昭和48年
年次経済報告
インフレなき福祉をめざして
昭和48年8月10日
経済企画庁
第3章 物価の高騰とその背景
わが国経済は,福祉経済へと大きく転換しようとする第1歩において,インフレーションの脅威に直面することとなつた。すでにみたように,現在の物価上昇は景気の急速な拡大に伴う需要超過にもとづくものである。しかし,わが国経済はこれまでに比べ,物価が上昇しやすい成長パターンに変化しつつあり,市場機構もしだいに硬直性を増している。成長パターンの変化にともなう物価上昇はある程度必要悪という面もあるが,市場構造や市場行動の変化による価格コストの硬直化は,需給が緩和したあとも物価上昇圧力として作用し,物価安定をいつそう困難にするおそれがある。
わが国は40年代前半までの輸出・生産設備優先型の成長から,住宅建設,公共投資など福祉優先型の成長へと転換しようとしている。このことは,程度の差こそあれ,46~47年にみられたと同方向の需要構造の変化が進むことを意味している。このような成長パターンの転換は物価面にどのような影響を与えるのであろうか。
第3-24図 は30年代後半から40年代前半にかけての国民総支出の各項目について,名目需要の増加のうち,産出高の増加となつて現われる部分と物価上昇に吸収される部分の比率を示し,あわせてそれを国際比較したものである。これをみると,機械設備や輸出など需要増加が大きかつた分野では,名目需要の増加が生産増加を誘発しやすく(生産の弾力性が大きく),物価は上りにく(価格の弾力性が小さ)かつた。これとは対照的に建設投資,個人消費,政府消費等今後の需要増加が予想される分野では,名目需要の増加が物価上昇を引きおこしやすい(価格の弾力性が大きい)傾向にあつた。
国際比較でみても,わが国の場合は他の先進諸国に比べて物価が上りにくい需要の構成が大きく,物価が上昇しやすい分野の構成が低かつたことがわかる。しかし,今後相対的に需要増加が大きくなると予想される分野は生産性の上昇率が低く,価格上昇の可能性が大きい。こうした需要構成の変化にともない,需要拡大部門での価格上昇と,需要の伸びが相対的に鈍る部門での価格の硬直性によつて生じる需要シフト・インフレーションの傾向が続く可能性がある。また,供給に制約があつたり生産性の上昇率が低い分野で需要が急増する場合には,短期的に需給ひつ迫によるボトルネック・インフレーションの発生する危険が大きく,このことはすでに47年度における建設関連価格の上昇にみられたことである。
成長パターンの変化に伴う局部的な物価上昇が,全面的なインフレーションに発展しないようにするためには,適正な総需要管理とともに,これまで生産性上昇が低かつた部門に対して積極的な生産性向上対策を推進することが必要になつてくる。とくに建設関連部門や消費関連部門(耐久消費財を除く)での価格弾力性引下げの余地はかなりあるものと思われる。これまでのわが国経済の高い適応力からみて,需要増加が確実であれば,やがては労働や資本がそうした分野に重点的に配分されよう。47年度の雇用や資金配分の動向には,すでにそうした兆候が明瞭に現われている。低生産性部門への資源配分が増加する過程で,行きすぎた政策的保護をなくし業界の競争促進をはかるならば,技術進歩やスケール・メリットの追求なども生じようし,労働の資本への代替も進むことが期待できる。そうした努力を続けることによつて,需要構成の変化がわが国経済全体の効率を低下させないようにすることが肝要であろう。
47年度の物価上昇には,不況カルテル等市況対策が長く続けられたことが影響していた。これには.需要動向に対する予測の見誤まりによる面が大きかつたが,近年産業の生産集中度が高まり,価格協調を行ないやすい環境となつていることも注目されなければならない。
