昭和54年
年次経済報告
すぐれた適応力と新たな出発
昭和54年8月10日
経済企画庁
第1部 内外均衡に向かった昭和53年度経済
第3章 流動化する物価情勢
46~47年にかけては,需給ギャップと国際収支の黒字が併存するという状況の下で,インフレに対する警戒感がともすれば薄れがちであった。当時の経験をふまえ,インフレの持つ弊害についてここで再認識しておくことが必要であると思われる。
インフレを抑えなければならないのは,それがさまざまの社会的コストを伴うからである。インフレは国民の生活上の不満感を増大させるということも一つの大きな社会的コストである。また,インフレが金融資産の目減りと実物資産価値の上昇をもたらすことによって所得分配に悪影響を及ぼすこと,一定の名目所得が確定している人々(年金生活者等)の生活を脅かすことによって福祉水準を損うことなどは,インフレの大きな社会的コストとしてかねてから指摘されてきた。
しかし,48~49年のインフレの経験から得た最大の教訓は,インフレが経済的パーフォーマンスを悪化させるという経済的コストの大きさを知ったということだったと思われる。石油危機前の時期には,①物価上昇は購買力を低めるが,より大きな名目所得の増加があれば,実質所得は確保されるから問題はない,②所得分配にもたらされる影響は,インデクセーションなどの工夫によって除去することができるといった考え方があったため,インフレのもたらす弊害についての認識は薄かった。しかし,48~49年の経験は,インフレの経済的コストがいかに大きなものであり,インフレと共存しようとすることがいかに非現実的なものであるかを我々に示したのである。
以下では,インフレに伴う経済的コストを,①インフレがもたらすデフレ効果,②インフレ鎮静化のためのコスト,という2つに分けて考察してみる。
インフレは,それ自身が実質GNPを押し下げる方向に作用するという意味でマクロ経済に対してデフレ的に作用する。
すなわち第1に,個人消費に及ぼす影響がある。インフレは,実質所得を引き下げて消費に対して抑制的に作用することはいうまでもないが,さらに,将来に対する不安感を強めることによって消費マインドを萎縮させ,実質預貯金ストックの減価(いわゆる目減り)をもたらすことによって貯蓄性向を高める作用があるものと考えられる。48~49年の消費性向の低下は,こうしたインフレの消費者心理への影響によってもたらされた面が大きい。
第2は,輸出に及ぼす影響である。
インフレの進行は,輸出価格の上昇をもたらすから,相手国がインフレでない限り輸出品の価格競争力を弱め,輸出数量を減少させる。
第3は,政府支出に及ぼす影響である。
政府支出は,予算によって名目支出額が決められているから,インフレになればその分実質支出は減少する。
以上のような,インフレが各需要項目に及ぼす影響を,一つの仮定として,47年度なみの物価上昇率が続いた場合を想定して消費関数,輸出関数によって計算し,また,政府支出については同様の仮定の下に公的資本形成の物価上昇による目減り分を試算したものが 第I-3-15図 である。これは各需要項目の変化の波及効果を含まないものでありまた基準となる物価上昇率をいかに設定するかによって効果の大きさが異なってくるので厳密な意味をもたせることはできないが49年には特に大きな実質GNP引下げ効果が発生しており,その規模はGNPの約3.5%にも達したものと試算される。また,逆に最近では,物価の安定化が需要を拡大させる方向に作用していることがわかる。
こうしたことからみて,インフレと不況が併存するという48~50年頃の状況は,インフレが不況の原因になるという関係によって生じた面が少なくないといえる。
石油危機後の経験をみれば,一たびインフレが生じてしまうと,それを抑制するために,いかに大きなコストを支払わなければならないかがわかる。
犠牲を伴わないでインフレを鎮静化させる万能薬はない。いったん生じたインフレを抑えるためには基本的には総需要の拡大を抑えることによって需給を緩和させる以外にない。それは,企業収益を低下させ,賃金の伸びを低め,雇用情勢を悪化させる。インフレをいかに抑制するかは,これらの経済パーフォーマンスの悪化をどれだけ覚悟するかに依存する。
