昭和53年
年次経済報告
構造転換を進めつつある日本経済
昭和53年8月11日
経済企画庁
第1章 昭和52年度の日本経済―その推移と特微―
国際収支の大幅黒字が持続し,それを背景として円レートが急騰したことは,52年度経済を大きく特徴づけるものだった。こうした一連の動きは,70年代後半の我が国の経済運営が,国際経済の側面から新たな転機に直面していることを示すものであり,内外均衡の下での安定的成長を目指す我が国経済に多くの問題を投げかけるものであった。また,円レートの変動自体が経済のさまざまな側面に影響を及ぼしたことも重要である。黒字と円高にかかわる中期的視点からの検討は第3章および第4章で行われているので,以下では,52年度中に現われた点を中心に,国際収支の推移の特徴及び円レート上昇の各種の影響を整理してみよう。
まず,52年度の国際収支の動きを簡単に振り返ってみよう。
最も特徴的だったのは,貿易収支の黒字が大幅に拡大したことである。52年度の貿易収支は,ドルベースで見た輸出の大幅増加(51年度694億ドル→52年度834億ドル)と輸入の伸び悩み(582億ドル→630億ドル)によって期を追って黒字幅を拡げ203億ドルの大幅黒字となった(51年度は111億ドル)。貿易外収支はほぼ前年度並みの赤字(61億ドル→59億ドル)にとどまった結果,経常収支は140億ドルの黒字となった。一方,長期資本収支は,後述するように,52年10月以降円レートの上昇と関連して,外国資本の対日証券投資が大幅に増加したことを主因に,本年1~3月期には黒字になるという特殊な動きを示したが,円建て外債の増加などによって本邦資本の流出が拡大したため,年度としては赤字幅が拡大した(16億ドル→25億ドル)。この結果,総合収支は121億ドルと,過去最高である46年度の80億ドルをかなり上回る大幅黒字となった。
こうした国際収支の大幅な黒字を背景にして,円の対ドル・レートは何回かの急騰場面を繰り返しながら52年度中大幅に上昇した。年初には290円台で始まった円レートは,10月に変動相場制移行後の最高値(254円)を抜き,53年7月現在では210円台を割る水準で推移している( 第1-2-1図 )。1年半の間に80円近くも円レートが上がり,その上昇率は35.5%(52年1月~53年6月,IMF方式)に達するが,このような短期間にこのように大幅にレートが上昇したことは例をみない。ニクソン・ショック時の円レートの上昇は360円から308円の52円であり,上昇率は17%であったことに比してもひと回り大きな上昇である。
1970年代以降の日本経済にとってニクソン・ショク,石油危機に次ぐほどの大きな環境の変化が訪れたことになる。
前述のとおり,内外の注目を浴びた経常収支の黒字増大はもっぱら貿易収支の黒字に由来している。
確かに,輸出は通関統計で前年度に比ベ,ドルベースで19.9%も増え,輸入は6.5%の増にとどまっており,その結果大幅な黒字が生じたのであった。
しかし,この輸出増加の多くの部分はドル建て価格の上昇に由来している。すなわち,数量ベースの輸出の増加は7.7%だったのに対して,ドルベースの輸出価格は11.4%も上昇している。これは,円高に対応して企業がドル建て価格の引上げを図ったためである( 第1-2-2図 )。
52年度の輸出(ドルベース)を品目別に見ると,科学光学機器の前年度比40%増,自動車の38%増,一般機械の36%増などが目立っている。一方,鉄鋼の輸出は減少となり,テレビもアメリカに対する輸出自主規制措置もあって減少した。通関ベースでは輸出は前年度に比べ141億ドル増えているが,そのうち増加額が大きかった上位3品目をとると,自動車が36億ドル,一般機械が29億ドル,科学光学機器が8億ドルを占めており,これらの高加工度商品が日本の輸出を牽引したことがわかる。地域別にみると,アメリカ50億ドル,東南アジア38億ドル,中近東17億ドルといった地域の寄与が大きい。四半期別の推移をみると,53年1~3月期の急増が目立つが,これは,ドル建て輸出価格の上昇に加えて,マイナスを続けていた船舶が,大型プラント船の引き渡し等から増加したことが大きく,その他,鉄鋼についてはアメリカのトリガープライス制の導入を控えての増加,自動車については現地在庫補充,また一般に期末にかけての円相場急騰に伴う積み急ぎなど,一時的とみられる要因が重なったことによるところが大きい( 第1-2-3図 )。
