカにおいて,実際には資本集約度の高い財を輸入していたというのは,労働の質が資本の相対的豊富さを打ち消しうるほど高かったことを意味すると考えられる。

  そこで,我が国の昭和45,50,55年のデータに基づき,我が国の輸出財と競争輸入財の産業における相対的資本集約度を求めると(第3-27図),次のことが分かる。

  第1に,競争輸入財の輸出財に対する相対的資本集約度は45,50,55年ともすべて1より小さく,我が国は相対的に資本集約度の高い財を輸出している。

  しかし第2に,この値は年を追って上昇しており,55年には0.96と1に近づいた。これを製造業のみについてみると,こうした傾向はよりはっきりし,55年には1を超えている。

  このように,特に製造業において,我が国の輸出入構造は,相対的に資本集約度の高い財を輸出する構造から,相対的に資本集約度の高い財を輸入する構造へと,徐々に変化してきたと言えよう。

  第3に,競争輸入財の輸出財に対する相対的資本集約度の変化をもたらす要因として,①産業構造の変化(投入産出構造の変化),②貿易構造の変化(輸出財及び競争輸入財の品目構成変化),③資本係数の変化(各輸出財及び競争輸入財の品目ごとの生産のための資本投入の比率)の三つが挙げられる。45年から55年の間の,競争輸入財の輸出財に対する相対的資本集約度の上昇は,大部分が③の資本係数変化によって起こったとみられる(第3-27図②の下半分)。しかし,これはかなりの程度産業部門の分割の粗さによるものであり,より細分していくことができれば,②の輸出入品目構成変化の影響がより大きく出てくると考えられる。

  ところで,資本に対する労働の相対価格が著しく高まっている中で,上記のように輸出入構造が,労働集約的財が相対的に国際競争力を強めるように動くということは,そこで投入される労働が質的に高いものであることを示唆しよう。この点について調べるため,45年と55年につき,我が国の輸出財の生産にどれだけの付加価値が直接間接に投入されているか,また,同じく競争輸入財を仮りに我が国で生産した場合にはどうかを,産業連関表により試算し,比較した(第3-28図)。

  これをみると,

  以上二つの分析から次のことが言える。第1に我が国の貿易構造が安定成長下で相対的に労働集約型商品に比較優位を持つ構造に変化しつつあることである。第2に比較優位を有する産業での生産のために労働とくに各種の技術知識を体化した専門的・技術的・管理的職業及び熟練工等の重要性が高まってきていることである。これらを併せ評すれば,我が国の貿易構造は「高度技術労働集約型」商品に比較優位を持つ型へと移行しつつあるということができよう。

  こうした労働の質の高まり,そしてそれがマクロ経済にもたらす貢献について,次にみよう。

  (人的資本と経済成長)

  まず,人的資本の蓄積を労働の質の高まりとして捉え,量的に把握することとしよう。このため,労働投入の質考慮指標(ディビジア指標)を計測する。これは,性別,年齢別,勤続年数別,学歴別に労働者の質が異なり,現実に支払われている賃金が,それぞれの労働者グループの労働生産性の違い,言いかえれば労働の質の高さの違いを正確に反映して決定されていることを前提とした分析である。そうであれば,より賃金の高い,従って労働の質の高い,労働者グループの数が就業者全体に占めるウェイトが高まれば,労働の質が高まったとみることができるわけである()。この場合,人的能力開発の類型からみれば,学歴は人的資本への最もフォーマルな投資を,年齢は一般的な職業経験,したがって職業訓練投資の大きさを,そして勤続年数は,特定企業に固有な技術知識への○JTを中心とする投資を,それぞれ示すと考えることができる。

  これによれば(第3-29表),我が国の全産業における労働の質の向上率は,第1次石油危機前の42年~47年の間に年平均1.66%であったのに対し,第1次石油危機後の51~59年の間は年平均1.16%と,後者の方が低くはなっているものの,この期間に経済成長率が年平均9.3%から4.4%の伸びに低下したことを考えれば,なお比較的高い伸びを維持していると言えよう。またその内訳みると,学歴の効果は最も大きく,第1次石油危機前と後とで同程度,勤続年数の効果は上昇,年齢及び性別の効果は低下となっている。ただ,勤続年数と年齢との間には交差効果が大きく,42~47年の間においては0.73,51~59年の間においては0.59の寄与を持っている。この部分を年齢要素と勤続年数要素に分けることはできないが,この交差効果も含めて考えると,年齢と勤続年数があいまって労働の質を高めている効果,すなわち企業における○JTも含めた各種の訓練が労働の質を高めた効果は42年~47年において1.19,51~59年において1.02とかなり大きくなっている。

