昭和46年
年次経済報告
内外均衡達成への道
昭和46年7月30日
経済企画庁
第2部 経済成長25年の成果と課題
第3章 物価・所得上昇と資源配分
現代社会の所得福祉に大きな影響をあたえているのは,労働力需給のひつ迫である。第二次大戦後,世界の先進工業国は完全雇用の達成を主要な政策課題のひとつとして経済運営に当たつており,それ以前の時期と比べ失業率を低下させることに成功している。こうしたなかにあつて,とくに西ドイツ,イタリアの両国は,戦後の高い経済成長が実つて,1960年前後に失業率の大幅低下を実現するにいたつた( 第102図 )。
わがに国においては,従来は労働力過剰の傾向が強かつたが,昭和30年代初めに新規学卒求人倍率は1.0倍を越え,35,36年ごろから労働力需給はいつそう引締まりぎみとなり,42年には一般の有効求人倍率も1.0倍を上回るにいたつている。高い成長の持続によつて雇用需要が増加したことがその背景にあることはいうまでもない。もつともこうした労働市場の基調転換も1960年ごろの西ドイツにおける変化と比較すれば,なお軽度にとどまつている。1961年の西ドイツでは,難民流入の停止によつて失業率が急激に減少した。そのごろより西ドイツが労働力不足を一因として急速な成長鈍化をみることとなつたのに対し,わが国が今日まで引続き高い成長を維持してきているのには,こうした事情の相違も作用しているとみられる。
他面,わが国においては,若年層とくに新規学卒者についてみると需給のひつ迫は一段と顕著であり,それは今後ますます強まる見込みである。わが国の人口構造はいま急速な高令化へのまがり角に立つているが,労働力人口もこれに追随して著しい変化を示そうとしている。10~20才台の労働力人口は,40~45年度まではわずかながらもなお増勢にあつたが,今後50年度までには130万人の減少となろう。これを中高年労働力(40才以上,45~50年度420万人増)で補うことによつて,かろうじて労働力人口の増勢を年率1.1%程度に維持できるのである( 第103表 )。
技術革新への適応力に富んだ若年労働者が今後減少に転ずることは,わが国産業社会の直面している大きな変化だといわなければならない。この若年労働力の減少は戦後のベビー・ブームによる増加が終る一方で,進学率が引続き上昇しているために生じようとしている。また,こうした若年労働力が,高学歴化等の影響もあつて,生産労働者よりもサービス従業者を選好するようになつていることも,生産労働者の不足をきわだたせている。
これに対して,需要の側はいぜん若年労働力に集中している。これは若年労働力が新しい技術や環境に最も柔軟に適応できると考えられているためであるが,年功序列の賃金体系のもとにあつては賃金の低い若年労働者を雇用することが有利であるからでもある。年令階層別の求人倍率をみると,若年層ほど高い高年層でもそれが最近高まりつつあるとはいえ,なお大きな格差を残している( 第104表 )。
若年労働力の不足が著しくなるにつれて,企業では中途採用者をふやさざるをえなくなり,終身雇用制の強い大企業でも,最近は新規学卒採用者の比重が低下し,転職者の受入れが3割近くを占めるようになつてきた。中小企業では,新規学卒者と中途採用者とが相半ばするにいたつている。( 第105図 )。このことは,労働力不足の進展にともなつて労働市場の封鎖性がゆるみ,労働力移動が活発化してきたことを物語つている。今後わが国の経済社会が労働力不足を克服するには労働力をいつそう有効に活用することが必要である。そのためには,とくに中高年令層など移動困難な人々の流動性を高めていかなければならない。
ここで,これまで雇用増加の供給源泉として重要であつた農林業就業者の動向についてみると,新規学卒者および若年家族従業者を中心に農外就業が進んできたため,農村に残存する労働力は著しく高令化し,また,業主対家族従業者の比率も30年の1対1.9から45年の1対1.2にまで低下している。このことは農林業からの労働力移動を困難にする条件である。しかし,こうした事情にもかかわらず,農林業就業者数は年約40万人と従来と同一規模の減少を続けており,減少率としてはかえつて増大している。一方,農林業以外の自営業主,家族従業者数は,37年を境に,それまでの減少から一転して増大傾向を示した。これは一面では雇用者数の増加を制約する条件であるが,他面では下請け加工や内職を通じ労働力不足を補う役割を果たしたものと考えられる。
労働力不足は,これまでのところでは成長率低下の要因としてはそれほど作用しなかつたが,賃金面には強い影響を及ぼした。とくに,若年層における著しい労働力不足に対応して,若年労働者の賃金なかでも初任給の上昇が高まつたが,これは賃金水準全体を押し上げる基準条件のひとつであつたとみられる。
いま新規学卒者の求人に対する充足率をみると,中卒の場合30年には約70%であつた。その後充足率はしだいに低まつたが,初任給は当初それほどの増加を示さなかつた。しかし,30年代後半に充足率が30前後となるころから,初任給が急上昇を示すようになつた( 第106図 )。
このような初任給の急上昇に対し,企業では伝統的な年令別賃金格差を縮小させることによつて,賃金支払総額の膨脹をできるだけ抑制しようとした。36年から45年までに,新規学卒者の賃金は年率15%前後の伸びを示したが,30才以上の賃金上昇率は10%程度にとどまつた。その結果,30年には大企業につとめる50才台の勤労者の賃金は,20~24才のそれの3倍であつたものが,45年には2倍強になるところまで格差が縮小してきている( 第107図 )。
