昭和51年

年次経済報告

新たな発展への基礎がため

昭和51年8月10日

経済企画庁


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第3章 根強い物価上昇圧力とその背景

第3節 中期的な物価上昇圧力の強まり

これまでに明らかになつたことは,企業が著しく悪化している収益を改善しようとする動きを強めていることが,今回の景気回復期の根強い物価上昇圧力の背景となつていることであつた。しかし,この点は,企業の利益水準が次第に回復されるにつれて弱まるべき性質のものであり,いわば短期的な性格が強い。これに対して,中期的にみて物価上昇圧力を強める可能性のある要因が少くない。

1. 高度成長期の物価

昭和30年代から40年代の前半にかけてのわが国経済の高度成長は,技術革新投資を中心に設備投資の盛行によつてもたらされた。技術革新は新製品の開発と製造コストの低下の二点において,企業の投資意欲を刺激した。耐久消費財,投資財,生産財のいずれにおいても各種の新製品が広汎に出現した。製造コストの低下は,新しい製法技術の出現,プラントの大規模化等によつてもたらされた。

この間の物価面での特徴は,財別には投資財,輸出財及び中間財で価格上昇が小幅であつたのに対し,消費財ではかなりの上昇になつたこと,また企業規模別(ただし,製造業)では大企業製品価格が安定していたのに対し中小企業製品の価格が上昇したことであつた。 第3-26表 にみるように,投資財,輸出財及び中間財の価格上昇が小さかつたのは,生産性の上昇率が大きく,賃金コスト等の増加を吸収しえたからである。これらの部門では近代化投資の盛行によつて物的生産性の上昇に原単位の向上がプラスされて,付加価値生産性が上昇し,労働コスト等の増加を吸収することができた。また,この時代には,輸入素原材料価格の動きが製品価格に及ぼした影響は極めて僅かであつた(品目によつては輸入素原材料価格の低下が製品価格低落をもたらしたものもある)。

これに対して消費財部門,中小企業部門においては,その性質上生産性の伸びが余り期待できないサービス,農産物などに加え,工業製品部門においても,乗用車,家電製品等重工業品の一部を除いて生産性の伸びが低く,賃金等のコスト増加を吸収しえないままに価格上昇となつた。

こうして,国内生産物価格は全体としてゆるやかな上昇にとどまつた。

このような高度成長期の特徴は,47年央ごろまで続いたが,その後は,以下にみるように,中・長期的にみて物価上昇圧力の強まりがみられる。

2. コスト削減的投資機会の減少

高度成長期における技術革新投資の結果,主要産業の多くにおいて,製造コストが下がり,コスト面から価格の安定が達成された。コスト削減的設備投資が可能でかつ市場の拡大テンポが高い場合には,後発企業もより安い価格をもつて先発企業の参入障壁を乗り越え,市場へ新規参入が可能であり,集中度は低下する。しかし,コストを引下げるような投資の機会が少なくなると,コスト面からの価格安定の基礎が崩れることになる。

いまこの点をケース・スタディとしての石油化学工業の場合についてみよう。

はじめに主要石油化学製品の価格の動きは 第3-27図 のとおりで,昭和30年代後半から47年ころにかけて原料である原油価格の安定を背景に,製品価格の低下がもたらされ,価格低下が新たな需要を創出し,市場を拡大した。この市場拡大を目指して後発メーカーの新規参入が相つぎ,集中度は急速に低下した( 第3-28表 参照)。

ところが昭和48年以降原油価格の高騰により,製品価格は急上昇することになつた。しかし,製品価格は上昇したものの需要低下のため,コスト上昇をカバーできるだけの引上げができず,企業は収益悪化に苦しんだ。

47年以前において価格低下をもたらしたものは,次々と建設された大型プラントにより可能となつたコスト低下であつた。いまエチレンプラントの規模とエチレン製造原価との関係をみると 第3-29表 のとおりであつて,規模が大きくなるに従つて製造コストが下がるという関係がみられる。ただ規模の経済性も30万トンあたりまでは非常に顕著であるが,それ以上になるとほとんどコストは変らない。