輸入の伸び悩みの基本的要因は内需不振にある。すなわち鉱工業生産の伸び悩みを反映して,輸入全体の63%を占める原燃料の輸入が4.8%の増加にとどまった。しかし,食料品は9.1%,製品類は9.9%と平均以上の伸びを示している。ことに,四半期別にみると,円高の影響もあって,今年に入ってから製品類の輸入増が目立っている( 第1-2-4図 )。52年度中,通関ベースで輸入は44億ドル増えたが,上位3地域は東南アジアの13億ドル,中近東の11億ドル,西欧の9億ドルの増であり,アメリカからの輸入は1億ドルしか増えていない。これは日米貿易摩擦の背景となった現象とみられよう。
貿易外収支の赤字幅は前年度に比してあまり変わらなかったが,その中身をみると,旅行収支の赤字が15億ドルから18億ドルに増加している。旅行収支の赤字幅拡大はある程度趨勢的なものであるが,最近は特に円高により日本人が海外に出やすくなり,外国人が日本に来にくくなったことも影響していよう。
52年度において,長期資本収支の赤字幅は9億ドル弱拡大したが,その中で以下の点が目立つ。
第1は,本邦資本の証券投資が51年度の2億ドル弱から,52年度は25億ドル強に急増したことである(流出要因)。これは,基本的には我が国の市場環境の好転による円建外債の活発な発行などによるものであるが,政府の基本的立場とも合致するものであった。第2は,外国資本の対日証券投資が前年度の15億ドルから38億ドルに増加したことである(流入要因)。これは,円高が進みつつある時には,日本の有価証券を持っていればその後の円高による差益が得られるとの期待の下に生じたものと思われる。もっとも本年4月においては,政府の非居住者の債券取得制限措置の結果,対日証券投資は急減した。第3は,外債発行が前年度の14億ドルから8億ドルに減ったことである(流入減要因)。これは日本の急速な金利低下によって内外金利差が縮小ないし逆転したことなどによるものであろう。
なお,外国資本の対日証券投資については,年央ごろまではほぼ収支尻は均衡していたが,10月以降大量の流入超に転じた。すなわち,52年夏頃には,我が国国内金利の低下に伴い,内外金利差はむしろ逆転し,金利面だけからすれば対日証券投資の魅力は薄らいでいたといえようが,10月以降円の先高感が急速に高まると,海外筋では,先物でカバーすることなしに対日証券投資や自由円運用を行えば,円高による差益を期待しうるとの投機的な動きもみられた。
また,このように為替市場で円の先高感が強まると,海外業者から円の先物買いが増大するとともに,国内でも輸出業者が円先物買いに走る一方,輸入業者は円先物を売り控える動きがみられた。この結果,直先スプレッドが内外金利差を上回る局面もみられ( 第1-2-5図 ),こうした状況の下では,直物ドルの売却によって得た円資金を日本の証券等に運用すると同時に,先物ドルを買っておけば,ドル運用を行う以上の利子を期待することができるという金利裁定取引も活発にみられた。
円レートは,短期的には外貨の需給関係で決まり,中長期的には基礎的収支なかんずく経常収支の動向が円レートの動向に大きな影響を及ぼすと考えられ,また,海外の関心も経常収支の動向に集まっていることを考えれば,現実には円レートが経常収支の変動を大きく反映しているということができよう。こうした点を考えれば,我が国の経常収支の黒字が円高の基本的要因となったことは否めない。
