昭和53年
年次経済報告
構造転換を進めつつある日本経済
昭和53年8月11日
経済企画庁
第3章 経常収支黒字の背景と円高の国際収支調整効果
52年初来の急激な円高傾向は国際収支,国内経済にさまざまな影響を及ぼしつつある。その状況については他章でも触れているが,ここでは輸出入及び貿易収支への影響をやや詳細にみていくことにする。
フロート制の下では為替レートの変動が国際収支の不均衡を自動的に調整するという考え方がある。為替レートの変動は貿易以外の諸項目にも影響するが,貿易収支についてみれば,為替レートの上昇が外貨建て輸出価格を上げることにより輸出数量を減らし,自国通貨建て輸入価格を下げることにより輸入数量を増やす結果,黒字が減るという論理である(レートが下がる場合は逆)。
ところで問題は,現実がこのような想定どおり動くかということで,①円レート変動が輸出入価格に与える影響,②輸出入価格変動が輸出入数量に与える影響とそのラグ,③海外物価の上昇による円レート上昇効果の相殺,④円高の国内経済に対する間接効果を通ずる貿易収支調整効果の相殺(例えば輸入物価低下により輸出物価も下がることや,輸出数量減によるデフレ効果で輸入が減るなどのこと)などが複雑にからみあうので,レート変動は確かに貿易収支を調整する効果はあるがそれにはかなりの時間を要することは否定できず,ことに短期的にはむしろ逆の効果が実際に生じている(いわゆるJカーブ効果-もともとは「Jカーブ効果」は為替レート低下に対する国際収支の改善度合を表現した用語であるので,ここでは逆Jカーブ効果というべきところであるが,以下「Jカーブ効果」と略する-)。ここでは短期的に一番興味が持たれる②を中心としたJカーブ効果の分析をいくつかの側面から検討してみよう。
なお,上記の「論理」で,外貨建て輸出価格が上がって輸出数量が減っても価格上昇の方が大きければ輸出金額は減らず,黒字縮小効果はないことになるが,日本の輸出のパターンは,例えば当庁経済研究所のSP-18モデルの商品輸出関数における価格弾性値が1.15であるから,価格変化以上に数量変化が起こることになり,輸出金額は減ることになる。また,輸入関数における価格弾性値は0.61と低い。これは日本の輸入構造が価格変化にあまり感応的でない原燃料,食料輸入が大半を占めるということを反映したものであるが,輸入の場合は外貨建て価格は不変という前提であれば,少なくともとにかく輸入数量が増えれば外貨建て輸入金額が増えることになる。従って,①~④の問題がなければ,円高は確実に貿易収支の黒字を減らすはずである。
上記の「論理」は,円高分は直ちにすべて外貨建て輸出価格の引上げに回り,外貨建て輸入価格は不変で円高分はすべて円建て輸入価格の下落になると考えていることになる。しかし,現実には,例えば円高が生じた時の輸出契約はすでにすんでおり,これがドル建てであれば外貨建て輸出価格は不変で円建て輸出価格は下がってしまい,いわゆる為替差損を生ずる。しかし,日本の輸出業者とすれば円の手取りは減らしたくないから,次の契約の際は円建て価格の下落分の取り戻し,ドル建て価格の引上げに努めるであろう。それがある程度成功したとして,次に競争上そのことが不利なことがわかれば,再びドル価格を下げるかも知れない。そして,次々に円高が訪れればこのような波が重なってくる。従って,時の経過とともに輸出入価格の変動は複雑な姿を画くであろうが,現実の推移は前年同月と比べて,最近はドル建て輸出価格について円高分のほぼ8割,円建て輸入価格についてはほぼ丸々転嫁されていることは前出 第1-2-6表 でみたとおりである。なお,円高が目立ち始めた昨年初来本年4月まで,円レートはIMF方式で31%上昇しているが,輸出価格は円建てで3%低下,ドル建てで27%上昇,輸入価格は円建てで18%低下,ドル建てで8%上昇している(通関ベース,50年基準指数)。
もちろん,我が国の輸出の仕向地はアメリカばかりではなく,円とのクロス・レートがあまり変化していない国に対しても輸出されている。例えばマルクは昨年1月から本年4月にかけて対ドルで約17%切上がっており,円との関係では1マルク122円が109円へと変化しただけである(約12%の上昇)。そこで,円の実効切上げ率(IMF調べ,各種通貨に対する切上げ率の加重平均)をみると,52年1月に対して28.1%の切上げとなっており,対ドルレートの上昇率とさ程変わらないことから,以下ではこの点を特に考慮せずに議論を進めることとする。
ところで現地価格,ないしは外貨建て輸出価格が,どの程度為替レートの切上がり幅に「追随」するかは,仕向地における競争財の価格,一般物価水準,所得水準,当該製品に対する価格の弾力性,我が国における物価,輸出ドライブ圧力,生産性の向上の度合等によって異なろう。
