昭和57年
年次経済報告
経済効率性を活かす道
昭和57年8月20日
経済企画庁
第II部 政策選択のための構造的基礎条件
第3章 新しい国際分業と産業調整
日本の産業調整は,三つの時期に分けて考えてみよう。第一の時期は貿易自由化が進められた昭和30年代後半から,40年代前半にかけての高度成長期である。この時期には新しい産業分野への進出が急速に進むと同時に,とくに石炭,および繊維産業で産業調整が進んた。第二の時期は昭和49年以後の第1次石油危機に対する調整期である。この時期には成長屈折とエネルギーコストの変化から,需要供給両面での構造変化が生じ,いわゆる構造的不況産業の調整問題が起こった。第三の時期は第次石油危機以降の時期で,再び構造的調整を必要とする産業分野が出てきたと同時に,国内市場の一層の開放を強く迫られるという新しし局面が生じている。
「貿易・為替自由化大綱」が作成されたのは昭和35年である。もちろん当時の貿易自由化に直面したわが国産業の課題は,いまだ第二次大戦後の技術・資本のギャップを埋め切れず,米国の産業レベルに追いつこうといういわば「幼稚産業」の問題であって,その後の時期とはかなり性格を異にしている。しかしわれわれは,現在の時点に立って,もう一度当時の貿易自由化過程を再評価してみる必要があろう。一つは当時貿易と資本の自由化を「外圧」と受け取り,より閉鎖された経済体系に閉じこもるべきだという主張がかなり根強かったことである。その試論の過程をここで繰り返すことは避けるが,事後的にみると,もし当時貿易・資本の自由化を外圧として退け,開放体制への移行を中途半端にしか達成しなかったら,その後の日本経済の発展はあり得なかったであろう。
いま一つの点は,貿易自由化がかなり厳しい時期を示した予定表に沿って行われ,その再延長は例外的な場合を除いてほとんど認められなかったことである。これに対して民間の各産業部門は非常な努力によって対応した。事後的に見ても,貿易自由化計画は当時の日本経済の対応力の限界を追求した極めて有効な計画であったと評価することができる。この場合,もし国内の対応が整わないという理由で自由化時期を次々と繰り延べていったならば,日本経済の中には多くの硬直化部分が残存し,その発展力は弱められてしまったであろう。
また当時,貿易自由化を控えて海外の巨大企業に対抗する力をつけるためには,日本産業も組織を再編成して,合併を促進し有効競争体質を維持しながら過当競争を排除していくべきだという主張も強かった。が,結果としては,わが国産業に強い有効競争体質が保持され,その後の発展に大きく寄与したことは疑いない。
ところで,この時期に,構造的に受動的調整を迫られた代表的産業としては,石炭と繊維がある。石油へのエネルギー転換によって縮小を余儀なくされた石炭鉱業は, 第II-3-24図 にみるように,40年代にかけて稼動炭鉱数,従業者数とも急速に減少した。この場合最も深刻化したのはいうまでもなく雇用問題であったが34年に制定された「炭鉱離職者臨時措置法」等に基づく諸施策の効果もあって離職者の多くは結局,製造業を中心とする他部門に吸収されたとみられる。
繊維産業は 第II-3-25図 にみるように,とくに40年代に入ってから輸入比率が急増した。この結果,衣類部門と繊維織物部門では状況が異なるが,とくに後者では出荷額シェア,従業者数ともかなりの減少を示した。繊維産業の場合は,従業者の中の若年女子労働力の比率が高く,それだけに高度成長期には他の産業部門への吸収が容易であったため,摩擦現象も石炭の場合ほど強いものではなかった。若年女子労働力の流出の結果,繊維産業従事者の平均年齢はかなり顕著に高齢化した。