我が国は,石油危機後のインフレを抑制するため,財政金融両面からの極めて厳しい総需要抑制策を実施した。このため,我が国の物価上昇率は,他の先進諸国に比べてかなり急速に鎮静化した( 第I-3-16表 )。しかし,その背景をみると,我が国は石油危機前までの成長趨勢からみて成長率を大幅に低下させ,企業収益も先進国中最大の落ちこみを経験し,失業率もかなりの上昇になった。すなわち,我が国は,失業率の上昇という極めて大きなコストを払ってインフレの鎮静化を達成したのである。
以上のように,インフレはそれ自体が経済パーフォーマンスを悪化させると同時に,すでに生じてしまったインフレに対してはさらに経済パーフォーマンスを悪化させなければインフレを鎮静化することはできない。インフレの渦中に入った経済は二重の意味での重い経済的コストを支払わなければならないのである。
こうしたコスト負担を避けるためには,インフレの認知ラグ,インフレに対する政策決定ラグを極力短縮し,インフレの未然防止を図ることが何にもまして要請されるのである。
通常,物価上昇の要因としては,①総需要が総供給を上回ることによるディマンドプル・インフレと,②需給がそれほど逼迫しなくてもコスト上昇によって生ずるコストプッシュ・インフレがあけられる。48~49年の2ケタ・インフレも,結果的にはこれらの要因によって説明することもできるが,その内容や程度は通常考えられるものとは異なっていた。
例えば,コストプッシュ・インフレは,通常は企業や労働組合の市場支配力に原因を求める。しかし,48~49年の場合は,確かにコストは上がったがそれは輸入物価の上昇や需給逼迫による賃金や利潤の増大によるものであった。需要増大の方も,通常の需要増加のメカニズム以上に,インフレ心理が需要を盛り上げ物価上昇を加速するといった要素が強く慟いていた。さらに46~47年にかけて急増したマネーサプライが結果的にこれらを容易にした。以上のような要因が複合的に重なってインフレの自己増殖作用をもたらした面に特徴があったと考えられる。
従って,48~49年のインフレをもたらした特殊な要因を見極めておくことは,インフレの未然防止に重要な意味をもつといえよう。
47年以降の物価上昇には,輸入価格の上昇が一つの重要な背景となっていた。また,53年末からの卸売物価の上昇も,円安,海外高などで輸入物価が上昇しはじめたことによる面が大きい。こうした,輸入価格の上昇がコストアップとなって国内物価に波及してくるという側面についてどう考えるべきか。その際フロート制の下での輸入価格の変動はいかなる問題を投げかけているのかもあわせて考えてみよう。
48~49年の2ケタ・インフレの種のかなりの部分は47年までに播かれていた。その一つは固定相場制下における輸入インフレである。それでは最近のうなフロート制の下ではこうした輸入インフレ要因は心配する必要がなくなったのであろうか。
フロート制は海外からの輸入インフレを遮断する効果があるといわれているが,これは,①固定相場制の下では,海外の景気がよくなったり,インフレになったりすると輸出が増え,それが円レートの上昇によってチェックされないので,結局国内需給逼迫の一因となるが,フロート制の下では,黒字が増えると円高になり,輸出の増加に歯止めがかかり,輸入が促進されること,②固定相場制の下では,国際収支の黒字による円高圧力を相殺するため,外為市場への介入が義務づけられ,その結果,外貨準備が増えてハイパワードマネーが供給されることになるが,フロート制の下では,こうしたルートからマネーサプライが増加することはないこと,などのためである。まさに48年初までは固定相場制の下にあったため,上記のような輸入インフレ要因がもたらされることになっていた。
フロート制になると,メカニズムとしてはそのようなインフレ要因はなくなる。しかし,いわゆるJカーブ効果や市場の心理により,国際収支調整効果の出現が遅れ,その間①の遮断効果は発揮されていないことになる。
また,調整効果の出現が遅れている間にレートの過剰調整が起こる可能性がある。53年秋までの円高に過剰調整部分があったとすれば,その後の円安は過剰分の戻し現象であり,一時的なものとも理解できる,しかし,方向が逆になるとその方向での過剰調整も起こり得る。円安と赤字が相乗的に進むと必要以上に円建輸入価格の上昇がもたらされ,インフレ加速の一因になりかねない。
さらに,特に日本のように原材料輸入の割合が多いと,円高→原材料安→輸出価格安定→黒字増→円高という累積効果が働く面もある。同様に円安の場合には逆の累積効果が現われ,円安による輸入物価高がある程度の期間続く可能性がある。