  このように,人的資本をあらわす労働の質の向上は,高度成長期には大幅に伸び,第1次石油危機後もその伸びは鈍化したものの続いているが,これは経済成長に寄与していると考えられる。そこで,上で求めた労働の質指標を用いて,いわゆる「成長会計」の手法により,各生産要素の経済成長率への寄与度を,同じく42~47年の期間と51~59年の期間について求めたのが第3-30表である。これによると,40年代と50年代とで経済成長率は年平均9.3%から同4.4%へと低下したが,労働投入の寄与度は0.8%から1.6%へと逆に高まっていることが分かる。これは,①40年代には農業での就業者数の減少があったのに対し50年代はそれが止まり,サービス部門での就業者数の伸びが顕著で,全体として就業者数の伸びの寄与が高まったこと,②40年代に進んできた労働時間の短縮が50年代には足踏みとなり,労働時間のマイナス寄与がなくなったこと,の2点が大きいが,これとともに労働の質の寄与が40年代の0.9から50年代の0.8とおおむね横ばいとなり,労働投入増の中で依然として主要な位置を占めていることによるものである。他方,労働に体化されない「中立的技術進歩」要因の経済成長寄与は40年代の3.1%から50年代には0.5%と低まっており,技術進歩の中で労働に体化されたものの重要性は近年になって著しく高まったとみることもできよう。(もちろん,以上の知見は,様々の前提に基づいた試算によるものであり,その結果は幅をもってみなければならないことは言うまでもない。)

第3-30表 各投入要素の経済成長への寄与度

2. 経済社会環境変化と人的能力開発

  (従来の人的能力開発)

  上述のように人的資本形成は,経済発展に寄与してきたが,現在進んでいる経済社会環境の変化は,一方で人的資本形成の必要性を更に高めるものの,他方で従来型の我が国の人的資本形成システムに変容を迫っている。この項では,高齢化・技術革新の進展と「終身」雇用慣行の変容によってもたらされる人的資本形成の需給両面(個人サイド及び企業サイド)での変化についてとり上げる。まず,これまでの我が国の人的能力開発の特徴をみよう。

  我が国の雇用慣行を特徴づけるのは「終身」雇用慣行だと言われる。これは,我が国で戦後定着し,大企業から中小企業へと広がっていった。(注1)

  「終身」雇用慣行の下では,企業は人的資本投資に対するリターンをかなり確実に入手することができ,能力開発は企業によって積極的に行われ,しかも比較的長期的視野に立ってなされることができる。日本生産性本部「日米管理職行動比較研究調査」(59年6月)によれば,我が国企業の管理職はアメリカの管理職に比べ,部下が自ら求める能力開発(研修)の機会を積極的に与えようと考える傾向が強いことがうかがえる(第3-31図①)。また,我が国の方が教育訓練の効果を長期的に捉える傾向があるとみられる(第3-31図②)。

  また,我が国企業の人的資本投資の特徴はOJT(職場内訓練)に著しく重点が置かれていることであろう。OJTの場合,企業にとって直接の教育訓練費の支出は必要でない。企業の支払う教育訓練費の労働費用に対する比率を国際比較すると,我が国が0.3%(1984年)であるのに対し,イギリス1.8%,西ドイツ1.3%,フランス1.5%(いずれも1981年)と,欧州に比べ我が国は表に出た教育訓練費が小さいこと,すなわちOJTへの依存が高いことが示唆されている(注2)。(もちろん,OJTといえども,その間の生産の逸失という機会費用がかかっていることは言うまでもない。)OJTによって修得されるのは,その企業に固有の技術知識であることが多いとみられる。その場合,他の企業へ転職してもその能力を100パーセント生かせるわけではない。「終身」雇用慣行の下にある限り,企業の雇用者にとっても,OJTを中心としたその企業固有の技術知識を修得することで人的資本形成は十分だったと思われる。

  こうした「終身」雇用慣行はまた,仕事も私的生活も職場中心という,いわゆる会社型人間を多く生み出したことが指摘されている。仕事以外の知識,趣味や人とのつながりを持つことも,人的能力の形成の中での重要な要素であるとすれば,人的能力はかなり片寄った形で形成されてきたと言えるのではあるまいか。

  (高齢化・技術革新と人的能力開発)

  こうした人的能力開発の方法も,経済社会環境の変化につれて変容を迫られることになる。まず,労働力を供給し,また生活を行う主体である個人の側からみよう。

  まず,労働力を供給する主体という面からみると,第1に,「長寿化」は,個人の生涯における勤労生活の期間を長くする。しかし技術革新が進む中での勤労生活の期間の長期化は,個人が時間をかけて蓄積してきた技術知識や技能の陳腐化や熟練の解体を招く可能性がそれだけ高まることを意味する。これに対しては,生涯学習の努力,とくに技術進歩などに対応して応用可能な技術知識を自己の中に蓄積することが求められよう。