しかし,円レートは,我が国の経常収支のみによって決まるわけではない。第1に,レートの変動には,市場心理の与える影響が大きく作用する。今回繰り返された急騰局面を振り返ると,海外での外国政府の責任者の発言等をきっかけとして始まった場合が多い。第2に,11月頃から,ドルが円以外のマルク,スイス・フラン等に対しても下落したことは,アメリカの側での世界全体に対する経常収支の大幅赤字等の動向も円の対ドル・レートを上昇させた要因だったことを示している。
さらに,経常収支と円レートの間にはいくつかの複雑な関係が考えられる。その第1は,いわゆるJカーブ効果(第3章第3節参照)が働いて52年度中にかなりドルベースの輸出額を増加させたことである。
レートが上昇(下落)しても,それが実際に経常収支の赤字(黒字)効果をもたらすまでにはかなりのタイムラグがあり,短期的にはかえってドルベースでみた黒字(赤字)は増加するというのがいわゆるJカーブ効果である。こうした効果が生ずる一つの原因は,円レートが上昇した場合,輸出から得られる円の手取りを維持しようとしてドルベースの輸出価格が引き上げられる一方,それが輸出数量の減少をもたらすまでにはかなりのタイムラグがあるからである。事実,すでに述べたように,我が国のドルベースの輸出価格は,円高をカバーするためにかなり引き上げられているし,第3章で述べるように,輸出関数の推定結果からみると,価格の引上げが輸出品の対外競争力を弱め,輸出数量に影響するには半年から1年半にわたる長期のラグがあることが観察されている。こうした条件下で,円レートが期を追って加速度的に上昇率を高めたため,年度当初からの上昇の効果が現われる頃,経常収支の黒字が既に拡大しているためさらに一段とレートの上昇が生ずることとなり,一時的な黒字効果の方が赤字効果を打ち消し,年度としてはかなりの黒字効果が残ることになったものと思われる。すなわち,52年度の経常収支の黒字は,「円高にもかかわらず」生じたのではなく,「円高であるがゆえに」生じた分がかなりあったということができる。
第2は,円レートの上昇が何度か繰り返されたため,輸出入業者が輸出を早め,輸入を遅らせる動きが生じたと考えられる。このようなことから,52年度においては,レートに関して形成された期待が国際収支調整機能を相殺する方向に作用した面があったといえよう。
円レートの急騰が52年度の日本経済における特徴的な現象だったことは間違いない。しかし,懸念された「円高不況」ほどの程度現実のものだったのだろうか。この点を冷静に振り返ってみると,円高の影響は52年度中は主として心理的側面および価格と企業収益面を中心に現われ,実体経済面には当初懸念されたほどには現われなかったように思われる。また,円高のデフレ効果がやがて現われてくるとしても,他方では円高に対する企業の対応が進み,物価面への好影響などプラスの面が認識されるつれ,最近は心理面での動揺も落ち着きつつある。いずれにせよ,円高は日本経済に多面的な影響を及ぼしつつあるが,ここでは52年度中の景気に関連した部分に視点を紋って検討することとする。
円レートの急騰は直ちに企業マインドに影響を与えた。今回の円高の過程の中でも,過去最高水準を超え,1ヵ月余りの間に260円台から240円台に上昇した昨年秋の円高の企業心理面への影響はことに大きかった。当庁の「企業経営者見通し調査」(以下「ビジネス・サーベイ」という)によると,今後3ヵ月の景気について,上昇するとみる企業の割合は,昨年8月調査では11%だったが,11月調査では2%に落ち,今後下降するとみる企業の割合は2%から28%に急増している。
これには,レートの絶対的なレベルもさることながら,さらに以下のようなことが影響したものとみられる。