従がって,長期間をとればフロート制は輸入インフレを遮断するものと考えられるが,1~2年という短期間では必ずしもその効果が期待できず,その間に一時的な輸入インフレが国内のインフレの自己増殖作用につながってしまうと問題解決は困難になる。物価面からいってもフロート制の効果と限界に留意しつつ総需要政策などの手段を機動的に運用していくことが肝要であろう。
特に,石油のように我が国経済に占めるウエイトが高く,かつその供給国が限られていてその国の輸入力に限界がある場合,長期的にみれば石油価格高→国際収支赤字→円安→輸出増→国際収支黒字→円高→石油価格高のレートによる相殺,というプロセスにより石油価格上昇のインフレ要因を消すことが諭理としては可能でも,それにはかなりの時間を要するし,国際的な調和の下にそれを行うことが容易でないことは石油危機後の経験が教えるところである。
円レートの変動分を除いてみても,海外における価格の上昇は日本の輸入コストを引上げる。54年に入ってから非鉄金属,木材,原油価格などの上昇が続いているが,こうした海外高自体は,我が国経済にとっては与件としての性格が強い。しかし,これを全く与件として放置しておくわけにはいかない要素もある。
第1は,第一次的な原材料価格が,コストアップとして波及する程度,スピードは需給が逼迫している程度が強いほど大きく速いと考えられることである。
当庁「安定成長への適応を進める企業の行動」調査(以下「企業行動調査」という)によってみると,51年1月には,約半数の企業が「現在コスト割れである」としていた。これは,コストが上がったにもかかわらず,需給が緩和していたためその分を製品価格に転嫁できなかったことを示している。また,53年末以降,円安,海外高による輸入原材料コストが卸売物価を上昇させたということは,需給が好転していたという背景があったためである。
第2は,海外一次産品価格は独立的に変動するのではなく,先進国の需要動向に左右される面があるということである。そして,こうした工業用原材料貿易に占める我が国のシェアはかなり大きくなっている。 第I-3-17表 にみるように,木材,羊毛,綿花,鉄鉱石などについて日本の輸入規模は主要先進国全体の輸入総額全体の2~4割にも達している。従って,日本の輸入の変動がこれらの原材材についての需給を左右し,価格変動に及ぼす影響も無視できないものと思われる。例えば日本の輸入シェアがかなり高い鉄鉱石について,日本の輸入量と輸入価格の変動をみると,日本の輸入数量がやや先行して共通の変動を示していることが読みとれる( 第I-3-18図 )。
第3は,インフレ期待に及ぼす影響である。輸入物価の上昇によるものであっても,物価上昇が持続し,それが波及効果を及ぼしてくると,インフレ期待が形成される恐れがある。
以上のような点を考えると,輸入価格の上昇は,我が国にとって与件的性格が強いが与件ともいいきれぬ面があり,かつその便乗的な波及を阻止し,インフレ期待の形成を防ぐためには,なすべき余地は残されているとみるべきであろう。
インフレが進行し始めると,経済主体はインフレの進行を予想するようになる。こうしたインフレ期待の高まりは,企業,家計の経済行動に影響を与え,やがてはその期待自体が現実のインフレの進行に拍車をかけるようになる。48~49年のインフレの進行には,上記のようなインフレの持つ心理的な側面が重要な役割を果たしたものと思われる。
以下では,そうしたインフレ期待がいかにして形成され,経済行動にいかなる影響を与えたか,また,インフレの未然防止という観点からインフレ期待の発生を避けるためにはどうしたらよいかといった点について考えてみよう。
インフレ期待(企業,家計などの経済主体が抱いているインフレの将来予想)を直接捕えることは難しいが,ここでは当庁「企業経営者見通し調査」における企業に対するアンケート結果(「製品価格が今後上昇するかどうか」に対する回答)から,企業のインフレ期待の動きを考察することにする。
同調査で,今後の自己企業の製品価格見通しについて,上昇とみる企業の割合をみると,47年中は3割前後であったが,48年中に急増し11月調査では72%とピークに達し,その後急落して53年には1割前後になっており,54年5月調査で26%と再び増加が目立ってきている。このような企業の価格予想をインフレ期待の指標と考え,それを一定の仮定の下に数値化したものが 第I-3-19図 の期待インフレ率である。
この期待インフレ率と現実の工業製品卸売物価の変化率を比べてみると,以下のような関係を読みとることができる。