また,同表にみるように,原油価格が大幅に上昇した後では,生産費に占める変動費の比重が高まつたため,規模によるコスト差は縮小している。このように技術的には,これ以上の規模の利益が期待できなくなつているのに加えて,固定費と変動費との組合せ比率が変化したことで,さらに規模の経済性が乏しくなつている。このため今後は新規投資の建設費の上昇がそのまま製品コストの増加に結び付くことになる可能性が強い。

大規模な技術革新投資が製品コストを引き下げるという関係は,ひとり石油化学のみではなく,鉄鋼,自動車,電力,電話等々極めて広汎な分野においてみられた。ところが,かつてはコスト削減的投資機会の豊富であつた分野も,いまのところは,その多くが利用されつくされたとみられており,それに原料価格の上昇による変動費比率の増大からコスト切りつめの余地が少くなつている。

3. 公共料金の新しい局面

昭和35,6年以降消費者物価の継続的上昇がみられるようになつて以来公共料金については抑制策がとられ,その結果38~48年の間の公共料金の上昇率は年率3.2%で,消費者物価指数総合の5.4%の6割程度の上昇率に止まつた。

原価主義を基本とする公共料金が長期にわたり比較的安定していたのは,2つの要因があつた。1つには物価抑制等の政策目的遂行のため,料金の上昇を抑制したことである。しかし,その結果は,国鉄のように赤字の累積を招き,経営状況の著しい悪化をきたした場合もあつた。2つにはコスト引下げあるいは需要の拡大もしくはその両方によつて経営収支が維持され,値上げを回避しえたものがあつたことによる。しかし,これも,最近にいたりこのような経営環境が失われてきているケースが多い。

第3-30図 発電能力と熱効率

第2の点を電力についてみると,電力業においては,石油価格の低廉性を前提として次々に大容量火力発電所の建設が行われ,これにより熱効率が向上した( 第3-30図 )。熱効率の向上は,同一量の原油が持つているオリジナル・エネルギーをより多くの電気のエネルギーへ転換できることを意味するのであつて,それだけコスト低下になる。また送配電等に伴うロス率の改善も目覚しく,コスト低下に寄与した。ところが,熱効率の向上も30万kw前後で40%に達し,それ以上は発電所の規模を大きくしても向上はみられなくなつている。またロス率も,近年公害,安全問題等による発電所立地の遠隔化などのため低下傾向が鈍化しており,ほぼ限界ではないかといわれている。このように電力業においても,コス卜吸収を可能とする技術的な条件は失われつつある一方,最近はエアコンの普及等によつて,負荷率(一種の稼働率)が下がり,それだけ固定費負担の増嵩要因となつている( 第3-31図 )。

電話料金も長期安定(通話料は昭和28年以来今日まで1度数7円,基本料等はこの間制度改制を含め数次にわたり改訂された。)を示して来たが,これは1つには自動交換機の導入等の技術革新投資の結果,コストの増加を防いできたからであるが,もう1つには,1個当り通話収入の多い事務用電話の伸びが大きく,公社の収入増加に寄与してきたからである。ところが電話普及が進み,住宅用,それも利用度の低い層へと及んで来るに従い,収入の伸びが鈍化し,現行料金を据置いたのでは公社の経営が成り立たなくなつている( 第3-32図 )。需要構成の変化が,従来は料金単価を据置きながら高い収入をもたらす分野への需要シフトとなり,収入増加を可能にしたが,そのような条件が最近になつて失なわれたという同様なケースは,NHKの受信料についてみられる。受信料は43年4月以来51年5月までの間据えおかれたが,この間,受信料の高いカラーTVの普及が進んだため,協会は収入増加を図ることができた。しかし,同普及率が限度に来た段階では,受信料改訂なしには経費増加に見合う収入増加が図れなくなつているのである( 第3-33図 )。