第1は,レートの変動が企業の予想レンジを超えて変動したことである。輸出入に従事する企業は,事業計画を考えるに当たって,それぞれ独自の社内レートを設定している。当庁の「企業行動調査」によれば,52年度当初には,ほとんどの企業が270~300円の範囲で社内レートを設定していたので,52年度中におけるレートの変動は大部分の企業にとって予想外のことであり,将来の見通しを大きく狂わせる要因となったものと思われる。また,レート変動のスピードが急速で不規則だったことが企業の対応を難しくし,模様ながめの気配を強め,全体の企業マインドを鎮静化させることになった。
第2に,円高のデフレ効果などが懸念される中で,それがいかなるチャンネルを通じて,どのようなタイミングで,どの程度の深刻さでもたらされるかということについての不確実性が大きかったため,景気の先行きに対する不安感が増幅されたものと思われる。以上のような円レートの上昇に伴う心理的動揺は,企業だけでなく国民全体についてもかなり大きいものがあり,それが企業,消費者の態度を慎重化させ,設備投資,消費支出,住宅建設等の内生的需要の盛り上がりを抑制する方向に作用したものと思われる。
しかし,我が国の経済主体は,これまでニクソン・ショック,石油危機といった急激な国際環境の変化に対して柔軟な適応力を発揮してきた。
今回の円高についてもデメリットだけでなく,メリットがあることも認識されるようになってきた。さらに昨秋に比べ今年に入ってからは景気も明るさを増してきている。このため,今年の2月以降に再び訪れた円の急騰に対しての経済主体の受けとめ方は比較的冷静であった。上記「ビジネスサーベイ」によれば,景気上昇とみる企業の割合は昨年11月調査時の2%から本年2月調査では9%,さらに5月調査では23%と高まっている。他方,下降とみる企業は,それぞれ,28%,3%,1%と急速に減っており,まさに様変りの感がある。
円レートの変動は,通貨の価格が国際的に変動することであるから,それはまず我が国全体の価格体系に変化をもたらし,価格の変化がさらに経済の動き,国民生活に影響を及ぼす。ここでは,価格面への波及の第一段階として,輸出入価格への影響,その結果として現われる交易条件の変化の意味を考えてみる。
一般に為替レートの上昇は交易条件の改善をもたらすものと考えられるが,その具体的な程度は当該国の輸出入品の世界市場における状況によって決まるものである。52年度の我が国についていえば,外貨建て輸出価格の引上げ,外貨建て輸入価格の落ち着きがあったため,円レートの上昇が大幅な交易条件の改善に結びつくこととなった。
すなわち,円の対ドル・レートと輸出入価格及び交易条件について,円高が目立ってきた昨年後半以降の時期の状況を示すと, 第1-2-6表 のようになる。
まず,輸出価格についてみると,例えば,昨年6月においては,円レートが前年同月に比べ8.7%上昇し,仮にドル建て価格を不変とすれば円建て価格は8.7%下がるはずであるが,現実には4.7%上昇しており,いわば円建て価格を据置いて円高分を全部外貨建て価格に転嫁するどころか,それ以上の輸出価格の引上げを行っていたことになる。これは,ドル建て輸出価格が円高分の転嫁のほか,国内卸売物価の上昇等他の要因があったため,円レートの上昇率以上に上昇したためである。しかし,その後円レート上昇率が高まるにつれて円建て輸出価格を据置くことは不可能になり,10月からは前年を下回るようになる。そして,本年1月前後にはドル建て価格への転嫁率が6割前後になるが,53年3月以降は8割程度のところまで戻している。
他方,輸入価格は始めのうちは必ずしも円レートが上がった分だけ円建て価格が下がるということにはなっていなかった。例えば,52年6月には円レートの上昇が8.7%であるから,円建て輸入価格も8.7%下がるかというと,現実には0.2%の上昇になっている。これは外貨建て輸入価格が上がっていたためである。しかし,今年に入ってからは外貨建て輸入価格も安定してきたので円高分だけほぼ完全に輸入価格が下がるようになっている。