第3-25表 のように,わが国の産業における生産集中度は30年代後半に減退したあと,40年代前半にはかなりのテンポで高まつている。とくに上位10社の集中度よりは上位3社の集中度の上昇が大きい。業種別には,化学,石油,機械等では目立つた生産集中の進行はないが,繊維,パルプ・紙,金属,食料品などの業種では集中度の上昇がみられる。
生産集中度の高さと,需要増加率の大きさを基準にして51業種を分類し,その各々について経営指標を比較したのが 第3-26表 である。
これによると,次のような傾向が読みとれる。
第1に,集中度の高い業種より集中度の低い業種の方が価格の変動回数が多く,需給に対する感応度が高い。
第2に,需要の成長が高い分野では,集中度が高くても価格は低下している(A部門)。しかし,集中度の低い業種(C剖門)に比べて賃金コストの上昇が少ないにもかかわらず価格低下幅は小さく,利益率が高い。
第3に,集中度が高く,需要成長率が低い分野(B部門)では,価格上昇によつて高い利益率を維持している。これに対し集中度が低く,需要成長率も鈍い分野(D部門)では,賃金コストの上昇によつて価格上昇率は最も大きいが,利益率は低い。
このような傾向は,集中度が高い業種でも需要の成長が大きい場合には寡占的競争が行なわれるため,価格協調が行なわれにくいことを示唆している。同時に,需要の伸びが低い場合には,寡占の弊害が強く表面化することも明らかである。A~Dの各部門の価格動向をみたのが 第3-27図 である。
今後需要の伸びが鈍る場合には,A部門がB部門のように価格支持に傾く可能性があり,また集中度が低い分野でも賃金上昇率の平準化によつてコスト圧力が強まるため,C部門がD部門と同じような価格上昇に転じる危険があるといえよう。
そこで集中度と賃金水準とを対比させてみると,おおむね集中度の高い産業ほど賃金水準も高いという傾向か見出せる( 第3-28図 )。
一方では,賃金上昇率の平準化,社会相場化が進んでいる。したがつて,寡占企業が製品価格への転嫁を前提にして生産性を上回る賃上げを認めるようになれば,それが賃金決定のプライス・リーダーとなつて,他産業の賃上げをも大幅にしていく可能性もあろう。
40年代の初めまでは,資本自由化への準備もあつて国際競争力の強化が企業にとつても存立の条件と考えられていた。そうした間は,国内的にも寡占的協調は生まれにくく賃金上昇を生産性上昇の範囲内に抑えるといろ原則が強く働いていた。しかし46年末の円切上げ,48年2月の変動相場制移行や世界的インフレーション進行等のなかで,価格やコストを抑え込もうとする企業努力への刺激は弱まろうとしている。
47年度にみられた価格支持の強まりは単なる一時的現象とはいい切れないように思われる。
47年度に関するかぎり,賃金コストが年度前半の物価を下支えたことはあつても,後半の上昇を押上げたとみることはできない。しかし過去の経験からみれば,景気回復初期には雇用の増加を上回る生産増加によつて生産性が急速に高まり,賃金コストは早めに低下するのが自然である。38年と41年の景気回復時には,景気が回復に向かうと賃金コストの上げ幅は著しく縮小し,景気の谷から3四半期めには低下に転じたあと,4四半期にわたつて低下が続いた。ところが今回の景気上昇局面では,回復に向かつてからも4四半期間は賃金コス卜の上昇が続いた。48年1~3月には賃金コストが低下したものの,春季賃金交渉で大幅な賃上げが実現したこともあり,賃金コストの低下は,41年回復期に比べ短期間に終わる可能性が強い。さらに注目すべきことは,賃金コストの上昇局面がこれまで以上に長かつたことで,製造業の賃金コストは42年10~12月から47年10~12月まで5年間も前年同期を上回つていた。
こうした賃金コストの高まりは賃金がすう勢的に上昇するなかで,景気後退期にも大きくは鈍化しなくなつてきているためである。つぎに,賃金と賃金コストの動向をやや長期的に眺めてみよう。
