昭和57年
年次経済報告
経済効率性を活かす道
昭和57年8月20日
経済企画庁
第II部 政策選択のための構造的基礎条件
第3章 新しい国際分業と産業調整
以上述べたように,先進工業諸国は各種の要因から,各産業部門の相対的な競争力すなわち比較優位構造に大きな変化を生じた。市場経済の原理からいえば,各国の産業や雇用はこうした比較優位構造の変化に可能な限り速やかにかつ円滑に対応し,資本,労働,技術といった生産要素を相対的に優位度の高まった産業部門に移り,他方相対的に競争力を失いつつある部門からは生産要素が撤収されることとなる。こうした調整が円滑になしうる経済ほど,適応力の高い経済であるといえよう。こうした調整にはかなりの摩擦が伴うが特に労働力は,従来の産業部門に特有の生産技術によって訓練されており,いきなり他の部門に移動しても以前と同じように即座に適応できない場合が多い。また労働力の産業間移動に伴う社会的,地域的な摩擦現象も多くの場合避けがたい。さらに,生産要素としての技術も他の部門に直ちに適用できる例は限られている。したがって,構造変化に伴う産業調整には一定の期間を必要とすることは否定できない。しかし産業の円滑な調整には,かなりの調整期間が必要であるということが強調され過ぎて,調整措置が長期化するとともに,産業調整に必須な対応を行わないまま,実質的な産業保護措置が固定化する例も多い。保護措置が長期に固定化すれば,結局その産業の転換能力は失われ,一層の保護政策を必要とするようになり易い。さらに関連業種,関連地域に保護政策の範囲が拡がる場合もみられる。
ところで現実に,欧米諸国は1960年代から70年代にかけて,こうした,構造変化の必要性に対応していく能力をかなり失ってきたといえる。いま一度生産要素の流動性についてみると,まず資本はその性格上,産業間の流動性は最も高い。ただし先端産業に進出する場合のリスク,あるいは衰退産業から撤退する場合の資本損失という問題があり,必ずしも完全に流動的とは言えない面がある。また資本を個別の産業分野で機能させる経営資源については,企業家精神の弱まったこと,投資行動における長期的視点の喪失といった点が欧米諸国について指摘されている。
生産要素の流動性が最も問題になるのは労働力である。労働力移動については,①技能,職能の産業・職種間の移動の限界,②地域間移動の限界,③産業間賃金格差の労働力移動への影響,④組合組織,シニオリティシステム(先任権制度)等との関係が議論されている。
労働力の産業職種間移動の場合,最も問題となるのは中高年層である。ほとんどすべての先進工業国が公的な職業訓練や再訓練を行う機関に加え職業紹介機関を有しており,また訓練期間の収入補助を行なっている国もある。これらは一応の成果は挙げているとみられるが,職種の需要と訓練内容に差があるとか,若年層には有効でも中高年層には効用が低いとか種々の問題を抱えていることは否定できない。スウェーデンは1960年代から積極的労働市場政策と呼ばれる方式を推進し,国際的にも注目されたが,その効果についてはやや懐疑的な評価もある。更に,ヨーロッパでは伝統的に,またアメリカではいわゆる科学的労働管理方式の下に,一般勤労者の職業訓練(OJT)の内容が非常に狭く限定される傾向があった。日本では後に述べるようにかなり事情が異なるが,ヨーロッパやアメリカではこうした事情も労働力の職種間,産業間移動を制約したと考えられる。
地域間移動についても,政府が移動費や住宅費の補助を行なっている国もあるが,十分な流動性は得られていないという評価もある。アメリカも一面では「見知らぬ人の国」といわれるほど地域間流動性が高いが,他方古くからアパラチア地域や南部地域の問題を抱えており,最近は北東部の伝統的工業地帯に地域的構造問題が拡がっている。ヨーロッパでも一方で外人労働力の高い流動性があるのに対し,地域間の所得間格差は容易に解消しない面がある。また各国政府は,西ドイツのルール,フランスのロレーヌ,イギリスのクライドン,ヨークシアなど産業衰退地域に補助政策を行ってきた。これらは本来,労働力の地域間移動に限界があるため,限定的補助をするのが目的であったが,それが却って労働力の地域間移動を緩漫にするという副作用も生じている。また地域振興のための産業振興が外部からの若年労働力を吸収して,地域の過剰労働力の吸収に必ずしも寄与しないという矛盾もみられている。
次に賃金についてみると,労働力の流動性との関係で問題とされるのは,産業間,職種間の賃金格差の存在である。賃金格差の存在は,労働力の産業間移動を引き起こすという考え方もなしうるが,現実にはその機能は十分発揮されていないといわれる。それは,労働力の産業間の流動性が妨げられた場合,産業間の生産性の格差が拡大し,賃金格差も拡大するというメカニズムも存在し,両者の関係を一面的にとらえることはできないからである。 第II-3-16表 は先進各国の産業別賃金構造の変動係数の推移を示したものであるが,こうした格差をもたらしている要因は唯一ではない。例えばイギリス,スウェーデンに典型的にみられるように変動係数が相対的に小さく,しかも縮小の傾向を示している場合であり,これらの国では賃金間のスパイラル的波及度が強く,労働生産性のいかんにかかわらず賃金水準が平準化する傾向があった。またアメリカの場合は変動係数はむしろ拡大しているが,これは賃金決定の弾力性を示すよりも,寡占的な大規模労働組合が,賃金格差を意図的に拡大し,「二層型賃金構造」を維持しようとしたためであると解釈される。このように各国の賃金格差にはそれぞれ固有の要因があり,数値の直接的な比較によって労働力の流動性への影響を推し計ることは難しい。
最後に労働組合の問題をみると,特に職能別組合の場合は労働力の職種間の移動に対しては大きな阻害要因となり,硬直性を持ち易い。イギリスの造船業が職能別組合の因襲的硬直性から斜陽化したことはよく知られている。またアメリカに典型的にみられる先任権制度も一度先任権の序列からはずれると待遇が著しく不利化するため,職種間,ひいては産業間の労働力の流動性を制約しており,またジョブラインが狭く限定されていることは,いわゆる内部労働市場の機能を低めていると考えられる。
生産要素としての技術進歩は,現実には資本および労働の流動性と結びついている場合が多いため,他の生産要素の流動性の低下が影響を及ぼす。そのほかアメリカでは鉄鋼,自動車,電気機械などの例が示すように寡占的大企業が技術開発に消極的であったことが,技術的適応力を低めたことが指摘されている。このためアメリカでは技術開発のかなりの部分をベンチャーキャピタルに依存する方式をとっている。
以上のように,欧米諸国の生産要素の流動性は,1960年代から70年代にかけてかなり硬直性を高めたとみられる。これに対しては「福祉国家」的政策が大きな影響を与えたことも指摘される。確かに上記のような賃金水準の平等化,地域的保護政策,また雇用保障制度(ジョブセキュリティ)などがそうした効果を持った面は否定できない。しかし上に見たように,欧米社会における経済社会の適応力の低下は,福祉政策によるよりはむしろ従来の産業体制を支えてきた多くの制度や体系に硬直化要因が累積した結果であるとみることができる。