このように,最近においては,輸入価格は円高分だけ下がり,輸出価格は8割程度が外貨建て価格引上げになっているので,交易条件は顕著に改善をみることになった。52年度中交易条件が最低であったのは5月の74.7(45年=100,通関統計)であったが,本年4月には92.3にまで達している。
我が国の交易条件は,石油危機後,石油価格の上昇を主因にかなり悪化してきた。これがさまざまの意味で国内にデフレ圧力をもたらしてきたとすれば,52年度中生じた円高による交易条件の好転はデフレ圧力を軽減させ,リフレ的影響を及ぼすと考えていいだろうか。
第1に,所得面での効果をみてみる。輸出入数量が変らなければ,交易条件の変化は,その分所得を移転させる。石油価格の上昇によって交易条件が悪化した時,我が国の石油に対する需要の価格弾力性は小さかったため,石油の輸入量は減らず,所得がその分流出し続け,国内にデフレ圧力をもたらした。従って,今回の円高による交易条件の好転についても,タイムラグをもって輸出数量の減少効果が現われるまでの間は,一時的に所得が流入してくることになる。
この交易条件の変化に伴う所得の増加は,我が国の場合は第一次的には企業に配分される割合が大きい。輸入の多くが生産のための素原材料だから,輸入価格の低下はとりも直さず,企業の生産費用の低下となる。他方,円建て輸出価格は少し下がっているので,輸出産業にとっては所得減になるが,52年度においては企業部門を総合して考えると交易条件の改善はむしろ収益を増加させる方向に働いた(後出 第1-3-8表 参照)。この収益の増加は,企業の在庫減らし圧力の軽減,設備投資意欲の増大等を通じて経済に対して何がしかの好影響をもつはずである。
次に,企業が円高差益をすべて直ちに需要者に提供するとすれば,企業の収益増はゼロになるが,国内物価は下がることになる。現実には財貨の種類により輸入段階から最終需要段階までの距離が異なるし,競争状態も異なるので,物価への影響は徐々に現われることになるが,後述するように現実に物価安定効果も生じつつある。こうした物価の安定も,実質所得を高め,消費マインドに好影響を与えるなどの効果がある。
石油等資源の海外依存度の高い我が国は,48~49年の一次産品価格の高騰により主要工業国に比しても大きな交易条件の悪化を経験した。それが最近の一次産品価格の落ち着きに急速な円高が加わって,48年末からの変化率は欧米並みの水準にまで改善してきている( 第1-2-7図 )。石油危機下の輸入価格の上昇は,インフレの引き金となり,実質所得を低下させ,大きなデフレ効果をもたらし,スタグフレーションの原因となった。今回の輸入価格の下落は,こうした状況のひとつの根源を,部分的であるにせよ,解消する条件になっているといえよう。ことに,52年中OPECの原油輸出価格が2度にわたって合計約10%引き上げられたが,これを上回る円高があったため,原油の円建て輸入価格は10%下落している。我が国では,石油価格の波及効果が大きいだけに,それが日本経済全体に及ぼす好影響は無視できないものがあるとみられる。
以上みてきたように,交易条件の好転が経済にどう影響するかを判断するためには,いくつかの側面からの検討が必要となるが,特に,企業収益への影響及び物価全体への影響が重要なポイントになる。以下ではこうした点について検討する。
円レートの変動は,企業収益を大きく左右する。これにはプラス面とマイナス面があり,両者を合わせて収益にどういう影響が現われるかは経済環境,企業の対応等によって異なる。また業種別にみても収益面への影響は大きく違ってくる。