  第2に,現下の急速な技術革新の進展とくにME化の進展は,従来型のOJTによる,時間をかけた能力開発の方式の有効性を失わせるようになっているとの指摘がある。これとともに,従業員の高齢化によって人的資本投資の効率(訓練効果)が小さくなったことが指摘される。こうした状況下では,企業のOJTによる訓練意欲がやや弱まる可能性もあり,一層の自己啓発が必要になる。

  第3に,一般にOJTによる訓練は既存の生産技術への適応能力やその改良能力を高めるものであるが,人的能力にはより創造的な部分があり,その能力開発にはより多様な方法が考えられなければならない。

  次に生活の面からみると,長寿化に伴い,退職した後の老後をいかに充実した生活を行えるかも重要性を増している。このためには,趣味,仕事以外の生きがいといったものを若い時から灌養し,蓄積しておくことがますます重要になっており,個人の生活という側面からはこれも重要な人的能力の開発の一部である。

  次に労働需要の側である企業サイドから,これまでの人的能力開発の背景にあった「終身」雇用慣行の現状についてみよう。近年「終身」雇用慣行の継続にとって厳しい条件が多く生じている。すなわち,①低成長への移行による企業の期待成長率の低下や,企業構成員の高齢化によるポスト不足の顕在化,②技術革新・サービス化等に伴う産業構造変化による,従来の雇用慣行によらない産業・企業の増加,③必ずしも同一企業への定着を望まなくなっている労働者の意識変化の兆し,等が挙げられる。

  現実には現時点で「終身」雇用慣行が大きく変化しているわけではない。まず,「終身」雇用慣行の下では,労働者の一企業への勤務が長期化するはずであるが,高度成長期と最近を比べてみると,現在勤務している企業にその職業生活期間の多くを継続勤務している労働者(定着雇用者と呼ぶ)の全労働者に占める比率はとくに低下していない(第3-32図)。労働者の流動性は現在までとくに高まってはいないと言える。なお,両者を比較するにあたっては,高度成長期に比べ労働市場が全般に大きく緩和していることを考慮に入れなければならない。優れた専門的技術をもった労働者は別として,一般には労働市場が緩和している時に転職を行うのはリスクが大きく,現実にも自分の都合で転職した場合には給与が下がるようである。

  しかし,労働者の意識面からみた場合,流動化志向は若年層を中心に着実に増加しているものと考えられる。経済企画庁国民生活局「昭和60年度国民生活選好度調査」によれば,就職して会社に勤める場合,「同じ会社にできるだけ長く勤めるのがよい」とする者の比率は,男女とも過半数を占め,一方,「自分の適性や待遇に応じて転職する」とする者の比率は男女とも2割程度となっている。しかし,若年層にいくほど後者の割合が高くなっており,25~29歳層においては,男子の4割,女子の3割が「自分の適性や待遇に応じて転職する」と答えている(第3-33図)。

  また,総務庁統計局「就業構造基本調査」により,年齢別の転職希望率の推移をみると,各年齢層とくに若年層を中心に,転職希望率が着実に高まっていることが読みとれる(第3-34図)。

  労働省「21世紀の労働に関する有識者調査」において,今後2000年(昭和75年)頃の労働市場についての予想をみると,労働市場全体では「現在より流動性が強まる」という予想が全体の9割近くを占め,この内訳をみると年齢別には「若年者」,職種別には「技術者」及び「販売従事者」,企業規模別には「中小企業労働者」において「流動性が強まる」とする予想が多くなっている。

  企業サイドも,企業構成員の中高年齢化とポスト不足に対処するため,中高年従業者を対象とした能力開発訓練や専門職制度・スタッフ制度などを導入して対応しようとしており,極力現行の雇用システムを維持しようとする努力がうかがわれる。

  しかも,ポスト不足に伴う従業者の処遇困難化等は今後労働者の企業定着志向を弱めていく可能性がある。また,高度な専門技術をもった技術者は既に流動性が高まっていると言われており,産業構造のサービス化・高度技術化,外国企業の我が国への進出の増加,就業形態の多様化などにより,今後「終身」雇用慣行にも変化が現れてくる可能性は高いとみなければならない。