第1は,現実の物価上昇率の推移と期待インフレ率の動きとはかなり似通っており,両者の間に密接な関係があるということである。例えば,現実の卸売物価の変動は,一期前の期待インフレ率と需給の動きという2つの変数によってかなり明瞭に説明することができる。第2は,当期に企業がもつ期待インフレ率は来期の物価上昇率に関するものであるが,特に47~49年のインフレ期待が高まっていった時期には来期の現実の物価上昇率がそれを上回れば,来期にもつ企業の期待インフレ率は前期より高まるという関係がうかがわれるということである。これは,現実のインフレ率に調整する形でインフレ期待が形成されるというメカニズムがあったということを示唆しているものと思われる。
インフレ期待が高まれば,企業は自己製品の値上げを当然と考えるし,買い手企業の方も転嫁が容易と考えるので購入価格の上昇を容易に受け入れるようになろう。かくして,現実に物価が上昇し,それを受けてさらにインフレ期待が高まることになり,インフレの自己増殖作用が展開することになる。48~49年の状況はそのような現象が強く作用したように考えられる。
それは,現実には例えば以下のような経路を経て現われるのであろう。
その第1は,仮需の発生による在庫投資への影響である。インフレ予想が強まると,生産者は原材料を早目に手当しようとし,流通段階においても,物価値上がり益を目的とした在庫積み増しが発生する。
この点を検証するために,在庫投資関数に前期の期待インフレ率を導入してみると,在庫投資の変動を一応説明できることがわかる( 第I-3-20図 )。すなわち,実質GNPと実質民間在庫ストックとの関係(いわゆるGNPベースの在庫率)からいえば,48年頃は在庫ストックがやや過少の状態であり,在庫積み増しが発生してもおかしくない環境にあったが,48~49年前半にはそれだけでは説明できない程在庫が増加した。また,53年央からは,在庫ストックが過少で積み増し局面に入ってもおかしくない状態となったにもかかわらず,在庫投資の盛り上がりがみられなかった。こうした食い違いは,48~49年はインフレ期待が高く,最近は低いといった違いによって説明することができよう(48年後半に在庫があまり増えていないのは供給力のネックからであり,49年後半以降の在庫の増加は環境の変化による意図せざる在庫増とみられる)。
こうしたインフレ期待による仮需の発生は,現実の需給を逼迫させて,物価を引き上げる作用をもつことになる。
第2に,インフレ期待は家計の行動にも影響する。47~48年には土地の取得,住宅建設がかなり進んだ,これにも土地,住宅建設費の先高感がかなり作用したものと思われる。また,耐久消費財支出の動きについて,当庁「消費動向調査」によってみると,47~48年にかけて耐久消費財の「買い時である」と判断する人が急増しており,それにつれて,耐久消費財支出もかなり増加していることがわかる( 第I-3-21図 )。これには,消費者も将来の耐久消費財の値上がり予想を強めていたことも影響したものと思われる。
このように,インフレ期待は,家計,企業の経済行動に影響を与え,将来の需要を先取りして需給を逼迫させ物価上昇をもたらしている。そうした状態にある時は,成長率も高まり景気はみかけ上好転する。しかし,それは本来はもっと後の時期に実現したはずの需要が集中した結果であり,結局はより大きな需要の停滞を招くことになる。インフレ期待は,経済の変動をより大きくするという形によっても,パーフォーマンスを悪化させるのである。
第3は,賃金決定に及ぼす影響である。
賃金上昇率をたて軸に,失業率を横軸にとって各年の動きをプロットすると,右下がりの曲線を描くことができる(いわゆるフィリップ・スカーブ)。30年代から石油危機前までは両者の関係は比較的安定していたが,49年以降は曲線が著しく右上方にシフトした( 第I-3-22図① )。つまり,それまでの失業率のレベルと賃金上昇率の間の対応関係が変わり,49年以降は,同じ失業率に対して,より高い賃金上昇率が対応することになったのである。
これは,インフレ期待が賃金率の決定に影響を及ぼしたためだと考えられる。インフレ期待が高まると,労働者の側では実質賃金を維持しようとしてより高い賃金を求め,企業もそれを価格に転嫁できると考えるからである。ここで,30年代以降の賃金上昇率を労働需給と期待インフレ率の2つで説明してみると,上記のようなフィリップス・カーブのシフトをうまく説明できることがわかる( 同図② )。