旅客自動車運送事業においては,人件費負担がコストの7割を超えている。バスでは従来ワンマン化を進めるという形で人件費の負担増の軽減を図つて来たが,例えば公営乗合バス事業についてみるとすでにワンマン化も実質的に限度に来ており( 第3-34図 ),コスト増加を吸収する余地がなくなつている。これに対し自家用車の普及等から利用者数は引続き減少しており,収入面からも収支のバランスをとることが難しくなつている。

以上新局面にある公共料金についてみたが,技術革新等による合理化,需要シフトなどのいずれの面でも,最近はコスト吸収を困難にする事情が出て来ている。

4. 上方屈折がみられる一次産品価格のトレンド

中期的にわが国の物価上昇率を底上げする要因となる可能性があるいま1つの大きな要因は輸入物価の動向である。48年から49年にかけて主要国は一斉に近年にない物価上昇率の加速化を経験した( 第3-35図 )。この背景に47年末からの一次産品価格の高騰があつた。とくに日本の場合,輸入物価上昇の影響が大きかつた( 第3-37表 )。これに対し,西ドイツの場合,輸入品に占める一次産品のウエイトが比較的小さいことのほか,為替レートが大幅に上昇したため一次産品価格高騰の影響は,日本よりはるかに小さかつた。ここで長期的に重要とみられるのは,一次産品価格の長期トレンドが変化していることである。1955年から71年にかけて低下トレンドがみられるものの,73年以降は明らかに上方への基調変化がみられる。74年後半から先進国の鉱工業生産が低下し始めたことから,一次産品価格もようやく下落に転じたものの,75年になつてOECDの鉱工業生産がわずかながら上向きに転じると,大幅な需給ギャップが残っているにもかかわらず,75年央に底を打ち,早くも上昇に転じている( 第3-36図 )。75年央の底における一次産品価格の水準は,過去と比較しても,あるいは先進国の鉱工業生産の落ち込み幅と比較しても,明らかに高い水準で反転上昇している。このような一次産品価格の上昇テンポは,76年に入つても(少なくとも6月時点までのところでは)高まつている。

73年以降一次産品価格の上昇傾向がみられる理由はいくつか指摘できるが,農産物については72年の世界的な不作がかなり影響している。すなわち,72年には農産物に対する需要が拡大しているなかで,不作から世界の農産物の生産量はかなり減少した。73年には回復したが,その後の作柄変動が大きく,在庫は依然低水準にある。

また先進国が同時的に景気上昇に転じ,先進国の輸入需要が相当のテンポで拡大したことも,大きな要因になつている。しかし,73年における主要国の需給ギャップ率でみても( 第3-35図 ),OECDの鉱工業生産のトレンドからの乖離幅でみても( 第3-36図 ),過去(たとえば69~70年)と比較して特別に需給ひつ迫度が高かつたわけではない。これは1つには,73年におけるOPECの成功に刺激された資源ナショナリズムの役割もあるが,いま1つには,インフレ期待の果した役割がある。一次産品の供給者,需要者の相方において従来以上に景気やインフレの動向に敏感になつているし,また最初にこのようなインフレ期待を生み出す背景となつた要因として,71年から73年にかけて主要国のマネー・サプライの伸び率が非常に高まつていたことは無視できない要因とみられる。このほかにも1965年以降のアメリカの国際収支の赤字から各国の外貨保有が潤沢となり,輸入制限が緩和される動きがみられたこと,ドル切下げから各国通貨の実質購買力が上昇したことなどから,生産を上回る輸入の拡大がみられたことなども影響しているとみられる。このようにして,種々の構造要因から一次産品価格が従来以上に上昇しやすくなつていることは,その輸入に占めるウエイトの高い日本にとつては,従来以上に物価上昇への圧力が強まるということになる。