  労働者の流動化が高まるとすれば,企業側からみると,人的資本投資を行った熟練労働者が自らの企業から流出し,投資に対するリターンが得られなくなるリスクがそれだけ高まることになる。とくに,もともと技能に関して特定企業固有の性格よりも汎用的性格の強い業務にたずさわる事務的労働者や高度技術者については,そのリスクが高まり,企業としても企業内訓練でなく,既に技能を蓄積した労働者を,しかるべき処遇により外部から調達するケースが増える可能性もあろう。このことは,雇用者にとっても,企業固有の技術の修得だけで満足することのリスクが高まることを示唆している。

  以上のような労働提供側と需要側両者の変化は,従来どおりの人的能力開発の方法だけでは企業にとっても雇用者にとってもリスクが大きくなることになり,新たな対応を考え実行すべき時期に来ていることを示しているのではなかろうか。

3. 人的能力開発のための対応

  (個人,企業,公的部門の対応)

  以上のように,日本の人的能力開発のシステムは今後多様な展開が予想され,その中で個人の役割が拡大することが予想される。

  個人は,創造性,技術や職場環境などの変化に対応する能力を向上させていくことが求められる。また生活を充実させていく上で自己啓発の持つ意味も大きい。

  企業は,まず労働者のこうした自己啓発努力を促進することが従来にも増して重要になってこよう。既に企業内訓練の内で,より計画的な企業内職務訓練プログラム,中高年齢者への専門職教育などを重視する動きがある。今後重要なのは,週休二日制を始めとする労働時間短縮,休暇制度の拡充などであろう。

  公的部門は,上のような個人及び企業の努力を支援し,環境の整備に努める必要がある。そのために生涯学習システムの整備などに努めることが課題となろう。人的能力開発についての課題は多いが,以下いくつかの点に触れてみよう。

  (生涯学習の場の整備)

  学校教育は今後も生涯学習の中で重要な役割を担うものであり,その中で特に大学等を中心とする専門的教育について,将来のニーズに見合った対応をより一層進めることも必要であろう。とくに,社会的要請である専門的技術的知識を持った人材を,どう養成していくかが重要な課題の一つである。

  生涯学習の場としては,大学等を社会人のためにより開放することが必要であろう。また,公共職業訓練施設も一層活用されるべきであり,そのための活性化が必要である。

  次に,生涯学習のための金融のアクセス改善が必要であろう。こうした投資はリスクが多いため,アクセスが困難になっている面があるが,現在,企業が企業外に雇用者を派遣し教育訓練を受けさせる場合や有給教育訓練休暇を与えた場合,受講中の賃金等の一部を助成する生涯能力開発給付金制度がある。また財形融資制度の一部として,加入者又はその親族に対する進学融資制度も設けられている。

  (労働時間の短縮)

  労働時間の短縮は内需拡大効果のみならず,人的能力形成の上でも重要である。この点からも特に有給教育訓練休暇制度,研究者などの長期休暇制度(サバティカル・イヤー)等の普及,促進を図る必要があろう。経済企画庁国民生活局「昭和60年度国民生活選好度調査」によれば,「生涯働きつつ学ぶ」という並行型を望ましいと思う人は全体の3割近くに達する(第3-35図)。また,年に1カ月程度まとまった休暇がとれた場合,いまの仕事に役立つことを学びたいとする人が約1割,将来の人生に役立つことを学びたい,とする人が約3割存在する(複数回答)。

  (職業能力の適切な評価)

  こうした人的資本の蓄積も,企業や社会がそれに対して適切な評価を与えなければ進まない。技術の評価に関しては従来から各種の制度が存在したが,とくに今後はそれを処遇にも反映させるための職業能力評価システムが重要になる。

  こうしたシステムの形成は,基本的には労働力の流動性が増す中で市場による評価が行われることに依存するであろう。しかし,社内検定制度の充実,各種職業資格制度の改善なども必要であろう。

  こうした評価が,企業内における職種別などの賃金格差を拡大させる可能性はある。しかし,それは個人による努力に対する正当な報酬である,として積極的に受け止められなければならないであろう。こうした変化は年齢,勤続年数などによる,賃金格差を縮小させる可能性もあり,こうした点があわせて考えられるべきであろう。

  また,国際化の進行にともない,日本以外の国々で活躍する人材が一層多く必要となるが,これらの人々をも正当に遇することは,特に重要なことである。

  以上のように,今後人的資本の充実のためになすべきことは多い。しかし,21世紀に向けてわが国社会の活力を維持し,国際社会に貢献するためにも,最も基本的なストックとしての,人的能力開発は重要である。このことは我が国の貯蓄の目的の中で「教育のため」とするものの比重が大きいことにもうかがわれる。今後人的能力の開発のため,一層積極的かつ効果的な投資が必要となる。