昭和47年

年次経済報告

新しい福祉社会の建設

昭和47年8月1日

経済企画庁


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第2章 円切上げの影響

1. 円切上げにいたる経緯

昭和46年において国際通貨情勢は急変をつげ,わが国はその対処に追われた。国際通貨・貿易体制の危機に,わが国経済がいかに組みこまれていつたかを,まず概観しておこう。

(アメリカ新経済政策と通貨調整)

46年8月15日,アメリカ政府は金・ドル交換の停止,輸入課徴金の実資,物価・賃金の凍結,減税による需要喚起を含む一連の緊急経済対策を発表し,主要国平価の調整などによつて局面を打開することを要求した。すでに5月のマルク投機によつて表面化した今回の国際通貨不安は,このアメリカの措置によつて一挙に激化し,保護貿易への動きとあわせて,これまでの世界経済運営の基軸となつてきたIMF・ガット体制をその発足以来最大の危機に直面させたのである。

アメリカの新経済政策発表後ヨーロッパ各国は為替市場を一週間閉鎖し,再開時にはフランスが二重相場制を採用したほか,ほとんどの主要国が変動相場制によることとなつた。しばらく市場を開き続けたわが国も8月28日変動相場制に移行した。

その後,IMF総会,10ヵ国蔵相会議等を通じて通貨の多角的調整への努力が続けられたが,その話合いに基づいて,12月18日,ドルが金に対し7.89%切下げられると同時に,わが国の1ドル=308円(IMF方式で16.88%切上げ)をはじめ,各主要国の新基準レートが決定されることとなつた( 第2-1表 )。また,外国為替相場の変動幅はその上下各2.25%以内とされることになり,アメリカの輸入課徴金は同時に撒廃された。こうして危機は一応の収束をみたが,今回の事態を通じてドルに大きく依存した戦後国際通貨体制の弱点も明らかとなつた。46年末の合意も,国際通貨危機を収拾するための最小限のものにすぎず,47年6月のポンドの変動相場制移行などの動きも生じたが,これらの点は第3章でさらにみることとし,ここでは46年末までの危機の背景について考えてみよう。

(情勢急変の背景と日本経済)

国際経済情勢の激動は,アメリカの国内通貨であるドルが国際通貨として使用され,しかもよほど大きな基礎的不均衡がない限り,平価調整が行なわれにくいことなど,IMF体制の限界に根ざしたものであつたが,それがこの時期に集中的にあらわれるにいたつたのは,なんといつても,アメリカからのドル流出が急激に加速化したことによる。アメリカの国際収支赤字は,1970年にはすでに98億ドル(公的決済ベース)という記録的水準に達していたが,71年に入つていつそう悪化の度を強め,1~9月の赤字累計は実に225億ドルにも達した。貿易収支も今世紀になつてはじめて赤字に転落した。

このようなアメリカの国際収支の著しい悪化は,71年春までの急速な金利低下に基づくドルの海外流出や,ストライキの多発などによつて拍車をかけられたが,基本的にはドル価値の傾向的低下が限度に達したことを反映している。いかなる国際通貨制度でも,主要国間における国際収支の大幅不均衡のもとでは安定を保つことはできない。ましてこれまでのIMF体制は,きわめて高いドル依存のもとで運営されてきたのであるから,ドルの信認低下によつて根底から動揺せざるをえなくなつたのである。

日本経済も今回の国際通貨危機の圏外に立つことはできなかつた。もちろんアメリカの貿易収支は多くの主要国に対して悪化しており,ドルの弱さは決して一国の通貨に対してだけの問題ではない。しかしアメリカの国際収支赤字と表裏して,わが国の国際収支が大幅な黒字を続けたことがわが国の国際通貨危機とのかかわりを深めるものであつたことも否定できない。

以下,このようなわが国のかかわり合いについてふりかえつてみよう。日米両国で国際収支がまつたく相反する動きを示したのは,両国について次のような対照的な事情があつたからである。第1は,インフレの進み方の相違である。アメリカではベトナム戦争の拡大があつた1966年頃からインフレの進行が著しく,国際競争力は目立つて低下した。とくに近年はスタグフレーションの様相を深めるなかで労働争議が多発し,これが生産活動を阻害するだけでなく,一時的な輸入急増をももたらした。71年前半に鉄鋼ストを見込んだ備蓄買いや港湾ストをみこした入着増加がみられたことはその顕著な例である。これに対してわが国では,世界的インフレのなかで卸売物価,輸出物価が比較的安定していたため,国際競争力が強化された。とくにわが国の卸売物価が景気に対して敏感に反応することはアメリカとの格差を大きくした。第2は,産業構造発展のずれである。アメリカでは宇宙開発,コンピューター,航空機など先端的な技術集約部門への特化が進む一方,一般産業の設備近代化は停滞している。これに対して,わが国では,自動車,テレビ,合成繊維,鉄鋼など,多くの量産工業が成熱期に達し,輸出余力を高めていた。アメリカの産業構造変化の間隙を埋め,需要多様化の波にのつてわが国の輸出は急速に増大した。第3に,景気局面や経済運営態度におけるくい違いがある。1971年のアメリカは,ゆるやかながら景気回復過程にあつたが,わが国の景気は低迷を続けた。また,アメリカが自国の国際収支赤字を軽視しがちであつた一方,わが国では国際収支黒字不均衡への備えが十分でなかつた。これには,アメリカに基軸通貨国の地位への甘えがあり,わが国では国際収支赤字が成長の制約であつた時代の制度の改正が遅れ,黒字不均衡のもたらす国際的摩擦や景気後退による黒字増幅作用についての対応が行きわたらなかつたことも影響している。今回の通貨調整は,いずれの国も対外均衡維持の責任を相互に分かち持たなければならないことを教えた。

こうしたすれ違いは,日米貿易不均衡の急速な拡大に端的にあらわれた。これを背景に,日米間には貿易をめぐるいくつかの摩擦を生じた。このうち繊維の対米輸出については,46年7月より業界の自主規制が行なわれたが,10月15日,政府間協定の締結に関し日米間で基本的了解に達し,47年1月3日正式調印された。

(円切上げの影響)

以上の経緯で多国間通貨調整の一環として円切上げが実現したが,これは戦後はじめての経験であつたこと,変動相場制を経過したこと,切上げ幅が対米ドル16.88%,多国間調整を織込んでわが国の輸出ウエイトで加重しても12%と大幅であつたこと,為替変動幅が拡大されたこと,不況下の円切上げであつたことなどからその影響が注目される。円切上げの影響のみをとり出すことは困難であり,また現在までにその効果が十分あらわれていない分野も少なくないが,以下ではこれまでにみられた影響を記録し,将来の参考として残すこととしたい。


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