賃金の年平均上昇率は,30年代前半の5.6%から,30年代後半の10.3%,40年代前半の13.8%へと高まつてきている。これを製造業の生産性と対比させると,最近は賃金上昇率が生産性上昇率を上回る傾向が強まり,大企業でも賃金コストの傾向的な高まりがみられるようになつた。
第3-29図 は製造業について31年以降の生産性上昇率と賃金上昇率の関係をみたものであるが,同じ生産性上昇率に対応する賃金上昇率は,30年代前半より後半,30年代後半より40年代へ期を追つて高くなつている。しかも43年以降は好況局面においても賃金上昇率が生産性の上昇を上回り,賃金コストの上昇傾向が強まつているといえる。
こうした賃金コスト圧力の増大は40年代に入つて大企業においても目立つてきている。従来から,中小企業においては景気回復期においても賃金コストの低下はほとんど生じなかつたが,大企業においては,大幅なコストの低下が生じるのが通例であつた( 第3-30図 )。これに対し,近年における大企業の賃金コストは好況期においても,むしろ上昇する場面が多く,また不況期にはかなり大幅な上昇を示すように変わつてきている。こうした動きは,業種別には,鉄鋼,化学,機械などで顕著である。一方中小企業や食料品などの軽工業では,40年代に入つて省力化投貨などによる生産性上昇があつたため,30年代後半に比べ賃金上昇率が高まつたほどには賃金コストの上昇が大幅とはなつていない。
製造業は,わが国の産業のなかで,もつとも生産性上昇率の高い部門と考えられている。賃金上昇率の平準化は全産業を通じて進行しており,このため生産性上昇率の低い非製造業部門における賃金コスト増加はさらに大きいものと推定される。
このように賃金コスト上昇が全産業に広まつたのは,賃金上昇率がしだいに高まり,各分野の賃上げ率が生産性上昇率の高い分野の水準に揃うようになつてきたことを示している。
30年代の後半には中小企業の賃金上昇率は大企業を上回つたが,40年代に入ると規模別の上昇率にはほとんど格差がなくなつている。さらに業種別にみても賃金上昇率の平準化が進んでいる。 第3-31図 は現金給与総額の全業種平均の上昇率が高まるなかで,業種間の賃金上昇率の分布がどのように変化してきたかを示すものである。ひとつひとつの景気循環については,変動係数は上昇期に低下し,後退期に上昇している。しかし長期的にみれば変動係数の低下傾向は明らかであり,最近になるほど業種間の賃金上昇率が平準化していることがわかる。なお,こうした傾向は同一業種内の企業間でも確認される。
賃金コストが高まつても,それが利潤から人件費への分配率の変化によつて吸収されるならば,物価上昇圧力は軽減されるはずである。わが国の労働分配率は 第3-32図 にみるように,30年代後半には中小企業を中心にやや高まつたものの,40年代前半はむしろ低下気味に推移した。しかしより特徴的なことは,賃金コストの上昇傾向にもかかわらず,名目的な労働分配率はほぼ毎年安定していることである。このことは,賃金コストが上昇する一方,販売価格も上昇していることを示すものであり,賃金上昇率が高まるもとでは,賃金と物価が相互に根強い上昇を続ける危険があることを示しているといえよう。
前項でみたように,大企業の価格協調が行なわれやすい状況にある現在,賃上げが大幅になつても,労働者の実質的な所得の向上が物価上昇によつて大きく相殺される可能性が強まつている。
第3-33表 はいくつかの前提のもとに,企業が売上高純利益率を一定に維持した場合,製品価格がどれだけ上昇するかを試算したものである。労務費の上昇率や金利を低めに見込んでも過去10年における平均的な生産性上昇率のもとで従来なみの利益率を維持しようとすれば,製品価格がかなり大幅に引上げられなければならない。
賃金上昇率の平準化が進み,しかも労働生産性を上回る賃金上昇の傾向が強まつてきたのは,基本的には労働力需給の基調的な引締まりによるものである。労働需給指標として失業率をとるとすれば, 第3-34図 にみるように,失業率が次第に低下するのに伴つて賃上げ率が加速している。