49年以降のインフレは,石油価格の上昇という一度限りの原因によって生じた面がかなりある。しかし,その結果生じたインフレ期待が賃金上昇率に波及すると,当初のインフレの原因がなくなっても,物価上昇率自体はなかなか低くならないのである。49年以降は徐々にインフレ期待が鎮静化していった結果,シフトしたフィリップス・カーブも次第に元の関係に戻ってきていることがわかる。
インフレを未然に防止するためには,インフレ発生の素地となる可能性の大きいインフレ期待を抑えることが必要である。そのためには何といっても早期に現実の物価上昇率の加速化を防ぐことが重要である。インフレ期待の形成メカニズムにみられるように,インフレ期待には現実の物価上昇率が最も大きな影響を及ぼす。その理由が何であるにせよ,現実の物価が上がると,それはインフレ期待を発生させやすくなるのである。
競争条件の整備,流通機構の合理化なども,インフレ期待が簡単に現実化しないような市場環境を作るための政策としても位置づけることができる。競争が激しければ,企業は価格に対してより受動的に対応せざるをえないから,インフレ期待も発生しにくくなる。
また,後にみるようにインフレ期待の実現を支援するものとしてマネーサプライは重要な関係をもっているものとみられる。インフレ期待の予防という見地からもマネーサプライの適切な管理が必要となる。
石油危機後の環境への困難な適応期間を経て,企業の在庫投資行動などには慎重さがみられるようになっている。このことは,インフレ期待が再燃し難い有力な材料になっている。だからといって,インフレ期待が発生する可能性が全くなくなったとはいえない。53年末以降の卸売物価の上昇,ことにその背景にある石油価格の上昇は根強いものになりそうである。それを悪性インフレに転化させないためには,上記のような諸点に留意することが重要になってきている。
石油危機後マネーサプライ(M2)と物価の間の関係について世界的に関心が高まっている。それは,石油危機前後の2ケタ・インフレは先進国共通の現象であったし,それが起こる前に外貨準備の増大等による過剰流動性を各国とも経験しているからである。
これまでの経験からいって,M2と卸売物価は共に同方向に変動するという関係が多くみられる( 第I-3-23図 )。但し,このことは直ちに両者が因果関係を持っていることを示しているとは限らない。また,両者の変動の間にみられる時間的なズレの長さも時によって差がある。30年代から40年代にかけては,両者はほとんど一致して動いていた。しかし,46~49年については,マネーサプライは,46~47年に急増し,49年以降増加率は鎮静化していったのに対し,卸売物価は48~49年にかけて急騰している。52年後半から53年にかけては,マネーサプライの増加率はやや高まったが,卸売物価は53年末まで鎮静化傾向を続けた。
こうした両者のズレは,マネーサプライ以外の物価変動要因によるものと考えられるが,日本の場合,輸入物価の変動と関係がある場合が多いものと思われる。46年には円レートの切上げで輸入物価が下がり,48~49年には輸入物価が大幅に上がった。また,52~53年にも円レートの上昇で輸入物価が下がっているからである。
結局,M2と卸売物価の関係は経験的な共変関係であり,その因果関係については明確な答は得られていないのが現状である。しかし,物価の上昇があった時には,その近い過去においてマネーサプライが増加していることもまた確かである。これまでマネーサプライの増加を伴わずに物価が上がった例はないといえる。その理由については,まだ十分解明が進んでいないが,マネーサプライの増加はおおむね次のような経路で物価に影響を及ぼすものと思われる。
その第1は,手元流動性の増加による需要の増加である。
マネーサプライが増加するということは,企業又は家計がストックとして保有する流動性の高い金融資産が増加するということを意味する。それはフローの収益,所得などの経済環境から考えられる以上に企業の投資行動,消費者の消費行動を拡大させる力を持っているものと思われる。企業の設備投資関数,家計の消費関数に企業,家計の保有する流動的金融資産ストックを入れてみると,それがある程度の説明力をもっていることを示すことができる( 第I-3-24表 )。
こうした金融資産効果による需要の拡大によって需給が引締ってくれば,物価は上昇することになる。