いま産業別に追随の程度をみると(前掲 第3-1-18図 ),円建て価格の大幅な低下-ここでは外貨建て価格の小幅上昇を意味する-となっているのは,繊維製品,化学,鉄鋼などであり,これらは価格競争力が弱まったり,製品差別化がないので非価格競争力がなかったり,輸出ドライブがかかったりした品目とみられ,この面からの円高の企業収益に与える打撃も大きいと考えられる。他方,自動車は円建て価格がほぼ不変であり,完全に外貨建て価格への転嫁が行われている。科学光学機器もこの類である。これらは高加工度機械産業製品であり,競争力が強く,需要の所得弾力性も大きいものである。なお,船舶の円建て価格が上がっているのはタンカーから単価の高い貨物船などに内容が変っていることによるところが大きい。
円高による為替差損を避けるために,近時我が国企業も徐々に輸出契約の円建て比率を高める努力を行っている(当庁「企業行動調査」によれば製造業平均の円建て輸出比率は45年度22.2%,49年度27.4%,52年度33.6%。52年度の業種別では,精密機械69.1%,自動車45.9%,一般機械49.7%,繊維17.0%,家電16.2%,鉄鋼2.5%)。こうしたなかで業種別には,確かに円建て比率の高い業種は円建て価格をあまり下げなくてもすんだようにみえる。しかし,最近はあまりにも円高が激しいため,ドル建て契約への逆戻りや円建て契約価格の引下げを海外輸入業者が要求するケースなども出ているようである。
これに対して西ドイツの場合,マルク建て輸出の比率は87%ともいわれ,我が国よりもかなり高いが,これは,①すでにマルクが一種の国際通貨であること,②西ドイツの輸出の構成が,輸出価格を引上げやすい商品(一般機械など)の割合が高いことなどの結果とみられよう。
このような円レートの変化の輸出入価格への影響に波があるのに加え,輸出入価格の変動が輸出入数量に与える影響とタイミングにも遅れと波がある。かくして生ずる貿易収支ないし経常収支の調整の遅れと一時的に生ずる逆効果すなわち,輸出入数量はあまり変らず,外貨建て輸出価格が上がり,黒字が増大する効果をJカーブ効果といい,その大要は第1章でも述べたが,ここではそれが生ずるメカニズムをやや詳細に検討してみよう。
まず輸出入数量の反応の遅れがかなりある理由を分類してみると,①状況の変化を認知するまでの時間,②意志決定までの時間,③財の配送のための時間,④在庫の調整に至るまでの時間,⑤実際の生産や生産計画を調整するまでの時間,等々がかかることがあげられよう。
円レートの変動が契約価格に影響する遅れないし波については前述のとおりである。これは,時計やカメラのような,円建て比率が高く,強い競争力をもっているものは円建て価格が不動で推移するが,多くの品目は一旦下がってから戻すという動きをしている(前出 第3-1-18図 )。
次に,契約価格と通関価格の間にラグがある。契約期間中輸出入の数量は変らないが,価格については,契約ですべてが外貨建てとなっていれば国際収支には影響がないが,輸出の円建ての比率が高く輸入の円建ての比率が低い場合には黒字が一時的に生ずる要因となる。いま輸出物価について日本銀行調べのものがほぼ契約価格とみなしうることに着目して,これを通関単価の指数と比較してみると,品目によっては 第3-3-1図 のような遅れがあり,新規契約分についての契約価格変更が行われても円建て通関価格の方は既契約分が通関している間は変化しない,というケースがあることがわかる。
しかし,一番重要なのは価格変化に対する数量変化の遅れであり,上記①~⑤の遅れの要因はほとんどこれに関連する。価格変化が起こってから数量変化が生じ,国際収支統計に現われるまでには,「認知の遅れ」,「意思決定の遅れ」がある上に,相手国側の在庫状況が影響する。例えば,アメリカで日本製自動車の在庫が少なければ,価格上昇による需要減が見込まれても,在庫補充のための輸入増は続くかもしれない。また,日米間の輸送期間は1ヵ月前後かかるので,現地販売量が減り始めても日本からの輸送は直ちに止めることは困難である。これらの需要変動に生産をすぐ調整することもむずかしい。また,企業が多少採算が悪化しても輸出市場をある程度維持するために輸出をし続けるというケースがあり,特に固定費の割合が高い産業においては,稼働率を維持するため,売上げ単価が低下してもそれが変動費を下回るまでは輸出を続けるという場合も少なくない。こうした状態がしばらく続き,どうしても採算上続けられなくなって遂に転換するというまでにはかなりの時間を要しよう。
輸入に関しては,原材料を通ずる場合は生産の迂回期間中はラグを伴うし,完成財の場合は流通経路を通っている間は需要者の反応は現われ得ない。
次に輸出全体の数量変化が価格変化にどの程度遅れるかをオーバーオールに計測してみると,輸出に関しては,3ヵ月以下で変化が進む分は長期的に起こる変化の総計に対して2割にもみたない。9ヵ月位遅れてあらわれる効果をあわせてはじめて6割程度効果が出てくるとみられる( 第3-3-2図 )。輸入については輸出よりやや短い期間で調整が終了する。