しかし,失業率と賃上げ率との関係は,40年代に入るとともにこれまでと異なつた動きを示すようになつた。30年代においては失業率の低下に伴つて賃上げ率が高まるすう勢にあつたが,その程度は小さく,また年々の動きとしては失業率と賃上げ率との間に明確な関連性は認められなかつた。ところが,40年代に入ると,42年から45年にみられるように,失業率の低下は必ず賃上げ率を加速させ,46,47年のように失業率が上昇すれば賃上げ率は鈍化するようになつている。
しかし,40年代に入つてからの傾向として,さらに注目すべきことは,失業率の変動に対する賃上げ率の変化が,景気上昇期と後退期とで著しく相違することである。たとえば41~45年において,失業率は約0.3%ポイント低下したが,その間大企業の賃金は約8%ポイント上昇率を高めている。これに対し長期不況の影響から45~47年の失業率が同じく0.3%ポイント弱上昇したときには,賃上げ率の鈍化は3%ポイントと,景気上昇期の変化幅の半分に満たない。
この関係は48年の春季賃金交捗にもあてはまり,失業率の0.1%ポイントの低下が賃上げ率を4%ポイント高めた。このようにして,失業率と賃上げ率との関係でみる限り,いわゆるフィリップス曲線は明らかに右上方にシフトする傾向を示しているとみてさしつかえないであろう。また賃金上昇率を消費者物価,企業収益,失業率および前期の貸金上昇率で説明する賃金調整関数を時期別に計測すると,前期の賃金上昇率にかかる係数は30年代前半は有意でなかつたが,30年代後半から有意となり,最近になるほどその係数が大きくなつている。
このことは,労使交渉において前年賃上げ額実績プラスα方式が定着してきたことを示している。40年までは,不況期の賃上げ額は前年実績を下回るのが常であつた。33年の不況期には主要企業の賃上げ額は32年の実績を3割も下回り,岩戸景気が始まつた34年でも32年の水準に達しなかつた。同様にして37年,38年の賃上げ額は36年のそれを下回り,40年不況時には前年比9%減の賃上げにとどまつていた。
しかし40年代に入ると賃上げ額が前年実績を下回ることはなくなり,戦後最長の不況のあとに行なわれた47年の春季賃金交渉でも,主要企業の賃上げ額は,10,138円と前年を約410円上回つた。持続的な消費者物価の上昇と労働力需給ひつ迫のもとで,前年実績を上回る賃上げは労使間の過度の紛糾を避けるための必要条件となりつつある。
48年の春季賃金交渉では,主要企業の賃上げ額(労働省集計)が15,159円で,賃上げ率も20.1%とこれまで最高の伸びとなつた。これは企業収益が著増したなかで,利潤増加に追いつくという意味では当然の賃上げが実現したともいえよう。問題はこれが過去の平均的な生産性の上昇率を上回るだけでなく,今後の景気後退期においても前年実績プラスαというパターンが繰返されるものと予想されていることである。
以上にみたように,わが国でも賃金上昇率の下方硬直化現象が目立つようになつてきた。しかし,40年代に入つての失業率が上昇すれば賃金上昇率が鈍化するという関係は維持されており,失業率が上昇するなかで賃金上昇率が上昇するという最近のアメリカやイギリスなどとは異なる。このことは,総需要調整政策が賃金の変動に影響を与え,ひいては物価抑制にも効果的に機能する余地があることを示している。しかし,フィリップス曲線が右上方にシフトしつつあることは,労働市場の需給が緩和した場合でもこれまでほどには,賃金上昇率が鈍化しなくなつてきていることを意味している。
以上のように,インフレ心理の影響や賃金,物価の相互波及が強まつていることは,いつたん高まつた物価上昇率を下げにくくする要因として,今後に影響を投げかけており,卸売物価と消費者物価がともに上昇率を高める危険な局面にあることを示唆している。