繊維産業の調整政策については,国内でも批判的議論がある。それは64年のいわゆる繊維新法いらい,本来時限的であったはずの構造対策が,20年近く実質上更新されて続き,織物などはむしろこの間設備能力の増加を見て当初の目的を達していないではないかというものである。こうした批判は,政策目的とその効果の評価としては,当然ありうる議諭であるが,ただ繊維産業部門については,日本のみならずほとんどの先進工業国が保護政策や構造改善対策を長期化させており,効果からみるとわが国の場合はむしろパーフオマンスがいい方であるとさえ言える。アメリカの繊維産業保護政策が長期化,拡大化してMFAの誘因ともなったことは先に述べた通りであるが,イギリスでも,1959年綿業法によって着手された構造改善対策は一時かなりの進展を見せ,人造繊維メーカーのランカシア進出も行なわれたが,根本的な立ち直りはみられず,1970年代初めには設備近代化に対する融資に加えて,英連邦特恵関税地域からの綿製品輸入に対する課税と併せて輸入数量割当てを継続し,保護政策を強化した。さらにEC加盟後は英連邦特恵関税制度自体が撤廃された。
わが国の繊維産業は,60年代から70年代を通じて,前記のように繊維・織物部門の雇用を減少させ,他方で資本装備率を上げ生産性を上昇させた。これらは他の諸国でもかなり共通してみられる現象であるが,繊維製品に対する関税率についてみても,既に日本の関税率は先進工業国中,最も低いのである。
また非関税輸入規制についても現在のところ先進国の中では唯一MFAに基づく輸入規制を実施していない国である。
ともかく,高度成長期における産業調整は経済全体が拡大しており,他部門による吸収能力が高いだけに,相対的に容易であったということができる。
第1次石油危機以降,日本産業は,低成長下での産業調整という新しい課題に迫られた。とくに製造業部門では48年から50年にかけて生産が15%以上も低下し,過剰設備の処理と雇用調整が必要となり,多くの業種でいわゆる減量経営が進められた。しかし,第1次石油危機を契機としての需要・供給両面に亘る構造変化は,いわゆる「構造不況」問題を生じさせ,これらは景気の回復によっても不況的現象の消えない構造的問題を抱えるとみられるようになった。こうした構造不況業種での雇用問題に対応するため昭和52年10月に「特定不況業種離職者臨時措置法」が成立し,また産業調整政策を推進するため,昭和53年5月に「特定不況産業安定臨時措置法」が成立した。その対象業種と法に基く安定基本計画の概要は 第II-3-26表 に示す通りである。これら対象業種をみると,①石油価格上昇の影響で国際競争力上の問題を生じたもの②中進工業国の発展によって競争力をおびやかされたもの③相対価格の変化および成長率の低下等から需要の伸びが大きく鈍化したもの,④製品市況の変化が激しく,従来からいわゆる「過当競争」体質を有したものなどが含まれていることがわかる。また53年度後半からの景気回復で一時は「構造不況は解消した」と言われながら,第2次石油危機で更に深刻な構造問題に直面するようになった業種も少くない。
同法に基く施策の意味は一応次のように考えることができる。
(1)設備処理の円滑な推進を目的とした設備処理カルテルを中心とした施策体系であったこと,
(2)造船の場合を除いて,政府の直接資金の投入はなく,業界の自己負担と自主運営にゆだねられたこと。
(3)構造不況要因にはそれに適した対応策が必要なことをあらためて認識させたこと。
(4)消極的な保護政策は含まず,積極的な調整政策を目指したこと。
等は,積極的に評価されてよいであろう。
また,普通鋼電炉,造船の業種では別途生産カルテルが導入され,またアルミ精錬については,関税割当制度を導入(昭和53,54年度)することにより,関税軽減分の一部を原資として休廃止設備の金利負担の一部に充当し,民間の設備処理負担の一部軽減が図られた。
これまでの設備処理の達成状況は,現在設備処理期間中の業種があることを考慮しなければならないが,大半の業種で円滑な進捗をみせているといえよう。
しかし,一部の業種では,能力削減が実施されたにも係らず,第2次石油危機によりさらに過剰設備を有するに至った業種もみられる。造船の設備能力削減は雇用調整と併せて比較的順調に進んだとみられる。
一方,各業種の利益水準をみると,54年度にかけてはかなり好転したが,第2次石油危機で再び悪化したものが多い。
これら構造不況業種の中には,多角化によって構造不況から脱しようとする動きも強い。例えば, 第II-3-27表 にみるように,造船や合繊などでは,それら部門の縮小を図り多角化する動きが顕著である。