以上は輸出と輸入とのそれぞれについて為替レートへの調整の速度をみたものであり,これによってもJカーブ型の経常収支の動きが説明できる。しかし例えば,為替レートの変化が輸出を減少させると,これが総需要を変化させ,原燃料輸入に影響を与えたり,輸入価格が下落することから輸出価格に影響が及ぶことなどの相互の関連も無視するわけにはいかない。こうした国民経済全体に対する連鎖的な関係をも含めて,為替レートの変化が経常収支にどのような変化を与えるかを52年度の現実の例に即してマクロ・モデルによってみると 第3-3-3図 のようになる。これが典型的なJカーブ効果であって,最初に現われた円高のJカーブ効果が終って赤字要因になる頃には,次の円高によるJカーブが現われてこれを相殺し,余って黒字になり・・・・・・という過程が示されている。こうしたモデル計算の上では,結局52年度中の円高は経常収支を全体として黒字にする方向に働いた。もしこれ以上円高にならなければ,そして世界貿易量や世界の貿易価格などの他の条件が一定であり,特殊な外生的要因が発生することもないこと等を仮定すれば,53年度には52年度中の円高の影響が現われ,それが経常収支の黒字を縮小させる要因として働く,という計算になるが,本年4月以降も一層の円高が生じているので,まだJカーブ効果は続きそうである。
以上の議論は,円高のみが生じて輸出入に関する外国の価格は不変であることを前提にしていた。しかし,現実はそうではない。例えば,アメリカにおいて,鉄鋼や自動車の価格が今年になってからも引き上げられている( 前出3-1-10表 )。このような世界的なインフレの進行は日本のドル建て輸出価格の引上げを容易にしているとともに,それによる数量減を少なくし,円高の調整効果を弱めている。事実,52年に入ってからの日本のドル建て輸出価格の上昇は大きいが,それに比べれば低い上昇率ながらも世界工業品輸入価格も上昇してきている( 第3-3-4図 )。
最後にいまひとつの要因があるのでそれをみよう。マルク高が輸出抑制力として強くないといわれる西ドイツと比較しても,日本の輸入に占める原燃料の輸入比率ははるかに高い。従って,円高が原料安,国内物価安定,輸出価格安定という経路で輸出抑制力を弱める程度が西ドイツの場合より大きいといえよう。これも円高の貿易収支調整効果をやや長期的にみて弱めることになろう。
円高は貿易収支以外の国際収支に対しても影響する。52年度中に現われた目立った動きについては第1章で述べたが,ここではやや長期的に,かつ西ドイツの場合との比較を混えてみよう。
貿易外収支は47年度までは10億ドル台の赤字で推移していたが,48年度以降急増し,最近は年に60億ドル程度の赤字になっている( 別表6 )。その主因は運輸収支にあるが(47年度の赤字10億ドル,52年度の赤字23億ドル),その他,旅行収支(同じく,6億ドルから18億ドル),手数料(同じく4億ドルから12億ドル)なども目立っている。
このうち,円高に関係しているのは旅行収支の赤字幅増大である。西ドイツの例をみても( 第3-3-5図 ),明らかにこの項目の赤字が増えている。計量的にみても両者の関係は有意と認められる( 第3-3-6表 )。なお手数料の中には証券売買の手数料が含まれており,これが後述のようにレート変化に伴なうものがあるとすれば,この項目も円高に若干の関係があることになる。
長期資本収支は,47,48年度の赤字幅の急拡大とその後の急減,そして51,52年度と再び赤字が増えているが,未だ91億ドルという48年度の赤字幅には達していない(52年度は24億ドル)という推移を示している( 別表6 )。長期資本収支の動きには,内外金利差やその他の多面的な内外の経済情勢の差が影響するが,日本の場合には,資本の流出入に対する政策態度が影響している。
円高と長期資本収支の動きとの関連をみる場合,円が高くなりつつある段階と高くなって比較的安定している段階に分けて考えると,円が高くなって落ち着いた段階においては,次のような点がみられるものと思われる。
すなわち,まず本邦資本の直接投資については,前述のような現地生産への転換の動きが出るので,流出が増加すると考えられる。第2に,延払信用も円高によって輸出品の構成がプラントの比重が高まる形に変っていけば,プラントに結びついた信用供与が増えるということになろう。これらを総合すると,直接投資,延払信用といった項目で長期資本収支は赤字が増えていくといえよう。事実,西ドイツの例をみると( 第3-3-7図 ),そのような傾向が明らかによみとれる(なお,本図では借款の中に延払信用も含まれている)。
ところで,日本の場合は未だ円の相場が流動的なため,このような動きが必ずしも明確に現われていない。例えば本邦資本の延払信用はむしろ減っている(52年1~5月の8億ドルに対し本年1~5月は3億ドル)。これは,船舶輸出の減少に加え円建て契約の多い船舶輸出において,早く円を支払って外貨の負担を減らそうとする外国輸入業者側の行動が反映しているものとみられる。
以上のように,円高の局面によって動きは区々であるが,総じていえば,円高は貿易収支以外の項目に対しては比較的早く赤字増大要因になっていると考えられる。