昭和60年
年次経済報告
新しい成長とその課題
昭和60年8月15日
経済企画庁
第1章 昭和59年度の日本経済
景気上昇2年目を経て,なお物価は著しい安定を示しており,我が国経済は「数量景気」とも言うべき状態にある。卸売物価は,ドル高(円安)が進んだにもかかわらず安定しており,消費者物価も落ち着いた状態が続いている。また,前回及び前々回の景気上昇局面では上昇した商品市況も低迷を続けている。
人々のインフレ予想も安定してきている。しかも,こうした物価安定傾向は,ひとり我が国のみならず,欧米においても,アジアの新興工業国等においても,共通してみられることは,注目に値する。こうした物価の安定傾向は,経済の先行きに対する不確実性要因を減らし,経済構成員の経済行動をより安定的なものとすることにより景気拡大の持続性を増すことに寄与している。
(卸売物価の現況)
卸売物価は,58年初にやや低下して以来ほぼ横ばい状態で安定的に推移している。59年央以降,円の対ドルレートが下落したため,輸出入物価は上昇した。しかし,国内卸売物価は横ばい状態を続けており,総合卸売物価も安定傾向が続いている。
卸売物価の安定の要因としては,次のようなものが挙げられる( 第1-16図 )。
第1は,賃金コストの安定である。賃金上昇率が緩やかであるのに加え景気上昇に伴う労働生産性の上昇により,製造業の賃金コストは58年半ばから前年同期を下回るようになり,59年度に入ってからは前年同期を4~5%程度下回っている。
第2は,需給になお余裕があることである。製造業実稼働率は80%前後の水準に達しているが,特に稼働率が高いのは機械等の加工組立産業であり,素材型産業では一般になお稼働率が低く,当面は需給面からインフレを引き起こす要因とはなり得ないと思われる。また,一部業種においては,59年末頃から需給の緩みがみられる。
第3は,海外一次産品価格の低迷である。次項に述べるように,国際商品市況の低迷により原材料価格は安定している。また,燃料価格は,58年3月の原油価格引下げの効果は一巡したものの,最近における一部原油の再引下げや原油需給緩和もあり,安定的に推移している。このような海外一次産品価格の安定により,契約通貨建て輸入価格は低下しており,円安による交易条件の悪化は59年度後半においても軽微なものにとどまり,59年度平均としては前年度に続き交易条件は改善されている。
第4は,金融面の落ち着いた動きである。マネーサプライは,第1章第6節でみるように安定的な水準にある。
(商品市況の低迷)
商品市況は,前々回及び前回の景気上昇局面では,景気の谷から3~4四半期目を境に上昇に転じたが,今回は景気回復初期にいったん上昇をみせたもののその後低迷している( 図1-17図 )。国内市況の低迷は特に①非鉄金属など国際商品市況と連動した商品,及び,②回復の遅れていた建設活動関連商品において著しかった。また,59年末以降,紙・板紙,石油製品が需給緩和により低迷している。
国内市況低迷の一因となっているのが,国際商品市況の低迷である。2年間にわたる世界的な景気上昇にもかかわらず,国際商品市況は弱含みで推移しており,底を打つに至っていない。この原因として,次のようなものが考えられる。
第1はインフレが鎮静化する中でのアメリカの高金利や,ドル高が続いてきたことの影響である。これらは,投機資金の運用先を商品から金融資産にシフトさせる傾向がある。第2は,穀物の豊作などの要因である。1984年にはアメリカを中心とした穀物の豊作等により,穀物相場は年央に低下し,その後も目立った回復をみせていない。第3は,先進工業国における需要構造の変化である。製品の軽薄短小化による原材料投入原単位の向上,新素材等合成品による天然素材の代替等がその原因である。第4は,世界的なインフレ予想の鎮静である。このため,景気上昇に伴う仮需発生がほとんど見られない。そして第5に,一次産品輸出国の対外収支悪化による外貨獲得を目指した増産,安値輸出の傾向がまだ続いているとみられることである。
(消費者物価の動向)
消費者物価も,57年度以来,前年同期比2%程度の落ち着いた動きを続けている。品目別に見ても,一般商品,一般サービスとも落ち着いた動きを続けており,59年末から60年初にかけてやや上昇した生鮮食品も,年度全体では落ち着いた動きを示している。一方,公共料金は,59年度に入り,国鉄運賃等の交通料金,健康保険法の改正等が続き,比較的高い上昇率で推移した。
消費者物価の落ち着きの背景として,次の要因が挙げられる。第1は,消費財卸売物価の落ち着きに伴う一般商品の安定である。消費財卸売物価は59年1~3月期以降上昇に転じたものの,前年同期比0.4~0.8%の上昇と,引き続き落ち着いた動きで推移している。第2は,賃金コストの安定に伴うサービス価格及び流通マージンの安定である。第3は,生鮮食品の安定である。果物は,みかんが裏年に当たったこと等から大幅に上昇したものの,野菜が総じて天候に恵まれたこと等から反落したことにより,生鮮食品全体では前年度の上昇率をかなり下回った。
(今後の物価動向)
以上のように我が国の物価は,卸売物価,消費者物価とも,30年代前半以来四半世紀ぶりの安定を示している。物価をとり巻く環境をみても,不透明な要因はあるが,①物資需給は,国際的にみても,国内市場をみても十分余裕があり,需給ひっ迫が広範に発生するとは考えにくいこと,②労働力需給は改善しつつあるものの,これまでの労働生産性上昇もあって賃金コストが高まるような情勢にはないこと,③金融政策も適切に運営されていること,④世界的にインフレ予想は鎮静しており,仮需発生などが考えにくいこと,等から当面物価は安定的に推移すると考えられる。
ここで,消費者及び企業のインフレ予想の動向をみると( 第1-18図 ),消費者の意識としては消費者物価の上昇率が高まる,という見方が依然として高いものの,低まるとする人との差は次第に縮小に向かっている。また企業経営者は,59年末以降,原材料価格については「上昇する」とする見方が「低下する」とする見方をやや上回っているものの,自らの製品価格については,「低下する」が「上昇する」をやや上回って推移しており,物価の安定を見通している。
このようなインフレ予想の安定も今後の物価の安定を維持するひとつの好ましい要因であるが,その動向には十分配慮する必要がある。物価の安定は,経済の先行きに対する不確実性要因のひとつを取り除き,経済主体の安定的な行動と安定的な経済成長に貢献するところが大きいものであり,今後とも物価の安定を維持していくことが重要である。