今,仮に52年度の輸出入規模を基準にして交易条件が不変,すなわち円高分だけ円建て輸出価格も輸入価格も下がると考えると,輸出額(21兆8千億円,通関ベース),輸入額(18兆5千億円)がそれぞれ14%(52年度平均でみた円レート上昇率)減る。輸入の3分の2を企業の原材料輸入とし,輸出から得られる所得はすべて企業に入ると仮定すれば,原材料コストは1兆7千億円減り,輸出の手取りは3兆1千億円減るから,企業全体としては1兆4千億円の収益圧迫要因となる。原材料以外の輸入額の低下9千億円は,輸入した企業が価格を下げれば消費者の所得上昇要因となるが,価格が下がらなければ企業の収益となる。輸出の規模が輸入より大きいから,交易条件が不変なら全体として若干収益が減ることになる。
もちろん,これはごく単純な仮定を置いた場合であり,現実には輸出入契約の円建て比率の状況により円の手取りは変わるし,52年中にみられたようにドル建て輸出価格への転嫁が行われれば交易条件は改善する。また,企業も合理化,製品構成等の面で適応努力を行うから,最終的に収益がどう変化するかは一概にいえない。
そこで,輸出入数量は不変としておいて,52年に入ってから最近までの交易条件の好転が,業種ごとにみて収益にどう影響するかを試算したものが 第1-2-8表 である。この計算では,輸出面では,①売上げに占める輸出の比率が高いほど,②輸出価格の下落幅が大きいほど,収益は圧迫される。一方,輸入面では,輸入原材料比率が高いほどコスト低下のメリットを受ける。両者がそれぞれどの程度かによって業種ごとの円高のメリット,デメリットが異なってくる。円高に対する対応の業種別検討は第4章で行うが,この表でとりあげた産業全体を総合して考えると,交易条件の変化は企業収益にプラスに作用したことがわかる。
但し,以上は,交易条件の直接的影響のみを計算したものであり,円高に伴いややラグを置いて貿易数量への影響が現われてくれば,輸出の停滞,国内における輸入品との新たな競合などが生じ,それが企業収益にマイナスの影響を及ぼすことも考えられる。
前述したように,52年度中の円レートの上昇は,輸入物価を大幅に低下させた。以下では,そうした輸入物価の低下が国内価格にどのような影響を及ぼすか,その間にどのような問題点が浮かび上がってきたかをみてみる。
52年度の卸売物価は極めて落ち着いた推移を示したが,これには円高による輸入品物価の低下が大きく寄与している。すなわち,52年度の卸売物価の上昇率は0.4%であったが,そのうち国内品は2.0%上昇しているが,輸入品は実に7.3%下落し,輸出品も5.3%の下落を示した。ここで,円高がこれら輸出入品の物価に与えた効果を除いた場合の卸売物価の推移をみると( 第1-2-9図 ),卸売物価は51年度よりは落ち着いた動きを示すものの,52年7~9月以降に現実に現われたような前期比マイナスといった姿にはならないことがわかる。
以上は,輸出入価格に対する円高の卸売物価に対する直接的影響をみたものであるが,それだけでも52年度の卸売物価を2ポイント程度押し下げる効果があったものと推計される。
さらに,このような円高による輸入価格の低下が各産業の投入コストにどのような波及効果を及ぼし,産出価格にどのような影響を及ぼす力があったかを45年の産業連関表を用いて試算すると, 第1-2-10図 のような姿になる。この試算は,瞬時にすべての波及が完全に行われると仮定しており,需給関係,流通事情等を考慮していないといった限界があるので,現実にはこれ程の効果は現われないが,この結果からみると,52年度中の円高に伴う輸入価格の低下は,卸売物価全体としては4ポイント程度(直接効果を含む),うち国内品物価だけをとると2ポイント程度引き下げるだけの潜在的なカがあったものと思われる。そして円高の物価への影響は,タイムラグをもちながら徐々に現実にも波及しつつある。
円高に伴う輸入価格の低下は消費者物価の安定にも寄与する。前述の卸売物価への円高効果試算と同様の限界を含んだ上で,後出 第1-3-5表 の消費者物価関数によって試算すると,52年度中の円レートの上昇は消費者物価を1ポイント弱低下させる力をもっていたものと思われる。52年末以来の消費者物価の安定には,円高の効果がタイムラグをもちながら徐々に波及してきていることも影響しているものと思われる。
