昭和50年
年次経済報告
新しい安定軌道をめざして
昭和50年8月8日
経済企画庁
第I部 インフレと不況の克服
第1章 異常インフレの収束と課題
不況過程の進行は卸売物価に大きな影響を与えた。その動きをみよう。48年12月から49年2月へかけて急騰した卸売物価は,需給基調がひつ迫から緩和へ転ずるとともに,騰勢が大幅に鈍化した。もつとも,原油など海外資源価格の高騰で原燃料コストが上昇していたため,3~8月へかけて,石油・化学製品,電力,鉄鋼など基礎物質の価格引上げが集中した。この間の需給は徐々に緩和しつつあつたが,まだインフレ期待が根強く,賃金の大幅上昇もあつて,行政指導等の措置による値上げ幅の抑制を必要とした。しかし,9月以降になると,在庫調整が本格化して需給の緩和基調が明瞭になつてきたため,卸売物価の上昇は止まり,50年に入ると,1~3月へかけて続落するようになつた( 第13図 )。過去の不況期には,卸売物価の頭打ちないし下落が生ずるのがつねであつたが,今回もまた例外ではなかつた。だが,こうした現象が起こつたのは,すでに第1節(1)で指摘したように,在庫調整が本格化した年度下期に入つてからであつた。もしそれまでに,総需要抑制策を緩和していたとしたら,今回の場合,果たして卸売物価の頭打ちないし下落が実現したかどうかは疑問であつた。
一方,消費者物価も,本年に入つて明らかに落着きつつある。政府は,50年3月の消費者物価の前年同月比上昇率の努力目標を15%としたが,実績は14.2%と目標を下回つた。このような落着き模様をみせるに至つた主因が,卸売物価の鎮静化にあつたことはいうまでもない。石油危機以後の消費者物価上昇率(前年同月比)の推移を,特殊分類別寄与度でみると,ピークの49年2月26.3%のうち20.9%までが商品であり,サービスは5.4%に過ぎなかつた。急騰の主因であつた商品のその後の推移をみると,卸売物価鎮静化の影響をうけて,49年12月以降急速に鈍化し,50年2月には1桁の上昇寄与度にまで低下した( 第14表 )。その内訳をみると,需給基調の変化をもつとも敏感に反映する中小企業性工業品の鎮静化が特に目立つている。他方,49年度中公共料金引上げの影響が2.5%程度あつたものの( 第15表 ),サービスの上昇寄与度は5~7%と1桁の上昇で推移した。
もつとも,卸売物価の動きが消費者物価ヘ反映する過程には,流通市場を経由するという問題があり,時間的な遅れを伴う。いま,こうした関係について,共通品目でみた卸売物価と消費者物価の推移をみると,両物価の共通品目から構成した消費者物価上昇率は,49年初以来,卸売物価上昇率を上回つていたが( 第16図 ),消費需要の停滞などを反映して,49年末ごろからかい離幅の縮小が目立つており,卸売物価の鎮静が消費者物価に波及し易い環境に変わりつつあることを物語つている。
消費者物価の先行きについては,卸売物価の鎮静化の影響が上期中はまだ続くものとみられ,なだらかな賃金決定などの影響も加わることから,当面落着いた基調を保つものと考えられる。卸売物価の影響は1四半期程度の遅れをもつているので,本年6月の卸売物価上昇率は前年同月比2.2%まで低下したが,その影響は7~9月期の消費者物価に反映することになる。また,昨年10月~12月期の個人消費停滞の影響は本年1~3月期にみられ,なだらかな賃金決定の影響は4~6月期以降に現れつつある( 第17表 ),もつとも,50年4,5月の消費者物価は,季節商品のほか,4月は授業料,諸月謝など,5月はレモンなどの上昇により,前月比でかなりの上昇を示した。しかし,6月(東京都区部,速報)は季節商品の大幅下落から20か月ぶりに下落し,季節商品を除く総合でも上昇率はいくぶん鈍化している。