第1次石油危機以後の日本の製造業部門の構造的変化を 第II-3-21図 でみると,49年から54年にかけて利益率にかなりの変化があり,またほとんどの業種が雇用が減少し,生産性の上昇はばらつきはあるが,平均してかなり高くなっている。このため他の国以上にダイナミックな変化を示しているといえる。
54,55年の第2次石油危機によって,わが国産業は一層の生産調整を迫られることになった。エネルギー価格の上昇に伴う国際競争力の変化とともに構造変化への対応の必要性が強まったからである。特に,中間製品を中心に製品輸入が増え,国内市場での競争の度が高まったことは,従来にない特色である。現在こうした構造的調整の問題は,エネルギー価格の変化の影響を大きく受け,かつ国内需要の構造的変化に直面している素材産業に集中的に現われている。ここでは同じく素材産業である鉄鋼と石油化学についてみよう。
鉄鋼業(高炉一貫メーカー)は代表的素材産業の一つであるが,構造不況産業ではない。それはなぜであろうか。一つの大きな理由はもちろん,鉄鋼業のエネルギー源の石油依存度が低いことである。これは石油化学やアルミ精錬業など,石油価格上昇の影響を全面的に受ける業種との基本的な相違である。しかも日本の鉄鋼業はいわゆるオイルレス製鉄化とエネルギー効率の上昇とによって,石油価格上昇の影響を最小限に喰いとめることに成功した。
しかし日本の鉄鋼業の競争力の強さは,石油依存度の低さだけにあるわけではない。なぜなら,同様な条件下にある筈の米欧の鉄鋼業に比して格段の効率性を維持しているからである。日本の鉄鋼業の欧米に対する優位性はすでに第1次石油危機以前からはっきりしていた。しかし石油危機以後上記の省石油省エネルギーの推進と併せて,連鋳比率の引上げによる歩留りの向上,付加価値率の上昇などを進め,その優位性を更に拡大した(第II-3-28図)。わが国の研究開発投資は決して多いとは言えないが,鉄鋼業に限ってみると,研究開発費の売上高比率は1%強(54年)で,米国の0,6%,西ドイツ,イギリスの0,4%より高い。新合金の生産技術などで優位性を保っているのもこうした背景があるからだといえよう。
もっとも日本の鉄鋼業も今後,内外需要の伸び悩み,中進工業国の追い上げ,生産技術開発の一巡など,多くの制約要因に直面しつつある。今後とも産業としての発展の基盤を維持していくためには,設備更新投資の円滑な実施等により有効競争的体質を保ちつつ,量的拡大よりも,効率化,高付加価値化を追求していかねばなるまい。
一方,石油化学は,特に56年以後中間原料を中心に製品輸入が急増し,57年1~3月期には輸入比率が輸出比率を上回るなど激しい国際競争にさらされている。わが国の石油化学の場合は,原油から精製されるナフサを主原料としており,価格統制により低価格に抑えられている天然ガスを原料とするアメリカ,カナダの石油化学工業に対して競争力が大きく低下しており,また,現在計画が進行しつつある安価な随伴ガスを原料とするサウジアラビア等の産油国の石油化学工業に対しても,原料コスト面で競争力が弱まることは不可避である。
もちろん,日本の石油化学工業は中間原料及び汎用樹脂が劣っていても,非汎用樹脂についての非価格競争力はなお強いという指摘や,天然ガスを原料とする製品の場合は,エチレン系製品だけに限られるため,プロピレン系製品では生き残る余地があるといった指摘もある。
また今後の各種エネルギー価格の動向,あるいは為替レートの動向等によっても競争条件は異なるが,こうした面に余り大きな期待をかけることには限界がある。やはり,石油化学のみならず,日本の化学工業全体として今後の基本的な発展の方向を考えていく必要があろう。
そうした意味で比較の対象となりうるのは西ドイツの化学工業であろう。西ドイツも石油化学工業部門は,わが国同様原料の大部分をナフサに依存しており,競争力が低下しているが,高付加価値製品や医療品が比較優位を高めつつあることは先に見た通りである。西ドイツと日本の化学工業を比較してみると,まず第一に両者の付加価値率が大きく異なることに気づくであろう。これは日本がいわゆるコモディティ・ケミカルと呼ばれる量産品を中心としているのに対し,西ドイツではファイン・ケミカルが企業利益の源泉になっているという相異がある( 第II-3-29図 )。