第2は,仮需を発生させやすくすることからくる経路である。前述のように,インフレ期待は仮需の発生を通じて在庫投資意欲を強める。その場合企業の手元流動性にゆとりがあり,金融力が高いと仮需が実現しやすいことになる。また,もし予想インフレ率ほど現実の物価が上がらず,在庫保有によるキャピタルゲインが実現されない場合には,保有に伴う金融コスト等を軽減するため,いずれは期待よりも安い価格で在庫を市場に放出しなければならなくなる(いわゆる「投げ売り」)が,この場合も,金融力が高ければ当初の期待以上に保有を続けることによって,短期的にキャピタルロスの発生を避けようとする行動が可能になる。
前掲 第I-3-20図 の在庫投資関数の推定結果によれば,マネーサプライの増加が在庫投資にプラスに作用することが示されているのも企業の在庫行動に対して金融的側面が持つ重要性を示唆している。但し,マネーサプライのみによって仮需がコントロールできるわけではない。48~49年の経験をみても,マネーサプライの伸び率は,48年後半から次第に鈍化してきたが在庫投資は過熱化した。これは,仮需を発生させるのは基本的にはインフレ期待であり,マネーサプライはその一つの環境を形成するものだということを示しているように思われる。
第3は,投機的な資金の流れが増えることである。インフレ期待が強い時には,相対的に土地,株式,美術品など既存資産への投資が増える。企業,家計の金融力が高ければこうした投資が実現しやすい。これが活発化すると既存資産の値上がりがはげしくなり,それが新たな投資を呼ぶことになる。
こうした点に関連して46~48年当時の現象をふりかえってみよう。
マネーサプライは46年後半から次第に高い増加率を示しており,47~48年には前年比20%をこえる上昇率を続けた。これを部門別の寄与度でみると,46年に通貨不安による急激な短資流入もあって対外資産の増加がかなり寄与したあと,民間向け信用の増加がマネーサプライの高い伸びをもたらした(前掲 第I-1-54図 )。これは,資金の供給サイドからみると外為市場への円資金の散布を通じて金融機関のポジションが改善し,それが金融機関の貸付け意欲を高め,民間信用の増大へとつながっていったものと考えられる。
これを企業の側からみるとどうなっていたかを考えてみよう。企業の資金運用面の動きを,固定資産(設備投資),棚卸資産(在庫投資),金融資産(株式等の有価証券)に分けてみると( 第I-3-25図 ),46~47年には,全体としての資金運用規模の拡大テンポは鈍化する中で,金融資産への運用が相対的に増加幅が大きい,その背景として,それぞれの資産運用の収益性をみると,46~47年にかけては金融資産の相対的な有利性が高かったことがわかる( 第I-3-26図 )。
すなわち,46~47年は景気の停滞感が強く,設備,在庫投資等への企業の実物投資意欲は小さかったが,金融機関が貸出意欲を強める中で,相対的に有利だった金融資産への投資を積極化させたものと思われる。こうした中で,株式,さらには同様な理由で土地といった既存資産の価格が,卸売物価に先行して上昇することになったものと思われる( 第I-3-27図 )。これら既存資産の価格上昇は,その後に続いた輸入価格の上昇,卸売物価の上昇とあいまって,全般的なインフレマインドを強める作用を果たしたのである。
以下のような経験からみても,今後,インフレの未然防止を図っていく上で,マネーサプライの適切な管理は重要な意味をもっている。
最近のマネーサプライは,12%台で推移しており,この面では20%以上の上昇率だった46~48年頃のような状況とはかなり異なっている。しかし,前述(第1章第4節)のように,このところ国債を通ずるマネーサプライの増加寄与度が高まっており,今後景気の上昇に伴って民間の資金需要が目立って上昇してくれば,全体としてのマネーサプライが増加し,インフレにつながりやすい環境が醸成されるおそれがある。
また,最近企業の短期保有有価証券の水準がかなり高くなっていることにも注意する必要がある( 第I-3-28図 )。この部分は,マネーサプライには含まれないが流動性は高く,事実上企業の流動性保有量に含めて考えるのが適当である。最近の手元現金保有量は46~47年当時よりかなり低い水準にあるが,これに短期保有有価証券を含めて考えるとその水準はかなり高くなっている。
今後,何らかの理由で企業のインフレ期待が強まると,こうした潜在的な流動性がその物価の波及を容易し,マネーサプライの面から物価上昇を加速する危険性があるので,今後とも,マネーサプライの動向には十分警戒する必要がある。