初任給を中心とした若年層賃金の上昇が賃金全体にあたえる影響は,大企業より中小企業で大きかつた。これは,大企業では年功序列賃金体系が強く,大幅な年令別賃金格差のあるところから出発しているだけに,その若干の手直しによつて初任給上昇の賃金全体への圧力をある程度緩和することができるからである。これに対し,中小企業ではもともと年令別賃金格差が小さく,そのような操作の余地が少なかつた。また,中小企業では新規学卒者充足率が大企業よりも早く低下したので,初任給を大企業以上に引上げてその確保を図らなければならなかつた。このため,若年労働力の需給ひつ迫の影響は大企業におけるよりも中小企業でいつそう顕著にあらわれることとなつた。他方で中小企業は学卒採用者の穴埋めとして中途採用をふやさざるをえなかつたので,一般労働市場の需給関係の影響もより強く受けることとなつた。
賃金上昇の基本的背景は,以上にみた労働力需給のひつ迫であるが,消費者物価の上昇や工業収益動向なども賃金決定に影響をあたえる。これらを企業規模別賃金関数の形で検討すると,つぎの四つの特徴がみられる( 第108表 )。
第1に,労働市場での需給関係が賃金水準にあたえる影響は,中小企業ほど大きいことである。この理由は,すでにみたように,中小企業ほど人手不足がきびしく,労働力確保のために中途採用が行なわれることもあつて,需給関係に配慮の必要があるからであろう。
第2に,消費者物価上昇の影響も中小企業ほど強い。これは,中小企業では賃金水準が相対的に低いこともあり,労働者定着などのために実質賃金をかなり意識した賃金決定が行なわれていることを示すものとみられる。
第3は,企業収益との相関は大企業ほど強いことである。一般に大企業ほど生涯雇用的な色彩が強り,そのため労働組合もつねに企業の収益動向を意識して行動することが多い。こうしたことが大企業で企業収益と賃金上昇との関述を強めたものと思われる。同時に,中小企業では利益動向にあまりかかわりなく労働力確保のために賃金引上げを行なわざるをえないものが多いためと思われる。
第4に,規模別賃金格差について,中小企業ではその縮小が意図されるのに対し,大企業では格差を維持しようとする動きがみられることである。
賃金関数でみた以上の四つの特徴を,成長過程のなかに位置づけると次のようになる( 第109図 )。高度成長の過程で,大企業の生産性上昇,利潤増大がみられると,その賃金はこれに追いつくための上昇をはじめる。他方,中小企業では,成長過程で労働力需給が引締まるのに応じて賃金も上昇する。この間,大企業と中小企業の賃金水準の間に,追いつき引きはなしの相互作用が生じるが,これは結局賃金全体を連帯的に引上げていくことになる。また中小企業における賃金上昇は,生産性上昇以上となつて製品価格の上昇をもたらしがちであり,また消費者物価上昇はとくに中小企業賃金へ影響を及ぼしやすい。このように中小企業分野については,賃金と物価の間に部分的にもせよ相互循環作用が生じつつあるものとみられよう。
以上にみたように,企業規模別にそれぞれの特徴をもちながらも,経済の高い成長を背景に労働移動などを通じて賃金が連帯的に上昇するメカニズムがあるが,この関系は個人業主所得についてもあてはまる。非農林業の自営業主についてみると,自営業主数の変動は業主所得の変動とかなり相関している( 第110図 )。これは,業主所得の水準の変化に応じて,雇用者と自営業主との間の労働力配分が限界的に変化していることを意味しており,こうした労働力の流動を通じて,業主所得と雇用者所得をバランスさせる力が働いていることがわかる。労働力不足が全体の背景となつているときには,この均衡は所得の連帯的上昇としてあらわれるものとみられよう。農林業就業者についても,兼業,出かせぎの選択を通じて所得が上昇している。
物価変動については賃金,生産性ばかりでなく,労働分配率の動きも問題となる。
わが国の場合,付加価値に占める賃金の割合(労働分配率)が国際的にみても低いことが知られている。もつとも30年代後半以後,分配率は若干の上昇傾向を示したが,40年代にはいりいくぶん低下ぎみとなつた。
これを企業規模別,産業別に検討すると,そこにはかなり特徴的な動きが認められるて( 第111図 )。すなわち,製造業大企業の分配率は低位をつづけている。これに対し,生産関述中小企業においては30年代後半に上昇し,40年代に若干低下を示している。一方,30年代後半に分配率上昇が著しく,その後そのまま高位横ばいとなつているのは,消費関連中小企業,小売業,サービス業など,いわゆる低生産性分野であり,消費者物価と関連の深い産業である。これらの産業では30年代後半は賃金格差の縮小期に当たり,賃金上昇率が高生産性部門のそれ以上に高かつた。それだけに,消費関連部門の賃金コスト上昇が著しかつたわけであるが,この間にあつて労働分配率がこの分野でとくに上昇することで消費者物価へのはね返りは相対的に緩和される結果となつた。現在,これら消費関連部門の分配率は生産関連部門より高くなつており,分配率上昇によつてコスト上昇圧力を吸収する余地は従来に比らべれば小さくなつてきているとみられる。