5. 大切なマネー・サプライの管理

物価上昇期待は国内面においても根強く残つている。企業経営者の先行きの製品価格に対する期待をみると,48年10~12月をピークとして「上昇」とみるものが減少し「低下」とみるものがやや増えてきているとはいえ,50年7~9月の底においても依然「上昇」とみるものの方がはるかに多い( 第3-38図 )。そして注意すべきは,このような高い水準で底を打つた後,50年10~12月以降再び価格上昇を期待するものの割合が高まつてきていることである。もろろん,企業者や消費者が現実の物価上昇をみながら各自の物価上昇期待をさらに増幅させるという関係はあるとしても,逆に物価上昇期待自体が物価上昇の加速化をもたらすという関係もあることを注意しておかなければならない。

それでは47年後半以降何故に強い物価上昇期待が生じたのであろうか。物価上昇期待が金融政策,財政政策,輸入物価などの影響を受けるのは明らかであるとしても,その関係の解明は理論的にも実証的にも十分でない。47~48年の世界インフレの経験を通じて各国で注目されているのはマネー・サプライの果した役割である。わが国の場合も47~48年の異常なインフレは単に総需要が供給能力を上回つたというバランス関係だけでは説明がつかないものがある。企業者の製品需給判断をみると,48年10~12月のピークは過去のピーク(たとえば45年1~3月)に比べて需要超過とみるものが圧倒的に多く,その限りでは物価上昇期待が過去よりもはるかに強いのと斉合的である( 第3-39表 )。ところが,稼働率や設備過不足感は,いづれもそれ以前のピークである45年1~3月と比べて特段強い需給ひつ迫度を示していない。もつとも,48年春以降,水,電力不足,原材料不足,工場事故等稼働率の引上げを困難にする要因があつたことは無視できず,このような供給制約要因と流動性の過剰との相乗作用の結果,強い物価上昇期待が生じた。そこで,47~48年の景気上昇局面では企業が豊富な手元流動性を背景に従来の景気局面以上に供給の弾力性の低い原材料等を中心に在庫の積増しをはかつたのではないかとみられる。そして各国とも在庫積み増しの局面がかなり重なつたことから,47年後半から49年前半にかけて原材料,中間製品の世界的な需給ひつ迫が生じたとみられる。要するに48年のピークにおいて企業者が強い需要超過を訴えているのは供給能力の不足という点もあつたが,物価上昇期待に基づく在庫積み増し意欲が強く急テンポの需要拡大に生産が対応し切れなかつたことによる面もあるものとみられる。

それではこのようなマネー・サプライの急増を背景とする物価上昇期待の増殖は今回の景気回復局面においても生じる危険はないであろうか。今後は国債の大量発行とも関連してマネー・サプライの動向に従来以上に注意しておかなければならない。それは財政赤字を国債でファイナンスする場合には民間資金の競合問題が起こる可能性があるからである。このようなマネー・サプライの動向と関連したひとつの重要な指標である企業の手元流動性等の水準で判断する限り,少なくとも現時点では過剰流動性の状態ではない。第1章でみたように政策当局は,昨年以来これまでのところ景気の着実な回復を図つていくために必要とされるマネー・サプライの増加を図つてきており,このため,預金準備率の引下げ,市中銀行保有の既発国債の買オペレーションなど金融市場でもそれに見合つた各種の手段をとつてきている。当面民間資金需要が弱い局面では,国債と民間資金の競合は生じる心配はまずない。今後景気回復が一段と進み民間資金需要が盛り上つてくる場合には,このような資金需要の競合が現実の問題としてうかび上がつてくることも考えられる。このため,すでにみたように物価上昇要因が増大しているなかで,一方で物価上昇の加速化を防ぎつつ,他方でこのような問題が現実化する可能性をも考慮しながら,今後はマネー・サプライの動向を一層注視してゆくことが必要である。