今後卸売物価の安定が定着するなら,やや長い眼でみて,消費者物価が安定する可能性は大きい。そうした可能性を現実のものとするためには,生鮮食料品の供給の改善をはかる一方,卸売物価が最近の鎮静基調を続けるよう,引続き慎重な政策運営が必要とされる。
なお,こうしたなかで,47~48年度にかけて急騰した土地価格も,49年度に入つて著しく騰勢を弱め,全国市街地価格指数(日本不動産研究所調べ)の前年同月比上昇率でみると,49年3月には卸売物価の上昇率を26年以降初めて下回つたが,本年3月には4.3%(前期比5.5%)下落するに至り,戦後初めて,「地価は下らない」という神話が打ち破られた( 第18図 )。
賃金決定の状況も様変わりした。昭和40年代に入つてからの賃金決定は,不況下でも前年賃上げ額を下回らない,という傾向が定着していた。48年度にみられた異常なインフレーションのあとを追つて,49年度の賃上げ額が一挙に前年比倍増したため(それまではだいたい4年で倍増),過去の傾向が続けば,50年度の賃上げ率は不況下でも20%を上回るとの予想が強かつた(49年秋の生産性本部調べ)。しかし,結果は,賃上げ率で13.1%,賃上げ額では40年代以降初めて前年実績を下回り,それも前年実績のほぼ半分という,なだらかな決定となつた( 第19表 )。
このような今年の賃金決定事情には,さらに次のような特色がみられた。第1は,春季賃上げ交渉妥結時期がかなり遅れたことである。昨年は,4月下旬には,大企業の9割弱,中小企業の7割弱がすでに妥結していた。だが,今年は1か月遅れの5月下旬になつても,前年4月下旬の妥結状況に及ばなかつた( 第20図 )。第2は,賃上げ妥結額が,時期が遅くなるほど低くなつたことである。これは昨年があとほどむしろ高まつたのと対照的であつた( 第21表 )。第3は,企業間で賃上げ額のばらつきが大きくなつたことである。それを分散係数の大きさで昨年と比べてみると,製造業ほど大きく,また,中小企業ほど大きかつた( 第22表 )。これは,繊維,ゴム,化学加工,機械金属など中小企業の比重が高い産業で不況の度合いが強かつたことを反映している。40年代に入つて賃金平準化が進行するにつれて,この分散係数は低下傾向をたどつてきたが,ここへきて再び上昇を示したことになる。
それでは,こうした賃金決定の様変わりの変化は,どうして生まれたのだろうか。いま,今年の春季賃上げ額を,昭和35~49年の実績に基づいた賃金調整関数で分析してみよう。春季賃上げ額に影響を与える要因として,有効求人充足率(労働需給),消費者物価上昇率(生計費),1人当たり純売上げ高(支払能力)をとり上げてみると,こうした諸要因の変化が現実の賃上げ額の動きをよく説明しており,昨年の大幅賃上げばかりでなく,ことしのなだらかな賃上げも,この関数の推計値とさほど異ならない( 第23図 )。戦後最大となつた不況過程の進行と,消費者物価の落着き模様が,今年の賃金決定を様変わりさせた主因であつたといえる。49年度を通じてきびしい総需要抑制策が堅持されなかつたとしたら,消費者物価も落着きを取戻せなかつたであろうし,賃金決定も40年代の傾向を変えるには至らなかつたであろう。この意味において,今回の総需要抑制策は,物価安定を定着させるのに有効であつたし,また,わが国の賃金決定が欧米主要国に比べて伸縮的であることを証明したことにもなる。これまでの賃金硬直化現象も,高度成長持続に伴う労働需給のひつ迫基調が強く反映したことによるところが大きいと考えられる(有効求人倍率は42年央から49年秋までほとんど1をこえていたが,その後再び1を下回つて,30年代後半並みの0.7前後へ低下した)。