西ドイツ化学各社の研究費投資額は 第II-3-30表 の通りであるが,日本とは桁違いの差があるといってよい。このうちヘキストグループの研究開発費の40%は薬品関係に投ぜられている。また例えばBASF社の1979年の売上の三分の一は過去10年間に開発された製品によるものであると言われている。さらに長期的には,汎用化学品では米国等原料コストの低い地域に進出し,ドイツ本国では特殊化学品(ファイン・ケミカル)へ主力を集中するという戦略をとっており,やはりヘキストグループでは,国外売上の比率がすでに79年で60%以上に達している。
わが国の化学工業には,その成立の歴史から,急に西ドイツ企業と同様な行動をとれない事情はある。しかし需給両面にわたる構造変化の中で発展していくためには,構造改善の努力を払いつつやはり一段と次元の高い技術集約化をめざさなければならないのではなかろうか。
以上三つの時期に分けてわが国の産業調整問題を概観したが,1960年代の高度成長期から70年代を通じて,日本の産業構造の変化は他のいずれの先進諸国よりも大きかったとみられる。 第II-3-31表 で各国の産業構造の変化係数をみると,ほとんど各時期を通じて,日本の変化係数は高い。また雇用・就業構造の変化についても同様なことが言える。( 第II-3-32表 )相対的にも高い成長率の中での構造変化という有利な条件があったにせよ,以上に述べてきたような状況からすれば,わが国における生産要素の流動性はかなり弾力的に維持されているといえよう。このことは既に第部を通じて繰り返し述べてきたので,ここでは二点だけを追加的に指摘しておきたい。
第1は,資本,技術の流動性と企業の多角化との関係である。わが国では60年代の多角化はしばしば資本グループが新規分野を付け加えるという形で行われ,70年代に入って,企業自身の事業部制,子会社等を通じる多角化行動も増えてきた。しかしわが国の企業の多角化行動は,他の先進工業国特にアメリカに比べると低く,これは日本経済が構造変化よりも量的拡大によって成長してきたからだという見方もある。こうした議論は,多角化や構造変化を示す指標として何をとるかにもよるので簡単には結論を下せない。しかし,日本の場合は,資本グループによるものにせよ,企業自身によるものにせよ,何らかの技術的関連性あるいは人的結合関係を前提とする場合が多い。それだけにアメリカのようにテークオーバ1・ビッド(株式公開買い付け,TOB)でコングロマリット化を進めるような派手さはないが,生産技術の移転のためには却って有利な面もあったと思われる。企業の多角化による構造変化への適応は今後ますます重要性を増すと思われ,その機能については一層の研究が必要であろう。
いま一つは労働市場,とくに内部労働市場の機能が労働力の流動性に与えた影響である。1950年代には,第一次産業からの労働力の移動が第二次産業の労働力の大きな供給源となった。しかしこの要因は60年代,70年代を通じて順次その寄与度が縮小した。また新規学卒者による労働供給も雇用構造の変化に寄与した。しかし,60年代後半以降は新規労働力が総労働供給に占める比重はほぼ一定化し,これに対し,第二次産業内部における労働移動が一定の役割を果たすようになったとみられる。
わが国の内部労働市場が,職能別組合せ先任権制度の厳しい他の先進工業国と違って,職場内における技術・職業訓練の範囲が広く,それだけに柔軟な構造をもっているということはいくつかの研究によって指摘されている。それが生産要素としての労働力の流動性とどういう関係を有しているかは,なお一層の分析が必要であろうが,有利な条件として作用したであろうことは間違いない。
もちろん,労働力という生産要素はあくまで人間そのものであり,ダイナミックな弾力性とともに生活の安定性を求めるものである。したがって,ただ単に流動性が高ければよいというものではなく,同時に安定性の欲求も満足されねばならない。一方安定性のみを極度に追求すると,結局社会の硬直性が増し,その結果,安定性自体が失われてしまうことになりかねない。したがって生活の安定性を保証しつつ,効率的流動性が失なわれないような社会を維持することが必要であろう。