昭和56年
年次経済報告
日本経済の創造的活力を求めて
昭和56年8月14日
経済企画庁
第II部 日本経済の活力,その特徴と課題
第1章 民間部門の活力とその課題
第2次石油危機において,実質賃金ギャップが小さかった背景として,名目賃金の決定に際して市場機能が有効に働いた面が大きい(第I部第1章第3節参照)。
第1次石油危機後,わが国は先進主要国中最も高い賃金上昇を示し,かつ生産の低下率は最大であった。一方,この間雇用者数でみた雇用調整はわが国は欧米各国に比し,緩やかであった。したがって,この時期には名目賃金を労働生産性で割った単位労動コストは急上昇した。実際,48年を100とすると,50年には,アメリカ117,西ドイツ112に対して,わが国は155と著しく高水準になった( 第II-1-7表 )。
この背景をみるため,まず雇用量の調整のパターンについて国際比較すると,わが国の労働市場の特徴として,不況期における雇用量の調整が欧米諸国に比べて遅いという特徴が指摘される。事実,48年から50年にかけてわが国の製造業の雇用景の調整は生産の減少に比べて相対的に小さい( 第II-1-8図 )。他方,労働者一人当たりの労働時間の削減が,雇用量の調整に優先して図られたため,労働投入量を延べ労働時間でみると,ほぼ生産の減少に見合って低下した。その意味では日本も欧米諸国と大きな差異はない。しかしながらわが国では,雇用量の削減よりも労働時間の削減の方を雇用調整の手段として優先したため,雇用者数でみた雇用調整が遅れたといえる。なぜこうした特徴が生じたか。欧米では職種別労働組合が発達し,とくにアメリカでは雇用調整については先任権システムにより若年,未熟練労働者を中心にレイオフによる雇用者数の削減が行われるのに対して,わが国では企業別労働組合および終身雇用制度により常用雇用者の解雇に対する抵抗が強いという異った性格がある。このため,当時においては,一時帰休制度や新規採用の中止及び退職金の割り増しによる自然減の加速等の解雇を伴わない雇用調整を行う企業が多く出現した。
こうしたわが国の雇用調整は,いわゆる日本型雇用慣行のもとで一定の合理性をもっている。すなわち,労働者の熟練度や賃金水準は企業内での評価システムによって決定されており,解雇された場合,外部の労働市場にいては評価されにくく,労働者としては極力その企業内に留まることを選択する煩向があるからである。まだ,企業は雇用者に対して終身雇用制を前提としたかなりの教育・訓練投資を行っており,解雇による企業側のデメリットも大きい。
しかしながら,解雇を伴わない雇用調整では賃金費用の大幅な削減は不可能であり,賃金上昇率も高かったため,さきに指摘したような単位労働コストの急上昇が生じた。しかも,その後企業の期待成長率は低下していったから,企業の過剰雇用感はなかなか解消しない状況が続いた。その結果その後の生産回復の過程において製造業では,雇用者数を減らしながら労働時間を増加させる形で,労働投入量の増加を図るという状況が53年頃まで続くこととなった。これがいわゆる「減量経営」の過程である。
ところが,賃金コストは51年以降,欧米諸国とは異って安定した動きを続けた( 第II-1-7表 )。これには,賃金上昇率が落ち着いていることの影響が大きい。加えて第2次危機後には,経済活動の停滞が軽微で生産性上昇が持続するという要因も働いた。
欧米諸国においては,1960年代には長期的にみると失業率が高まれば賃金上昇率が低下するという関係がみられたが,現在では失業率が高い水準にとどまっても,賃金の高い伸びが続く傾向にある( 第II-1-9図 )。
この傾向はアメリカやイギリスにおいて顕著である。ただし,より詳しくいえば,たとえばアメリカの失業率が高い背景には,職業間移動が激しく,失業率の高い女子労働力や若年労働力が増加し,さらに人種や年齢に起因する労働需給のミスマッチ等が存在するため,全体の失業率を押し上げることになっているという構造的要因があることに注意しておかねばならない。わが国の場合には,第1次石油危機以降賃金上昇率はかなり高くなったが,最近は長期的に失業率との関係でみて安定的な姿を取り戻しているとみられる。
ではなぜ,わが国で賃金の上昇が緩やかなものになったのであろうか。
第1には,アメリカやイギリスでは,長期にわたってスタグフレーション的状態が続き労働者にインフレ期待が定着してきていたのに対し,わが国では,そういた事態を避けえたからである。とくに,わが国の場合,前述のように雇用調整の遅れから第1次石油危機以降の雇用の減少が長びくなかで,政府の財政金融政策がインフレ抑制的に運営され,インフレ期待が鎮静化していったことが大きかった。
賃金決定の柔軟さの第2として労働組合の行動の差がある。大手企業を中心に発達している企業別労働組合は,欧米の職種別あるいは産業別労働組合よりも,個別企業の経営状況をよく考慮して賃金交渉にのぞむ。というのは,わが国の終身雇用慣行のもとで,労働組合は雇用の安定を重視するために,不況下で企業収益の悪化が予想される場合には,雇用の安定を損わないような賃金上昇率を選択する可能性が高い。これに対して,欧米の職種別,産業別組合はわが国ほど個別企業の経営状況を考慮しないとみられる。
さらに,第3に,賃金のインデクセーションの有無がある。アメリカの主要労働組合の賃金協定では物価上昇を自動的に賃金に反映させる生計費調整条項を備えるものが多く,また,フランス,イタリアでも同様の効果をもつ慣行があり,これら制度・慣行的な賃金決定様式は賃金の下方硬直性を強める一因となっている。しかし日本にはこのような制度・慣行はない。
第4に,賃金制度の面で日本独特のボーナス制度の存在があり,ボーナスによる賃金変動の弾力化も否定できない。特別給与ボーナスは,企業の業績をかなり反映するものとしての性格をもっている。物価の高騰から49年に大幅な賃上げが実現されたあと,50年には所定内貨金の上昇はなお2桁の上昇率であったが,企業収益の悪化を反映してボーナスの支給率は低まり,賃金上昇率が1桁におさまって,賃金,物価の悪循環をさけることができたことの一因となっている( 第II-1-10図 )。