昭和48年
年次経済報告
インフレなき福祉をめざして
昭和48年8月10日
経済企画庁
第3章 物価の高騰とその背景
わが国経済は,物価上昇圧力が強まる一方,それが経済社会にもたらす歪みも従来以上に大きくなろうとする局面をむかえている。こうしたなかで経営者,労働組合,消費者など個々の経済主体の間には,インフレーションに対する警戒心が強まる一方,将来のインフレーションを予想し,それに対応する行動をとろうとする動きもみられるようになつた。この風潮が日本経済のなかにくみこまれるようになると,これまでの物価上昇率をはるかにこえた物価高騰がつづくことになろう。仮にギャロッピング・インフレーションといわれるような事態になれば,福祉の充実という国民の願いは遠のき所得分配のゆがみは,社会的不満を累積させ,正常な経済活動を続ける基盤が損なわれることになる。
日本経済は現在の物価上昇が持続すればこうしたインフレーションへと進む危険性をはらんでいる。当面の異常な物価騰貴を抑制するため,総需要の調整を中心とする7項目の物価対策の実施に全力をあげるとともに,この一年の経験を基礎に,新しい物価政策の体系を確立することが急務となつている。
この一年間における物価高騰のなかで,とくに注目されたのは,地価の上昇,商品投機,輸入価格の上昇であつた。このうち,地価の安定,投機の防止についてはすでに新しい法律が施行あるいは提出され,今後その方向に沿つた政策の展開が期待されている。また,輸入価格についても,世界的インフレーション阻止のための国際協力や,稀少物資,農産物の安定的輸入について,それぞれ新しい構想にもとづく政策が推進されようとしている。
そこで,以下においては,現在の物価急騰を抑制し,今後の経済を安定的な成長軌道にのせるために,上記の個別政策に対し,より一般的意味あいの強い三つの課題,すなわち,総需要調整,競争の促進,インフレ期待の打破,について述べることにする。
すでに述べたように,今回の物価急騰は各種の複合的要因によつてもたらされたという側面をもつものの,現在は需要超過を基本的な背景として進行している。これには,国際収支の均衡回復という要請の下で,総需要政策を重視し,こうしたなかで民間経済活動が予想以上に拡大したことが影響している。したがつて,物価対策の第1の柱が総需要調整のための体制整備にあることはいうまでもなく,現在なお高騰を続けている物価抑制のためにし多様化された政策手段による機動的政策の運営が望まれる。
この点についてはすでに第1章において,総需要管理政策の反省として取りまとめており,ここに繰り返す必要はないが,物価安定という立場から二つの点をつけ加えたい。
その第1は,総需要調整の具体的指標としての労働力関連指標の重視である。
これまでの経験からみて,経済全体の需給をあらわす諸指標のなかで,過熱についての先行性の強いのは労働力需給である。当庁の景気警告指標でも,12の個別指標のうち47年中もつとも早く過熱信号を示したのは新規求人数であつた。労働力指標の重視は,これまで総需要調整を行なうにあたつて設備稼働率を重視し,いわば設備の完全操業を目標にした態度を労働力の完全雇用の維持へと切りかえる発想の転換を意味するものでもある。
今後,福祉経済への転換が進むなかで,労働力需給はますますひつ迫し,賃金コストの物価に及ぼす影響が大きくなることが予想されるので,求人倍率,求人充足率など労働力指標重視の必要性は強まつてくるであろう。
第2は,長期的計画性の重視である。第1章において,長期的な生産能力の増加率と需要増加とのバランスを維持するとともに,短期的な政策運営にも長期的な展望をもつことの重要性を指摘したが,同様のことは,長期的に安定した物価水準を考えるとき,これに対応した望ましい各所得間のバランスが国民所得の分配面にもなければならない。また土地のような稀少資源については,土地売買契約や取引に対する介入など,必要な土地供給を確保するとともに地価の安定をはかることが必要である。
本年の経験からいうならば,法人所得の急上昇が各種所得間のバランスを崩し,他の所得増加を促進する要因となつた。所得分配についての合意は極めて困難な問題であるが,経済成長率,各種所得上昇率など長期的経済のバランスをいかに維持するかが今後の物価安定のための重要な課題となる。
物価対策の第2の柱は競争の促進である。一度超過需要のなかで上昇した物価は,硬直性を増している現在の経済構造のなかでは容易に騰勢が鈍化しにくい性格をもつている。今回のようにインフレ必理が広がり,不況カルテル等によつて市況産業の収益が急増したあとはなおさらである。
したがつて強まりつつある硬直性を緩和するために,競争条件を整備することが急務であろう。