当庁で行った3次にわたる輸入品の小売価格動向調査によると( 別表1 参照),輸入物価,小売物価とも下落した品目数は,第1次(52年6月調査)が6品目,第2次(52年12月)が15品目,第3次(53年4月)が16品目となっており,末端段階への値下げの波及が時が経つにつれて広がっていることがわかる。これらの品目の小売価格が低下したのは,基本的には国産品との競争または輸入品相互間の競争関係が強いことが作用している。一方,輸入価格は下落したものの小売価格は上昇又は横這いとなった品目数は,第1次が9品目,第2次,3次が6品目となっており,次第に減ってはいるがまだ輸入価格の低下が小売価格の低下に結びついていないものが残っている。これは,輸入品のもつ高級品イメージが強かったり,国産品との競合関係が少ない場合には,輸入価格低下の効果が,加工流通過程で吸収され末端価格まで波及しないことを示しているものと思われる。
以上みたように,こうした調査は,円高のメリットが価格低下として国民に及ぶためには,競争条件の整備,流通機構の合理化等が重要であることを物語っているといえよう。
以下みてきたように,円レートの上昇が国民経済にいかなる影響を及ぼすかについては,多面的な検討が必要であり,円高のもつデメリットを過大に問題視する必要はないといえる。
円レートの上昇に伴う相対価格の変化によって輸出の減少,輸入の増加が生ずれば,それは明らかにデフレ効果をもち全体の需要水準を低下させる。しかし一方では,輸入価格の下落は物価を安定させ,実質所得を高めるから,個人消費,住宅投資等の需要水準を高める可能性もある。
また,相対価格の輸出入数量への影響のラグ,輸入物価の卸売物価,消費者物価への影響のラグなどが総合される結果,円レートの上昇の影響は時を追って経済全体に次第に浸透していくことになろう。
以上のような点からみて,52年度に生じた円高はかつてないスピードと大きさをもっていたため,やはり無視しえない影響を経済の各面に現わしつつあり,短期的な景気問題に限ってみても,我が国経済が直面するいくつかの課題を浮き彫りにするものであった。
その第1は,内需拡大による景気拡大の重要性である。Jカーブ効果によって生ずる「円高が円高を呼ぶ」メカニズムが短期的には円レートの過剰調整を生む可能性があり,そしてそれは国内産業に過大なインパクトを与えることになり,その基本的原因のひとつに国内生産活動の低迷による経常収支の黒字があるとすれば,このような経験の示唆する教訓は自明であろう。さらに円高がタイムラグをもって,輸出入数量を変化させれば,それによるデフレ的影響が顕在化する可能性もあり,内需を中心とした景気回復は依然として重要な課題である。
第2は,変動相場制の国際収支調整能力の限界である。上記のように,レートの動きは,短期的には国際収支の不均衡をむしろ増幅させ,それが結果的にはレートを過剰調整の方向に動かすおそれもあり,それが実体経済に攪乱的影響を及ぼしてしまうとすれば,フロートだけに国際収支調整を任せるのではなく,国際収支均衡をめざした各国の経済運営が依然として重要ということになる。その際,黒字国の内需拡大努力が必要であると共に,基軸通貨国の国際収支均衡維持努力も不可欠となるなど,主要国の共通した努力が望まれる。
第3は,円レートの上昇のマイナス面のみに目をとらわれることなく,その結果生じた交易条件の変化を積極的に生かすことである。円レートの上昇によって生じた大幅な輸入価格の低下,交易条件の好転は,企業収益の改善要因となり,物価の安定化傾向をさらに確実なものにする力をもっている。しかし,それが十分景気の浮揚,国民生活の安定に結びつくためには,競争条件の整備,流通機構の合理化など,長期的な視点から取り組まなければならない課題が多い。
円レートの上昇は,こうした日本経済の構造的な側面にも光を当てるものだった。