このため,私的独占禁止法の運用にあたつては,同法の適用を除外している業種の範囲をできるだけ縮小するように努力するほか,不況カルテルや企業合併を認める基準も従来より厳格に適用していくことが要請される。また,市場の正常な機能を妨げるおそれのある場合には市場機構に対する政策手段の多様化を検討することも必要であろう。
さらに,物価急騰のおそれが強まる緊急事態において大幅値上げが目立つ場合には,政府がそれに対する調査,監視を強化するといつた方策も検討に値しよう。
また資本貿易の自由化を促進することによって,国際競争条件を整備するとともに,消費者の生産者,販売者に対する対抗力を強化するため,消費情報の提供や消費者組織の拡大を進めることも重要な課題になつている。
以上のような市場構造の硬直性排除策とあわせ,構造政策の促進によつて消費財の生産,流通面での合理化,生産性の向上を進めていけば,物価安定に大きく前進することは明らかである。
第3の柱はインフレ期待を打破する方策である。
これまで述べてぎた物価政策は,総需要の管理と競争条件の整備を中心とするいわば正統的な物価対策である。しかし,先進工業諸国の経験は,こうした正統的政策の効果が物価面にあらわれるタイム・ラグが増大し,短期間に物価の安定を実現しようとするとき,景気の冷しすぎがおこる可能性が強まつていることを示唆している。アメリカの例をとると,1968年以来のインフレーションを抑制するため,経済成長率は1968年の4.7%から70年はマイナス0.5%となり,失業率は69年の3.5%から71年の5.9%にまで上昇している。こうしたなかで,市場支配力の強まつている欧米の工業諸国においては,一度,総需要の超過によつて大幅に上昇した価格が,管理価格など物価の下方硬直性と巨大組合による大幅賃上げによつて,コスト上昇に転化し,総需要調整政策によつて需給が緩和した後にも物価上昇が継続している。こうした傾向が企業者,労働組合の物価,賃金上昇に対する期待とむすびつくとき,総需要調整の効果があらわれる時間の遅れはますます大きくなる。わが国においても景気の急上昇,卸売物価の高騰,利潤の増大を追いかける形で賃金の大幅上昇がおこり,また,個人業主も価格引上げによつて所得の均衡を回復しようとするであろう。こうした一連の動きは,所得格差是正という一面をもつと同時に,それが需要の増加,コスト上昇という経路を通じて物価上昇を長期化させる側面のあることは否定できない。このようにしてインフレーションに対する予想が強まつてくると,物価の安定はいつそう困難になり,物価安定のために支払うべきコストも当然大きなものになる。
現在までのところ,インフレ期待がわが国の経済のなかに強く定着し,物価の大幅上昇をひきおこす要因となつたとは考えられないが,しかし,かりにインフレ期待がさらに広汎に強まつた場合にはこのインフレ期待を打破するために危険の多い政策さえもとらざるをえなくなる。
欧米諸国においてはこうした異常事態への対策として2つの方法がとられている。
その一つは経済の実勢をこえた価格上昇,賃金上昇が収まるまで強力な総需要抑制政策をとることである。そうすれば成長率の低下,利潤の減少,失業の増大という経済的損失を甘受しなければならない。
他の一つは,価格,利潤,賃金などの形成に政府が直接間接に影響を与え,それによつて,インフレ心理を打破しようとする方法である。この政策のもつ危険性は,統制が統制をうみ,一時的政府介入が恒久的なものになり,適正な資源配分を損なうおそれが大きいことである。
この二つの政策は,異常事態への対策として,その両極に位置するものであるが,欧米諸国においては,こうした厳しい政策をとつたものの,必ずしもインフレ期待の収束に成功しているとはいえない。しかし一度燃えあかつたインフレ期待に対処するためには,このような危険の多い政策さえも採用せざるを得ないところに異常化した物価問題解決の困難がある。
アメリカの例をとれば,初期のニクソン政権は第1のタイプに近い政策を選び,71年8月15日以降は第2のタイプ,そして最近は財政金融政策による需要調整と物価凍結という第3の混合型を採用している。
このように西欧諸国においては価格について政府が介入する権限をもつ場合が多い。これらの政策は需要管理政策を補完する性格をもつものである。もつともわが国の現状はこうした西欧諸国の状況とは同一に論じることはできない。
すでに述べたように,昨年来の物価急騰の基本的要因は需要超過にあり,その対策も需要の抑制を中心に進められなければならないことは当然である。しかしインフレ期待が広汎にひろがりつつある現状において,需要管理政策がこれまで以上に強い姿勢で運営されないかぎり,物価安定の目標を達成できないことを認識すべきである。
根強い物価上昇に即効薬はない。個別の物価対策を強力に実施するとともに,需要抑制政策を強化し,その効果が物価面にあらわれるのをまつて,それをいかにして長期的安定路線へ導くかが今後の政策課題であり,そのための政策の選択をめぐつて多方面からの自由な検討が要請される。